The Penelopes / Vaudeville Park Records News

The PenelopesとVaudeville Park Recordsに関するニュースをお届けします。

The Penelopes watanabe インタビュー Part 2

2019-02-24 19:59:43 | Weblog

 

米Cloudberry Recordsのサイトに掲載されたThe Penelopes watanabeのインタビューのPart2です。
原文はこちらです。

 

 

- 3年の沈黙の後、また素晴らしいアルバム"Eternal Spring"で戻って来た。ここで君はエル・グラフィックにアートワークを担当してもらってるよね。そしてそれがメチャクチャカッコいいと来た! 君はエルレコードのデザインの大ファンだったの? 音楽は? 君のお気に入りのエルの作品は何なのかな?

 

"Eternal Spring"を聴いて下さってると知って凄く嬉しいですね。というのも、めったに褒められてるのを見ないもので(特に日本では)。この作品と"Summerdew Avenue"は、全くもって無視されてしまった不遇の作品なのです。エル・グラフィックがこんなに素晴らしいアートワークを用意してくれたにもかかわらず、逆境に遭って海底深く沈んでしまったことをとっても残念に思っています。今でも凄く悲しくなるのでこの二作品はしらふでは聴けないぐらいです。

偉大なるマイク・オールウェイ氏が私にコンタクトを取って来たときは、これは夢だと思ったものですよ。同名の別人か、あるいは彼の名を騙る誰かかと。エルレコードは、全ての作品をコレクションするようなファン、という程ではなかったですが、スウィンギング・ロンドンの60年代の鮮やかなイメージに溢れたスタイリッシュなアートワークや音楽には注目していましたし、何より彼は「渋谷系の父」でしたから。好きな作品は沢山ありましたよ。一番好きだったのはやっぱりコンピレーションの"London Pavilion Vol.1"、それにLouis Phillippeの"You Mary You"や"Guess I'm Dumb"、Bidの"Reach For Your Gun"のようなよく出来たポップシングルでした。

XTCのThe Dukes Of Stratosphearもそうでしたが、80年代に60年代文化への熱狂を全面に出したところが、私に当時のNew Wave的なものからある意味で抜け出すきっかけをくれたんですよね。ハタチそこそこの若者にとって、それは衝撃的でした。

 


- 君の最後のアルバムは2006年の"Summerdew Avenue"だよね。それが最後にならないことを願っているんだけど。これは難しい質問かも知れないけど、最初のアルバムとこの作品を比べてみて、バンドの進化というのはわかる? 君の音楽はこの年月の間に大きく変わったと思う?

 

もちろんこれが最後のアルバムではないですよ。実際その後の10年のあいだに"Sweet Amazer"や"Spellbound"のようなミニアルバムを出し続けて来ましたしね。生きている限り曲を書くし、出し続けることを約束しますよ。ソングライティングという意味では、自分の作品はある程度進化し、洗練されて来たと思います... だって30年書いて来たんですから! 経済的理由から自宅録音を進めて行かざるを得なくなったので、録音のクオリティーはずいぶん落ちて、その後あまり進歩がなかったと思いますが、それを乗り越えるぐらいのアイデアで楽曲の質を上げるための努力はして来たつもりです。バンドとしてのアンサンブルのようなものを追い求める、ということは出来なかったけれど、全てを追い求めるのは、二兎を追う者は・・・で無理だとわかっていたから、ソングライティングにとにかく焦点を絞ったんですよね。
ただ、これはやっぱり聴いた人が決めることなのでしょうけれど。

 

 

- で、それから、詳しくはわからないんだけれど、YouTubeで2015年にリリースされた"Spellbound"というミニアルバムを見つけたんだ。あまり情報が見つからなかったんだけれど、それはどこかで入手できるのかな?
それともデジタルオンリー? そこにはどんな曲が入ってるのかな?


はい、それが私たちペネロープスによる最新リリースです。8曲入りのミニアルバムで2015年の11月20日にオンライン限定でリリースされました。以前の作品と違って、私が書いた8曲のうち、4曲で今回は女性リードシンガー3人を起用しています。もちろん今でもiTunesミュージックストア、アマゾンMP3、モーラ、それにレコチョクで発売中です。収録曲は以下の通りです。

01 ザ・ペネロープス - ヒア・カムズ・ザ・ライト
02 ナナ・イシイ&ザ・ペネロープス - シャングリ・ラ・グリーン
03 スプレンディドヴィル - アイ・オブ・ア・ニードル
04 マリリン・ロー&ザ・ペネロープス - ファンダメンタル・シング
05 ザ・ペネロープス - オール・ザット・グリッターズ
06 ザ・ペネロープス - ハロー・ニュー・ワールド
07 スプレンディドヴィル - バック・イン・タイム
08 ザ・ペネロープス - キャリー・オン

