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2021.2.2【岡本清一|本: 京都精華大学紀要 第二十四号 2003年 私のマルクス墓参 ―イギリス人のマルクス思想無視について―岡本清一

2021年02月02日 | 《お》 _読んだ本・人・ブログ
午後7:25 · 2019年2月17日


京都精華大学紀要 第二十四号 2003年
私のマルクス墓参 ―イギリス人のマルクス思想無視について―岡本清一
https://www.kyoto-seika.ac.jp/researchlab/wp/wp-content/uploads/kiyo/pdf-data/no24/okamoto.pdf
*このPDFファイルをコピペしたものである。

**借りてきてもなかなか本は読めないし、ブログに感想を述べることもできずにいる。そしたら、読みたいと思った、借りた時点でブログに「読むぞ!」と残しておこうか。
by龍隆2021.2.2

2021.2.2【岡本清一|本: 京都精華大学紀要 第二十四号 2003年
私のマルクス墓参 ―イギリス人のマルクス思想無視について―岡本清一
私のマルクス墓参_イギリス人のマルクス思想無視について―岡本清一
京都精華大学紀要:紹介 URLアドレス 
https://www.kyoto-seika.ac.jp/researchlab/wp/wp-content/uploads/kiyo/pdf-data/no24/okamoto.pdf

p1

私のマルクス墓参
イギリス人のマルクス思想無視について
岡本清一 OKAMOTO Seiichi

20年前の『幻の論文』
 初代学長岡本清一先生が旅だたれて1年が過ぎたこの4月,『偲ぶ会』を本学で開催した。その頃,誰か
らともなく,先生にはマルクスに関する「幻の論文」があったはずだと話題になった。
 そういえば,先生から『木野評論』に掲載予定(1983年3月)原稿のゲラ刷りをもらい,職員の何人か
とゼミの友人に配布したことを思いだした。
 当時てっきり『木野評論』に掲載されていると思っていたのが,その論文は忽然と消えていた。先生に
お伺いすると,ただニヤッと笑われる(と思えた)だけであった。
 この夏,ようやく探しだした。なぜこの論文の掲載を取りやめられたのか,その理由はいろいろ推測さ
れるが定かでない。
 先生の意思に反することになるかもしれないが,二,三の友人と相談してこの「幻の論文」に日の目を
あてることにした。
 なお,校正に関しては,紀要編集委員会が明白な誤記,脱字等,最小限の校正を行った。
(杉本記)




 この随想はカール・マルクスの死後100年を記念して記されたもの
である。それ以上の意味はない。この稿を掲載する「木野評論」が,
わが大学の五百の卒業生と千四百の在校生諸君に手渡す準備が完了
する日は,恰度,三月十四日のマルクスの死去の日か,三月十七日
の彼の葬送の日のあたりになる。


 一九六〇年秋のロンドンは,こんなことはめったにない,といわれていたほど,来る日もく


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る日も雨であった。そんな年の晩秋,十一月も,もうおわりの日曜日の午後,わたくしは雨の
霽れ間をみて,カール・マルクスの墓に詣でた。ながいあいだの夢の実現である。マルクスの
墓が,ロンドンの北郊,ハイゲートの丘にあることは,以前からよく承知していた。そしてそ
の様子は,むかし読んだ福田徳三の「唯物史観出立点の再吟味」(1929年)という論文集の巻
頭に飾られていた写真から想像していた。それは,この日本の経済学者の無作法な姿を消し去
れば,まことにマルクスの墓らしく,静寂・簡素な印象をあたえるものであった。そのとき,
まだ学生であった私は,二ヶ月の船旅の向うにある大英帝国の首都ロンドンに,マルクスの墓
を訪ねることができようなどとは,夢にも考え得なかった。羨望とも絶望ともつかぬ気持で,
いくたび,この巻頭写真を眺めたか知れなかった。
 その日,私はトテナム・コート・ロードから,地下鉄にのって「ハイゲート」の駅で降りた。
駅はハイゲート・ヒルの麓のところにあった。私は西北に向って,ゆるやかな登り坂をなして
いる広い舗装道をのぼっていったが,そこはもう丘といっても,すでに自然を失い,新しい住
宅でおおわれていた。丘の上とおぼしきあたりで「マルクスの墓のある墓地は?」とたずねて
も誰も知らなかった。通り合わせた老人に「共同墓地は?」ときくとすぐわかった。そして彼
セメトリー
は,「そこのスウェンズ・レーンを降りてゆけ」といった。というのは「田舎の色男,あ
るいは愛人」というような意味のことばらしいが,こんな仇名をもった道は,人通りの少ない,
暗い小道にきまっている。ハイゲート・セメトリーは,このスウェンズ・レーンを西南に降っ
ていけばよいのである。やっと車がすれちがえるだけの狭い切り通しの道は,かなり急であっ
た。林の樹が両側から暗く道をおおっていた。私は水をふくんだ落葉の重なりに,足をとられ
るのを警戒しなければならなかったが,それでも惻々たる想いをいだいて坂の小道をおりてい
った。墓地はこの道の中程のところ,ようやく林がきれて,空も明るく,道もまた広くなった
あたりにあった。セメトリーの文字は見えなかったけれども,道の左側の,黒くぬられた大き
な鉄柵の扉と,扉をとおして見える中のたたずまいが,墓地であることを示していた。
 午後一時の開門までには,まだいくらか間があったので,独りたたずんでまっていると,も
う一人,年輩の人が私のそばに立った。彼はスイスから商用でロンドンヘきたが,今日は暇だ
から,マルクスの墓にもうでるのだという。このスイスの人はよく喋った。私の,あの寂然た
る墓参者の感傷は,そのわかりにくい英語の饒舌にみだされがちであったが,やがて道の向う
側の事務所から墓守がやってきて,大きな鍵で扉をあけてくれた。そして無愛想に「マルクス
の墓ならこの道を行けばすぐわかる」といい,「日本人はよく来る」とつけ加えた。墓の道は,
幅四メートルばかり,広大な墓域の左側を,ゆるやかに右に彎曲して,ずっと向うに延びてい
た。セメトリー(共同墓地)というのは,教会とは関係のない墓地のことだから,マルクスの
ような唯物論者は,こうした墓に眠るほかないのだが,それでも,道の両側にならんでいる墓


