引き寄せの法則! サラとソロモン大好き♪♪

引き寄せの法則に強く惹かれてエスター夫妻の本を読んでいます。特にサラとソロモンのシリーズが大好きです。

番外編 タカの願望達成ストーリー その1(天使、スピ系が好きな方限定)

2014-02-17 18:34:38 | 管理人の自己紹介


タカの願望達成ストーリー♪




こちらは番外編として、僕の過去をすべて公開し
僕がどのような経験を得て幸せになっていったのかを
詳しく書いています。


引き寄せの法則のお話は、すみません。
割愛していますので、引き寄せ関連で来られた方は
こちらをご覧下さい。

http://blog.goo.ne.jp/patrick17







「ご挨拶」


タカです^^
この度は、“タカの願望達成ストーリー”をご覧頂きありがとうございます。

これは僕の過去をストーリー風にまとめたものです。
最後のほうに、素敵なプレゼントがありますので、ぜひ最後まで
ご覧頂きたいと思います。


総ページ数は47ページあるので、時間を分けて見て頂くか
一気に読んで頂いても良いと思います。
くれぐれも最初を飛ばして最後しかみないと言うのは、禁止ですよ(笑)



本編に入る前に、ひとつだけ・・・

メルマガでお話している口調と今回は全く違う口調になっています。
いつもと違って、ちょっとワイルド風?

ぜひ最後までお付き合い頂けたらと思います。

では、20年前にタイムスリップ開始~!





「はじめに」


僕は専門学校だった頃、過呼吸症候群になった。

理由は定かではないが、突然やってくる
呼吸の苦しみは恐ろしく辛かった。

その後、目にも異変が起き始めた。

空を見上げると、青空がチカチカして見えて
次第にミミズの這ったような模様が現れて来たのだ。


これにはかなり恐怖を感じ、速攻で医者に行った。



異常なし(汗)


医者が言うには、精神的なものだと思うから
症状が出たら、大人しく安静にするしかないと言われてしまった。


そして専門学校を卒業。



バブルが弾けるのが近づいていたが、就職した会社は
とても忙しく、激務だった。
技術社員として入ったので、入社して3ヶ月で同期の社員6人ほどが
工場長直々に技術的な勉強をしてもらえる事になったのだ。


勉強は朝8時30分~夕方の5時30分まで。

最初は、お金をもらいながら勉強させてもらえるなんて
なんてラッキーなんだと思った。


しかし・・・


それも長くは続かなかった。



なぜなら、段々と工場長の態度が変わり内容も難しくなり
課題を与えられるようになった。

ここは電気・電子系の会社だったので図面を見て、パターン設計を
するように命じられた。学校である程度は学んでいたので
多少の知識はあったものの、この課題は僕にとっては、
あまり準備が出来ないままフルマラソンを走れと
言われているようなものだった。


一瞬、やりたくないと言いそうになったが
会社を首になるのを恐れて、一生懸命に歯を食いしばり頑張った。



この作業は深夜に及ぶこともあった。
日付が変わっても、会社にこもりほとんどの社員が帰った中で
新入社員6人が、黙々と机に向かって作業をする姿は今、思うと
異質の光景だったと思う。


それだけ働いても研修中という事で、残業代は一切出ない。

 作業を強制されている訳ではないが、課題の期限は決まっていたので
出来なければ、深夜になって徹夜してでも終わらせなければならない。


ただ、その猛烈なプレッシャーのおかげか、学生の頃になった過呼吸は
収まっていた。その事すら忘れしまうほどこの課題は恐ろしくハードルが
高かったのだ。




趣味も、遊びも、夢も、恋愛も、すべてが後回しだった。
そんな事をする余裕すらなく、会社と家をただ単に往復するだけの日々。
それでも、せっかく入れた会社だからと言う僕の小さなブライドが
なんとか難関の課題を進める原動力になっていた。


その反面、僕は毎日自由に憧れながら働いた。

好きな事をしたかった。

趣味を思いきり楽しみたかった。

たまには定時で帰って、のんびりしたかった。

大好きな車やバイクに乗って旅行に行きたかった。



一度きりの人生が、ただやりたくもない仕事のために
遠ざかっていくと思うと、たまらなくむなしい気持ちになった。


20歳の僕の生命力が日々、少しずつ削れていくような気がした。

そして3ヶ月が過ぎた。
一応、課題はクリアしたものの工場長の判断で
生産課へ配属された。

2年間専門学校で専門の知識を学び、その学費を親が必死になって
働いて払ってくれたにも関わらず、僕は技術課ではやっていけないと
判断され、愕然と大きな挫折を味わった。




この2年間は一体なんだったのだろう?
深夜まで必死になって頑張り、努力したのになぜ?


