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2021.3.3WEB【小野寺秀也|かわたれどきの頁繰り(2013年10月08日 | 読書:  【書評】ピエール・ブルデュー(原山哲訳)『資本主義のハビトゥス』(藤原書店、1993年)

2021年03月03日 | 《お》 _読んだ本・人・ブログ
2021.3.3【小野寺秀也|かわたれどきの頁繰り(2013年10月08日 : 読書;
【書評】ピエール・ブルデュー(原山哲訳)『資本主義のハビトゥス』(藤原書店、1993年)
カテゴリー:小野寺秀也 《お》 _読んだ本・人・ブログ// ハッシュタグ:#小野寺秀也
午前10:41 · 2021年3月3日
**ようやくたどり着いた。ピエール・ブルデューのあれこれを知ろうとググるのだが、石井洋二郎の記事以外は、小難し過ぎて読めない。よくあるやつ、「一通り読んだ人が、読んだことを前提に書いた発表レジメ」研究会、読書講読会での発表のようなの。そうじゃない書評に当たった。うれしい
小野寺秀也|かわたれどきの頁繰り(2013年10月08日 | 読書: 
【書評】ピエール・ブルデュー(原山哲訳)『資本主義のハビトゥス』(藤原書店、1993年)
https://blog.goo.ne.jp/hj_ondr/e/5bb5e584b9ca5695b93f5c860d64a3e0

↓ ここに詳しい書誌ビブリオグラフィー【bibliography】が載ってる、
原題|『アルジェリアにおける労働と労働者』という大著を1963年に刊行していて、
立命館大学・生存学|Bourdieu, Pierreピエール・ブルデュー: 
[共著]◆Bourdieu, Pierre & Darbel, Alain & Rivet, Jean-Paul & Seibel, Claude 1963 Travail et travailleurs en Algérie, Paris: Mouton.
http://www.arsvi.com/w/bp01.htm

**借りてきてもなかなか本は読めないし、ブログに感想を述べることもできずにいる。そしたら、読みたいと思った、借りた時点でブログに「読むぞ!」と残しておこうか。
by龍隆2021.3.3

資本主義のハビトゥス_アルジェリアの矛盾/ピエール・ブルデュー1977著・原山哲訳/
藤原書店1993 //滋賀
小野寺秀也:紹介(かわたれどきの頁繰り2013年10月08日 
https://blog.goo.ne.jp/hj_ondr/e/5bb5e584b9ca5695b93f5c860d64a3e0
~『アルジェリアにおける労働と労働者』という大著を1963年に刊行していて、ミシェル・フーコーの勧めでその簡略版といえる『アルジェリア60』を1977年に出版した。本書は、『アルジェリア60』の日本語訳として1993年に出版されている(私が手にしたのは2011年の初版第6刷である)。原題の「アルジェリア60」を受けて本書の副題には「アルジェリアの矛盾」が付されている。~


~ 私にとって、この本が初めてのブルデューである。「ハビトゥス」や「ディスタクンクシオン」がブルデューに発する言葉(概念)であることは、いくつかの著作を通じて知っていた。書店で『資本主義のハビトゥス』というタイトルとブルデューの名前の組み合わせで、あまり考えることもなく手が伸びた。

 序文 (p. 5) と、巻末に附されたブルデューのインタビュー (p. 174) によれば、ブルデューは、1958年から61年にかけてアルジェリアで行なわれた民俗学的・統計的な調査による『アルジェリアにおける労働と労働者』という大著を1963年に刊行していて、ミシェル・フーコーの勧めでその簡略版といえる『アルジェリア60』を1977年に出版した。本書は、『アルジェリア60』の日本語訳として1993年に出版されている(私が手にしたのは2011年の初版第6刷である)。原題の「アルジェリア60」を受けて本書の副題には「アルジェリアの矛盾」が付されている。
 原著、訳本の刊行年からいえば、本書がコンテンポラリーな内容として読まれているとは考えにくいが、かといって、古典として読まれただろうとも想像しにくい。しかし、今ここで読む私にしてみれば、本書の内容(1960年時における植民地支配下のアルジェリアにおける資本主義システムの導入にともなうアルジェリア大衆に生じたハビトゥスの軋轢、プロレタリアと下層プロレタリアの階級分化(ディスタンクシオン)を扱っている)から言えば、この本は古典に属すると言ってもいいと思う。
 今や、日本ではプロレタリアのほとんどは体制派として資本主義の守護に回ってしまい、伝統的な既成大手労働組合は保守政党とほぼ一体化している。そして下層プロレタリアからさらに下層の貧困層プロレタリア(プレカリアート)が分化している。アルジェリアから50年を経た日本でディスタンクシオンはダイナミックかつ明確に作動しているのだ。この本は階級分化の現代的機制についても何事かを語りうるのではないかと、期待したのだ。

