ゴブリンモードという言葉が昨年の英語圏での流行語の一つだったらしい。
コロナ禍で、リモートワークが多くなり自分のペースで過ごすことに快適さを感じるようになった人達が、例え我儘に見えたとしても自分に正直に行動するようになった。そうした振る舞いやライフスタイルの事を指すらしい。
その言葉を知った友人が、「今年はゴブリンモードで行く」と宣言していた。
退職した夫のその日のスケジュールに合わせて食事の準備をするのは、もうやめるんだ!と。
もちろん、それでいいと思う。
というか、随分と可愛いゴブリンだ。
ゴブリンモードとは一見違う生活を送っている人として小説「この人の閾」(保坂和志)の真紀さんを思い出した。この小説は語り手の三沢とこの真紀さんとの会話、その会話から三沢が感じた事が書かれている。
会社員の夫と小学生の息子と幼稚園児の娘と暮らす専業主婦の真紀さんは、いわゆるワンオペ育児で、それぞれ会社、学校、幼稚園に出かけ帰ってくる家族のタイムスケジュールの隙を縫って家事をこなしている。時間がたくさんあるような、ないような中で、本を読んだりDVDを見たりしているが、本人は読書や映画を観ることは単なる時間潰しだと捉えている、というか捉えようとしている。でも、本当は本や映画やあるいは生活そのものを通してたくさんの思索をしていることが、語り手の三沢との会話のあちこちから窺える。
たとえば、仕事をする事、専業主婦である事について真紀さんには思う事が様々あるが、昨今見かける専業主婦は肩身が狭い、的な悩み方はしていない。そうした真紀さんの気持ちや思いや感情をもっと、人に伝えたらどうだろう、と小説の語り手は感じている。
真紀さん自身が、言葉で言わなければ結局はその人の思考は無いと同じだと言う。何も言わなければ、その人自身は闇なのだ、と。しかし真紀さんはそれでいいと思っている。自分は別にたいそうな事は何も考えていない、考えていたとして別に言わなくてもいい。無でいい。そこには自分の閾があるのだから。
真紀さんは、実はかなりハードコアなゴブリンなのかもしれない。