それぞれのスタイルや好みに合わせて、違ったタイプの曲やシンガーを配したんですね - 60年代のモータウン/ガールグループ(ナナ・イシイ)、70年代のメインストリームポップ (マリリン・ロー)、そして80年代のニューウェイヴ/パワーポップ(スプレンディドヴィル、私とマーシュ・ブランチのコラボ)という風に。残り4曲は私が歌ってます。まさにペネロープスの本質が詰まった作品群だと思いますよ。

 


- 凄くたくさんのレーベルやコンピに君たちが登場してるんだけど、そのなかで、風変わりで興味深いと思ったのが"The First Triangle"。あれはAuto Guideの作品なのかな?

 

Auto Guideは90年代初めに設立された東京のインディー・レーベルで、その後どうなったのかは残念ながらわからないんですけれど、最初の作品として出したのが"The First Triangle"だったと思います。3つのバンドが2曲ずつ持ち寄って、我々からは"Except Her Eyes"と"Tiny Tree House"という曲を提供したと思います。ワクワクするような何かが起ろうとしている、そんな時代でしたね。

 


- また君は米国音楽とクッキー・シーンといった2つのとても良い日本の雑誌にも提供してたよね。これの2つの雑誌は日本のシーンにとってどれくらい重要だと思う? 君がコラボしたかったなという日本の音楽誌は他にあった?


草の根で先頭に立って動いた偉大なふたつの雑誌、というところでしょうね。結局似たような方向性でこのふたつを超えるクオリティの雑誌はこのシーンでは出なかったですからね。商業的に大成功したとか、大きなビルを建てたとか、そういうのではなくて、ある意味損な役回り - 超クールなことをやるアマチュア、と言う感じだったけれど、日本の音楽文化のあるシーンの基礎の部分を築いたのは間違いないと思いますよ。

 


- そしてこれらの「歌やレコード」の質問の締めくくりとして、もし全てのペネロープスのカタログからお気に入りの曲を仮に選ぶとしたら、それは何になる? そしてそれは何故?


一般的に、作っている側は、最新の曲ほど満足しているし好きなものなんですよ。最近の自分がまさに表現したいことを反映している訳ですから。私に関して言えば、2015年のアルバム"Spellbound"からの"All That Glitters"、"Carry On"がとても気に入っています。2013年の"Sweet Amazer"、2012年の"Honeymoon Is Over"も好きですが、ミックスが気に入らないので、次の作品でリミックスしたものを出すつもりです。それ以前だと、"Eternal Spring"からの"Love Is"、"Summerdew Avenue"からの"1983"ですね。最初の5枚のアルバムの曲は反省することが多過ぎるんですよ。もっと時間が経ったら懐かしく聴こえるのかも知れないですけれど。

 


- なにがしかの理由でうまくいかなかったけれど他のどこかのレーベルが君の音楽に関心をもってた、なんてことはあったの? 大きなレーベルとかで。

メジャーレーベルの人がライブを見に来た、とか、著名な音楽ライターがDJのラジオ番組で取り上げて下さった、とか、誰々さんに"Eternal Spring"からのある曲が褒められた、というようなちょっとしたエピソードはいくつかありますよ。でも、見た目や演奏、私の下手な反応などでうまく行かなかったんでしょうね。

 


- ギグについてはどう? たくさんプレイした? 君の街から一番遠い所でプレイしたのはどこ?


全く多くはないですよ。プレイしたところで一番遠い所は東京ですね。2回プレイしました。それ以外は京都、大阪ばかりです。リズム・ファンタシー(私が2枚のミニアルバムを録音しプロデュースした)のギタリストとしては、滋賀でもプレイしたことがありますよ。

 


- 覚えてるなかで一番良かったギグは? 何かエピソードはある?

 

一番良かったのは10年ぐらい前の、同じような音楽が好きな人たちが主催して行なわれたイヴェントでの演奏ですね。ひとつは「ネオ・アコ/ギターポップ・ナイト」(こういうタイトルだったとは思いませんが) というギターポップのイヴェント。確かThe Pale Fountainsの曲をカヴァーしました。それに大阪のレコード店の15周年の記念パーティーでの演奏。夜中の12時頃に演奏したと思うんですけど、誰も酔っぱらって何かを投げ込むなんてこともなく、温かい雰囲気で良かった。みんなが笑顔の中で演奏するほど気分のいいものはないですね。

 


- 最悪だったギグは?