僕は初めて、会社や社会の厳しさを目の当たりにした。


それから時はあっという間に過ぎ去り数十年が経っていた。

レイキヒーリングが、きっかけで天使リーディングを始める事に
なる。たった1年で2人の有名霊能者に出会い、どちらも日本トップレベルの
実力の持ち主である。

そんな2人から、才能を見いだしてもらった僕は自分の使命を
知ることになる。




その使命とは・・・

少しでも多くの人に天使のメッセージを届けて
幸せな人生を過ごしてもらうことである。

そのためには、まず自分が幸せになり生き証として
皆のお手本にならなければならない。

実際に天使のメッセージを聞いて、それに従い行動を続けた結果
僕は本物の幸せを手に入れる事ができた。
天使と出会う前は、波乱万丈のまるでドラマのような人生を過ごしていた。

あの頃の苦しみや辛さ等は、僕の人生で絶対に忘れたくないものの一つだ。

だから完全に忘れてしまう前に、僕が歩んできた道のりを詳しく
書き残していこうと思う。


こんな、ごく普通の元派遣社員でも天使さんのメッセージを聞き
本物の幸せを手に入れ毎日を楽しく笑顔で幸せを感じながら
過ごす事が出来る!と、希望を持ってもらえたら嬉しい。




「僕の思考から雇われるという考えが消えた」


子供の頃は、父の影響もあって自動車整備士になるのだと
確信していた。それは父の姿を見てカッコイイと思っていたし
自分もあんな風になりたいと思っていたからだ。


高校までは比較的真面目で恥ずかしがり屋だった。
先生や親の言う事を信じていたので、あまり無茶な事は
しなかった。

スポーツテストで良い成績が出て褒められた時は素直に
嬉しかった。中でも懸垂は学年で1位をとった事もあった。
高校2年までは、虫歯ゼロで表彰されたこともある。


小心者だったので、学校のルールは厳格に守った。
たったひとつだけを除いて・・・




それがバイクに乗る事だった。
高校生になると、バイクを乗り回した。
ただ、免許取得はせずクローズド・コースのみと言う条件付だったが
それでも、右手でアクセルを少し捻るだけで、スルスルと
自分の思ったように進んでくれるバイクは僕の事を心から理解する
友達のように思えた。

ただ乗れるだけで自然と笑顔になり幸せだった。

高校3年になり自動車整備の学校に行こうと思った。
しかし、意外な事に父に猛反対された。

「自動車整備業界に未来はない」と言われてしまったのだ。



今でこそ、電気自動車やハイブリッドカーが増え、故障もほとんど
しなくなっているから、父の言ったことが分かるが当時は
まだそんな時代になるとは思ってなかったから、とても悲しかった。
その後、父から電気・電子系の知識を身につければ将来安泰と言われ
言われるがままに近くの専門学校に通うことにした。


高校の担任からは大学の推薦も受けられると言われたが
自動車の免許を1日も早く取得したかった僕は、専門学校を
12月に受験。そして見事合格。12月末には速攻で自動車学校へ入学していた。


高校時代は、陸上部で短距離のトレーニングに明け暮れた。
日曜になると父に連れられ、モトクロスをしていた。
モトクロスとは舗装されていない不整地のでこぼこや
ジャンプセクションをいかに速く走るかを競う競技だ。


僕はバイクに乗れるのが楽しくて仕方なく朝早くから
夕方、日が沈むまで走り回っていた。





専門学校に入ってからは、ノートパソコンを1人1台
与えら授業で使われる事になった。
とは言っても当時は1990年。ウインドウズが登場する前
だったから、電源を入れて、友達からフロッピーディスクに
入っている簡易ゲームを楽しむ毎日。

