おばあちゃんが、死んだ。
もう10年くらい前に認知症を患って、もう5年以上は施設に入っていた。
おばあちゃんが次第に孫の私のことも、母の兄弟である子どもたちのことも、夫であるおじいちゃんのことも、そして自分のこともわからなくなってから随分経つ。
最後に会ったのは、それはそれは美しい海が見える丘の上の介護施設だったと思う。
静かで、穏やかで、時間の流れが異様で、初夏がよく似合う場所だった。
私はおばあちゃんが息を引き取ったとき友人と箱根にいて、例によって、いもうとからのメールでその知らせを受けた。
何を思えば良いのか、全然、わからなかった。
具合が悪いとも聞いていなかった。
だから私には急な知らせだった。
人はいつか、死ぬ。
絶対に、死ぬ。
その知らせが、おばあちゃんであるということは、一番現実的で予定調和。
そう、確かにそれはそうなのである。
すぐに焦げてしまうほど砂糖が入った甘い卵焼き。
3時になるとおじいちゃんの盆栽小屋に持って行くものすごく濃い緑茶と和菓子のおやつ。
盆栽小屋で点ててくれたお抹茶といちご大福。
あと、10年程前に死んでしまったゴロちゃんという犬。
同居していなかった母方のおばあちゃんだから、思い出はそんなに多くはない。
認知症が始まった頃、同じ事柄を10分置きくらいに繰り返すものだから、私はその度に簡単な回答を繰り返していた。
私は一緒に暮らしていなかったから煩わしいとは思わなかったが、認知症が進んで徘徊などをするようになったおばあちゃんの世話はたぶんとても大変だったろうと思う。
父が死んでから、身内が死ぬのは初めてだ。
私は父が死んでから、人の死に過敏になってしまった。
全然整理できていない父への感情や父の死への思いのあれこれを綯い交ぜにして、人の死を悼む前に自分の感情が吹き出してしまって仕方がない。
ちょうど一週間ほど前、知り合いのお祖母様が亡くなったとふとしたきっかけでメールでお聞きした。
私はその方に何か言おうと思って、だけど何を言えばいいのか本当にわからなくて携帯電話を手にしたまま、何で私が泣くんだと思いながら涙をこぼし、ご冥福をお祈りします、とだけ返した。
その方はお祖母様のことが好きだったと聞いていたから、もっと気の利いたことが言えたのではと思うけれど、私が発するどの言葉も私が自信を持って言えないがために、私は言葉を外に出すことができなかった。
ここで私が自分の感情を適用することもないのだけど、そんなのは全然優しくないのだけど、私は常套句以外の何かを発することができなかった。
生死や、家族というものは、きれいに大きく覆ってしまう言葉や観念はたくさんある。
でも、ある人と生死の関係や、ある人と家族の関係は、本当に個人的で、ある人のもの以外の何者でもない。
慮ることさえも、差し出がましいと感じてしまったとしたら、どうすることが一番相手のためになるだろうと、私はまだそれがわからずにいる。
「見守ってくれてるよ」とそのくらい何の気負いもなく言えたらいいのだけど。
愛知県の中でも忘れ去られたかのようなおばあちゃんの家のある地域。
色んなものの色がそのまま錆び付いてしまったみたいに褪せていて、風景が止まって見える。
1時間に2本の真っ赤な電車だけは淡々と走っていて、所々白木蓮が咲いているのを見つけると、この世界も動いていることが認識できる。
相変わらず私の耳にはハイロウズが流れていて、いつでもヒロトの声は動いていて血が通っていて、瑞々しい。
久しぶりに会った親戚がたくさんいた。
こうして血が繋がっていることを否応無く知らしめる冠婚葬祭の場が私は好きではない。
絶対的な関係であって、選べない関係。
お互いによく知りもしないのに、血縁と幼い頃を知っているからという理由だけで、人間性を決めつけられていたりする。
私が愛について何か言うとしたら、愛は“敬愛”であると思っている、という意味で愛していない親戚だっている。
おばあちゃんの遺体は、少し痛ましかった。
苦しかったんだろうね。
すべてはこの世に残った人が思い発することしかないけれど、死ぬのは悪いことではないよね、きっと。
この世ではないどこかが、温かくてふわふわで気持ちの良い場所だといいなと思うよ。
やっぱり私は人が死ぬのが酷く苦手で。
昔、「一番感情が大きく動くときってどんなとき?」とある人に問われたことがある。
私はほんの少しだけ考えて「人が死ぬとき」と答えた。
全てはこの世に生きているから起こることだから。
悲しいことも、嬉しいことも、全部この世のもの。
そして、その全部、私が感じること。
苦しかった身体は、焼かれて真っ白な骨になった。
おばあちゃん。
ありがとう。おつかれさま。
