3回目となる9条つくばのピースツアー、
今年は「丸木美術館と春の川越蔵の町めぐり」を開催しました。
参加者はバス満杯の23名、子どもさんも二人ご参加頂きました。
桜の花も満開になろうかという3月30日(日)は、
残念ながら小雨が降り注ぐあいにくのお天気となりましたが…
それでも土手をおおう菜の花や、川沿いに大きく枝を垂らす桜並木をバスから眺めつつ
川越クイズに、ビンゴゲーム、春の歌と「フランシーヌの場合は」を歌うにぎやかな車中となりました。
川越は情緒あふれる小江戸と呼ばれる蔵造りの町並みで知られ、
「残したい日本の音風景百選」にも選ばれています。
お菓子横丁ではお団子にたい焼き、手焼きのお煎餅、
蔵の街並みでは、時の鐘を眺めてお買いもの三昧の楽しいひと時となりました。
お昼を古民家レストランで頂いた後は、東松山市の丸木美術館へ。
人間が人間に対して行った暴力を描いた画家として知られている、丸木位里・丸木俊夫婦による「原爆の図」連作ほか共同制作、
位里の母・丸木スマの絵画を常設展示しています。
特に第二次世界大戦末期に原子爆弾が投下された広島市の惨状を実体験の元に描いた「原爆の図」は、
日本をはじめ、世界各地で巡回展示され、世界中の人々に原爆の恐ろしさを伝えました。
今ツアーでは、学芸員の岡村さんにご案内頂き、作品の解説をして頂きました。
全15部作となる「原爆の図」、
15部作目の「長崎」(長崎原爆資料館所蔵)以外の作品が常設され、見ることができます。
原爆投下、3日目から故郷広島を訪れたという位里さん、
1週間後には俊さんも駆けつけ、二人で救援活動を手伝ったといいます。
その時の体験を元に、自身の姿も描いた第8部「救出」(1954年)
炎の中にうずくまる人々と懸命に助け出す人々の画面がつながり、
当時の助ける人たちの思い、燃え続ける町のどうにもならない悲惨さが生々しく伝わってきました。
「原爆の図」は三部作まで完成した時点で、全国各地で巡回展が行われました。
1952年の巡回展を、今ツアー参加者のHさんは新潟県長岡で、小学校6年生の時見ていました。
子ども心に赤と黒のコントラストと迫力だけが印象に残った、というHさん、
ただただ涙が溢れたという子どもの頃の記憶と重ねながら、
62年ぶりに作品と再会され、感動に包まれました。
迫力の作品群に圧倒された後は、丸木夫妻のアトリエへ。
位里さんの故郷、広島太田川上流の景色に似ているという理由で居を構えたアトリエからの眺めは、
咲き始めた桜と小川が穏やかで静かな日本の原風景のよう、お二人が愛した理由もわかります。
折しも本日3月31日の東京新聞1面に丸木美術館についての記事が掲載されました。
「南京の絵がある美術館に行くのは偏向教育だ」という保護者の意見が出されている…
ここ数年、丸木美術館を訪れる学校が激減しているといいます。
「はだしのゲン」の学校図書撤去のニュースとも重なり
日本の平和教育が危機的状況にあることを実感しました。
クリックしてご覧ください。
今年は「丸木美術館と春の川越蔵の町めぐり」を開催しました。
参加者はバス満杯の23名、子どもさんも二人ご参加頂きました。
桜の花も満開になろうかという3月30日(日)は、
残念ながら小雨が降り注ぐあいにくのお天気となりましたが…
それでも土手をおおう菜の花や、川沿いに大きく枝を垂らす桜並木をバスから眺めつつ
川越クイズに、ビンゴゲーム、春の歌と「フランシーヌの場合は」を歌うにぎやかな車中となりました。
川越は情緒あふれる小江戸と呼ばれる蔵造りの町並みで知られ、
「残したい日本の音風景百選」にも選ばれています。
お菓子横丁ではお団子にたい焼き、手焼きのお煎餅、
蔵の街並みでは、時の鐘を眺めてお買いもの三昧の楽しいひと時となりました。
お昼を古民家レストランで頂いた後は、東松山市の丸木美術館へ。
人間が人間に対して行った暴力を描いた画家として知られている、丸木位里・丸木俊夫婦による「原爆の図」連作ほか共同制作、
位里の母・丸木スマの絵画を常設展示しています。
特に第二次世界大戦末期に原子爆弾が投下された広島市の惨状を実体験の元に描いた「原爆の図」は、
日本をはじめ、世界各地で巡回展示され、世界中の人々に原爆の恐ろしさを伝えました。
今ツアーでは、学芸員の岡村さんにご案内頂き、作品の解説をして頂きました。
全15部作となる「原爆の図」、
15部作目の「長崎」(長崎原爆資料館所蔵)以外の作品が常設され、見ることができます。
原爆投下、3日目から故郷広島を訪れたという位里さん、
1週間後には俊さんも駆けつけ、二人で救援活動を手伝ったといいます。
その時の体験を元に、自身の姿も描いた第8部「救出」(1954年)
炎の中にうずくまる人々と懸命に助け出す人々の画面がつながり、
当時の助ける人たちの思い、燃え続ける町のどうにもならない悲惨さが生々しく伝わってきました。
「原爆の図」は三部作まで完成した時点で、全国各地で巡回展が行われました。
1952年の巡回展を、今ツアー参加者のHさんは新潟県長岡で、小学校6年生の時見ていました。
子ども心に赤と黒のコントラストと迫力だけが印象に残った、というHさん、
ただただ涙が溢れたという子どもの頃の記憶と重ねながら、
62年ぶりに作品と再会され、感動に包まれました。
迫力の作品群に圧倒された後は、丸木夫妻のアトリエへ。
位里さんの故郷、広島太田川上流の景色に似ているという理由で居を構えたアトリエからの眺めは、
咲き始めた桜と小川が穏やかで静かな日本の原風景のよう、お二人が愛した理由もわかります。
折しも本日3月31日の東京新聞1面に丸木美術館についての記事が掲載されました。
「南京の絵がある美術館に行くのは偏向教育だ」という保護者の意見が出されている…
ここ数年、丸木美術館を訪れる学校が激減しているといいます。
「はだしのゲン」の学校図書撤去のニュースとも重なり
日本の平和教育が危機的状況にあることを実感しました。
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