a green hand

喜多方へ

朝、予定より30分繰り上げ、出発した。
高速で会津若松まで行き、ナビに従い目的地へと。
会場に着いたが知っている顔はどこにも無い。
こういう告別式への参加は珍しい。

数人を知るのだが、それも40年ほど前のことである。
会場では、名前を呼ばれ席順が決まっていた。
それで、唯一知っている方はあの方だということが後ろ姿と名前で確認。
それでもすぐには挨拶に行くことはしなかった。

会津の葬儀は中通りとは違い、火葬をしてから告別式ではなかった。
告別式後、親戚一同で故人とお別れをする。

それぞれに思いをはせた色とりどりのお花で故人を埋め尽くした。
私もたくさんのお花を棺に入れさせてもらった。
その所作の中で、
「なにもしてあげられなくてごめんね」
「ありがとうございました」の言葉が印象に残った。

前者は娘さんのようでであり泣いている。
後者はお嫁さんであり、感謝の気持ちをつぶやいて何度も頭を下げていた。

斎場への道は広々と田んぼが広がり、夜はきっと星がきれいだろうなと想像できるほど空気が澄みきっていた。
斎場に着き喪主の息子さんに挨拶した。
しきたりに習って、お昼のおにぎりをいただき、その後初めて知っている方にご挨拶をし、ゆっくりとお話を伺った。

告別式で国際交流会長の弔辞があった。
だいぶ熱心に中国の留学生を受け入れ、またご自分も何度も中国に旅していたことを知った。

なんとなく中国人好きな私のボランティアを思った。
こんなところでも繋がっているのか・・。


また、今日わかったことだが、故人と父とは従兄弟よりも遠い関係であった。

父が養子に出され、子どもができたからと返された家の子孫には立派な成人した孫が参列していた。

心の中で思ったこと、私の父が養子に行かなかったなら、あの人はひょっとすると生まれていなかったかもしれないと・・。
そして父が返されなかったら私も生まれていなかった。

祖父の出た家を本家という。
その孫に当たる人が話しかけてきた。
初めてお目にかかる人である。

その人が、子どもの頃、家族で身しらず柿を箱詰めし、知り合いに送るときの、リストに私たちの名前が載っていたと話してくれた。

また、家の様子を聞くと水周り以外ほとんど変わっていないという。

家の前にはきれいな水が満々と湛え流れていたのを記憶している。

私はそのことを問うと嬉しいことに今もそのままだという。
側溝も何もなく自然なままだと知り嬉しくなった。

その家から見える、遥か遠くに電車が通る鉄橋を想い出した。

昔、煙をたなびきながらそこを汽車が通るのを眺めた。

そのようにまさに日本の田舎そのもの、ほのぼのとした景観が広がる山都の町の記憶を私は20代の感性に残した。

お話を聞き、ぜひまたあの景色に出会いたいと思った。

「遠くから出向いてくれてありがとうございました」と私の叔母を知る人たちに挨拶され無事帰途に着いた。

叔母の若いころの想い出がたくさん詰まる会津の一日が終わった。

磐梯山がくっきりと姿を現し、山に雪が少ないのが少しさびしかったが、会津弁の優しさにも触れることができた一日。

私の父は満足してくれただろうか、今日の会津行を・・・。
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