p3

の多くは,キリスト教国らしく,十字架をつけたものが目立っていた。
 私は,べつにこのスイスからきた人の,お喋りをさけるためではなかったが,彼から横に数
歩はなれて,自分だけの想いをいだいて歩いていった。この墓地の静寂のなかでは,さすがに
この人のことばも少くなり,われわれの靴音だけが,なかば壊れた舗装の道にひびいた。とこ
ろが,しばらく行って,道が大きな曲りにさしかゝったとき,これは,また,どうしたことか,
突如として前方にあらわれた情景に,私は一瞬,息をのんで立ち止った。同行のスイスの人も,
何か,おどろきの声を発したようであったが,われわれが行く手に見たものは,まごうかたな
き,彼,マルクスの,あの髭につつまれた顔の,巨大な像であった。そのマルクスの像は,ほ
かの墓標をひきはなして,はるかに高く,あたりを脾睨して聳え立っていたのである。それは
誰も彼もが,みんなしずかに眠っているこの墓地で,ただ,マルクスだけが,独り眼をさまし
て,何事かを大声で叫び立てているようにさえ見えた。これが,果してマルクスの墓なのだろ
うか。もしそうなら,あの墓守のいったとおり,「すぐわかる」わけだが,それは私の予期し
ていたマルクスの墓とは,あまりにもかけはなれたものであった。私の惻々たる想いも,寂然
たる感傷も,すべていっぺんに吹きとばされてしまった。しかし私の落瞻は,そう永くはつづ
かなかった。すぐつぎの瞬間,これはマルクスのほんとの墓ではなくて,ただの記念碑として
建てられたものであるにちがいない,というように,思いなおしたからである。そして「マル
クスの墓ならすぐわかる」といった墓守は,おそらく,ただの記念碑を墓だと思いちがいをし
て,そう言ったのだろうと思って,私はいくらか安心もし,墓守の無知をわらいたい気持にも
なって,そのマルクスの像に近ずいていった。
 像は肩から上の半胸像であった。それは縦幅ともに一メートルをはるかに越えていよう。そ
してそれは,よく磨きあげられた白い花崗岩を三メートルにも近い高さに積み重ねた大きな台
座の上におかれていたから,その前に立って仰ぐと,マルクスの像はいよいよ高くそびえ,そ
の風貌は,見る角度によっては怪異にさえ感じられた。そして台座は,これまた重量感にあふ
れ,前幅,奥行ともに,二メートルにちかく,その前面には,マルクスの言葉が記されていた
が,それは金色にかゞやく真鍮の文字を,白い花崗岩に深くはめこんだものであった。そして
この台座は三つに区分されていて,その上部には,
WORKERS OF ALL LANDS UNITE
「万国の労働者団結せよ」
という「共産党宣言」と「国際労働者協会」創立宣言の末尾を飾ることばが記され,下の部分
には,「フォイエルバッハ論」の最後の,あの有名な一句


p4

THE PHILOPHERS HAVE INLY INTERPRETED THE WORLD ON VARIOUS WAYS THE POINT HOWEVER IS CHANGE IT

「哲学者は世界をただいろいろと解釈しただけだが大切なことは世界を変革することであ
る」
という言葉が,はめこまれていた。
 ところが,この二つの言葉の中間,ちょうど三つに区分された台座の中央部分に,一段,大
きな金文字で

KARL MARK

と記されたすぐ下に,比較的小さい,もの寂びた大理石板が一つ,はめこまれていた。それは
白い大理石板ではなく,やや青味がかった,何か貧しさを感じさせるものであった。そしてこ
の大理石板の上の部分には,ヒビ割れが,斜に深く走っていて,それがけっして厚手の頑丈な
ものでないことを示していた。私は台座の石の白さにたいして,むしろうす黝くさえみえるこ
の粗末な大理石板こそは,まさにあのマルクスの墓標だったものだと直観した。一八八三年三
月十四日の,その死の日から,八十年ものながいあいだ,多くの人々の深い感慨をあつめた
「カール・マルクスの墓標」は,これであった。そして,それは彼のもとの墓から抜きとられ
て,いま,この大きなマルクス像の台座に,はめこまれているのである。
 この墓標に記されているところによると,それはカール・マルクスひとりの墓標ではなく,
彼の家族のものであった。そこにはマルクスに先立って逝った彼の妻イェニー,そしてマルク
スの名につづいて,その孫ハーリー,そして最後にマルクスの死後,他界した娘エリナの名が,
マルクス家に生涯をささげたイェニーの侍女ヘレナ・デムートにつづいて刻まれていた。マル
クスの狭い墓域には,これらの人々が合葬されていたのである。エリナを除いて,すべて,土
葬であった。墓標の全文はつぎの通りである。


p5

51818
141883





4 1878
201883


4 1823

4 1890





161856
311898
 このマルクスの家族の墓標をみて,私は迷った。はじめに,この,ただの記念碑とみたもの
は,やはり,墓守のいったとおり,マルクスの,ほんとの墓標なのだろうか。もし,そうだと
すれば,マルクスとその家族とは,この百トンを越えるともみられる大きな花崗岩の台座の下
に,埋葬されていることになる。しかし私は,まだなっとくできなかった。私の想像していた
マルクスの墓は,こんな墓地の大通りに面したところではなく,もっと奥まった静かな場所に
なければならなかったからである。それでは,なぜここにマルクスの墓標があるのか。それは
この質素な大理石板の墓標を,もっと立派なものにとりかえ,もとの墓碑を記念品として,マ
ルクス像の台座に,はめこんで保存しているのだと考えてみてはどうだろうか。それはおかし
い。もし,そうだとしたら,マルクスは,同じこの共同墓地内に,ほんとうの墓と,墓標まで
はめこまれた,ただの記念碑との二つを,同時にもつことになるではないか。どう考えるべき
か。
 ところがスイスの人は,私のようにうたがい迷わないで,墓守のいったとおり,すなおにこ
れをマルクスの墓だと信じている様子であった。彼はただただ墓の立派なことに感嘆し,さか
んにカメラのシャッターをきっていたが,しかしよく考えてみると,墓標というものは,もと
もと死者を記念するためのものであるから,それがどんなに墓標のイメージから遠いものであ
っても,それはそれでいいわけである。しかもそのイメージは,ひとさまざまであり,またそ
れぞれの国の宗教や文化の伝統のちがいによって異っているはずであるから,私がこの巨大な