最初の頃の、全く音楽的にも好みじゃない、繋がりがないバンドが4つ、5つ出て、客の表情は明らかにこちらに興味がなくて・・・そういうのは楽しめなかったですね。私は色んな音楽に好奇心を示す方ですが、いかにも型にはまった姿勢だったり、いかにもプレイヤーが演奏力を見せたいだけで全然魅力がないような楽曲だったりする、典型的なJロック候補生のような人達とプレイするのは苦痛でしたよ。何故みんなわざわざ落とし穴にはまって行こうとするのかなぁと、考えるだけで演奏にも集中出来なかったです。

 


- これからペネロープスで予定している作品は何?  まもなく出るであろう新しい録音やリリース作品はあるの?


半分新曲、半分は2012年からの過去の曲のリミックスのアルバムを出すことを計画しています。"Pacific Amplifier"というタイトルです。その後に、全曲新曲のアルバムを出します。また、1987年から1992年の、1stアルバム以前の楽曲をリメイクした曲を集めてアルバムにして出す、というのも進めています。この3つが現在進めている計画です。

 

- ペネロープスとコラボして来た人達についてはどう? 彼らは他のバンドで活動してたりした?


前作"Spellbound"で参加したそれぞれの女性シンガーは、またそれぞれの活動をして来ていました。マリリン・ローはRhythm Fantasyのシンガーでもあり、またライブや録音を久しぶりに復活させる予定です。Splendidvilleで2曲コラボしたMarsh Branchは、彼女のソロユニットで精力的に頑張っています。また、イシイ・ナナさんもソロシンガーとしてライブ活動をしています。それ以前だと、"Inner Light"で参加してくれたマスイ・カオルさんは1990年代から活動して来たBlueberry, Very Blueのシンガーだったのですが、近年また復活されていますし、"Summerdew Avenue"で参加したマーク・リチャードソンさんはAge Of Jetsのシンガーとして今も活動しているはずです。

 


- ラジオやメディアからの注目は多く得た?


全体としてはかなり控えめだったと思いますよ、実際のところ。90年代前半の最初の2枚は配給がメジャーレーベルに匹敵するレベルでしたから、雑誌にかなり載る機会をもらえましたし、ラジオ番組に読んで頂いたりもしました。でも90年代後半以降、急激に減りましたね。特に自分でレーベルを起こしてからは、リリースを知ってもらうことが大きな課題になり、悪戦苦闘のうちに20年経ってしまったと言う感じです。その20年は、メディアの中でのインディーレーベルに対する扱いも大きく変わって行った時期でもありましたし。それが、30代以下の世代にペネロープスが殆ど知られていない主な理由のひとつでもあると思いますね。

 


- ファンジンについてはどう?

90年代に関する限りでは、色々なファンジンに載せてもらえましたよ。2000年代ぐらいからはインターネットが主流になり、最初はネットジンにもレビューを載せてもらったこともあります。でも、純粋に誠実なポップミュージックを継続して取り上げ続け、長続きしたものネットジンはホントに少なかったですね。

 

 

- 音楽以外に、持ってる趣味はある?


音楽が大好きですからね・・・。でも、音楽を完全に抜きにした趣味となると、プロ野球 - 特に阪神タイガース- 、野鳥、貝殻、宇宙、絵本、パウル・クレーの作品とか・・・それらに関することについて調べたり、場合によっては集めたりするのが好きですね。

 


- 今年(2018年)のワールドカップの日本チームのことはどう思ってる? あなたの国のどこか応援してるチームはある?


サッカーについては、2002年のワールドカップまでは割と真剣に追っかけてたんですけど、今はもう、全く関心が無いんですよ。申し訳ないです。世界のことを夢見るには、世界は狭くなり過ぎたんでしょうかね。選手が上手くなってるのはわかるんですけど、味がしないといいますかね。

 


- 振り返ってみて、バンドにとっての最大のハイライトは何だったと言える?

実は個人的にはミュージジャンとしてのハイライトはまだ来ていない、まだまだ昇り調子だと思っているんです。でも、何かある種のシーンの一部に所属していた時代を自分で振り返ってみれば、1993年から1994年の頃の録音やライヴが必ず浮かんで来る・・・出来に何一つ満足は出来ないけれど、あの頃がたぶんThe Penelopesの活動の中でもっとも若々しく、輝ける瞬間だったと、今なら言えますね。もうあんな瞬間は二度と来ないのでしょうね。

 

 

- 僕は東京も日本も行ったことがないんだ。だから、ちょっとしたアドバイスをしてもらってもいいかな?
どういう場所が絶対訪れるべきスポットかな? 君が大好きだったり、僕が試すべきな伝統的な食べ物や飲み物とか、あるかな?


