言葉となってこぼれた途端、この言い逃れは前頭葉に貼り付いて、脳の連係をさえぎった。どう猛な犬に追走されているかの如くに、彼は逃げた。
(前回ここ迄)
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どうやって、たどり着いたのだろう。古いワンルームマンションの階段を上り、二階の自室のドアを後ろ手に閉め、明幸はその場に、ドアに体をあずけて崩れた。乱れた息が横隔膜を乱打する。立てた両ひざの間に息を吐き、髪に手をやった。が、手に触れたのは髪ではなく帽子。帽子だった。―こんなもん!こんなもん取りに行ったから!―。わし掴むや歯をむいて壁へ投げつけた。
何故、こんなことに巻き込まれたのかという現実の拒絶と、あのバイクが悪いのだという責任の転嫁と、小鳥たちはきっと皆、大丈夫だという根拠のない希望と、その望みを増幅させる妄想が、頭を支配した。拒絶と転嫁と楽観と妄想…。執拗に明幸は反すうした。やがて、疲れ果てベッドまで這い、短絡した回路が発熱して溶けるように、彼の意識は闇にうずくまった。…シャカシャカシャカ…。地を引き摺られ、いつの間にか片方ちぎれたイヤホンが、依然として心地いいジャズを、逃亡者の、その足元で奏で続けていた。
叫んだような気がして、明幸はシーツから頬をはがした。風だった。近づく台風がもたらす重く湿った強風が、窓のわずかな隙間を声帯にして、無音階の叫びをファルセットで歌っていた。目の先にはこたつ机。はっと起きあがった彼は、そこに寝転ぶテレビのリモコンを握った。少し見ては、次、また次。眼前に構えたリモコンを押してニュースを探した。が、無い。リモコンを捨てた彼は、部屋の奥のパソコンを起ち上げた。いつも見るサイトの速報枠の中ほどに、果たして、それはあった。
「通学の列にバイク突っ込む(大阪)」
マウスをすべらせる。ポインターが見出しに重なる。マウスを叩く。すぐに画面が替わり、写真付きの記事が示された。写真をポインターで打つと、扉を破壊され、悲鳴を上げたまま固まった店と、道路にかがむ警官が大きく画面に示された。慌てて写真を閉じた。
「9月6日午前8時ごろ、大阪市浪速区下寺2丁目の路上で、ハンドル操作を誤り横転したバイクが、小学生を次々にはねるという事故が発生した。この事故により、大阪市立日東小学校3年の田丸翔一君(9歳)が頭を強く打ち、意識不明の重体のほか、バイクを運転していた大阪市平野区の会社員も重体となっており…」
「重体ってなんや。よぉわからん。助かってよ、お願いや…」
言葉がこぼれ、気が付けば、涙が口の端を湿らせていた。明幸は、次々と画面に問いかけ、検索した。
突然柵を飛び越えた男を避けようとしたバイクが、バランスを失い転倒して事故が起こった、とは、どこにも書かれていなかった。「警察は、バイクを運転していた会社員の、スピード出し過ぎが原因ではないかとみて、取調べを行っている」という報道を最後に見て、明幸は液晶画面から離れた。
消し忘れたテレビが、北海道の秋の味覚の特集だと騒いでいる。
「花咲ガニはぁ、ほら、足が一、二、三…八本。つまりぃカニじゃなくてぇ、なあぁんと、ヤドカリの仲間なんですぅ」
「ええから早う、ニュース流せや」
したり顔で語尾を伸ばすレポーターに向かって、毒づく。窓枠を揺らしながら、風がまた歌った。それは、ヌンクの「叫び」を、明幸に思い出させた。今にも、自分があの絵と同じように何かを恐れ、怯えて叫び声を上げそうだと、彼は感じた。恐れ、怯えているのは、事故の悲惨とその責めを負うことだった。そしてもう一つ。逃げ出してしまった自分。
力を込めて窓を閉めた。悲鳴は断たれた。テレビを消した。
(前回ここ迄)
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どうやって、たどり着いたのだろう。古いワンルームマンションの階段を上り、二階の自室のドアを後ろ手に閉め、明幸はその場に、ドアに体をあずけて崩れた。乱れた息が横隔膜を乱打する。立てた両ひざの間に息を吐き、髪に手をやった。が、手に触れたのは髪ではなく帽子。帽子だった。―こんなもん!こんなもん取りに行ったから!―。わし掴むや歯をむいて壁へ投げつけた。
何故、こんなことに巻き込まれたのかという現実の拒絶と、あのバイクが悪いのだという責任の転嫁と、小鳥たちはきっと皆、大丈夫だという根拠のない希望と、その望みを増幅させる妄想が、頭を支配した。拒絶と転嫁と楽観と妄想…。執拗に明幸は反すうした。やがて、疲れ果てベッドまで這い、短絡した回路が発熱して溶けるように、彼の意識は闇にうずくまった。…シャカシャカシャカ…。地を引き摺られ、いつの間にか片方ちぎれたイヤホンが、依然として心地いいジャズを、逃亡者の、その足元で奏で続けていた。
叫んだような気がして、明幸はシーツから頬をはがした。風だった。近づく台風がもたらす重く湿った強風が、窓のわずかな隙間を声帯にして、無音階の叫びをファルセットで歌っていた。目の先にはこたつ机。はっと起きあがった彼は、そこに寝転ぶテレビのリモコンを握った。少し見ては、次、また次。眼前に構えたリモコンを押してニュースを探した。が、無い。リモコンを捨てた彼は、部屋の奥のパソコンを起ち上げた。いつも見るサイトの速報枠の中ほどに、果たして、それはあった。
「通学の列にバイク突っ込む(大阪)」
マウスをすべらせる。ポインターが見出しに重なる。マウスを叩く。すぐに画面が替わり、写真付きの記事が示された。写真をポインターで打つと、扉を破壊され、悲鳴を上げたまま固まった店と、道路にかがむ警官が大きく画面に示された。慌てて写真を閉じた。
「9月6日午前8時ごろ、大阪市浪速区下寺2丁目の路上で、ハンドル操作を誤り横転したバイクが、小学生を次々にはねるという事故が発生した。この事故により、大阪市立日東小学校3年の田丸翔一君(9歳)が頭を強く打ち、意識不明の重体のほか、バイクを運転していた大阪市平野区の会社員も重体となっており…」
「重体ってなんや。よぉわからん。助かってよ、お願いや…」
言葉がこぼれ、気が付けば、涙が口の端を湿らせていた。明幸は、次々と画面に問いかけ、検索した。
突然柵を飛び越えた男を避けようとしたバイクが、バランスを失い転倒して事故が起こった、とは、どこにも書かれていなかった。「警察は、バイクを運転していた会社員の、スピード出し過ぎが原因ではないかとみて、取調べを行っている」という報道を最後に見て、明幸は液晶画面から離れた。
消し忘れたテレビが、北海道の秋の味覚の特集だと騒いでいる。
「花咲ガニはぁ、ほら、足が一、二、三…八本。つまりぃカニじゃなくてぇ、なあぁんと、ヤドカリの仲間なんですぅ」
「ええから早う、ニュース流せや」
したり顔で語尾を伸ばすレポーターに向かって、毒づく。窓枠を揺らしながら、風がまた歌った。それは、ヌンクの「叫び」を、明幸に思い出させた。今にも、自分があの絵と同じように何かを恐れ、怯えて叫び声を上げそうだと、彼は感じた。恐れ、怯えているのは、事故の悲惨とその責めを負うことだった。そしてもう一つ。逃げ出してしまった自分。
力を込めて窓を閉めた。悲鳴は断たれた。テレビを消した。