パソコンで出来る事はほとんどなく、ただ持ち歩いているだった。
生徒の中にはプログラムなどを作るものも居たが・・・。


専門学校に行ったおかげで、通学のためにバイクの免許も取得。
幸運な事に、学生の分際で車とバイクを自由に乗り回す事が出来た。
それも全て父のおかげだ。

父はバイクに乗れない奴は男じゃない!と言う考えを持っていたので
僕を早い時期からバイクに乗せてくれた。


当時はスポーツカー全盛の時代とあって週末になると
車で山へ走りに行った。おかげで運転もうまくなり、
ここでは書けないような運転をした事もある。


走る仲間も出来て、勉強も楽しかったし、資格もいくつか取得。
恋もしたし、僕は青春時代を思いきり楽しんだ。


専門学校で過ごす時間はあっという間に過ぎ、2年になって
就職を意識した。

バブル末期ではあったが、好景気が続いていたので
僕は家から近いという理由で、会社を決めてしまった。
本当は数社からお誘いがあったのだが・・・

この時、僕は有頂天になっていた。
僕には才能があっていくつもの会社が、僕をほしがっていると・・・。


しかし実際に就職し社会の厳しい洗礼を受けることになる。



僕は働いて、帰ってきてご飯を食べて寝るだけの
家畜同然の生活を日々、送っていた。
技術社員として入社したので、朝早くから夜遅くまで
働いた。会社から命令された事には一切逆らえなかった。
同僚も、この厳しさに耐えきれず辞めていくものが
出始めた。

僕はこのまま定年になるまで40年間、この会社にこき使われて
働くだけの人生だと思うと絶望と恐怖が心を支配した。
とても怖かった。まさに奴隷の世界だと思った。

現に上司は、僕たち社員を人としてではなく、ただ言う事を聞くだけの
ロボットにしか思っていないと、風の噂で聞いた時は
怒りと絶望で、頭がおかしくなりそうだった。

専門学校での楽しい思い出はすっかり忘れていた。


専門学校2年生になると、学生たちの話題はどこに就職するのか?
という話で持ちきりだった。


合同企業説明会、面接の練習や、三者面談など・・・

僕もその流れには逆らえずに、皆と同じ方向へ進んでいった。
当時は、就職するのが当たりだと思っていた。
でも本音は、とても嫌で仕方なかった。

専門学校は午後4時過ぎには終わるから、家に着くのは
午後4時30分ごろ。その後は僕の自由時間だった。




バイクや車を洗ったり、近所の河川敷へ行っては
夕日を眺め、川の流れにうっとりしながら自然の中で
過ごす時間がとても楽しく幸せだった。


しかし就職してしまうと平日は、これらの事が一切出来なくなってしまう。
そんな危機感を感じてはいたものの、世間の流れには逆らえなかった。

就職こそしたものの、考えるのは自由を得るためには
どうしたら良いかを考えるばかりで、仕事に身が入らなかった。

そんな毎日だったから、仕事も転々とした。

しまいには不景気の波にもまれ、年齢も30代後半になり
正社員の道は完全に絶たれてしまった。

僕は、ない知恵を絞り必死になって考えた末、派遣社員への道を
選びことにした。


幸い、就職は出来た。仕事も楽しかったし、人間関係も良好で
待遇もよかった。しかし、そこも企業の経営悪化と期間満了で
仕事を失う事になる。


唯一の希望でもあった派遣社員もダメになり、仕事を必死に探すも
希望する仕事には就けず、僕は落胆し疲れ果てていった。


僕の人生は40歳を目前にして早くも晩年にさしかかり
ただ死を待つだけの老人になったようだった。


とにかく今の現状から抜け出したかった。
そこで、ある決意をする。

ことごとく雇われる側での仕事が長続きしなかったり
解雇宣告を受けてしまう。やはり僕は、○○をするために
生まれて来たのだろうか・・・




もうやるしかない!!
○○に全精力を込めて、やっていくしかない。
これが最後の望みだった。
その○○とは・・・

天使のメッセージを伝え少しでも多くの人に幸せになってもらう事。

とは言え、現実面で大きな壁にぶち当たった。
生活するためには、お金がいる。
これは避けて通れない道だ。

その時、ふと昔お師匠さんが言っていた言葉が頭の中に
蘇った。



「タカさん!あなたが天使リーディングやヒーリングでお金をもらう事に
とても大きな抵抗があるようだけど、これはエネルギーとの交換なの。
お金をいただいて、その価値分のエネルギーを提供する。