p6

記念碑を,マルクスの墓標とみることを拒み,スイスの人が,はじめからそれを墓標と信じて
うたがいをもたなかったとしても,けっしておかしいことではないわけである。
 もとより西洋には,昔から死者を記念することばを墓標に刻み,その彫像を墓地にのこす風
習があるが,しかしそこにはある一定の節度が守られてきた。たとえばイタリア・ミラノ市の
共同墓地の,あの美術館の回廊を思わせるほど,見事に立ちならんでいる彫像のごとき,生前
の偉大さや,佳麗さを,死者のもつ深い愁いのなかに,控え目にあらわそうとして製作された
ものであることがわかるのである。ところが,ここハイゲート墓地のマルクスの記念碑には,
そのような心づかいのあとは,ほとんどみられない。マルクスの墓碑だけが,きわ立って壮大
華麗に,威風堂々,あたりを払うがごときものとして製作されているのである。
 そのマルクスの墓標と,ちょうど道をへだてて向い合ったところに,イギリスの思想家ハー
バート・スペンサー(
18201903)の墓がある。彼はマルクスより二つ年下の同
時代人だが,マルクスが「フォイエルバッハ論」をかいたとき,彼はまだその視野の外にあっ
たはずだが,しかし,いまはちがう。スペンサーの墓のすぐまえには,「哲学者は世界を解釈
しただけだ…」という句が,燦として金色にかがやいているのである。そしてすべての悩みも
哀しみも,一切の人間的感情とは無縁の,マルクスのいかめしい顔が見おろしているその下で
は,スペンサーはただただ低く頭をたれて沈黙しているほかないのである。この風景の構図は,
一体,誰が何を考えて画いたのだろうか。マルクスの墓碑はどう見ても,かの十九世紀の思想
家,人間カール・マルクスのものではない。
 私は失望とも嘆きとも憤りとも,つかぬ気持におそわれていた。スイスの人は,ちょっと会
釈して,さきに帰っていったが,私はまだこの墓地を去ることはできなかった。自分のイメー
ジのなかにあるマルクスの,ほんとの墓を探しあてなければ疑問を解くことも失望を医すこと
もできないからである。私は広大なハイゲート・セメトリーのなかを,くまなく,といってい
いほど歩きまわった。私は焦っていたからだろうか,マルクスの本当の墓を見つけることに,
けっきょく失敗した。
 北国のイギリスでは,晩秋の午後三時といえば,もう夕ぐれ時である。三時半には街灯がつ
く。しかもこの墓地のなかには,人間といえば私のほかには誰もいないことが私にはわかって
いた。墓守に外から扉の鍵をかけられたらおしまいである。私はどうしようもない気持で墓地
を去った。そしてしばらくまえに,あの墓参者の想いを抱いて降りてきた同じスウェンズ・レ
ーンを,また,丘の上にむかって登っていった。私は索漠として空虚であった。一九二九年か
ら数えて三十年の夢は,こうして無惨におわろうとしていたのだが,しかしまだ,心のどこか
に,あの巨大な記念碑が,マルクスのほんとの墓標であってほしくない,というねがいに似た
ものが残っていた。それは親しい者の死が告げられても,なお信じ難く思うのと同じ心情から


p7

であろうか。
 私は,その翌日の午後,ディリー・ワーカー社をたずねた。

というのは,そのころのイギリス共産党の機関紙の名であるが,そこへ行く
のが,マルクスの墓のことを聞きただすには,一番の早道だと考えたからである。私のやや性
急な質問に答えるために,五,六人の若い社員があつまってきてくれた。しかし,そのなかに
は,マルクスの墓にもうでた人が一人もいなかったことは,私には意外であった。
 ―あの記念碑はマルクスのほんとの墓標か。
とたずねた。私は「ノー」の答えを待っていたのだが,返ってきたことばは「イエス」であっ
た。そして
「マルクスの墓は,いまの場所へ移されたのだ」
と彼らはつけくわえた。やはり,あの墓守の言ったとおりだったのである。私のかすかに残っ
ていた希望は,これで完全に打ち砕かれた。
 ―それではマルクスの墓の移転は,イギリス共産党によって行われたのか。
私のなかば責めたてるような質問に対して,彼らは
「ちがう,あれはソ連の大使館がやったことだと思う」
と微笑しながら答えた。
 ―いつのことか,その記事を掲載したディリー・ワーカー紙を見せてもらえないか,という

「記事はあまり大きくはなかったが,たしかに掲載された。しかしその記事をかいた記者は,
いまここにいないから,その掲載紙をさがし出せといわれてもそれはできない。もうずいぶん
まえのことだし…。」
といって,一枚の大判の写真をもってきて見せてくれた。その写真には,白い石の板を横たえ
た平面墓標らしいものを前にして,七・八人の人が立っていた。その多くは,どう見てもロシ
ア人のようであった。ソ連政府が,マルクスの墓の移転を行い,あの巨大な墓標を建てたのも
ソ連政府であったのか。

 それから四年,一九六四年の夏八月,私はモスクワにいた。交通信号も何も彼も,おかまい
なしに走ることのできる政府の車で,一行とともにクレムリンにむかっていたとき,それはお
そらく「カール・マルクス通り」であったにちがいないが,その街角で,車の窓越しに,ふと,
マルクスの像を見かけた。それは古く街の埃によごれていたが,まごうことなくハイゲート墓


p8

地にいたあのマルクスではないか。私の驚きは,逢うはずもない人の姿を,あうはずのない場
所で,かいま見たときの驚愕に似ていた。私は激しい心臓の鼓動を感じながら,そのマルクス
の胸像を凝視した。それは車が通りすぎるまでの,ほんの一瞬のことであったが,その姿は私
の眼底に深く焼きついた。もし,そのときの私の眼に狂いがなければ,このモスクワの街角の
マルクスは,確かにハイゲート・セメトリーにいるマルクスと同一人であった。
「あれはソ連大使館がやったものだと思う」
というディリー・ワーカー社の人のことばは,やはり,ほんとうだったのである。私はやっと
すべてが読めた。マルクス・レーニン主義の支配する国の,首都の街頭におくために製作され
たマルクスの像と同じ鋳型でつくられたマルクス像が,マルクス主義とは,世界でもっとも思
想的に遠い国イギリスの,しかもその首都の共同墓標として建てられたのである。その普遍主
義の論理は,まことに単純明快である。モスクワの街頭でよいものは,ロンドンの共同墓地に
おいてもまた良いものなのである。ある歴史学者,彼は自他ともにみとめる数少いイギリスの
マルクス主義者の一人だが,先年(1981年),中国からの帰途,日本へ立ち寄ったときに,「ハ
イゲートのマルクスの墓はアグリー(醜悪)だ」といった。
 それからまた,十四年後,はじめてマルクスの墓にもうでた一九六〇年から数えて十八年,
一九七八年八月のおわりに近い日に,私はふたたびハイゲート墓地の門をくぐった。マルクス
のもとの墓のあった場所をさがすためである。マルクスの巨大な墓標のまえには,数人のアジ
アの若者がいた。パリ在住のベトナム人だ,ということであった。彼らはたのしそうであった。
気温は低かったけれども,イギリスではめずらしく晴れた日であった。マルクス像の台座の下
に,花をささげたのは彼らであるにちがいない。私は二度目ということもあって,この巨大な
マルクスの墓標には,何の感慨もなかった。けれども,興味をひいたことは,十八年まえもそ
うだったが,マルクスの墓標は,いま,建てられたもののように,きれいに磨きあげられてい
ることだった。胸像には緑青のあともなく,台座の花崗岩は白く光り,マルクスの言葉は午後
の日に,金色にかゞやいていた。私は,その年の春ごろ,このマルクスの彫像に,誰かが白い
ペンキをぬりたくった,という新聞記事を読んだことがあったが,この新鮮さは,いつも誰か
人がきて,磨きをかけていなければ保てるものではない。モスクワのマルクスは,比較的低い
台座の上で,街の埃をかぶるにまかせられている感であったが,ハイゲート墓地のマルクスは
倖せにも清潔である。
 ところが,この十八年のうちに,やはり変化があった。それはいつ作くられたのか,三〇セ
ンチほどの高さの美しい白い飾り柵が,マルクスの墓の手前,約一〇メートルばかりのところ
から,道に沿って,墓参者をみちびくかのように,台座のところまで,つづいていることであ
った。この柵は,マルクスの墓域を何倍にも大きく見せるのに役立っていた。しかし,その柵


