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脱刀の作法

■脱刀の作法

―― 刀を置く位置について ――

刃長二尺以上の刀(打刀)と、二尺未満一尺以上の脇差(脇指)とを帯用する「大小」の習俗が生まれたのは、先に述べたように天正年間(1573~92)のことと考えられていて、日本刀は間もなく慶長年間(1596~1615))に至って、[古刀]期から、「新刀」期に移る。

秀吉の刀狩りの前後は、日本刀史に特筆大書すべき事柄が重なった。
大小は江戸時代には武士の式制となり、「大小拵え(こしらえ)」と称して、柄・鐔・鞘などの外装を揃えるようになった。そして、さむらいは外出時にはこれを差し、家に居る時も、座の近くの刀掛け(刀架)に掛けて、座を離れる時には、便所に行く時でも脇差か、一尺未満の小刀(短刀)を携えるほどに、刀は武士の肌身を離れぬ道具となったのである。

そのような刀も、これを脱するべき席があった。室町時代に書かれた書に、刀剣の作法について記したものが幾つかあるが、その一つ、『今川大双紙』(今川了俊)には、 ―― 刀をささぬ所は、鞠の庭、風呂、貴人の御近所也。とあって、蹴鞠の場、風呂場、貴人の側近くに伺候する場においては、当時は太刀の差添えとされた打刀を差さないのが作法とされている。

加えて、茶席に入る時も無腰で入るのが作法であり、これは江戸時代になっても踏襲されている。大小を帯びてきた武士は、待合(茶席に付属た建物で茶席のあくのを待つ所)に備えてある刀掛けに、両腰共に掛ける。これに対して、茶席の主人は自分の刀を小者に渡し、脇差は客が刀を掛けた刀掛けの下に立て掛けて置くのが作法であった。

貴人に面会する時は、佩刀を携えて入室しなことも江戸時代の作法とされた。しかし、同程度の身分の間柄では、目上の人と会見する時は自分の右側に、目下の人に対する時は左側に、いずれも刃を外側に向けて置くのを建前とした。

刀持ちが従っている場合、目上には右側、目下には左側に近侍させて捧げ持たせるのと同様に、前者は、抜刀するのに不便であることをあえて表示し、後者は、急を要す事変あらば抜刀に便利なように置いても不敬に当たらぬ意を示すものだ。

なお、江戸城に詰める大名は、刀は供の者に渡し、脇差のみを帯びることになっていた。

※図説「大江戸さむらい百景」渡辺 誠 著 株式会社 学習研究社
( P238~P239)より転載

続く

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