これが天使さんの望んでいる事なのよ。法外なお金、
たとえば1回のリーディングで10万や100万円とかもらったり、
人を騙してお金をもらうのではなく、受けてくれた人に満足してもらい、
受けて良かったと喜んでいただく。

そのうえで、きちんとお金をいただくなら全く問題はない。

この活動を専業にして生活しても良いのよ。天使界も、それは認めている。
なぜならタカさんの天使リーディングは、正真正銘の本物だから」


僕は、この言葉を思い出し気付いたら、うっすらと涙を浮かべていた。
すでに天使さんからのメッセージを受け取り、これまで派遣社員を
しながら、その空き時間に、依頼をしてくれる方にメッセージを伝えてきた。



ヒーリングも、数え切れないほどさせていただいた。
そして多くの喜びと感謝の気持ちをメールや電話で直接いただいた。

僕の心の中で、なんとなくだが空いた時間に少しするだけではなく
専業で活動する必要があると気付いてはいたのだが・・・

専業で行なうことへの、未知なる体験に対する恐怖が、それを拒んでいたのだ。
しかし強制的に専業でやるしかない境地に立たされたのだった。
僕は冷静になるために心を落ち着けて、なぜ今までアルバイトや派遣社員が
続かず、うまくいかなかったのかを聞いてみた。




その問いかけに、天使さんは、“やっと私たち天使に、
その疑問を投げかけてくれた”と喜びながら、こう答えてくれた。


あなたが、これまで外で働き雇われて生きる事の、辛さや恐ろしさを
実際に体験し、その度に苦難を乗り越えてきましたね。あなたは
失望の淵から何度も立ち上がり、這い上がってきました。


あなたが、20歳の時に正社員で成功していたら、この世に生まれて来た
使命を忘れ、ごく普通のサラリーマンとして働くだけの人生で終わっていたでしょう。


そうではなく、あなたは私たち天使から届けられる愛と幸せがいっぱい入った
光のメッセージを多くの人に届ける使命があるのです。


ですから、それに気付いてもらうために、様々な事をあえて経験してもらったのです。
体験から語られるストーリーほど、パワフルで真実味のあるものは
ありません。あなたは、これまで体験した辛さや苦しみをいかに乗り越え
真の幸せをどのように手に入れたのか?多くの人に伝えなければならないのです。


そして自由という素晴らしい世界を、世の中に伝えていきなさい。
それが出来るのが、タカさん!あなたなのですから。



僕はようやく覚悟を決め決断をした。
就職活動を一切停止し、天使リーディングとヒーリングに
専念し、僕の人生すべてをかけて愛と幸せのメッセージを伝えていくと決めた。

もう僕の心に一切の迷いもすべて消えていた。

手始めに天使さんからのメッセージを伝えるために
ブログやメルマガの媒体を使う事にした。



同時に願望実現に関する法則(引き寄せの法則等)を使い
様々な事を学び自分のものとした。

幸いな事に1ヶ月ほどで、この活動は軌道に乗り
僕は最後の望みを掛けた勝負に勝利したのだ。
僕の人生から雇われるという考えが消えた。


過酷な労働と苦しみが消えた。

人間関係の悩みが消えた。

残業が消えた。

我慢や苦痛が消えた。

首になる恐怖が消えた。

期間満了の心配が消えた。

時間の縛りが消えた。

通勤の苦労が消えた。

上司に良い顔をするのが消えた。

同僚に気を遣うのが消えた。



気付けば色々な義務がなくなり
時間とお金がある程度、手に入った。
毎日が日曜日だ。

朝、起きたら1日が自由時間。
好きなように使える。


それまで抑えてきた気持ちが少しずつ沸き出して来て
今まで目の前にあった不幸の泉が跡形となく消え去り
代わりに、幸せと自由の泉が目の前に現れたのだ。


あのとき、天使さんが言っていた自由と言う素晴らしい世界を
あなた自身が体験し、その素晴らしさを多くの人に伝えてくださいと
メッセージが今まさに現実のものとなったのだった。


僕は自由を手に入れた。

真の幸せを手に入れる事ができた。


これが本来、人がこの世に生まれ体験するべき事なのだと
心の中で強く感じたのだ。


開放感いっぱいの何の制約もない自由な世界。




その先にあるのは・・・


本物の幸せという言葉には言い表せないほど
至福を感じる場所なのだ。


その幸せを静かに浸っていると、こんなメッセージを
天使さんが届けてくれた。


“開放しよう!!

