ITネット社会の様相

オフィスヴォイスのコラムブログⅡです。

7-5 情報発信から夢をつくること

2008年12月29日 | Weblog
 自分の思い通り動かしたいという欲望がオタクのマーケットであるが、これはそのままネットへの欲求でもある。自分の好きな選手だけをみるのも、自分をストーリーの主人公として動かすのも、豊かな人生につながる。お互いが、興味のあるものをつくりあって発信して、交換しあうギブアンドテイクでつり合いがとれる。そこからビジネスチャンスも生まれる。これは、影響力であって支配ではない。協力してお互いの力を集結させる。それが次代の動きとなる。
 皆が情報を発信するとどうなるか。いくらがんばっても世の中にあるすべての本は読めない。こう考えると、受け手のない情報ばかりがネットワークに発信されている世の中になりかねないともいえる。多くの人が情報を発信せずに受容しているから、情報も価値がついているのである。それを知った上で、さらに情報を発信する力をもつことだ。
 それは、当初は自己投資かもしれないが、一番の勉強になる。そこに将来的に成功し、青天井の収益で報われるという夢も必要に思う。そういう人のみた夢を皆は買うのだから。日本のクリエーターたちのおかれている企業の下での搾取構造は、考え直すべきだろう。育てるためパトロンというシステム(パトロネージ)も必要に思う。

7-4 バーチャル・コミュニケーションとアウトロー

2008年12月26日 | Weblog
 バーチャルタウンを歩いて、人に出会うことが起こり、友だちになる。変身して歩けるから、その方が心地よい。もちろん、いろんな街ができてきたら、おもしろいところに人が集まる。その人数を競うことになるなら、今と同じ都市化が起こり、様々な問題が発する。
 行きつくところ、個としてのクリエイティブが重要で、他(まわり)の条件に左右されず、どれだけ質の高いものを発見しつくれるかによって、決めていくべきだ。多くの人が集まったり、多くの人に会うよりも、一人の人との出会いから全てをつかみ、よりよいものをつくり出す。こういうことに価値をおく世の中にならなくてはいけない。だから、売り上げや動員数で作品を評価するのでなく、質、ないしは、その人そのものの生き方で決めていくべきなのである。
 テレクラやダイヤルQ2でも、語り合う友人は、できる。身障者のハンディキャップがなくなる。衝動買いも増える。
 ネットワーク犯罪、ネットワーク上では、身分不確かだから、詐欺や嘘が横行する。概して少ない人数でやっているうちは、モラル、良心、そのネットをよりよく高めようという人の運営であるが、一般的に解放されていくと、同じレベルの水準は維持しにくい。これは、人間関係をみればわかる。類は友をよぶから、朱に交じわる。うまく行なわなければ、発展が損なわれる危険も充分にある。

7-3 助け合うためのネットワークづくり

2008年12月24日 | Weblog
 一人ひとりが大きなことをやろうとすると、助け合うこと、つまり情報の共有が求められよう。売れているセールスマンにノウハウを聞いたり、皆で問題を出して、知恵を集め、解決していこう、という形になる。ヒエラルギーは、情報の伝達のためにあったから、上意下達の制度がなくなるとくずれていく。
 情報の共有は、個人ごとに競うシステムのなかでは、成立しない。共有とは自分のノウハウを他人に盗られることでもあるからだ。だから、ネットワークのなかで何回、その人がアシスト、つまり頼りにされたかという度数をボーナスなどで評価するとよい。
 古くからいる社員の評価なども、その経験を生かしている人とそうでない人とは、こういう評価システムで問いを解決できる。講師に聞く質問も、ネットワークで共有すれば、皆で考え、他の人がうまく答えられることもある。すると、皆が特に教える人は、よく学べることになる。
 相互に問いも共有する。それは問いをつくる能力、問いそのものを判断する力になる。それとともに教えることで、学ぶのは効率がよいことである。