p9

の内側には,十字架をつけた二つの墓が,マルクスの大きな墓標の下に,低く,それこそ蹲る
うずくま
ようにして,並んでいるではないか。この二基の墓は,私がこのまえきたときにはまだなかっ
た。墓標をみると,七〇年代に入ってから埋葬されたイギリス人の墓であったから,マルクス
とは何のゆかりもない人のものであるにちがいないが,こうしてマルクスの墓の柵に囲まれて
いると,それはあたかもマルクスの従者か何かの墓であるようにさえ見える。この二つの墓地
にねむっている人の遺族は,どう感じているだろうか。ハイゲート・セメトリーの管理当局が,
この場所を指定したので,仕方なしに,ここに死者を葬ったにちがいないが,彼らは墓参のた
びに,その柵を越えて入り,また柵を跨いで出なければならない。しかしこの柵をつくった人
の理論は,やはり単純明快であるにちがいない。しかし傍若無人とは,こう場合を形容するた
めにつくられた言葉である。
 私はマルクスのもとの墓のあった場所をさがすためにこの墓前を去った。そしてまたハイゲ
ート墓地の奥へすゝんでいったのだが,十八年まえには,晩秋の風に簫々としていた墓地は,
夏草におおわれていた。私はこのまえに,見おとしていたかも知れない場所のうち,とくに,
新しいマルクスの墓の後方を,重点的にさがしてみることにした。この墓地では,いまのマル
クスの墓の面している広い通りから,また何本もの道が,墓地の奥に向ってつけられ,またそ
れに交叉して,たくさんの道がついているが,私はとにかくマルクスの新しい墓のすぐ手前の
道を,墓地の中央にむかって,はいって行った。その道幅は,ほゞ二メートル,棺をかついで
通る人が行きかうことがあっても,これでほゞ十分の広さなのであろう。私はこの道から横に
出ている,さらに狭い道のいくつかをみて歩いたのち,当もなく,細い道の一つを選んで入っ
てみた。それはマルクスの墓の後方を,ふかく横に区切っている道だが,四,五十歩も入った
ところだったろうか,私は偶然,マルクスの墓のあった場所に行きあたった。そこはマルクス
の新しい墓地からいうと,直線にして後方三〇メートルばかり奥の,やゝ右よりの地点であっ
た。どの墓も夏草でおおわれているなかで,そこだけは,赤味がかかった粗末な花崗岩の大き
な石板が,草を防いでいたのである。その石板は,縦ニメートルあまり,横一メートル強の狭
い墓域を,すっぽりおおいかくすようにして置かれていたが,それには,こう書かれていた。














p10








1954






14 1956
「この地点は,以前,カール・マルクスの妻イェニー・フォン・ヴェストファーレン,カ
ール・マルクス,彼らの孫ハーリー・ロンゲ,ヘレナ・デムートが葬られていたところであ
る。彼らの遺骨は,一九五四年十一月二十三日,ここからほど近い場所に移転,改埋葬され,
リメインス
そこには一九五六年三月十四日,墓 標が建てられた」
モニュメント
 一九五四年十一月といえば,スターリンの突然の死(1953年3月5日)の,一年八ヶ月のち,
また五六年三月十四日は,第二〇回ソ連党大会においてフルシチョフが「スターリン批判」(秘
密報告)を行った一ヶ月後のことであった。そしてさきに,私がディリー・ワーカー社で見た
写真は,このマルクスの墓地跡碑を設置しおわっての記念撮影であったらしい。この人々はソ
連から派遣された技師たちであったにちがいない。彼らはスターリン時代に命をうけ,フルシ
チョフ時代の初期に,これをおわったのである。

 いまはただ墓地跡でしかないこの墓域には,マルクスにさき立って妻のイェニー()が
葬られた。イェニーはマルクスといっしょにパリ近郊のアルシャントゥイユに住っていた病身
の長女ジェニー()を見舞ってロンドンヘかえってから,すぐの一八八一年十二月二日,
亡くなった。すでに肝臓を癌におかされていた六七歳の肉体は,その長い旅行に耐えられなか
ったのである。そして三目後の十二月五日,イェニーが葬られる日,肺炎と診断されたマルク
スは,病床にあって妻を見送ることすらできなかった。葬送のことは,エンゲルス(
 182095年)が一切をとりしきった。彼は,このドイツ・プロイセンの貴族の娘として
生れ,聡明忍従,その人生のすべてをマルクスとその仕事のために捧げたイェニーを悼んで弔
辞をのべたが,それは「他人を倖せにすることに自らの最大の倖せを感じた女性が,かつてあ
ったとすれば,その女性こそ,彼女でした」という言葉でむすばれた。


p11

エンゲルスがイェニーの死を知らせられたとき,彼は「ムーア人もまた死んだ」といったと
つたえられているが,マルクスには,もはや生きる力はほとんどのこされていなかった。「ム
ーア人」というのは,マルクスの子供たちが,父をよぶときの愛称となっていた昔からの仇名
であったが,彼らの「ムーア人」は,もちろん,それからも療養につとめた。ロンドンの留守
宅は,マルクスの一家に生涯をささげたヘレナ・デムート(
 182090年)に任
せて医者のすゝめるまゝに転地を試みてもみた。そして彼の死の年の八三年一月,南の転地先
からすぐ寒い冬のロンドンヘかえるのは無理だと思って,イングランド南部のワイト島に冬を
さけていたときだったが,フランスにいるジェニーが去る一月十一日,ついに死んだ,という
知らせを,末娘のエレナ()がもってきた。マルクスはいそいで寒冷と霧のロンドンヘ
かえってきたが,悲嘆,懊悩,もう起てなかった。彼はジェニーで六人の子供のうち四人を失
ったのである。それから病床にあることわずか二ヶ月,妻イェニーの死から十五ケ月,一八八
三年三月十四日,「カール・マルクス」は,その六五年の生涯を閉じたのである。彼の病名は