これまで溜めてきた、あなたの不要なものを・・・
全て開放するのだ。

そう!そうやって全てを開放すると
そこには・・・


自由が待っている。


のびのびと気の向くままに自由を楽しもう!!


あなたの背中にも天使の羽根が生えてきた。

あなたは自由にどこにでも行ける。


自由の先にあるのは・・・

あなたしか行けない場所が現れる・

あなただけが分かる、懐かしいあの場所だ!

そこには・・・


あなただけの
幸せの空間が現れるのだ。


あなただけが入ることの許された
真の幸せの場所。


さぁ、ほんの少しの勇気と期待を持って
いざ!あなただけの真の幸せな場所に行こうではないか!





どこまでも続く自由と幸せな日々」



時間と自由を手にした僕は、
自分の思うがままに行動し楽しむ事にした。

ある時、自然豊かな緑に囲まれた温泉へ行った。
平日という事もあり、昼間はほぼ貸し切り状態。
居るのは老人だけだった。

お風呂上がりに、恒例のコーヒー牛乳を片手に
右手を右腰に手をかけ、ぐぃっ!とひと飲みする。
乾いた喉に、キンキンに冷えたほんのり甘いがコクの
あるコーヒーが体全体に行き渡った。


“うまい!!”


僕は思わず、心の中で叫んだ。


こうしている間にも、多くの人はやりたくもない仕事を
我慢しながらしているのだと思うと少し心が痛んだ。


休憩所で休んでいると、温泉客がなにやら話を
していた。いけないとは思ったが、聞き耳を立ててみた。


「俺は40年会社の為に尽くしてきた。
なのに最後は雀の涙ほどの退職金と花束ひとつだけ。
せっかくもらった退職金も、家の借金でほとんど消え
老後の生活はどうしたものか・・・

年金も少子化であてにならんし、もらえても俺の場合は
わずか数万円さ。この先、どうやって生きていけばいいのかね」




それを聞いた僕は、ふと現実に戻った。
少し前の僕も、会社に雇われていたら将来は
このおじいさんのようになっていたかと思うと身震いがした。

せっかく温まった体も、この会話ですっかり冷えきってしまい
僕は温泉を後にしたのだった。

久しぶりに実家へ帰ってきた時、中学の頃からの友人と遊んだ。
数年ぶりの再会にお互い喜んだのだが、彼は当時よりも疲れた顔を
していた。



彼もまた、会社員として日々一生懸命働いていた。
将来への不安と給料の安さに不満や愚痴をこぼしていた。
彼が一生、雇われる側に居る限り、この不満や愚痴がなくなる事は
ないだろう。