 社会学者としてのブルデューは、植民地の前資本主義的社会に資本主義が導入されていく実相を明らかにするための学の問題を考えることから始めている。それは、経済的指標のみで世界を理解しようとする経済学であり、それとは逆に、経済的問題を閑却化する文化人類学などである。

経済発展を妨げている文化について、ただ儀礼的に問題を提起する人々がいるが、実際は彼らは、経済行動の「合理化」について、ただそれだけについて、すなわち抽象的に、関心をもっているだけなのだ。そして、彼らは、経済理論が定義しているような「合理性」の抽象的モデルに準拠し、そこから逸脱している要因のすべては、もっぱら文化的遺産に帰せられるものであり、経済発展に対して抵抗するものとして記述してしまう(さらに悪いことには、文化的遣産のこれこれのといった側面を指摘して、たとえば、イスラム文化に言及して、経済の停滞を、そのせいにしてしまう)。すなわち、経済発展の哲学は、人類学を経済という単一の次元に還元してしまうのだが、逆説的にも、ある「合理的」経済行動が社会にとりいれられるために必要な経済的条件を無視してしまうことになるのだ。 (p. 9) 

 文化人類学はといえば、資本主義以前の社会が変化するのを考察する際、そこに単に「文化接触」の影響をみるだけである。つまり、その社会の変化は、「文化変動」とか「文化変容」として記述される。事実、文化人類学においては、しばしば、文化モデルや価値のシステムの変化は、単に、移植されるモデルと土着のモデルとの組合せの論理的帰結によるのではない、ということが看過されてしまう。だが、その文化モデルや価値の変化は、経済の変化の帰結であると同時にその条件でもあって、経済システムにさまざまに関わる個々人の経験と実践とを媒介してのみ、生起するのである。 (p. 9-10)

経済学者は、暗黙にせよ明示的にせよ、資本主義システムが可能となるためには経済人はどのようであるべきか、と、自問してから、資本主義的人間に固有の経済的意識のさまざまな範疇を、経済的、社会的条件から独立した普遍的な範疇とみなそうとする。それとともに、経済学者は、経済的意識の構造が、個人的および集合的に生成されるということを看過してしまう危険を冒すのである。 (p. 18-9)


 そうした批判を踏まえて、自らの社会学的探求の方法論を宣言し、その意義を強調して次のように述べる。

 各行為主体の(経済的、あるいは、それ以外の)さまざまな実践を貫く根底には、その行為主体が、彼の階級状況を規走している客観的、集合的な未来にたいして、客観的に保持している関係がある。この行為主体の未来にたいする関係は、行為主体のハビトゥスを媒介としているが、ハビトゥスそれ自体、さまざまな類型の経済的条件によって生産されるものなのである。そうであるなら、行為主体の未来との関係についての、つまり、時間に関する性向についての社会学によってこそ、従来の伝統的な問題、すなわち、生活条件の変化が、人々の性向の変化に先行して、それを決定づけるのかどうか、あるいは、その逆なのかどうか、といった議論をのりこえることが出来るのだ。 (p. 11)

 外部から移植され強制的に課せられた経済構造に、性向やイデオロギーが適応する過程、つまり、経済的必然性の圧力を受けて、性向のあらたなシステムが、つくり直される過程を、分析の第一の対象とすることは、心理学的主観主義に陥ることにはならないし、また、本質論的エスノセントリズムに陥ることにも、さらさら、ならない。心理学的主観主義とは、経済的主体の性向が、客観的な経済的、社会的諸関係の構造を生み出すと考えることである。また、本質論的エスノセントリズムとは、この心理学的主観主義と、しばしば結びついているものだが、西欧資本主義の経済的性向を普遍的と考えて、効用や選好を最大限に充足させようとする願望が、あらゆる経済活動を支配する原理であるとすることである。 (p. 16)