東京にそんなによく行く訳ではないので、あまり自信を持ってお薦めすることは出来ないのですが、古い寺院などの建物や、伝統的な文化を楽しめる場所は行くべきでしょうね。特に音楽が大好きなら、新宿は訪れるべきだと思いますよ。東京は変化が激しいですが、一方でいくつかの下町や郊外にはあまり変わらない部分もあると思うので、特に試すべきなのは,そういう場所ですね。どうか楽しんで下さいね!

 

 


The Penelopes watanabe インタビュー Part 1

2019-02-18 15:25:38 | Weblog

米Cloudberry Recordsのサイトに、The Penelopes watanabeのインタビューが掲載されました。
http://www.cloudberryrecords.com/blog/?p=5337

日本語訳をこちらに掲載いたします。
まずは Part 1です。

 

- やあ達彦! インタビューを受けてくれてありがとう! フェイスブックでは長い事友達だけど、君の音楽について質問するのははじめてだね。だから凄くわくわくしてるんだ。元気かな? いまでも音楽を作ってるの?


覚えていて下さってありがとうございます。元気にしてます。
来年(2019年)ニューアルバムを出す事を計画してまして、4分の3は終わっているんです。でも実際のところ、80代半ばの両親の介護が、今は以前より難しい状態になっているので、最近いくつかの曲を仕上げるのに集中する時間が殆どないのです。でもリリースを諦めた訳ではないんですよ。それにちょっとした時間があったらメロディーの欠片を録音したり、歌詞のアイデアや曲のタイトルなどをメモしたりしてますよ。


- じゃあ最初から始めるよ。君は元々東京出身なの? 最初の音楽の思い出はどんなの? 最初手にした楽器は何だったか覚えてる? それをどうやって演奏出来るようになったの? 成長して行く間に家で聞いてたのはどういう音楽?

 

ええっと、私は東京出身ではないんです。兵庫県の宝塚出身で、今でもそこに住んでるんですよ。日本の西部に位置してて、大阪から電車で45分のところです。とても静かで住むには快適な場所で、それが自分の音楽づくりに大きな影響を与えたと思います。この街はまた宝塚歌劇でも有名で、その長い歴史が街をとても美しく洗練されたものにしていると思うんですね。それもまた私にインスピレーションを与えてくれてます。

僕が生まれたのは1965年で、だから最初の音楽の記憶は60年代の沢山の特撮番組、アニメ番組からなんです。ウルトラマンとかウルトラセブン、マイテイ・ジャック、怪奇大作戦、ワンダー3、サスケなどなど・・・それらが僕の血肉となったと思うんです。

ロックミュージックを意識しだした時に(兄貴の部屋に入っては)ギターを弾き始めたんですが、最初の楽器はギターじゃなくてエレクトーンですね。それは6歳の頃ヤマハ音楽教室で出会った。長くは続きませんでしたが。

ギターに関していうと、上に書いたように16歳かそこらぐらいの時に触れ始めたんですね。私の兄貴はまた70年代後半から80年代前半に莫大な量のカセットテープのコレクションを持ってまして。自然と60年代から80年代へのアクセスが凄く出来たので、「ロックミュージック」にさらされることになったんですね。モータウンのクラシック、ビートルズやキンクス、フー、レッド・ツェッペリン、シン・リジー、スティーリー・ダン、ブルース・スプリングスティーン、ビリー・ジョエルのようなビッグネームから、当時のニューウェイヴの凄い人達、エルヴィス・コステロ、XTC、スクイーズ、ジャム、クラッシュ、ブームタウン・ラッツ。ジョー・ジャクソン、グレアム・パーカー、イアン・デュリー、ニック・ロウ、ポリス、ナック、チープ・トリック、カーズ、PIL、ポップ・グループ、プリテンダーズ、U2、エコー&ザ・バニーメナ、マッドネス、カルチャー・クラブ・・・などなど。そしてそれからその時代のより洗練されたニューウェイヴポップを聴くようになったんですね。シンセポップ(OMD、チャイナ・クライシス、デペッシュ・モードなど)やいわゆるネオアコと呼ばれるギターポップ(アズテック・カメラ、ペイル・ファウンテンズ、ブルーベルズなど)ですね。そうやって僕は成長したし、それらがペネロープスのコアの部分を作ったんです。


- ペネロープス以前には別のバンドに関わったりはしたの?