僕が彼に出来るのは、希望という道をさりげなく渡してあげる事だけだった。





「少しでも多くの人に幸せになってもらいたい」


僕は24時間自由という素敵なものを手に入れた。
おかげで、心にも余裕が生まれ、この幸せを
多くの人に味わってほしいと思うようになった。


仕事に追われていたころは自分の事で精一杯だったのだが
人のために何かをすると言うのが、楽しくて仕方ないのだ。

僕と関わる人が、毎日楽しく自由で幸せを過ごしてもらえたらと
思っている。
このように書くと、信じてもらえないかもしれないが
これは僕の本音なので、仕方ない。


僕は名声や名誉には一切興味がない。
好きな事を好きなだけするだけの自由と豊かさがあり
健康で幸せであれば、それで良いと思っている。





「上昇気流に乗る家、父の商売マインド」

戦時中に父は生まれた。
父が生まれて2年後、終戦を迎える。

高校を卒業すると同時に陸上自衛隊に入り
数年間の訓練を経験した後に急遽、父の兄が経営する
自動車整備の仕事を手伝うことになる。


ちょうどバブルの最盛期もあって
店の利益が右肩上がりで業績を伸ばしていった。
父は家族のために朝早くから夜遅くまで働いた。


休みは日曜のみ。それ以外はずっと働き詰めだった。
父が仕事を終えて帰ってくるのは夜の10時か11時だった。

それから、ご飯を食べて風呂に入り
母に手伝ってもらいながら、資格をとる勉強をした。
その資格とは2級整備士。




父は、激務の中で同じ血の流れる兄の為に自分の命を捧げたのだ。
何という兄弟愛だろうか・・・。
ほとほと感心するばかりである。



無事に2級整備士の資格を取得し3級整備士は兄の嫁さんが取得。
ようやく合法的にお店を経営できるようになり、父は益々忙しく
働いた。

僕が大人になってから父から聞いた話だが、あまりの仕事の忙しさに
昼飯を抜くことも、日常茶飯事だったらしい。


体を酷使し過ぎたせいか、床に落ちた工具を拾うのも
苦労するほどだったらしい。あの時は、大変な時代だったと話をしてくれた。


そんな激務が数年続いたある日の事。
父は無理がたたって入院をしてしまった。
胆嚢結石(たんのうけっせき)を発病し手術をする事になった。
当時はまだ、医療も発達していなかったので
父は命の危険を感じたそうだ。



父曰く、まだ幼い僕(当時5歳)と妹(当時3歳)を母を残して
死ぬのか?と本気で思っていたらしい。


手術は、父のお腹を15cmほどメスを入れて開き、結石を
取り除くというものだ。お腹が相当痛むらしい。

幸運な事に手術は成功し、仕事に復帰できたのだが
それから30数年後に、大変な事になるとは父も予想していなかっただろう。


この件に関しては後ほどお話するとして、父は自動車整備の仕事を
する中で、ビジネスの基本を自然と身につけて行ったらしい。
中には身につけなくても良かった事もあるのだが、まずは身につけて
よかった事。


それは、“笑顔”とお客さまの気持ちになって接客する事が大切と
話をしてくれた。

お客さまを、まずは笑顔で迎え、お客さまの要望をしっかりと聞いて
要望以上の仕事をする事が大切だと教えてくれた。
父は、そのおかげでお客さまの心をしっかりと掴み、店はどんどん
繁盛していったのだ。


多くのお客さんが父を慕い信頼してくれた。
僕も今、父がしてきた事を見習って活動している。
お客様に信頼してもらい、リーディングやヒーリングを
受けてよかったと喜んで頂けるように・・・。


反対に身につけなくてもよかった事。
それは“苦労”だ。

父は僕に“若いうちに苦労は買ってでもしろ”と
毎日のように言っていた。苦労してこそ、成功すると・・・




幼い僕は、その言葉を素直に受け入れ信じた。
そのおかげで、僕が社会人になった際は、案の定苦労ばかりの人生が
待ち受けていたのだった。


さて今の父はと言うと、70歳を過ぎても仕事を続けている。
だが、つい最近大変な事が起きた。


実は、大腸癌だった事が判明したのだ。
あげくの果てに、腎臓近くの血管に1cmほどの腫れが見つかり
この血管が破れると、命が危ない。


まずは大腸癌の手術を受けた。
人生で2回目のお腹を切られる手術だ。
父曰く、人生で2度もお腹を開かれるとは思ってなかったと
術後、笑顔で話をしてくれた。

大腸のごく一部のみの癌だったので、そこを取り除き
手術は無事に成功した。他には転移していなかった。
その癌になった部分は、癒着していてカチカチに固まっていたらしい。
医者からは昔、腎臓結石の手術をした事が原因で、大腸の一部が
癒着していたらしい。

後は腎臓の血管の腫れが気になるところだが、定期的に検査をしながら
様子を見ることになった。


僕は父の人生をずっと見てきて、つくづくこう思った。
家族の為に飯を食わしていくために自分の体を酷使して
頑張ってきた。
そんな父を僕は好きだし尊敬する。すごいと思う!