 資本主義導入に対する人々の対応が、各行為主体が抱く主観的未来と社会が準備する客観的未来のギャップばかりではなく、前資本主義的ハビトゥス固有の時間概念と資本主義的時間概念のギャップが人々の行動性向を支配している。つまり、「序文」においてすでに示唆されているように、「行為主体の未来との関係」が問題を解く鍵となっている。 

生活の物的条件に客観的に刻まれている未来との関係のなかにこそ、アルジェリアにおける、下層プロレタリアとプロレタリアとのディスタンクシオン〔階級的分別〕、すなわち、土地という根を失い、絶望した大衆の反乱への性向と、他方、未来を領有しようとして自分の現在を充分に統御している組織化された労働者の革命的性向との、ディスタンクシオンの原理が働いているのだ。 (p. 6)

 アルジェリアにおける資本主義は、けっして国家、地域共同体における自立、自発的な経済発展としてあったわけではない。前資本主義的な伝統的な農業、農民への植民地支配下での資本主義経済の強制的な導入がなされた。

 伝統的な農業社会では、農業の周期全体の生産時間を時間感覚として保有していて、そのなかでは労働と収穫物を区別しないし、労働中断期であってもその期間を労働していると見なすのだ。労働の概念を私たちが考えるようなものとすれば、厳密な意味では彼らは自分の行いを労働とは考えない。つまり、農作物は大地(自然)からの贈り物であり、自然に捧げた彼らの労苦との贈与交換と考える。
 そして、「農民は、前年の農園から得られた所得にしたがって消費するのであって、これからの所得を見込んで消費するのではない」 (p. 23) し、収穫は自然(神)からの贈り物と考えるような伝統的な暮らしでは、人々は「未来のことは神のしごと」 (p. 36) というような時間概念を抱いている。

 土地を共有するような伝統的な農業社会集団では、各成員には、「たとえば小作人、農業労働者、未亡人といった人々の息子」 (p. 49) であっても何らかの活動(生産活動、いわゆる現在的な意味での労働を含む)が与えられ、個々人の集団への統合が図られる。そこでは、「社会的任務としての労働は、伝統的な義務に属するもの」 (p. 51) であって、一般等価物としての貨幣(賃金)として報いられるような資本主義的な意味での労働ではない。成員が何らかの形で活動に従事する集団内では個人的な「失業」という概念が発生しない。
 土地を共有する農業共同体は大家族制によって支えられている相互扶助的な集団社会であるが、一方で、集団を維持するための伝統的な規律が共同体、や家族の成員に課せられる。

経済とエートスとは深くかかわりあっており、土地の領有の様式、すなわち土地の共有のなかに、時間、計算、予測に対する、態度が、すべて刻印されている。しばしば、次のことが言われてきた。すなわち、この共有の制度は、消費において、また生産においてはなおのこと、集団の各成員(ないしは各世帯)が計算するのを阻む。そして、この制度は、個人の革新を禁じ、企業家精神を窒息させてしまう。消費の領域について言えば、この共有の制度は、計算を、その最も単純なもの、つまり、資源のかなり柔軟な割り当てに帰着させてしまい、資源と成員の人数との関係は考慮されることはない。その結果、なによりも、まず、出生傾向に抑止がかけられることがない。しかし、また、共有は、生産と消費とにおいて、個々人の分け前を系統的に考慮しょうとしない場合においてのみ、維持できるのだ。………要するに、共有は、事実上、計算を禁ずる。それと関連していることだが、計算の禁止は、共有財産、ならびに、家族や氏族といった、共有財産に基づく共同体を存続させるための条件なのである。 (p. 37-8)

 そのような前資本主義的な農民の社会に資本主義的貨幣経済が持ち込まれれば、当然ながらその貨幣経済システムへの反発が生じる。

そこ〔前資本主義的農業社会〕での可能性と不可能性とからなるシステムは、不安と偶発に支配される物的生活条件のなかに、客観的に刻みこまれているが、それが、行為主体に内面化されると、他ならぬ、エートスとなり、そのエートスが、唯一可能なものとしての時間の経験を課すことになるのだ。人々の生活は、次のように過ぎて行く。すなわち、人々は、資本主義的経済が要求し促進するあらゆる性向、たとえば、企業家精神、生産性や収益への配慮、計算の精神といったものをきっぱりと拒絶し、「未来のことは神のしごとだ」と言って、予測の精神を悪魔的な野望として断罪する。そして、いたるところで、「嫌なことでも必要とあらば進んで引き受け」、願望を客観的なチャンスに適合させることで満足するのだ。 (p. 36)