肺膿瘍と診断された。
 カール・マルクスの葬送は,三日後の三月十七日に行われ,遺骸はイェニーの傍に葬られた。
そのとき,エンゲルスがのべた追悼の辞は,「三月十四日の午後二時四五分,現代最大の思想
家は考えることをやめました。ほとんど二分と独りにしておかなかったのに,私たちが部屋に
はいってみると,彼は安楽椅子のなかで,しずかに,しかし永久に眠っていました」というこ
とばではじめられた。そしてつづいて彼は,マルクスの創造的な思想的業績とその意義を,生
物学におけるダーウィンに比しつつ,のべたのち,「マルクスにはなお多くの反対者がいたで
しょうが,個人的な敵は,ほとんど一人もいなかったと,私は断言することができます。彼の
名は幾世紀にもわたってとどめられましょう,そして,その事業もまた然りでありましょう」
と結んだ。
 ハイゲートの墓地は,まだ,いまのように立てこんでいなかった。マルクスの墓前は十分の
広さをもっていたが,参列者はけっして多くはなかった。それも,おもにロンドン在住のドイ
ツ人とフランス人たちで,イギリス人の参列者は,きわめて僅かであった。また多くの弔電,
弔文が,ヨーロッパ各国の社会主義政党や社会主義者グルーブから寄せられたが,イギリス人
からのものは一つもなかった。
 フランスで亡くなったジェニーの夫,シャルル・ロンゲ(

)が,フランス語
の弔文と弔電を読んだ。そのなかにはロシアの社会主義者からの「カール・マルクスの墓にさ
さぐ」という長い弔文や,「フランス社会党」「スペイン労働党」の弔電などがあった。ロンゲ
につづいて,ヴィルヘルム・リープクネヒト(

 18261900年)が,ドイツ
人労働者のために,ドイツ語で弔辞をのべた。英語のものは,さきのエンゲルスの弔辞が,英


p12

語でのべられたというだけであった。
 ヨーロッパ大陸諸国では革命的思想家として令名の高かったマルクスであったが,イギリス
ではあまり人に知られない存在であった。彼は一八四九年八月から一八八三年三月まで,その
人生の大半,その活動的な時間のほとんどすべてをイギリスで過したのだが,この国の社会主
義や労働者たちも,マルクスとその思想には,ほとんど興味を示さなかった。マルクスがロン
ドンヘ亡命してきた直後の「共産主義者同盟」の時代と,一八六四年の「国際労働者協会」(所
謂,第一インタナショナル)の創立当時は,いくらかの知識人や労働者がマルクスの周辺にい
たことはいたが,彼らもまた,やがて去っていった。そしてそのうちに彼らもまたマルクスの
ことを気にもしなくなった。ロンドンの新聞が,マルクスの死をつたえたのも,死後,かなり
たってからのことであった。
<註>
 エンゲルスの弔辞は,大月版「マルクス・エンゲルス全集」19による。
 マルクスにたいするイギリス人の無関心について考えることは意味がある。その理由の一つ
に,その生前,マルクスの著作を英語で読むことができなかったということもあるにちがいな
い。そのころマルクスのかいたもので英語で発表されたものは,「国際労働者協会」(第一イン
タナショナル)の設立宣言(1866年)その他で,まとまったものとしては,「共産党宣言」(1848
年)があるだけであった。一八五二年から十年間,マルクスはニューヨーク・ディリー・トリ
ビューン紙に定期に時事評論を寄稿していたが,それはイギリス人の眼にふれなかったし,一
八七〇年ごろロンドンの週刊誌にも数度,寄稿したことがあったが,この場合にはマルクスの
名は匿されていた。
 資本論の英訳がでたのはようやく一八八六年のことである。フランス語版におくれること十
一年,ドイツ語版の原著が出版(1867年)されてからいえば,実に十九年後のことであった。
マルクスは死ぬしばらくまえに,末娘のエリナに資本論の英訳をすゝめたこともあったという
ことだが,最初の英訳はエンゲルスの監修で,サムエル・ムーア(
)とエドワー
ド・エイヴリング(

)とが行っている。(エレナとエヴェリングとは結婚し,と
もに一八九八年に没するが,ハイゲートの墓標にはエレナ・マルクスと記されている。その理
由を私は知らない。)したがってこの英訳が出るまでは,イギリス人はフランス語訳に頼らな
ければならなかった。マルクスの友人のなかでも数少いイギリス人ヘンリー・ハインドマン

)が,マルクスを尊敬,接近するようになったのは,彼が「フランス語訳
の「資本論」第一巻を読んでからのことであった。しかし彼はマルクスの埋葬式には列してい


p13

ない。それは,マルクスが,あることでこのハインドマンの無礼を責めて交りを断っていたか
らだと思われるが,のちになって,彼はマルクスにたいする想い出をかいている。
 そのころのイギリス人が,ほとんどドイツ語が読めなかったのは,その底にドイツ文化に対
する無関心,いいかえればドイツ文化軽視があったようである。王室関係ではドイツとイギリ
スとは,深くむすばれていた。とくにハノーヴァー公国,それはアングルとサクソン両部族の
故地のあたりにあった国だが,そのハノーヴァーと英帝国とは,ヴィクトリア王朝(1837~1901)
がはじまるまでの一世紀あまり,同一の君主をもつ関係であったし,またヴィクトリア女王の
夫アルバートは,ドイツのザクセン侯の弟で,彼らの長女はプロイセン・ドイツ皇帝カイゼ
ル・ヴィルヘルム二世(1918年廃位)の妃となっていたが,しかし,この王室関係も,ドイツ
文化にたいするイギリス人の敬愛心を高める条件とはならなかった。こうしてドイツ文化の輸
送手段としてのドイツ語の学習は,少数の特別の人たちを除いては,イギリス人にとって魅力
のあるものではなかった。この状況は,明治憲法制定いらい,とくにドイツ文化を尊敬し,ド
イツ哲学,ドイツ法学,ドイツ医学,ドイツ音楽等の学習にはげんできたわれわれ日本人には,
とうてい理解できない。
 イギリス人の文化的関心はドイツではなく,フランスに向っていた。イギリスヘの文化の流
れが,ギリシャ・ローマ→フランス→イギリスという道順をたどってきていたからである。イ
ギリス人にとっては,フランス文化は高尚であり,その言語は修得必須のものであった。マル
クスの長女ジェニーの夫,シャルル・ロンゲが,亡命中,ロンドンのキングス・カレッヂに職
を得ることができたのも,彼がフランス人であったことに理由があったにちがいない。文化の
流れは,いったん定まると,その方向を変えたり,逆流したりすることは,ほとんどあり得な
いもののようである。北上する太い黒潮の流れに沿って南下する細い逆潮流ができるように,
文化的本流の傍に,細い文化的逆流が生れていただけである。昔も,文化の本流は,古代ギリ
シャからローマに流れる一方であった。紀元後五世紀,ギリシャ語を学ばなかった聖アウグス
チヌスが,「告白」「神の国」など,あれほどの歴史的大著作をなす時代になっても,ギリシャ
人はラテン文化に尊敬をいだくことはなかったのである。