ただ、僕が父と同じように体を酷使して自分のやりたい事が全く出来ず
働き詰めの毎日を過ごすのは、絶対に嫌だと思った。
父の体は癌に冒され、体はボロボロだ。
家族の為にと一生懸命に働き飯を食わせてくれた事は
心から感謝しているが・・・

ひとつ不思議に思う事が実はある。
普通、あれだけの激務をこなし疲れ果てて帰ってくる父が
僕や家族に対して、不機嫌な顔を1度たりとも見せた事がない事だ。

朝7時から夜は8時9時、おそい時は11時まで仕事をこなし
仕事から帰ってくる父の顔は、いつも笑顔だった。
僕は思った。家族への愛が父を支えていると・・・
何度も言うようで申し訳ないが、僕は父を尊敬している。






「地獄のような労働の日々」



僕が人生で一番危機感を感じていたのは雇われて働く事だった。

父が一生の大半を仕事に費やしたあげくの果てに胆嚢結石や大腸癌などになり
体を酷使する事の恐ろしさを嫌というほど、目の当たりにしてきたからだ。


僕が経験した最初の労働は専門学校を卒業した20歳のときだ。


バブル末期だったが、働く会社に一切、不自由はしなかった。
学校を卒業すれば、会社に雇われ働くのが当たり前だと思っていた。

そして家から10分ほどにある、とある電気系の下請け会社に
正社員として入社をする。



待遇もそれなりも良くて、8時間の基本労働と残業を数時間して
1日で10,000円ぐらいにはなった。


当時の僕からしたら、10,000円は大金だったし(バイクのタイヤが1本買える)
月末には税金等が引かれて15万円前後の給料が振り込まれた。

少し前まで学生だったので、こんな大金を手にする機会は
人生で初めての事で、最初は嬉しくて飛び上がって喜んだものだ。

職場の環境は、ある意味素晴らしかった。
女性がほとんどの会社だったし当時、彼女が居なかったので
正直に言えば、出会いもほんの少し期待していた。



技術社員として入ったのだが、最初は生産ラインを経験させられた。
ラインと言うのは、同じものがベルトコンベアで運ばれ、組み立てなど
同じ事を永遠と行なうものだ。僕は最初、なんて楽な仕事なのだと
喜んだものだ。

しかし、そんな喜びも長くは続かなかった。
何も考えずに出来る作業に、飽きて来てしまったのだ。
同じ物が流れ、同じ作業の繰り返し。

時間が経つのは、恐ろしいほど遅く感じ、まるで神様がいじわるして
時間を止めているのではないかと思うほどだった。




入社して3ヶ月が経ったころ、生産ラインでの経験もなんとか
こなす事ができるようになった。相変わらず単純な作業に苦痛ではあったが・・・

ちょうどその頃、工場長の提案で僕たち技術社員として入社した
6人を技術研修させる話が舞い込んできた。
僕は生産ラインに嫌気がさしていたので、大喜びした。



翌日から、技術研修が始まった。
僕たち6人は、工場長から直々に電気・電子技術に関しての専門知識を
学ぶ機会を与えられたのだった。

しかもお金をもらいながら、勉強させてもらえる事は
このうえなく楽だと思った。


しかし・・・

会社はそんなに甘くなかった。
この日から地獄のような日々が待ち受けていたのだ。



研修は基礎学習から始まり、電気・電子とは?から始まり
電気・電子に関する公式などを徹底的に学んでいった。
正直、学校で教えてもらうより、こうして現場の第一線で働いている
工場長の講義のほうが、遙かに分かりやすく面白かった。

ただし、研修も佳境に入り、ある大きな課題が与えられた。
それは電気・電子図面(A3ほどある)を見ながら、基板を起こすことだった。


分かりやすく言えば、見習いの料理人が2週間で
料理の鉄人に勝て!と言われたようなものだ。


多少の知識はあるものの、実戦の全くない“ひよっこ”が、
たったの2週間でプロに勝てるわけはないだろう。


ここで人生初の挫折を味わう事になる。




必死になって課題をクリアしようと努力したし、これ以上頑張れないと
言うぐらい頑張った。6人の“ひよっこ”たちは、
この難解な課題をクリアするため深夜まで会社に残ることも、
しばしばあった。夜中の2時、3時ぐらい。


