何回か通ってくださっている生徒さんに初めて行書を教える。
小さい頃の学校の授業以外は、ほとんど書道は初めてという生徒さんなので、いわゆる楷書からやっていたのだけれど、筆使いも随分と慣れて上手になってきたので、今度は書を書くときの“気分”についてを知ってもらいたかった。
私はいつも「上手い字なんてない」と序盤に伝えることにしている。
まして「級」だの「段」だの、過去の栄光はまったく必要ない。
もちろんあって悪いというものではないけれど、それで何か、何でもいいけれど利益を生めないなら要らない。
これから学ぶにあたり、それによってモチベーションが維持できる、資格を取って人に教えたい、ということであればそれは多大な利益であるのでいいけれど、小学校の頃の「級」や「段」で今何を示せるだろうか。
と、なぜかこのことはいつになく強気だけれども、そう思っている。
それは私の持っている「師範資格」なるものも然りだ。
まあこれがあるから来てくれる人がもちろんほとんどだけれど、その後はそんなものの効力はない。
大切なのは、「自分の中の上手い字のイメージであり、それを体現することである」と思う。
体現するのは、自分の中の理想の字以外にはない。
まあとはいえそれは理想論で遠くにある話なので、それを踏まえた上で、では筆使いから、楷書からやりましょうということになる。
理想の字がない場合には、いろいろと見てもらって「この字とこの字と、どっちが好きですか」、というところから始める。
無論、そのイメージが抱けたからと言ってすぐに体現できるはずもないので、「ここからは少し細かい話と泥臭い練習になります」と続く。
生徒さんには、基本的に私の理想の字を押し付けたくはないと思っている。
私の書くお手本から学ぶのは、お手本の見方、字形の取り方や、こうするとかっこ良くなる、といった一般的で汎用性のあることにしたい。
時に自分のお手本が良くなければ吊るし上げてダメな見本にだってする。
まあこれは技術不足の言い訳でもあるが。
そんな方針の中で、少しの泥臭さの部分を超えた段階で、早めに感じてもらいたいのが書の“気分”なのだ。
最初は、でき上がった字が変でもいい、バランスが悪くてもいい、「字の流れ、気脈」というものに乗っかったという“気分”を味わってもらいたい。
「自分は書けるのだ」という謎の自信を持って、筆を走らせてもらいたい。
そうすることができたとき、本人はその瞬間が絶対に分かる。
「絶対に」なんて言い過ぎかもしれないけれど、「絶対に」分かると思う。
「あ~なるほど」と、言葉では言えないその瞬間が。
その瞬間がつかめなければ“気分”を体得したとは言えない。
その瞬間がつかめれば、字に流れが生まれ、あと少しの練習を積めば飛躍的に上手くなると思う。
これはたぶん、大人の方が感じやすいのではないかと思う。
子供はこういうことが日常におそらく数多く起こっているし、自覚的になるほどの経験と知性がない。
今日生徒さんはやっている中でそれがほんの少し体感できたようだった。
ご自分でも仰っていたし、私が書き姿を見ていてもそうだった。
もちろん技術的なことも教えるわけなのだけれど、私はそういうことのためにやっているのだなと改めて思う。
「人のことが自分のことのように嬉しい」なんて、私的に、言うのすら恥ずかしいのだけれど、私はその生徒さんのその有り様を見ていて本当に嬉しかった。
私が満足している、ということだ。
もっというと、生徒さんよりも、かもしれない。
書道の先生として幾分偏っているかもしれないけれど、私がやるとどうしてもこのようになる。
それが私の譲れないところであって、人に何かを伝えたいとしたら、それは確実に私の欲望の一つでもある。
私のいうところの、“ロックンロール”だ。
そんなこんなで、違う方の仕事が溜まりがちになっている。
たまたま「塩あめ」を食べていた、それだけのこと。

小さい頃の学校の授業以外は、ほとんど書道は初めてという生徒さんなので、いわゆる楷書からやっていたのだけれど、筆使いも随分と慣れて上手になってきたので、今度は書を書くときの“気分”についてを知ってもらいたかった。
私はいつも「上手い字なんてない」と序盤に伝えることにしている。
まして「級」だの「段」だの、過去の栄光はまったく必要ない。
もちろんあって悪いというものではないけれど、それで何か、何でもいいけれど利益を生めないなら要らない。
これから学ぶにあたり、それによってモチベーションが維持できる、資格を取って人に教えたい、ということであればそれは多大な利益であるのでいいけれど、小学校の頃の「級」や「段」で今何を示せるだろうか。
と、なぜかこのことはいつになく強気だけれども、そう思っている。
それは私の持っている「師範資格」なるものも然りだ。
まあこれがあるから来てくれる人がもちろんほとんどだけれど、その後はそんなものの効力はない。
大切なのは、「自分の中の上手い字のイメージであり、それを体現することである」と思う。
体現するのは、自分の中の理想の字以外にはない。
まあとはいえそれは理想論で遠くにある話なので、それを踏まえた上で、では筆使いから、楷書からやりましょうということになる。
理想の字がない場合には、いろいろと見てもらって「この字とこの字と、どっちが好きですか」、というところから始める。
無論、そのイメージが抱けたからと言ってすぐに体現できるはずもないので、「ここからは少し細かい話と泥臭い練習になります」と続く。
生徒さんには、基本的に私の理想の字を押し付けたくはないと思っている。
私の書くお手本から学ぶのは、お手本の見方、字形の取り方や、こうするとかっこ良くなる、といった一般的で汎用性のあることにしたい。
時に自分のお手本が良くなければ吊るし上げてダメな見本にだってする。
まあこれは技術不足の言い訳でもあるが。
そんな方針の中で、少しの泥臭さの部分を超えた段階で、早めに感じてもらいたいのが書の“気分”なのだ。
最初は、でき上がった字が変でもいい、バランスが悪くてもいい、「字の流れ、気脈」というものに乗っかったという“気分”を味わってもらいたい。
「自分は書けるのだ」という謎の自信を持って、筆を走らせてもらいたい。
そうすることができたとき、本人はその瞬間が絶対に分かる。
「絶対に」なんて言い過ぎかもしれないけれど、「絶対に」分かると思う。
「あ~なるほど」と、言葉では言えないその瞬間が。
その瞬間がつかめなければ“気分”を体得したとは言えない。
その瞬間がつかめれば、字に流れが生まれ、あと少しの練習を積めば飛躍的に上手くなると思う。
これはたぶん、大人の方が感じやすいのではないかと思う。
子供はこういうことが日常におそらく数多く起こっているし、自覚的になるほどの経験と知性がない。
今日生徒さんはやっている中でそれがほんの少し体感できたようだった。
ご自分でも仰っていたし、私が書き姿を見ていてもそうだった。
もちろん技術的なことも教えるわけなのだけれど、私はそういうことのためにやっているのだなと改めて思う。
「人のことが自分のことのように嬉しい」なんて、私的に、言うのすら恥ずかしいのだけれど、私はその生徒さんのその有り様を見ていて本当に嬉しかった。
私が満足している、ということだ。
もっというと、生徒さんよりも、かもしれない。
書道の先生として幾分偏っているかもしれないけれど、私がやるとどうしてもこのようになる。
それが私の譲れないところであって、人に何かを伝えたいとしたら、それは確実に私の欲望の一つでもある。
私のいうところの、“ロックンロール”だ。
そんなこんなで、違う方の仕事が溜まりがちになっている。
たまたま「塩あめ」を食べていた、それだけのこと。

