冥土院日本(MADE IN NIPPON)

忠臣蔵 「梅と泉岳寺」



今年も残すところあと僅か。師走に付き物と言えば何と言っても忠臣蔵だったのですが、最近はとんと見ませんね。以前は年末・年始のTV番組と言えば忠臣蔵をテーマとした作品が多く放映されたものです。

時代が変化し「時代劇」が受け容れられなくなったから。そんな事はありません。NHKの大河ドラマは時代劇ばかりです。時代劇の製作は現代劇に比べてお金がかかります。要するに民放には時代劇を制作する力がもはや無いからでしょう。TV業界の凋落を象徴するかのような現象です。

害国人だらけの社員には「武士道」やら「もののあはれ」は理解出来ません。時代劇は日本人の宝物。純粋の日本人でなければ本当の時代劇はプロデュースは無理でしょうね。唯一時代劇の高額製作費を捻出出来るNHKさん(笑)お宅の社員は大丈夫?

さて忠臣蔵は過去、映画やテレビで外伝物も含めて多数作られましたが、その中でも最高峰の作品は「松田定次」監督の『忠臣蔵  櫻花の巻・菊花の巻』だと思っています。昭和34年の製作ですが、娯楽の王様が映画だった時代、時代劇なら東映と言われた頃の傑作だと思います。

私は子供時代に劇場で見ましたが、登場人物、セット、衣装の豪華さ華麗さに圧倒された記憶があります。この記事を書いていたらレンタルビデオで見たくなってしまいました。




ということで再掲で恐縮ですが、悲劇の主人公「浅野内匠頭長矩」の考察にお付き合いください。


『梅と泉岳寺』

■高輪 泉岳寺

『風さそふ花よりもなほ我はまた 春の名残をいかにとか(や)せん』映画や歌舞伎で御馴染みの忠臣蔵、悲運の赤穂浅野家当主「浅野内匠頭長矩(たくみのかみながのり)」の辞世の句です。

春が近いことを感じさせる暖かな陽射しに誘われて、高輪の泉岳寺を訪れたくなってしまいました。赤穂浅野家の菩提寺、泉岳寺には長矩と正室の阿久里(瑶泉院)の墓と大石内蔵介をはじめとする四十七士の墓があります。

泉岳寺境内の桜の枝にはたくさんのつぼみがふくらみはじめていました。桜の季節まではあとわずか。長矩が切腹したのは元禄14年(1701)3月14日。新暦になおすと4月の出来事です。実際には桜の花は散ってしまっていたのかもしれません。最も今ほど地球の温暖化が進んでいなかったとすれば開花時期も遅くなり、話のつじつまが合うのかもしれませんが。

■桜と日本人

『花は桜樹、人は武士』ともに散り際が美しいことの例えですが、桜の花は日本人の持つ死生観に最も適った花ではあるようです。一説によれば桜の樹は人間の血や肉や骨を肥やしにして美しい花を咲かせるのだとか。多くの戦死者を弔った塚に植えられた桜ほど色鮮やかな花をつけるのだそうです。庭の桜の樹に美しい花を咲かせるために、樹の根元に魚の骨を埋めると良いという話も聞いたこともあります。古より桜の花は人間の死と深い関係にあり、多くの物語を残しています。

■戒名を読み解く

『忠誠院刃空浄剣居士』と言う戒名は誰のものだかお分かりでしょうか。そう、直ぐに分かった方は大変察しが良い方です。正解は「大石内蔵介」です。戒名と言うのは本来戒律を受けて仏の弟子になる時に授かる名前です。死んで授かる名前と思いがちですが、生存中に授戒して名前をもらう事も可能なのです。しかしながら戒名は日本独特の仏教の習慣でもあり、庶民は別としても、仏弟子の名前と言うよりは生前の業績や名声をを称える意味合いが強いものです。

突然泉岳寺を訪れたくなったもうひとつの理由は、浅野長矩の戒名を知りたかったからなのです。一国の領主に相応しく、境内の数ある墓の中で、一際大きく立派な墓碑には次のように刻まれていました。『冷光院殿前少府朝散太夫吹毛玄利大居士』戒名の院号は今でこそ多額のお布施をすれば、庶民もつけてもらえますが、昔は皇族や高位の公家が授かるものでありました。戦国時代以降一国の領主クラスの武家には「院」と差別するために「院殿」号が授けられるようになりました。

浅野長矩の戒名を我流で読み解くと次のような意味になります。「冷光」性格が冷たいと言う意味ではなく「月光のように冴え渡る光」つまり「クールで明晰な」と言う意味でしょうか。「前少府」とは「前の少府」の意で、内匠寮の長官である内匠頭の官名を表しています。(内匠寮は唐代の官営工房である少府監の模倣と考えられ、別称を「少府」と言います)