しかも研修中と言うこともあって、残業代は一切出ないし
会社側は、残業は強制しないから帰っても良いと言う。
しかし定時で帰ったら、課題はとうていクリアできない。


この2週間は地獄だった。睡眠もろくにとれないまま
土日も、家で課題をクリアすべく取り組んだ。


しかし、その努力もむなしく課題はクリアしたものの
技術社員とは使えないと判断されてしまった。
僕は技術社員失格の烙印を押されてしまった。



6人中、技術課に行けたのは4人。さらに4人中、後に2人は会社を早々に
去ることになる。一人は過労で退社時に事故を起こし退職を余儀なく
された。
もう1人は、この過酷な労働環境に耐えられず転職した。

そして僕はと言うと、あの退屈な生産ラインに配属となった。
解雇にならないだけよかったと自分を励まし毎日、来る日も来る日も
同じ事の繰り返しの作業を我慢して続けた。



退職という文字が頭の中をよぎったが、会社を退職する勇気はなかった。
なぜなら、多額の借金を背負っていたからだ。
正社員になったのを良い事に、入社してすぐに200万円もする車を
ローンを組み買ってしまったのだ。

毎月3万円のローンに加えてボーナス時期は10万円。これが
5年も続くのだ。この借金がなければ、こんな会社とっくに辞めていただろう。


しかし悪い事ばかりは続かなかった。
この会社の子会社に3ヶ月だけ出向という形で行ってくれという話が
あり、それに従った。そこは規模こそ小さいものの、労働環境も良く
雰囲気も素晴らしく良かった。上司も僕を丁重に扱ってくれて信頼してくれた。



それがとても嬉しくて、仕事をがむしゃらに頑張った。
技術社員としては、失格となったが生産ラインをまとめるリーダーとして
抜擢され上司からの評価は益々良くなっていった。

会社の業績も良かったし、残業は多くても1時間か2時間に減ったので
本社に比べてずっと働きやすかった。リーダーに抜擢されてからは
給料も上がり、ボーナスは7月に銀行振り込みで8月にも夏休み前に
現金で支給された。


夏休み前に封筒に入った30万円近くの札束を手にした時は
なんとも気持ちが良いものだった。
しかし待遇はよかったが、危険がいつも付いてまわった。

それは工場で使用する鉛。
この工場は半田付けという作業がメインの職場だった。
半田付けをする鉛からは煙が立ちこめ、工場の換気はフル稼働していた。
しかし、それで全てが安全と言うわけでない。
(法律で定められる設備は導入されているが・・・)



この鉛からの煙と言うのは実にやっかいな代物で、皮膚を通しても体に入って
悪さをするからだ。特に大量の鉛を含んだ半田槽という電子基板に付いた
数々の部品を次々と半田付けする機械のメンテには危険が伴う。


カバーを定期的に開けて、半田カスというゴミをよける仕事があるのだが
常に鉛からの煙が立ちこめ、それを吸うと体内に蓄積して内臓疾患を起こす
可能性が高くなる。安全マスクは当然、着用するがある一人の上司が
それが原因か定かではないが、腎臓に以上が見つかり薬を飲んでいる話を
聞いて、身震いがした。



僕もあと10年もすれば、この上司のようになるかと思うと
怖くてたまらなくなった。
*現在は安全管理が徹底され、法律に触れるような事にはなっていないらしい。

それでも高額なローンがまだ残っているので、すぐに辞める事は
出来なかった。と同時にある資格をとってから会社を辞めようと思ったのだ。




技術社員では落第。そしてもう正社員として人に雇われるのは2度と
ごめんだ。という思いで起業したいと思うようになった。

当時、父のお客さんが税理士をしていて独立して年収1千万を超える収入が
あると知り、適性も考えずに資格を取得するべく、働きながら猛勉強を
開始する。



まずは税理士事務所で働く必要がある。そのためには資格がいる。

日商簿記2級取得が最低条件と聞かされて、3年掛けて資格を取得。
その頃にはローンも終わり、いよいよ退職届けを出した。

無謀にも次の内定も決定しないまま・・・



これが後になって、僕自身の才能を開花させる事になるとは
思いもしなかったが・・・。


この会社に入って、あれほど嫌だと思っていた父が経験した
過酷な労働以上の労働を自分が経験する事になってしまった。
なんとも皮肉なものである。




続編があります。
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「子供達の笑顔は太陽のように眩しかった」




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