 マルクスの憧れの国は,隣国フランスであった。彼にとってはイギリスは問題ではなかった。
それはフランス文化がイギリスの文化よりも高度であると彼が考えたからではない。一七八九
年のいわゆるフランス革命いらいの革命的伝統をもつフランスは,「プロレタリア革命」が成
功する条件の,もっとも成熟した国であると信じていたからである。一八四三年末,パリに居


p14

を移したばかりのマルクスが書いた「ヘーゲル法哲学批判序説」,この小さな著作は「ユダヤ
人問題によせて」とともに,アーノルド・ルーゲ(
 180280年)編集の独文冊子
「独佛年誌」(1844年)にのせられたものだが,そこにおいて二五歳のマルクスはフランスに
対するドイツの立ちおくれについてこう語っている。
「もしもドイツの現状そのものを問題としようとするならば,たとえ唯一の適切な仕方,
つまり否定的な仕方でそれをやるとしても,その結果はつねに一つの時代錯誤であるだろう。
わが国の政治的現在の否定でさえも,そのような否定はすでに,近代諸国民の歴史の物置小
屋のなかに,埃をかぶった事実として見出されるのである。……一八四三年のドイツの状態
を否定したとしても,フランス暦からいえば,私はやっと一七八九年のところにいるかいな
いかであって,現在という時代の焦点に立っているどころではない。」「あらゆる内的条件が
満たされたとき,ドイツ復活の日は,ガリアの雄鶏の雄たけびによって告げ知らされるであ
ろう」(岩波文庫版「へーゲル法哲学批判序説」)。
 マルクスのこの予想は見事に適中した。五年後の一八四八年二月二十三日夜のパリにおける
反政府暴動は市街戦に発展した。そしてこのいわゆる「二月革命」は,翌月にはオーストリア,
ドイツ,イタリアに波及した。まさにガリア(フランス)の鶏鳴によって,ドイツの民衆は目
をさまし,自由を求めて立ち上ったのである。そのころ,ブリュッセルにいたマルクスは,ケ
ルンへはいった。そしてそこで「新ライン新聞」を武器としてたたかったが,しかし周知のよ
うに,一八四八年の革命は,結局,旧勢力のまえに敗れ去った。マルクスはケルンを逃れてパ
リヘきたが,またパリからも追われた。仕方なしに一八四九年八月イギリスヘ亡命しロンドン
に居を定めることになるが,フランス社会主義派の中心人物ルイ・ブラン(
 1811
82年)もマルクスと前後して四九年,イギリスに亡命した。ロンドンはいつも位を失った王,
失脚した政治家,革命に失敗した革命家などの亡命者にみちあふれていた。
 しかし,ヨーロッパ大陸における革命の波はイギリスにまで波及することはなかった。ガリ
ヤの雄鶏がときをつくっても,イギリスの鶏が共鳴しなかったのは,ドーヴァー海峡のせいで
はなくて,イギリスではすでに二世紀ちかくもまえに,その近代革命が完了していたからであ
る。フランスにおける一七八九年から一八四八年にいたる,いや,一八七一年のパリ・コンミ
ューンに至るまでの革命シリーズと同じ歴史的意義をもった革命シリーズが,イギリスにおい
ては,すでに一六四〇年~九年のピューリタン革命から一六八八年の名誉革命にかけての時期
に,完了していたからである。
 こうして革命家マルクスにとっては,イギリスは革命をおこすには,きわめて厄介な国だと


p15

いうことになる。そこにはまだ近代革命のはじまらない彼の故郷ドイツの革命の場合とは,ち
がった処方箋が用意されなければならなかったはずだが,マルクスは同時に二つの革命理論を
立てることはできなかった。こうしてヨーロッバ大陸向けの,とりわけドイツのための説教は,
イギリスでは石地に蒔かれた種子のように,繁殖することはおろか,芽生えることさえ覚束な
かった。マルクスはイギリスの労働者さえ,当てにならない連中だと思い,イギリス人はまた
思想的違和感をマルクスに感じた。イギリス人のマルクスにたいする無関心の思想的理由は,
このあたりにひそんでいた,と思われる。
 マルクスの革命思想がイギリス社会に受けいれられなかったということは,逆説的ないい方
をすれば,それはまたマルクスとその家族の平安のためには,けっして悪いことではなかった。
というのはマルクスはロンドン滞在中,いつもイギリスから追放されるのではないかというお
それを抱いていたが,その心配が杞憂におわったのは,彼が笛を吹いてもイギリス人が踊らな
いことを,イギリス当局が知っていたからである。したがって政府はマルクスのイギリス国籍
の取得の申請には応じなかったが,追放する意思は,全然もっていなかった。そしてこのヨー
ロッパきっての危険人物カール・マルクスにたいして,ただロンドン警視庁に注意させる程度
にとどめていたのであった。これはルイ・ブランのような熱烈な共和主義者にたいしても同様
であって,君主国イギリスは,ルイ・ブランが,永久に王制を廃した共和国フランスヘかえる
までの二十一年間,そのロンドン滞在をみとめたのである。これはイギリス人が人道的であっ
たからではない。すでに二世紀ちかくもまえに近代革命をおわり,その名誉革命の翌年の一六
八九年,「信仰自由令」(

)を発して,ともかくも「信仰自由」の名のもとに,
思想の自由を保障した国家の制度的自信にもとずくものであったと考えなければならない。
 このイギリス人とマルクスとの思想的乖離は,彼の三十二年におよぶロンドン滞在ちゅう,
拡大する一方であった。それはマルクスが,その思想体系の核心に,「プロレタリアート独裁」
の思想を据え,いよいよこれを確実にしていったことに理由があった。この「プロレタリア階
級独裁」の思想は,マルクスの全思想体系の眼目であり,核心であった。だから,これを除い
てマルクスの思想を語ることはできないし,これを受容することを拒否すれば,マルクスの他
のいかなる思想(学説)部分を尊敬受容しても,彼はもはやマルクス主義者とは言い得ない。
(註)マルクスが,その思想体系の核心に,「プロレタリア階級独裁」の思想を据えたということは,す
べての人間の思想,したがってマルクスの思想もまた,それは生きものの体系,すなわち有機的体系を
なして存在している,ということを前提にした考え方である。すなわち人間の思想は,いわゆる思想家
にかぎらず,誰の思想の場合にも,すべてある信念とでもいうべき思想を核として,一個のまとまりを
なして存在している。だから,もしこの核思想が失われるとすると,彼の思想は,要のとれた扇のよう