次の「朝散太夫」(ちょうさんだいふ)とは中国の唐朝時代の従五位下の雅称です。長矩は延宝八年に従五位下に叙せられています。朝(あした)に散る太夫とも読めて、何故か長矩の生涯にオーバーラップして見事なほどに象徴的です。「吹毛」(すいもう)とは吹き付ける毛を切ってしまう程に良く切れる剣を意味します。「玄利」の「玄」とは微妙で深遠な理、または老荘の道徳における微妙な道の意があります。「利」とは良く切れる(鋭利)という意味です。

長矩は吉良に付け届けをするのを潔しとしなかった程の、潔癖ともいえる正義感溢れた性格だったようです。実弟「浅野大学」も手紙の中で家臣が付け届けをせよと薦めたが、兄は断ってしまったと述べています。玄は天という意味もありますから、本来は「玄理」つまり天の道理をわきまえた清廉潔白な人物というほうがすっきりするのですが、その潔癖さが災いして悲劇を招いたために、あえて「利」の文字を当てたというのは考えすぎでしょうか。

ともあれ、戒名の意味するところは「クールで明晰な頭脳を持ち、良く切れる剣のように鋭く厳しい道徳観の持ち主」と言うような内容になります。戒名を読み解くと、浅野長矩という人物像がよりリアルで身近な存在として感じられてきます。

■「瑶池梅」

浅野長矩と彼の忠臣たちが眠る墓所へ向かう参道には、瑶泉院(ようぜいいん)が大事にしていた鉢植えの梅の木を墓守の尼(義士の妻女だったようです)に託し、尼がこの場所に植えたと言う「瑶池梅」という名の木があります。そしてその横には長矩が切腹のおり、介錯の血が飛び散ったと言われる「血染めの庭石」と「血染めの梅の木」が移し変えてあり、さらに「大石主税」が切腹した大名家の庭の梅ノ木もここに移してあります。

忠臣蔵と言えば桜の花のイメージが強いのですが、何故に梅の木に拘るのかと不思議にさえ思えました。そこでふと思い出したのが浅野長矩の生い立ちです。

彼は幼少から文武の道に励み18歳にして山鹿素行より兵学を学びました。書は肥後の北島雪山に学び、茶は石州流をたしなみ、和歌にも堪能であったといいます。絵画は狩野派に学んで、雅号は「梅谷」と称しました。「梅谷」と名乗ったことと瑶泉院が梅を大切に育てていたことには深い関係があるように思えます。恐らく浅野長矩は梅の花をこよなく愛していたのでしょう。

「桜折る馬鹿、梅折らぬ馬鹿」という諺があります。桜は樹力があまり強くないので、枝を折ると幹までも駄目にしてしまいますが、梅は樹力が強く少々枝を切っても大丈夫ということなのです。梅は冬の厳しい風雪に耐え、雪の下から美しい花を咲かせます。さらに花が散った後に青い実を結びます。

武士の生き様は良く桜に例えられますが、本当は潔く散ることよりも、梅のように困難に耐えていつか花開き、実を結ぶ生き様の方が正しい生き方だと多くの武士達も思っていたのかもしれません。武門の家紋には梅の紋が多く見られます。幾多の苦難の道を耐えて加賀百万石を明治まで存続させた前田家の家紋も梅の花です。苦労人前田利家の精神が梅花紋と共に生きているといえましょう。

■辞世の意味するもの

浅野長矩も頭脳明晰であれば、自分の短所を充分に理解していたことでしょう。それゆえに彼は梅の木の生き方を自戒の象徴として、梅をこよなく愛し、雅号を「梅谷」と名乗ったのかもしれません。しかしながら悲劇は起こってしまいました。

辞世の句を詠む時、彼の胸中に去来したものは、吉良への恨みではなく梅の木の生き方を捨て、桜花を選んでしまった己への、自責と後悔の念であったと私は思えるのです。梅の木のように耐え忍び、無事役目を終わらせていたら、歴史にその名を残すことも無く、弟大学に家督を譲って隠居し、妻の阿久里と梅の花を愛でながら穏やかに一生を過ごしたのかもしれません。

死の直前、長矩の心眼に映った花は何であったのでしょうか。それは散りゆく桜花ではなく、彼の心情の如く清冽な、白い梅の花であったかもしれません。
300年の歳月の風雪に耐えて、泉岳寺の「瑶池梅」は今年も美しい花をつけていました。





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