7-2 才能の融合、開発が起こる

2008年12月22日 | Weblog
 ネットの社会では、さまざまな融合が起こるが、才能に関しても同じである。コメディアンやロックのヴォーカリストが、映画の監督をするように、表現するものをもつ人は、ツールとして、ネット化された表現手段を使っていくだろう。
 さらにそこにコンピュータを武器にした強力なライバルが現われるだろう。人間が何かを感じる固有のパターンは、音であれ絵であれ、自然界にあるものだ。しかし、コンピュータが全くない形のものをつくり出し、人間のハッとするものを考案することもある。発明や研究開発なども、人間の思考と違うコンピュータをパートナーにすることにより、画期的なものが出てこよう。実用面のみならず、芸術文化においてもいろんなものを創り出していくだろう。
 それが本当に人間にとってよいものか、大切なものかという議論は抜きにして、ともかくも多くの生成物ビジネスとして成立していくことになろう(ただ、私は単純におもしろいものは、価値があると思うので、受け入れていくことを提唱しているが、それはかなり深い直観や人間性の上にもとづいたおもしろさであるべきだろう。特に、子供たちにはおもしろいから何でもよいという与え方は憂慮すべきことだろう)。

7-1 個としての解放、与えることに喜びを感じる

2008年12月19日 | Weblog
 現実の社会であれば、特定の空間で同じ時間なら、人は人と触れ合える。そして、生きていることの縁を交換できる。それをネットワークやバーチャル・リアリティでは、遠い現実(空間、時間)でも、触れ合えるようになる。地球の裏側でも、過去の人とも…そういうところにネットの大きな意味がある。
 そうであれば、ネットとはまさしく人間であり、その延長上のツールがパソコンとなっただけで、今まで電話や車といったテクノロジーとの関わりそのものは変わらない。最も大きな変化が起こるとすれば、個人としての解放がなされたときであろう。一人ひとりがエルビスプレスリーやビートルズのようになれることに意味があるのだ。バット一本あって、名選手が生まれ、ギターひとつがあって、ロックスターが生まれた。バットよりもギターよりも、ネットは身近かにある。
 一方でなぜ、ソフトを制作した人がフリーウェアにするかというと、生きている喜びを人に与えることで得たいからだ。情報を与えることに、コストがかからなくなると、回収はいらないと考える人もたくさん出てくる。人間が話す=音声、書く=文字、会う=ビジュアル、これをネットが統合し、増幅して発信する。
 ネットは意志決定やビジネスにも有用であるが、文通のような人から人へ伝える心の延長上で捉えたいものだ。人に与えることで生きていることが感じられる。これが価値になる社会が現われてくることを望みたい。

6-22 情報中毒からの逃亡法

2008年12月17日 | Weblog
 現代人は人工的な刺激のなかで疲れている。目には色と光と文字とものと、耳には騒音、人の話し声、雑音と、体はラッシュでの押しつけ、鼻には車や建物の吐き出す悪臭、人の体臭、舌には日々何度もの飲食物。五感は常に刺激に満ちている。刺激過多の社会に我々は住んでいるのであり、生物としての理にかなっていない疲労を抱え込んでしまっている。そこにさらにテレビや新聞が追い打ちをかける。情報化社会の恐ろしい仕掛けのなかに、我々はへたをすると死ぬまで、踊らされている。ネット社会は、これを加速していくだろう。
 世の中が、自己主張をするばかりのカラオケ風騒音に満ちているとき、静かな音楽、もしくは静寂を求める人が出てくるのは、自然の摂理である。与えられ過ぎると、体というものは受けつけなくなる。大きな声で怒鳴られると人間は耳をふさぐが、小さな声でささやかれると聞く耳を立ててしまうようなものだ。

6-21 脳のつくり出す映像をみる

2008年12月15日 | Weblog
 シンクロ・エナジャイザーという特殊なマシーンがある。これは、光と音で脳波を刺激しながらストレスを解消するというものだ。アメリカで三〇年前に発見された。自分が今まで見たことのない美しい映像が浮かんできて、何とも言えないいい気分にさせられる。その後は、頭のなかがすっきりクリアーに空っぽになり、クリエイティブな状態になる。映画館のなかで味わう映画よりも、自分の脳のなかでつくり出される映像である分馴染やすいのだろうか。また、山や海で自然と一体感になるような気分を座したまま味わえるのであるから、人工的瞑想である。
 このシステムは、アメリカではジムの形で普及し、ティナ・ターナーはじめ、錚々たるミュージシャンからVIPまで幅広く利用されているということである。私は、眠っているときにみる夢が、人間に果している役割をいろいろな意味で代用していけるかもしれないと期待している。日本でもブレインジムの形でオープン、案の定、不眠症解消とか集中力養成プログラムという形で小売(三〇分単位の体験)に出ている。
 ただ、こういうものがどんどんと普及してくるにつれ、刺激の度合の強いものが出てくるに違いない。そのとき、目に見えないものだけに、安全性という問題を予め、脳の研究と共に考えておかなくてはいけないことは言うまでもない。脳にこういったものはよくない。脳に働くから食品が私たちの体に働くのと同じような危険な要素を含むからである。