p16

に,体系を失ってばらばらになってしまう。このばらばら状態が永くつづくと,彼は精神分裂症だとい
うことになり,簡単にその核思想を変える者は思想的無定見者だと評される。ところがまた,この核思
想が大転換(回心)をとげることがある。その代表例としては,あのキリスト教徒迫害者パウロが,一
転してキリスト教徒になった場合がある。彼はイエスの死後,キリスト信徒を追撃してダマスコ(ダマ
スカス)郊外までくるが,ここでパウロは大きな精神的衝撃(天の声を聞く)をうけてキリスト信者に
回心する。そうするといままで彼のもっていたユダヤ教思想とギリシャ的教養と思想とは,その新しい
キリスト信仰を核とする思想体系のなかで,迫害者時代とは全然ちがった意味と性格とを帯びて蘇る。
マルクスが「プロレタリア階級独裁」の思想に到着した時には,パウロの場合ほどの大転換はなかった。
むしろ,同じ性格の核思想「プロレタリア革命」の発展としてとらえる方が正しい。また,その思想が,
かりにフランスのアドルフ・ブランキ(

17981854年)派から得たものであったとしても,
それは問題ではない。そこでマルクスの思想を掴もうとする場合に,彼の青年時代の思想,とりわけ自
己疎外の理論にこそ,彼の思想的本領があると考えたり,その唯物論的歴史観こそ,マルクスの中心思
想であるとしたり,余剰価値=労働収奪の思想=労働者階級の窮乏化思想こそそれだ,と言うように,
マルクスの全体系のなかから,めいめいが思いおもいに,あたかも「群盲撫象の図」を思わせる方法で
マルクスの思想を捉えようとすればするほど,実在のマルクスからは遠ざかっていくことになる。人間
の思想が生きものの体系(有機的体系)として存在しているということを認めないと,その思想は書棚
の上のマルクスの思想になってしまう。しかしこの書棚的方法論は,すでに古典化した思想の場合には,
比較的無害である。アリストテレスの思想的眼目は,その「神学」(「形而上学」)にあるとしたり,プラ
トンのそれは「イデア論」(「国家論」)にあるとするような場合である。それは方法論的には臓器移植,
あるいは部品交換の場合と同じであるから,移植を受けた角膜,あるいは腎臓は被授容者には命のつぎ
に有難いものであることはわかるが,だからといって,それをくれたもとの人の中心的な器官であった
というように考えるのはおかしい。アリストテレスの「神学」は,彼がプラトンの死後三年間,小アジ
アのアッソスにあったときに成立した四十歳代初期の思想であると推定され,プラトンの「イデア論」
は,その「国家論」において,もっともすぐれた政治家の要件を語るところで,五十歳代前半のプラト
ンがのべている思想である。プラトンはのちに「パルメニデス」においてこれに大修正を加えており,
書架のプラトンではなく実在のプラトンは理想政治を実践的に追求しつつ,大著「法律」を記して,八
〇年の生涯を終わっている。
 マルクスの「プロレタリア革命」の思想は,「ヘーゲル法哲学批判序説」のなかにも,その
片鱗があらわれているが,「プロレタリア階級独裁」の思想は,もちろん,彼の青年時代の作
品のなかにはない。「共産党宣言」にもまだあらわれてこない。このプロレタリア階級独裁の
思想は,彼のロンドン移住の初期,あのものすごい貧困生活のなかで,資料蒐集と思索にあけ


p17

くれる一八五〇年代に入るとともに,形をととのえ,一八七一年のパリ・コンミューンを経験
して,それは堅確不動のものとなる。彼の著作によって,試みにそれを拾い出して見るとまず
「万国共産主義者協会規約」(1850年)のなかで,つぎのように言っているのが目につく。
「第一条 本協会の目的は,すべて特権諸階級をその特権的地位からひきおろすこと,人類
家族の組織の最後の形態たるべき共産主義が実現されるまで革命を永続的に持続することによ
って,右の諸階級をプロレタリアの独裁に従属させることである」(大月版「選集」4下)。
「フランスにおける階級闘争」(1850年)において
「この革命的社会主義の主張するところは,革命の永続宣言であり,革命の階級的独裁である。
すなわち,階級の区別一般の廃止,階級の区別の基礎となっている全生産関係の廃止,これま
での生産関係に対応する現在の全社会関係の廃止,およびそれらの社会関係から発生するすべ
ての観念のための,必然的な過渡期としてのブロレタリアートの階級的独裁である」(「選集」
5上)。
マルクスから在米のヨーゼフ・ヴァイデマイアーへの手紙(1852年3月5日付)
「僕があらたに行ったことは,(1)諸階級の存在は生産の一定の歴史的発展段階とのみ結び
ついているということ,(2)階級闘争は必然的にプロレタリアートの独裁にみちびくという
こと,(3)この独裁そのものは,一切の階級の廃止への,階級のない社会への過渡期をなす
にすぎないということ,を証明したことだ」(大月版「全集」28)。
 ドイツ社会主義労働者党綱領(ゴータ網領)が一八七五年五月二五日に採択されるにあたっ
て,マルクスはその草案(ドイツ労働者党綱領)を批判しているが,そこではこういっている。
「資本主義社会と共産主義社会とのあいだには,前者から後者への革命的な転化の時期がある。
この時期に照応してまた政治的な一過渡期がある。この過渡期の国家は,プロレタリアートの
革命的独裁以外のなにものでもありえない。
 ところがこの綱領は,この後者についてはもちろん,共産主義社会の将来の国家制度につい
ても,なにもふれていない」(岩波文庫版「ゴータ綱領批判」)。
 マルクスの死後,一八九一年エンゲルスは,「ドイツ社会民主党綱領(エルフルト綱領)草
案に対する批判を,カール・カウツキー(
18541938年)にたいする手紙の形で記
しているが,そのなかにはこうある。
「もしこの世に確かなことがあるとすれば,それはわが党と労働者階級とが,ただ民主的共
和国の形態のもとでのみ支配をにぎることができるということである。この民主的共和国は,
すでにフランスの大革命が示したように,プロレタリアートの独裁のための特有の形態でさえ