 しかし、自然からの贈り物としての農業収穫物や物々交換で得られた者を消費するような経済に、貨幣経済が導入されることは、人びとに前資本主義的ハビトゥスの変更を強いることになる。

物々交換のような経済的論理によって形成された行為主体は、経済的関係の普遍的な媒介としての貨幣の使用を、苦い経験を通じて、学習しなければならないのである。実際、賃金を受け取るや否や、それを、食料、衣類、家具といった現物財に替えてしまおうとする誘惑は大きい。五十年前は、農業労働者たちが、一ヶ月の労働によって得た所得を、わずか数日で使い果たしてしまう、というのは、まれなことではなかった。最近でも、南部の遊牧民の場合、現物で支払われていた羊飼いたちが、お金での賃金を受け取るようになったとき、同じような行動をとったのである。  (p. 29-30)

 前資本主義的ハビトゥスで資本主義的貨幣経済を生きねばならない農民に植民地化の圧政が加わることによって、農民の暮らしの在り様は深刻な変容を受けざるを得ない。前資本主義的な農村共同体における様々な民族的な習慣、考え方の社会学的観察による記述は興味深いが、それが変容を受けていくプロセス、資本主義のハビトゥスが育つ時間を待たずに進展して資本主義植民地化もまた実例を挙げつつ詳述されている。中でも深刻なのは、植民地政策によって容易に土地が収奪されてしまったことだろう。

農村の人々が、貨幣を扱うのが不得手で、それについての法的規則に適応できないでいることが、彼らが、土地を失うことに、大いに拍車をかけた。それで、ヴィォレットは、アルジェリア人から入会地の権利を奪った政策を非難し、次のように言う。「入植者たちは、大いに、土地収用を濫用した。(……)お金での保証は、農民にとって、意味をなさない。農民は、補償金を、すぐに使ってしまうし、それを資本として用いることはしないからだ。農民は、仕事が斡旋されても、そこから得られるわずかの所得で、やりくりすることはできないだろう。(M・ヴィオレット『アルジェリアは生き延びるか、元総督の覚え書き』パリ、アルカン刊、一九三一年、八三—九一頁)」 多くの小土地所有昔は、正真の土地証書の保有者とはなったものの、その土地は、一八七三年七月二十六日から一八九七年四月二十三日まで施行された法律によって、土地不分割が破棄され、たやすく譲渡できるようになっていた。そこで、彼らは、貧しさに追い詰められていたから、お金欲しさに自分の土地を売った。彼らは貨幣の使用に疎かったので、自分のわずかの資本金を浪費してしまい、農業労働者として雇われるか、都市に逃げ込むしかなかったのである。 (p. 30-1)

 こうして、アルジェリアで植民地化が進んだ地域に残った農民や都市に流入して下層プロレタリアとなった農民は、土地や彼らの伝統を失ったがゆえに、逆説的に新たな資本主義システムに適応しやすくなり、一方で比較的植民地化を免れた地域の農民は前資本主義的ハビトゥスの中で暮らし続けることになる。

 著者は、土地を奪われた農民や都市の下層プロレタリアが資本主義のハビトゥスを獲得していくプロセスを多面的に描いていく。たとえば、都市に流入してプロレタリア化した農民にとって従来の大家族制は崩壊せざるをえないが、十分な住宅環境が得られないため擬似的な大家族制が維持されたりすることや、逆に定期的収入が得られるプロレタリアとして単一家族の住居が得られると女性はそれまでの社会的広がりを失って孤立し、「以前よりもいっそうひどく劣った役割や地位に、格下げされてしまう」 (p. 83) のである。
 そのような、下層プロレタリアやプロレタリア化した農民の生活や生活態度の変容を分析するに当たって著者は次のような注意を喚起する。

確かに、伝統的な秩序から引き離され、近代的な経済の世界に、しばしば急激に、参入することは、ハビトゥスの徹底的な変化を引き起し、また、ハビトゥスの変化を前提としていることなのであるということは疑いがない。だがそうだとしても、近代経済への適応の過程を、心理的次元に還元してしまうことは、結果を原因とみなすことなのである。実際は、人類学者が言う「文化的妥協」としての「近代化が要求する性格の変化」は、具体的には、特定の経済的、社会的条件に組み入れられた行為主体によって実現されるのだ。つまり、性格の変化は、対峙しあう異なった既存の性向や文化システムの論理には、一切、依拠してはいないのである。  (p. 61-2)

