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この人の閾

2023-01-20 22:36:29 | 日記
ゴブリンモードという言葉が昨年の英語圏での流行語の一つだったらしい。
コロナ禍で、リモートワークが多くなり自分のペースで過ごすことに快適さを感じるようになった人達が、例え我儘に見えたとしても自分に正直に行動するようになった。そうした振る舞いやライフスタイルの事を指すらしい。

その言葉を知った友人が、「今年はゴブリンモードで行く」と宣言していた。
退職した夫のその日のスケジュールに合わせて食事の準備をするのは、もうやめるんだ!と。

もちろん、それでいいと思う。
というか、随分と可愛いゴブリンだ。

ゴブリンモードとは一見違う生活を送っている人として小説「この人の閾」(保坂和志)の真紀さんを思い出した。この小説は語り手の三沢とこの真紀さんとの会話、その会話から三沢が感じた事が書かれている。

会社員の夫と小学生の息子と幼稚園児の娘と暮らす専業主婦の真紀さんは、いわゆるワンオペ育児で、それぞれ会社、学校、幼稚園に出かけ帰ってくる家族のタイムスケジュールの隙を縫って家事をこなしている。時間がたくさんあるような、ないような中で、本を読んだりDVDを見たりしているが、本人は読書や映画を観ることは単なる時間潰しだと捉えている、というか捉えようとしている。でも、本当は本や映画やあるいは生活そのものを通してたくさんの思索をしていることが、語り手の三沢との会話のあちこちから窺える。

たとえば、仕事をする事、専業主婦である事について真紀さんには思う事が様々あるが、昨今見かける専業主婦は肩身が狭い、的な悩み方はしていない。そうした真紀さんの気持ちや思いや感情をもっと、人に伝えたらどうだろう、と小説の語り手は感じている。

真紀さん自身が、言葉で言わなければ結局はその人の思考は無いと同じだと言う。何も言わなければ、その人自身は闇なのだ、と。しかし真紀さんはそれでいいと思っている。自分は別にたいそうな事は何も考えていない、考えていたとして別に言わなくてもいい。無でいい。そこには自分の閾があるのだから。

真紀さんは、実はかなりハードコアなゴブリンなのかもしれない。





ショート・カッツ

2023-01-16 20:44:00 | 日記
昔、レイモンド・カーヴァー原作の「ショート・カッツ」という映画があった。朝寝坊をして慌てて学校に向かった男の子が車にぶつかってしまう。病院に行こうと言うドライバーを振り切って、その子は立ち上がって走って学校に向かう。しかし、帰宅後、具合が悪くなり、そのまま死んでしまう。

そんなことを知らないドライバーは、その夜家で夫(恋人だったか)と酒を飲み、ダンスを踊る。(このシーンはかなりカッコいい。)

図書館のカフェで、お茶しながら読書。席を離れた近くの人のスマホが鳴りだす。タイマー?か電話?か分からないが、大きな音がなかなか鳴り止まない。カフェにいた人たちも、キョロキョロしたりしていた。読書にいまいち集中出来ず、私はトイレに行き、雑誌コーナーで新刊を眺めて、しばらくしてから戻ったが、なんとまだ持ち主は戻らず、スマホは鳴り続けている。

それからゆうに10分くらいたってようやく鳴り止み、それから程なく持ち主が戻ってきた。
静かな空間で、コーヒーを飲み本の続きを読み始めていた。

カーヴァー的瞬間。(霜降り明星風に)

今頃気づく

2023-01-15 21:21:00 | 日記
友達はサッパリとした気持ちのいい人で、学生の頃から、「〜さんて綺麗だね」と、人のことを素直に褒めた。私はいつも「ほんとほんと、素敵だね!」と笑顔で答えていた。

その頃から長い時間が流れて、久しぶりに彼女が「〜さんの息子さんの妻となる人が、凄く綺麗な人でね」と人の容貌を褒めるのを聞いたとき「わあ、そうなのねー」と反応しつつ何かが引っかかった。

美人、とかイケメンとか、個人ベースでアレコレ言うことに、とやかく言うつもりはないけれど、なんか、もうどうでも良くないか。そもそも今はそういうルッキズムってさ、、、
と考え始めたら止まらなくなった。

「人は見た目だけではないけれど、
容貌の良さだって一つの能力であり、その事を評価する事自体は何も間違ってない、という事はよくわかっている。それでも私は外見至上主義には、反対だ。そもそも多様性が叫ばれる中、美の基準は一つじゃない、、、」などなど。

けれどそういう教科書的な考えが脳内を渦巻く中、そういう話は実は全部どうでもよいという事に気がついた。そして同時に、昔の自分の本当の気持ちや考え方が、突如見えてきたのである。

自分がかつて、この手のガールズトーク(時にはボーイズも含めて)で、実はいつも笑顔の奥がぐしゃっとなっていたこと。
友達が誰かを綺麗と褒めるとき、
自分はそうじゃないと言われているような気がして、でもそんな風に思っている事を気取られないように明るく頷いていたこと。

美人が羨ましくて、自分も美人になりたかったこと。
それは自分が外見至上主義だったからだということ。

そしてその主義のもと、自分が被害者であり、加害者でもあったということ、、、。

それ以上はもう、考えることができなかった。




静寂

2023-01-14 00:43:00 | 日記
近くのクリーニング屋のスタッフで、小平奈緒に似た人がいる。
お店に行くと奥から出て来るのだが、何故か無言。顔が小平奈緒なので、こちらが何か言ったら、シーって言われそうな気がして何も言えない。それでそっと洗濯物をカウンターに置く。

鳥のシチュー

2023-01-12 19:39:00 | 日記
喜べ、幸いなる魂よ」佐藤亜紀(角川書店)を読んだ。
18世紀フランドル地方が舞台の小説。時代は違うけれど、ブリューゲルの絵の世界を思いながら読んだ。

「鳥のシチュー」なる食べ物が繰り返し出てくる。18世紀のフランドル地方の「鳥のシチュー」とはどんな感じだったんだろうか。字面からパッと思い浮かぶのは、素朴な、鶏肉がゴロンゴロンと入ったシチューというよりスープよりの何か。味が凄く薄くて、でも胡椒はしっかりきいているような。全然洗練されていないもの。美味しくなさそうなもの。それなのに、いやそれだけに「鳥のシチュー」は小説の中でいい仕事をしていた。

本の中で、べギンという女性たちのことを初めて知った。修道女のような共同生活をしていた女性達。この人達が著者の佐藤亜紀の手にかかると、その辺にいる現代のおばさん達のように、元気いっぱい描かれる。

自分の産んだ人間(子、ではなく人間と言いたくなる程の距離感をこの小説では感じる)が人間として最低な感じになってしまったらどうすればいいのか、というのが、私にとっては、この小説が問いかけてきた一番大きなテーマだった。

小説としての答えは、「しょうがないじゃん」というものだった、ように思った。