兄貴の新のバンドであるサウンド・ミラーズのスタジオセッションに加わった以外は、ペネロープスより前にバンドに関わったことはなかったですね。

 

- バンドを始めた頃の東京はどうだった? 仲良くしてる同じような考えのバンドっていた? 良いレコード屋さんはあった? バンドをチェックする場所とかヴェニューは?


上にも書いた通り、80年代後半にインディーポップが流行り始めた時、私は東京にいなかったから、シーンがどんなだっか、そもそもシーンが存在してるってことさえ知らなかったんです。90年代初めに、フリッパーズ・ギターの登場であの大都市に「ネオアコ・シーン」があるのを知るようになったんですよ。個人的には、イギリスのニューウェイヴやインディーポップのレコードを大阪や神戸のレコード屋に買いに行って、たまたま日本のギターポップのテープも見つける、っていうだけでしたから、全く「シーン」を見つけることもなかったし、親しくなる、というのもなかったんです。奈良のぼうしレーベルに連絡を取って初めて、関西にもたくさんインディーポップのアーティストがいるというのをいただいたコンピレーションのテープで聴いて知ったんですね。それが1990年です。


- いつ、どのようにしてバンドが始まったの?

ご存知のように、元々ペネロープスは私が始めたソロユニットです。1986年ぐらいから真剣に音楽に取り組み出して、89年までにいくつかデモを作ったんですが、その時にThe Love ParadeとSunnysideとか、いくつかの架空のバンド名を使って、国内外のレーベルに送り始めたのです。反応は殆どなかったのですが、唯一奈良のぼうしレーベルだけが返事を下さって。それに大いに励まされたので、もっと本格的なデモを作ろうと考えた。そこで関わる人が増えて来ました。こうやってペネロープスは帆を揚げた訳です。


- ペネロープスはいつも殆どの部分は君だよね? でもバンドのクラシックなラインナップはあったのかな? 何人の人がペネロープスで演奏し、そして彼らとはどうやって知り合ったのかな?

基本的には私のソロユニットですが、特に最初の頃の録音やライヴは他のメンバーの協力で、「ペネロープスの音」を追求していました。1990年の初めに弟の聡やもう一人のギタリスト - 粟谷佳司君と言って、ロッキング・オンというロック雑誌に彼が出したメンバー募集で知り合った。彼も後にメンバーになるのですが - とセッションをして、その後にThe Penelopesと名乗ることにしたんですね。90年の秋から91年にかけては弟と二人組という編成で3つほど数曲入ったデモを作って、それがポルスプエストでのコンピCDへの参加に繋がりました。それで、今度はライブと録音のためにもう二人のメンバー - ギタリストのナオヤマ・タダシ君と、オルガンプレイヤーの西出聡君 - を加えました。彼らはプレイヤーという雑誌での小さなメンバー募集で連絡して来たのです。だから1991年の"Evergreen"録音の時は、私(Vo&G)、聡(G)、ナオヤマ君(G)、西出君(Kb)という編成でした。

その後弟とナオヤマ君が抜け、私と西出君、そして上に書いた粟谷君の三人が1992年に芦屋のスタジオエイトに入ってファーストアルバム"In A Big Golden Cage"を録音します。そのリリース直後の1993年にベーシストの宮田智種さんが加わり、その年の夏にセカンドアルバムを大阪のスタジオYOUで録音します。彼女はその後もずっとペネロープス・サウンドを支えてくれていますよ。

と言う訳で、25年以上の間に沢山の人が関わって来ましたが、この1stと2ndの録音や当時のライヴに参加してた人達が、一番「基礎」のペネロープス・サウンドを作り上げていたので、クラシックなラインナップと言うと、この頃のメンバーということになりますね。あとは後の作品でドラムを叩いた梨本一樹君も、私の音楽をよくわかってくれていたと思います。"Eternal Spring"の録音では十分上手く録音出来なかったけれど、彼もペネロープスのクラシックラインナップに加わるべき人です。


- そこからいくつかのラインナップの変化もあった訳だよね?

3rdアルバム"Kiss Of Life"以降はベースの宮田さん、"Eternal Spring" での梨本君を除いては、参加した人達は殆どみんなゲストでしたので、大きな変化はないです。それは、自分の出したい音というのがはっきりわかって来たからだと思います。


- ペネロープスという名前なのは何故?

60年代のTVドラマ「サンダーバード」に登場する女性エージェント、レディ・ペネロープから取ってます。あのドラマが象徴する60年代への憧憬がずっとあったんですね。よくフェルトの"Penelope Tree"から取ったの?と言われたものでしたが、そうではありません。


- 創作のプロセスはどんな風だった? どこで普段練習してたの?