 たとえば、変容過程の仕事に対する考え方を見てみよう。都市に流入した農民は、小商人を職業として選ぶことが多い。そこでは小商いのために長い時期的スパンの計算が必要なく、売れた分だけの暮らしをする。それは、いわば収穫された物だけで暮らす農民の心性とよく似ている。それを著者は、「家内工業と商業とは、都市的社会における伝統主義の避難所である」と述べている。ここでは前資本主義ハビトゥスによって思考や習慣はあまり変化していない。
 同じ農村でも貧困のために外国や大都市で出稼ぎ労働に従事した経験を持つ農民は、仕事に従事していても自分を失業者と見なし、たとえ貧しくて仕事が十分でなくても旧来の農民は自分を失業者とは見なさない。「失業」概念の変容は次のようである。

 このように、第一の段階では、失業は、失業であると把握されずとも、「即自的」に存在しうるが、第二の段階では、失業の「意識」は、実践において表明されるが、明晰化されることはなく、断片的な形態の言説、つまり、所与の現実についてのきまりきった、トートロジ—的な表現においてのみ、表明される。次に、失業の意識の表現は、第三の段階に移行する。つまり、そこでは、意識と、その表現とは、緊密に結びついていて、意識の内容の豊かさや明確さが、その表現の豊かさや明確さとともに、増大するのである。調査の対象となった大多数の人々は、いくつもの部分的な説明を提示するが、それらは、通常、自分の職業生活の最も忘れがたい経験の表明にほかならない。そして、それらの説明には、つねに、その説明が現れるための具体的状況や条件についての明示をともなっている。 (p. 101)

 プロレタリアや下層プロレタリアのハビトゥスのもっとも顕著な表象として、著者が注目するのは「未来」に対する態度ないしは考え方である。

 未来とは、誰であれ、当該の主体にとっての、抽象的な可能的なものの場である。しかるに、実践的な将来とは、客観的可能性という意味での可能なもののことである。両者の区別は、しばしば誤解されていることだが、現在からの隔たりによって区別されるのではない。というのは、後者の実践的な将来では、多かれ少かれ現在から隔たった客観的可能性は、なかば現存しているものとして客観的時間の中に位置づけられるのであり、それら客観的可能性は、なんらかの実践ないしは自然の周期の直接的な統一の中で、客観的時間に結びつくからである。民衆の意識は、このような抽象的な未来と具体的な実践的な将来とを区別した世界を生きており、また、この区別に働きかけもするのだ。 (p. 33)

 下層プロレタリアは、必要な収入や未来への期待に関しては夢想的な誇大な願望を語る。貧しければ貧しいほど現実的未来とのギャップが大きくなる。一方、定期的な収入が得られるようになったプロレタリアは、実現できそうな未来を語るようになる。つまり、「現実的な可能性が増すにつれ、願望は、より現実主義的となり、現実的な可能性にたいしてより厳格に節度あるものとなる、ということが観察される」 (p. 91) のである。
 下層プロレタリアの悲惨について、著者は「要するに、完璧な疎外は、疎外の意識さえも抑止してしまう」 (p. 108) と述べる。

悲惨が、悲惨として把握され、明確に不当で容認しがたいものとされる体制に起因するのだと把握されるには、悲惨それ自体が緩和され、別の経済的、社会的秩序について考えるゆとりが生まれなければならない。悲惨は、あまりに全面的な必然性を下層プロレタリアに課し、理性的に思考する余裕を与えないから、下層プロレタリアは、自分たちの苦悩を、習慣として、つまり自然なこととして、生活の不可避的なものとして、受けとめるのである。そして、下層プロレタリアは、安全や必須の教養の最小限さえ持っていないから、社会秩序の全体的な変動――その変動は、秩序の原因を破棄することになりうるのだ――をはっきりと認識できないのである。 (p. 106-7)

 ブルデューの描く1960年のアルジェリアにおける下層プロレタリアの実像は、それから50年を経た日本で湯浅誠が語る不安定労働者(プレカリアート)の実像にそっくりである。