p18

ある」(「選集」17下)。
 この「プロレタリア階級独裁」の思想は,マルクスが初期時代にもっていた「プロレタリア
革命」という幅の広い思想を,一層,具体化し,それの焦点を明確にしたものである。という
のは,「プロレタリア革命」ということだけであれば,社会民主主義をも容れる余地があるが,
「プロレタリア階級独裁」ということになると,それはもはや社会民主主義のもつ相対主義は,
これを許さず,思想的絶対主義を高唱することになる。すなわちプロレタリア階級独裁とは,
けっきょくプロレタリア階級の政党の独裁以外には,あり得ないのであるから,一つの政党の
独裁支配は,必然的にその政党の思想による絶対主義支配,すなわち他の政党とその思想の存
在を許さない支配を志向することになる。
 ここまでくると,マルクスの思想は,もうイギリス人には合わない。名誉革命から約二世紀,
すでに議会政治=政党政治をつくりあげ,労働者の代表を議会におくることも,もはや夢では
ないと考えられていた十九世紀の半に,革命によってプロレタリア階級独裁の権力体制をつく
り上げるという思想は,イギリス人には受け入れられなかった。
 そればかりではない。イギリス人は,そのころすでにマルクスのいっているような,「歴史
的必然」なるものが歴史にあることを,信ずることのできない国民になっていた。それはイギ
リスの歴史に理由があるように思われるが,イギリス人は十六世紀いらい,手さぐりで前人未
踏の近代史を歩いてきたから,彼らの前方にはまだ道はなかった。前方に道が見えるのは,あ
とから行った者だけである。イギリス人が,経験によって事物を認識することの大切さ(経験
主義哲学)を思うようになったのも,その道のないところに道をつけて歩いてきたからである
にちがいない。英国だけが不文憲法の国であるのもそこに理由がある。
 ドイツ人の歴史に対する立場はちがっていた。おくれてすすんだ彼らの前方にはすでに道が
あった。だから必らず通らなければらない道(歴史的必然)あるいは理想の道について考える
こともできたから,彼らはそのような道にかんしての議論をし,またその仕方にも長じていっ
た。しかしイギリス人には,自分たちが切り開いて行く以外に,道はなかったのであるから,
そのような理念を立てることはできなかったし,またそのような理念をつくって議論をしてみ
ても,それは何の意味もなかったから,彼らは次第にドイツ人のような考え方をすることを好
まなくなっていった。したがって「プロレタリア階級独裁」の段階は,歴史的に必ず通らなけ
ればならないというように言われると,それはマルクス流の用語にしたがえば,「ドイツ観念論」
だというべきものであった。マルクスにとっては科学的認識であっても,イギリス人にとって
は勝手に考えているだけのもの(観念論)であるにすぎないのであった。こうしたマルクスの
革命思想は,やがてドイツの革命的現実からも遊離していくことになった。それはおそらくマ


p19

ルクスが亡命者であったことと関係があるのだろう。亡命者はその祖国にたいしても,また亡
命先の社会にたいしても,責任の立場に立ち得ない存在であるから,永くそのような状況にい
ると,その思考は理実遊離,すなわち観念的な方向に向っていく。マルクスにそれが現われて
きたのではなかったか。かくてむかしロンドンにマルクスを訪ねて,その教を請うた者たちに
とっても,プロレタリア階級独裁主義のマルクスの思想体系は,もうそのまゝではうけいれ難
いものとなっていったと考えられる。「ゴータ綱領批判」(1875年)には,何か,マルクスの焦
りと憤りが感じられるが,その批判を受けて修正した「ドイツ社会主義労働者党綱領」も,マ
ルクスの「プロレタリア階級独裁」の思想をうけ入れず,またマルクスの死後,カール・カウ
ツキーたちの作成した「エルフルト綱領」(1891年)も,エンゲルスの注意にもかゝわらず,
やはり「プロレタリア階級独裁」の思想をもって貫くことを避けた感がある。(ドイツ社会民
主党は,この戦後マルクスとの思想的絶縁を,おおげさに宣言した。)
「プロレタリア階級独裁」の思想は,西ヨーロッパにおいてではなく,結局,ヨーロッパの
東の端のロシアにおいて,一九一七年十一月の革命を契機として実現する。そしてその革命の
巨大な魅力によって,一九二二年までに,ほとんどの国において,共産党が生れた。イギリス
もまた例外ではなかった。しかしこの国の共産党は,一九五一年の改正綱領「イギリス社会主
義への道」において,西ヨーロッパでは,いちはやく,イギリスの歴史的伝統である議会主義
に立つこと,を定めて,「プロレタリア階級独裁」主義の抛棄を明らかにした。そしてイタリ
ヤ共産党がこれにつづき,西ヨーロッパのすべての国の共産党は,名目的に,あるいは主観的
にはともかく,実質的には,すべてマルクス主義をはなれた。
 こうして有機的体系としてのマルクスの思想,いいかえればマルクス主義は,西ヨーロッパ
では,すでにプラトン,デカルト,ホッブスなどの思想につづいて,十九世紀を代表する古典
思想の一つとして処遇されることになったのだが,しかしソ連をはじめとする東ヨーロッバ諸
国とアジアの数ケ国においては,そうではない。それは「プロレタリア階級独裁」の権力体制
にささえられて,なお,今の思想として存在しているのである。この状況は,西ヨーロッパの
側からみると,すでに死期にある人が,巨大な生命維持装置によって,生かされつづけている
場合を連想させるが,それはまた,私の場合には,マルクスの新しい墓の回想につながってい
く。そして私は,マルクス思想の産物としての「プロレタリア階級独裁」の権力体制と,マル
クスのあの巨大な墓とが,これから辿るかも知れない運命について考えさせられるのだが,そ
れは私の場合には,けっして爽快なものではなく,むしろ苦渋にみちたものとなる。
 もし,イギリス在住者の誰かが,あのマルクスの墓標に,ペンキを塗りたくる以上の侮辱を
加えつづけるようなことがあったとき,すでにマルクスの墓の管理者になってしまっているソ
連政府が,それの再移転を計画しないという保証はないのである。そのとき人々は騒ぐかも知


p20

れないが,しかし誰も,それを押し止めることはできない。そしてそれは,マルクスが終生,
国籍の回復をねがいつづけていた彼の故国ドイツヘではなく,ロシアヘ運ばれることになるだ
ろうという想像は,果して,ばかげたファンタジーにすぎないであろうか。
 そしてまたフランスにおける一七八九年の革命の仕方をもって,イギリスにおける一六八八
年の革命が,ロシアをはじめとする共産主義的絶対主義体制の諸国に起ろうとするとき,世界
は果して安全でありうるだろうか。そのとき,エンゲルスによって,「現代最大の思想家」で
あったといわれたマルクスの責任は,どう考えられるべきであろうか。まことに,人々は選挙
と経済統計と自然科学的発見とには,大きすぎるほどの関心を示すが,しかし,思想家の責任
について考えることはほとんどしない。思想家自身もまたそうである。

(引用終わり。PDFファイルからのコピペのため、誤変換が多いと思う。正確を期す場合は原文をあたってください。)
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紹介:関連するおはら野のブログ記事名
2019.8.2【岡本清一・京都精華大学初代学長|私のマルクス墓参 _イギリス人のマルクス思想無視について_
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