どうか安らかに。
もう10年くらい前に認知症を患って、もう5年以上は施設に入っていた。
おばあちゃんが次第に孫の私のことも、母の兄弟である子どもたちのことも、夫であるおじいちゃんのことも、そして自分のこともわからなくなってから随分経つ。
最後に会ったのは、それはそれは美しい海が見える丘の上の介護施設だったと思う。
静かで、穏やかで、時間の流れが異様で、初夏がよく似合う場所だった。
私はおばあちゃんが息を引き取ったとき友人と箱根にいて、例によって、いもうとからのメールでその知らせを受けた。
何を思えば良いのか、全然、わからなかった。
具合が悪いとも聞いていなかった。
だから私には急な知らせだった。
人はいつか、死ぬ。
絶対に、死ぬ。
その知らせが、おばあちゃんであるということは、一番現実的で予定調和。
そう、確かにそれはそうなのである。
すぐに焦げてしまうほど砂糖が入った甘い卵焼き。
3時になるとおじいちゃんの盆栽小屋に持って行くものすごく濃い緑茶と和菓子のおやつ。
盆栽小屋で点ててくれたお抹茶といちご大福。
あと、10年程前に死んでしまったゴロちゃんという犬。
同居していなかった母方のおばあちゃんだから、思い出はそんなに多くはない。
認知症が始まった頃、同じ事柄を10分置きくらいに繰り返すものだから、私はその度に簡単な回答を繰り返していた。
私は一緒に暮らしていなかったから煩わしいとは思わなかったが、認知症が進んで徘徊などをするようになったおばあちゃんの世話はたぶんとても大変だったろうと思う。
父が死んでから、身内が死ぬのは初めてだ。
私は父が死んでから、人の死に過敏になってしまった。
全然整理できていない父への感情や父の死への思いのあれこれを綯い交ぜにして、人の死を悼む前に自分の感情が吹き出してしまって仕方がない。
ちょうど一週間ほど前、知り合いのお祖母様が亡くなったとふとしたきっかけでメールでお聞きした。
私はその方に何か言おうと思って、だけど何を言えばいいのか本当にわからなくて携帯電話を手にしたまま、何で私が泣くんだと思いながら涙をこぼし、ご冥福をお祈りします、とだけ返した。
その方はお祖母様のことが好きだったと聞いていたから、もっと気の利いたことが言えたのではと思うけれど、私が発するどの言葉も私が自信を持って言えないがために、私は言葉を外に出すことができなかった。
ここで私が自分の感情を適用することもないのだけど、そんなのは全然優しくないのだけど、私は常套句以外の何かを発することができなかった。
生死や、家族というものは、きれいに大きく覆ってしまう言葉や観念はたくさんある。
でも、ある人と生死の関係や、ある人と家族の関係は、本当に個人的で、ある人のもの以外の何者でもない。
慮ることさえも、差し出がましいと感じてしまったとしたら、どうすることが一番相手のためになるだろうと、私はまだそれがわからずにいる。
「見守ってくれてるよ」とそのくらい何の気負いもなく言えたらいいのだけど。
愛知県の中でも忘れ去られたかのようなおばあちゃんの家のある地域。
色んなものの色がそのまま錆び付いてしまったみたいに褪せていて、風景が止まって見える。
1時間に2本の真っ赤な電車だけは淡々と走っていて、所々白木蓮が咲いているのを見つけると、この世界も動いていることが認識できる。
相変わらず私の耳にはハイロウズが流れていて、いつでもヒロトの声は動いていて血が通っていて、瑞々しい。
久しぶりに会った親戚がたくさんいた。
こうして血が繋がっていることを否応無く知らしめる冠婚葬祭の場が私は好きではない。
絶対的な関係であって、選べない関係。
お互いによく知りもしないのに、血縁と幼い頃を知っているからという理由だけで、人間性を決めつけられていたりする。
私が愛について何か言うとしたら、愛は“敬愛”であると思っている、という意味で愛していない親戚だっている。
おばあちゃんの遺体は、少し痛ましかった。
苦しかったんだろうね。
すべてはこの世に残った人が思い発することしかないけれど、死ぬのは悪いことではないよね、きっと。
この世ではないどこかが、温かくてふわふわで気持ちの良い場所だといいなと思うよ。
やっぱり私は人が死ぬのが酷く苦手で。
昔、「一番感情が大きく動くときってどんなとき?」とある人に問われたことがある。
私はほんの少しだけ考えて「人が死ぬとき」と答えた。
全てはこの世に生きているから起こることだから。
悲しいことも、嬉しいことも、全部この世のもの。
そして、その全部、私が感じること。
苦しかった身体は、焼かれて真っ白な骨になった。
おばあちゃん。
ありがとう。おつかれさま。
どうか安らかに。