プロセスは数え切れないほどありますよ。最初にメロディーが頭に浮かぶときもあれば、良い曲タイトルが先に浮かぶこともあります。時にはそれらが一緒に来る事も。そしてまた時にはコード進行以外は何も浮かばなかったりというのも・・・。ラフなアイデアが曲になる方法というのは、数え切れないほどあります。私に関して言えば、たいていギター、ベース、オルガン、ドラムの基本的なフォーマットのデモをひとりで作りまして、それから他の人達がそのデモを聴いて、そして独特な味付けを加えるという感じですね。

1st、2ndアルバムの頃は、録音したスタジオでよく練習してました。3rdから5枚目までスタジオで殆ど練習はしなかったんです。6枚目、7枚目の頃はライブの前によく地元宝塚の隣の街である、西宮にあるスタジオに行ってましたね。

 

- 君の作品のほとんどは90年代に出たものだよね。その時代はたくさんのレーベルとたくさんのバンドがいて、日本のインディーポップにとって全く良い時代だったよね。その10年の間、君自身はシーンの一部だと感じたりはしてた? もし90年代当時の日本のベストバンド・トップファイブを作るとしたら、誰が来るのかな?


90年代は私にとってあまりに早く過ぎて行きましたし、厳しい時代でもありました。もちろん楽しめる瞬間もあったんですが・・・でも、自分のレーベルを始めて、配給会社を見つけ、自分のアルバムを自分でプロモートしなきゃいけなかった。それはビジネス面をもっと真剣に見なければならないということも意味していました。渋谷系はカラフルだったけれど、ある意味偏っていて、実際のところ自分のやりたい音楽を売るには難しい時代でした。

だから、私はいまでも90年代を「古き良き時代」と見てノスタルジックに回想したりは出来ないんですよ。いまだに「ああ、自分は日本のインディーポップシーンの一部だったんだな!」なんて風に感じる余裕はないんです。良い音楽を作ろうと身も心も打ち込んでベストを尽くした、そして残念ながら失敗した、と思い出すだけです。

それに当時は、多くのバンドは私には友人ではなくライバルに思えたんです。レコード会社にはもっと売って欲しかったし、自分ももっと売りたかった。
でも今振り返ってみれば、みんな同じように感じていたというのもわかりますし、当時の自分に全く何の余裕もなかったことが本当に残念です。

という訳で、これは、「もしみなさんがまだそこにいるなら聞いてください。みなさんの音楽、本当に好きでしたよ」リストです。彼らはみんな私たちの近くで演奏していた90年代の日本のインディーバンドで、いくつかはまだ活動中です。

1. ザ・ルーフ
2. B-フラワー
3. クリストファー・ロビン
4. チェルシー・テラス
5. ブルーベリー・ベリーブルー


- それと、バンドサウンドへの影響を与えたのはどういう人達?

手短に書くと、これらがペネロープスの3つの主柱です。(1)XTCとエルヴィス・コステロを中心とする70年代末に出て来たニューウェイヴ、パワーポップ (2)ペイル・ファウンテンズやアズテック・カメラなどの80年代のギターポップ (3)ビートルズ、キンクス、フーなどの60年代の偉大なバンド。


- 君の最初のリリースはとても素晴らしいレーベルのひとつ、ポルスプエストレコードからだった。「イン・ナ・ビッグ・ゴールデン・ケージ」。このレーベルとの契約はどんな風に契約に至ったの? 彼らとの関係は?


(上に書いた)ぼうしレーベルがコンピレーションの計画を持ってらして、それがもっと大きなレーベルであるポルスプエストの注意を引いたのだと思います。実際そこは日本のメジャーレーベルである東芝EMIの中に設立されたレーベルだった。フリッパーズ・ギターの成功の後、多くのメジャーレーベルは若くて新しい音を見つけようとしていたんです。ある日そのレーベルのプロデューサーが私に電話して来て、ペネロープスにレーベルのサンプラーCDに参加するよう言って来た。それが1992年の"The Birth Of the True"になった訳です。私達が大阪のスタジオで"Evergreen"を録音してる時に、アルバムをリリースできる可能性はあるのか彼に訊きました。そして彼はそのためにちょっとした予算与えてくれた。それがたぶん私にとってはポルスプエスト時代の最高の瞬間でした。