6-20 合法的ドラッグとしてのネット利用法

2008年12月12日 | Weblog
 データを蓄えるということと加工の組合せによって、一人の人間のアウトプット能力は支えられている。現在のコンピューターでは、こういう分野では人間ひとりの能力も持たない。その創出能力をさらに高めるなら、自分の脳に直接働きかけ、自分で予知できないものを引き出してくる方法がある。
 一つ例を出せば、ドラッグである。合法ドラッグとして、「デザインフーズ」といわれるものが東京のディスコを中心に秘かに流行していたことがあった。コカインや覚醒剤と違って法的に認可されているが、覚醒作用がありマリファナに似た効果がある。簡単に言うと、まったく新しいアプローチから出てきたアメリカの栄養食品である。特定の効果を狙ってビタミンやミネラルなどの栄養素を適切に組み合わせ、その配合をデザインしたものだ。
 これをさらに強力に押しすすめることが、ネットで可能となる。ネットは、光や音を使って人工的に頭脳に働きかけるハード装置である。五感を刺激することによって各種能力が高まることは、古来から言われていた。天才に病もち(特に脳の病気)が多いことは、多くの研究者が証明している。

※音楽療法は、音の持つ力を生体レベルで相手に受け入れさせ、対人コミュニケーションをはかっていこうとするものである。そこからボディソニックなどという商品が生まれた。これは、音楽でリラックスというのを一歩進めて、音のつくり出す衝撃そのものをバイブレーションとして体に感じさせようとするものである。ネットも、これに似た効果を期待できるといえよう。

6-19 「いつでもどこでも」の落し穴

2008年12月10日 | Weblog
 ネットで「いつでもどこでも」という環境の整うことは、「いつ、どこで」という限界をはずす。それはとても便利だが、それにより失われるものもある。遠い距離を一生で一回しか見られないものを見に行ったから、生涯、忘れぬ体験となり、生きる力、そして何かを生み出す力となったということも多いのである。一期一会の縁には縁のよさがある。
 多くの一流のアーティストのDVDが手に入り、CDをかけっ放しにしている日本の若者から、世界へ出ていけるアーティストが出ないどころか、昔より歌えなくなっているのは、必ずしも情報が有用なことを意味しない。
 ネットの時代も、クリエイティブでない多くの生産物が飛びかうだけではどうしようもない。つまらないものばかりが今の書店のようにあふれるだけかもしれない。それは人がつくるのである。つくる人次第なのだ。
 ネットは、他の媒体よりも環境破壊に結びつかないという程度の功績しかないかもしれない。しかし、このことが最も評価されそうな世になったとは皮肉である。
 大切なことは、一日一日、大切にするということである。人間はデジタルではない。やり直しもきかず、複写もできない。時とともに成長し、そして一人で死んでいく、一回帰性の生きものである。「いつでも、どこでも」でなく、「そのとき、そこで」を大切にしたいものである。

6-18 ネット時代を生きるために

2008年12月08日 | Weblog
 メディアのスペース化により、環境とどのようにインタラクティブな関係をつくれるかが問われる。つまり、ネットは、個人ひとりの実存に訴えるような体験をどのくらいもたらされるのかということだ。
 これは、現実にない条件下で、解決策を求めるイメージトレーニングとなる。試行錯誤しながらシミュレーションをつくっていく。それには、ポジティブな努力を続けていけば、自分のアイデアを実現できるという信仰が必要となるだろう。 
 そのためには、
・複合的生き方、別人格、変身願望を自分自身にもつ。
・ひとつの現実に価値おかない。
・いろんな人間に対応できるコミュニケーション力をもつ。
・コンピュータと親しくつきあう。
・ハプニング、変化を期待し、活かす力をもつ。

 トータルにものが捉えられた昔の人の感性をみるとよい。サブカルチャーで活躍した人の生き方などは参考になるだろう。人間が人間たるところと周囲環境を結ぶイマジネーション、そこに生命感、生きる理由ある。自然のなかにいると、そのバランスが理解できる。感性は秘教、それを顕在化するためにネットがある。
 「ネット人間とは、超越的な何かを使う能力がある人」と、紀田順一郎氏はいう。