「人生は儲けるためでも人を平伏させるためにあるわけでもない。生きててよかった、という経験がどれだけできるかなんだ」
って、どこかのロッカーが言うようなセリフだ。
実際にはロックに生きている、私の結構身近にいる人が私にくれた言葉だ。
赤向けの皮膚を冷たい真水に浸けたみたいに、鼓動が早くなって息を大きく吸い込んだまま動けなくなって、ひりひりしていた皮膚はその水の柔らかさに痛みを忘れる。
「人生ってなんだろうね」「エクスタシーの追求なんじゃないですかね」と、本気で思っているけど、本気で思考がそれ一方向にしか働いていないわけでもないし、でも本気でそう思っている。
確かに、してやられた、と私は思ったが、してやられているとわかっても尚泣いてしまうのだから、もう廻りまわっても仕方がない。
自分が過剰なときを過ごしていると、普段よりも過剰に物事をとらえてしまう以外に、過剰なものが寄ってくるのだと思う。
今は日常の穏やかさ、みたいなものを人生の主の目的にはどうしても設定できない。
穏やかなのはとてもいいことだし、安らぎを持って毎日眠りたいとはもちろん思うが、落ちないようにだけ気を付けて低空を彷徨い続けるのは本当に嫌なのだ。
洗濯物が穏やかな光の中で風に揺れているのを見るのが本当に一番の幸せだ、と3,4年前に本気で思っていたことは紛れもない事実でありそれも今も肯定するが、それだけでは本当に嫌なのだ。
ブログを書いていると、自分の核を成しているものがよくわかる。
変化を嫌っていた私が、変化のために動きたいと思っている。
習慣と露出欲求により私はブログを書くのだが、今の私には現状のアイデンティティの揺らぎをメインにしか文章が書けない。
私が所謂ソーシャルネットワークでの発言をほとんどしないのは、開示の幅と深度の制約が大きいと思っているからだ。
もちろんこの場だから何を言っていいわけでも全然ないし、開示の幅も深度もなんとなく調節している。
ただ、制限はかかっていてもデフォルメしているわけでは特段ない。
ちょっとした自分の露出狂的一面の存在。
その存在には、本当は自分の中の怠惰以外の妨げはほとんどない。
と、また青すぎることに自分で吹き出して、梅雨空を仰いだりする。
って、どこかのロッカーが言うようなセリフだ。
実際にはロックに生きている、私の結構身近にいる人が私にくれた言葉だ。
赤向けの皮膚を冷たい真水に浸けたみたいに、鼓動が早くなって息を大きく吸い込んだまま動けなくなって、ひりひりしていた皮膚はその水の柔らかさに痛みを忘れる。
「人生ってなんだろうね」「エクスタシーの追求なんじゃないですかね」と、本気で思っているけど、本気で思考がそれ一方向にしか働いていないわけでもないし、でも本気でそう思っている。
確かに、してやられた、と私は思ったが、してやられているとわかっても尚泣いてしまうのだから、もう廻りまわっても仕方がない。
自分が過剰なときを過ごしていると、普段よりも過剰に物事をとらえてしまう以外に、過剰なものが寄ってくるのだと思う。
今は日常の穏やかさ、みたいなものを人生の主の目的にはどうしても設定できない。
穏やかなのはとてもいいことだし、安らぎを持って毎日眠りたいとはもちろん思うが、落ちないようにだけ気を付けて低空を彷徨い続けるのは本当に嫌なのだ。
洗濯物が穏やかな光の中で風に揺れているのを見るのが本当に一番の幸せだ、と3,4年前に本気で思っていたことは紛れもない事実でありそれも今も肯定するが、それだけでは本当に嫌なのだ。
ブログを書いていると、自分の核を成しているものがよくわかる。
変化を嫌っていた私が、変化のために動きたいと思っている。
習慣と露出欲求により私はブログを書くのだが、今の私には現状のアイデンティティの揺らぎをメインにしか文章が書けない。
私が所謂ソーシャルネットワークでの発言をほとんどしないのは、開示の幅と深度の制約が大きいと思っているからだ。
もちろんこの場だから何を言っていいわけでも全然ないし、開示の幅も深度もなんとなく調節している。
ただ、制限はかかっていてもデフォルメしているわけでは特段ない。
ちょっとした自分の露出狂的一面の存在。
その存在には、本当は自分の中の怠惰以外の妨げはほとんどない。
と、また青すぎることに自分で吹き出して、梅雨空を仰いだりする。