彼らと私たちの関係は文字通り最小限のものでした。私たちは関西にいましたが、レーベルは東京にありましたのではるかかなたでした。90年代初めはインターネットもない時代でしたから、コミュニケーションは不足しがちでしたね。
プロデューサーとしてこの方面の音楽に精通した有名な音楽ライターの方が録音について下さることになったのですが、彼も関西の人ではなかったし忙しかったのでなかなか来る事が出来なかったのです。私ひとりか、場合によってはふたり、三人で、ずっと芦屋のスタジオでああでもない、こうでもないと試行錯誤しながら作品を作ってたのを思い出します。レコーディングでは本当に楽しい時間を過ごしましたが、レーベルからはあまり情熱が伝わって来なかったのがいつも残念だったですね。私もレーベルとどう付き合って良いかわからないし、レーベルもどう売って良いか迷っている印象がありました。東京の事務所に行ったら、ペネロープスのブロモーションに関する物は殆どなくて、泣きたくなったことを覚えています。だから、こちらから宣伝のために色々提供します、会議も可能なら行きますと手紙を書いたものです。でも返事はなかったですね。結局のところは、1993年の段階ではまだ日本ではギターポップは大きな動きになるほど成熟していなかったのだと思います。

だから、その関係を思い出すたびに、今でも複雑な心境になりますよ。皆さんに知って頂くという意味では大変恵まれたと思う半面、ちゃんとプロモートしてもらえてないという不満をずっと抱えていましたから。


- これがまさに君にとって最初のレコードなのかな? それともそれ以前に他の録音はあったの?


1980年の中学の合唱コンクールで録音されたレコードを除けば、"Evergreen"が僕にとっての最初の録音で、それが1992年のコンピCD"The Birth Of the True"に収録されたんです。

 

- ファーストアルバムの曲のうち2曲がスペインのレーベルElefant Recordsから7インチシングルとしてリリースされることになったよね。インターネット以前の時代に、君の音楽がどうやって大陸を越え、ルイス(Elefantのレーベルオーナー)の耳に入ったんだろうね? 彼らのところで音楽をリリースし続ける可能性はあったの?


1991年頃は西ヨーロッパ全体にC86からサラ・レーベルに到るギターポップに通ずる音を出すバンドを愛好する草の根のインディーポップ・コミュニティーがあって、いくつか作ったカセットテープを通じてThe Penelopesは既に知られていたようです。イギリスのRed Roses For Meやまたフランスのいくつかのレーベルとのやり取りが彼らのコンピレーション・テープへと発展して、それらが彼の耳に届いたんじゃないかと思います。実を言えば2ndアルバムからシングルを作る話もあったんです。僕としては"Good Music"をシングルにしたくて、希望するデザインも添えて要望したのですが、いつしか立ち消えになってしまいましたね。


- これは好奇心から訊くんだけれど、エレファントの人達とは会ったことはあるの? スベインに行った事は?


いえ、残念ながらないですね。確かスペインに行ったことがあるのは、ベーシストの宮田です。彼女はモッド系のバンドでもプレイしているので。何年か前にフェスティヴァルに呼ばれて行ったはずですね。


- 7インチの曲の両面の曲ともに美しいね。実際のところあのシングルを通じて君の音楽を発見したんだ。凄く知りたいんだけれど、もし数行で言えるとしたら、何にインスパイアされたと言える?


A面の"It's Not You"は80年代のギターポップ、The Pale FountainsやThe Railway Childrenが表現した世界を目指した感じ。B面の"Please Listen To Me"はShoes(アメリカのパワーポップバンド)や初期のElvis Costelloの影響が強いと思います。"A Place Called Home"(初期バージョン)は後のバージョンより深いリヴァーヴでより雰囲気のある音でしたが、それは当時The SmithsやMcCarthyをよく聴いていたからですね。


- セカンドアルバムは93年に出たんだよね。"Touch the Ground"というタイトルで。注意を引いたのは裏表紙のアートだったんだ。図形で"touch the ground"(地面に触れる)方法を説明していて。その背後にあったアイデアは何だったの?


2ndアルバム"Touch the Ground"は1994年に出ました("In A Big Golden Cage"は1993年)。ジャケット全体のアイデアを思いつき、制作したのは佐々木さんと言う、ルーフというバンド(上にも書きましたが)のシンガーだった人なんですが、彼は何年も前に亡くなったんですね。だから、彼が何をほのめかそうとしていたのかはわからないですね。その頃は、誰かが自分の音楽を元に、何か謎めいたデザインを作ってくれるのがただただ嬉しくて、ワクワクしていましたよ。それ以上にフロントカヴァーが心配でしたね、スクイーズの「フランク」に似てると思ってましたから。


- それからDiscogsは"Power Of Music"という1994年のカセットアルバムをリストに上げてるよね。これは正式なリリースなの? その作品は全く知らないんだけれど。それについて事情を聞いてもいいかな?