 単純に言って、朝から晩まで働いて、へとへとになって九時十時に帰ってきて、翌朝七時にはまた出勤しなければならない人には、「社会保障と税のあり方」について、一つひとつの政策課題に分け入って細かく吟味する気持ちと時間がありません。
 子育てと親の介護をしながらパートで働いて、くたくたになって一日の家事を終えた人には、それから「日中関係の今後の展望」について、日本政治と中国政治を勉強しながら、かつ日中関係の歴史的経緯をひもときながら、一つひとつの外交テーマを検討する気持ちと時間はありません。
 だから私は、最近、こう考えるようになりました。民主主義とは、高尚な理念の問題というよりはむしろ物質的な問題であり、その深まり具合は、時間と空間をそのためにどれくらい確保できるか、というきわめて即物的なことに比例するのではないか。 [1:湯浅誠]

 ブルデューは、プロレタリア化した農民層や都市の下層プロレタリアが潜在的な革命への力であることは認めるものの、下層プロレタリアの「夢への逃避や、宿命論的なあきらめ」ではなくて、規則的な収入が得られるプロレタリアの合理的な時間概念、願望が組織化された革命的態度が必要だという。

 「先進資本主義」国である日本のプロレタリアのうち、労働組合に組織化された労働貴族的な部分の言動はいまや資本家と見まがうほどで、保守政党と政治的行動の歩調をぴったりと合わせている。
 そして、アルジェリアの下層プロレタリアに相当する層は、「ワーキング・プア」とか「プレカリアート」と呼ばれ、湯浅誠が語るように政治的意識の獲得や政治的態度の表出が困難な状況に置かれている。多くの未組織プロレタリアは、マスコミに煽られるように右へ左へふわふわと揺れ動いていて、未来への階級的な希望を確定できないでいる。

 ブルデューにしたがって「プロレタリア」や「下層プロレタリア」という概念を用いてきたけれども、いまや被支配層の括りの概念としては古典的に過ぎてあまりしっくりしない。労働者は、ポスト・モダニスム社会で消費する大衆のイメージが強まり、労働の場から立ち上がるような階級としての形象は見えにくくなっている。じっさい、最近の世界各地の民衆の反乱のどこにも「プロレタリアート」と名指しできる人びとを集団として見つけ出すことができない。そして私には、そこでの「階級のハビトゥス」はどのようなものか、じつのところ、見えていないのである。

階級のハビトゥスとは、客観的状況を行為主体のうちに内在化しつつ、行為主体の一群の性向の集まりを統一する構造であるが、それぞれの性向は、あきらめにせよ現存の秩序への反逆にせよ、また、予測や計算に経済行動を従わせる傾向にせよ、客観的未来との実践的な関わりを前提としているのである。 (p. 154-5)


[1] 湯浅誠『ヒーローを待っていても世界は変わらない』(朝日新聞出版、2012年)p. 85。

(引用終わり。ブルデューの引用・要約は茶色maroon文字に換えた。9,000文字)

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資本主義のハビトゥス_アルジェリアの矛盾/ピエール・ブルデュー1977著・原山哲訳/藤原書店1993 //滋賀
藤原書店:紹介 http://www.fujiwara-shoten-store.jp/SHOP/9784938661748.html
~人類学・政治経済学批判
「ディスタンクシオン」概念を生んだブルデューの記念碑的出発点。資本主義の植民活動が被植民地に引き起こす「現実」を独自の概念で活写。具体的歴史状況に盲目な構造主義、自民族中心主義的な民族学をこえる、ブルデューによる人類学・政治経済学批判。
目次
序 文
序 論 構造とハビトゥス
第1章 単純再生産と周期的時間
時間と可能なものの場
交換と合理的計算
儀礼的義務と労働

第2章 矛盾する必然性と両義的行動
教育の欠如による慢性的失業
伝統の破棄と完遂

第3章 主観的願望と客観的チャンス
想像と現実
悲観主義

第4章 経済的性向の変化のための経済的条件
実践の再組織化の条件
近代的住居と家計
都市的生活様式の矛盾

結 論 意識と無意識

原 注
縦走する社会的実践 ――訳者解説にかえて
索 引



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2021.3.3まとめ【ピエール・ブルデュー|おもな本:  おもなサイト: 
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2021.3.3【ピエール・ブルデュー|本: 資本主義のハビトゥス_アルジェリアの矛盾/ピエール・ブルデュー1977著・原山哲訳/藤原書店1993
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by龍隆2021.3.3.
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