たぶんDiscogsに情報を提供した人が間違っていると思うんですが・・・"Power Of Music"は1995年に出したカセットアルバムで、1996年にも"Magic Circles"というカセットアルバムを出したんですよ。1994年に出したのは"Chocolate Train"という2曲入りのテープです。これらは全て全国のタワーレコードやWaveといったレコード店で販売したので正式なリリースです。当時友人が始めたレーベルのテープコンピにも参加したけれど、これらの一時的な90年代後半のカセットリリースの流行は記録に残ってないのです。というのも、その後すぐにカセットリリースはメジャーレーベルに真似され始めて、あっと言う間に廃れてしまったんですよね。そしてさらに2000年頃には本当のインディー、DIY精神を持ってる人達の作品を上記のレコード店が置いてくれなくなった・・・追い出されて行ったんですね。

これらの作品の目的は、完全に自己満足でした。自分の次のCD作品がいつ出せるかわからないので、待てなかったんです。音のクオリティはすごく低かったけれど、私にとってはそれで良かったんです。とにかく当時は、作品を出す事に飢えていましたから。


- 次の作品、そしてそれ以降のペネロープスのリリースは全てボードヴィルパークレコードからになったよね。ボードヴィルパークレコードとは誰のこと? それは君自身だったのかな?

ボードヴィルパークは私がひとりで運営するとっても小さなレーベルです。それは1996年に始まったんですが、その年は、既に完成していた3rdアルバムがなかなかリリースされなかったのです。憤慨しましてね。で、間に合わせのちっぽけな店舗を作って次の作品を売りに出したという訳ですが、結局そこが自分の居場所となってしまったという訳です。名前は敬愛するイギリスのソングライター、ポール・べヴォワーが80年代に率いたバンドThe Jet Setのアルバムから来ています。


- 一曲、"Today"という曲で気づいたんだけれど、別の渡辺さんがバッキングボーカルをやっているよね。彼女は誰?


"Today"でリードシンガーをやってるのは女性ではなくて、私の弟の聡(バンドの初期のメンバーでもある)です。でもバッキングVoをやってるのは誰かな・・・私じゃないですかね(笑)

 

- ペネロープスはEPやシングルのバンドというよりもむしろアルバムのバンドなんだなと気づき始めたんだけど。自分でもそう思うかな? それって意図したことだった? 何故アルバムのフォーマットの方を好むのかな?


たぶんほんの少ししかシングルをリリースしてないのと、アルバムはたくさん出しているから、そう思うんだと思います。シングルをあまり出してなくてアルバムが多いのは、単純に私が曲を沢山作って来て、経済的な面から、一度に沢山出せるフォーマットはアルバムだったからです。だから、シングルよりアルバムの方を好むというのではなくて、アルバムの方が便利だった、という訳です。個人的には7インチシングルが大好きだから、もしチャンスがあったらぜひ出したいなといつも思っているのですが・・・。


- "Inner Light"が次のアルバム、1999年の終わりにリリースされたんだね。これはとっても長いアルバムで19曲も入ってた! 君にとっては最も多作な時期だったのかな?


19曲も入れた理由は、どんなバンドもアルバムを出し始めたら、4枚目かそこら辺りで二枚組とか、コンセプトアルバムとかの大作を作るものだという考えに取り憑かれていたからですね。少なくとも自分が尊敬するアーティスト達はそうでしたよ、ビートルズ、フー、キンクス、XTC、クラッシュ・・・エルヴィス・コステロは一枚に20曲も入れてました! それに倣ったんです。だから、この時期が一番多作だった訳ではないと思うんですよ。今の方が曲のアイデアは豊富にありますし。ただ、完成させるのに手間がかけているのと、日常が忙し過ぎるんですよね。

 

- レモネードファクトリースタジオというのは? 君がよく録音に使っていた場所だよね?それはどこにあったの? そしていまでも存在するのかな?


レモネードファクトリーというのは、私が録音に使っていた部屋のことで、本当のスタジオではありません。だから、ただの冗談なんですよ。その名前は、曾祖父から関わった「ウィルキンソンタンサン」というレモネードのメーカーから来ています。その工場は本当に家の近くを流れる武庫川のほとりにあったんですが、90年代初めに商標を売り、会社をたたんでしまったので、私が音楽をやり始めた頃には、もう存在しない工場でした。その記憶をずっと残しておきたかったのです。

 

(Part 2に続く)