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各種のお知らせと季節のたより

桜蔭会 京都支部
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大徳寺―龍源院と特別公開(黄梅院・興臨院・総見院)

2024-10-11 00:00:33 | 季節の便り

大徳寺の朱塗りの山門(「金毛閣」、高さ17m)は、千利休が豊臣秀吉に切腹を命じられるきっかけになったことでも知られます。
その北側に仏殿・法堂・方丈などが続く大徳寺本山の壮麗な伽藍は、通常非公開です。

境内にはその他に、2つの別院と22の塔頭(たっちゅう。付属の寺院)が立ち並び、お寺の集合体を形作っています。
塔頭の間の石畳の通路は、時代劇のロケができそうな雰囲気です。
秋の特別公開が始まった塔頭もあり、気持ちのよい秋晴れに誘われて出かけてみました。
大徳寺の知られざる物語に、たくさん出会えた気がします。

 

【龍源院】

本堂は、室町時代の禅宗方丈建築の貴重な遺構です。

方丈の南庭と東の坪庭(「東滴壺」)は、昭和期に作られたモダンな石庭です。
坪庭で生まれた水滴が集まって、大海(南庭)に流れていく…という風にも見えます。

 

 

【黄梅院】

門を入ると、一面の苔に覆われたモミジ林。
ちょうどエナガの群れが来ていて、にぎやかにさえずりながら枝の間を飛び回っていました。
それより先の境内は撮影禁止のため、写真で紹介することができないのが残念。
重要文化財の本堂、千利休が作った苔一面の枯山水庭園、本堂を囲む3種の石庭、いくつものお茶室。
禅宗寺院で現存する最古のものという庫裏では、かつて70人の修行僧の食事が調理されていたとか…。
見どころ満載のお寺でした。
紅葉の季節の見事さが想像できますが、ほとんど来訪者がいない時期に、職員の方の丁寧な説明を受けながら緑や小鳥たちに癒されながら拝観するのも、いいものです。

 

 

【興臨院】

門や方丈は重要文化財。
資料を基に復元された石庭から、禅宗らしい花頭窓が見えます。



【総見院】

茶花として名高い侘助(わびすけ)椿の原種が、大切に守られています。
豊臣秀吉が千利休から譲られた木を植えたもの、と伝えられているそうです(樹齢400年以上)。

 

本堂の前の「茶筅塚」。茶筅型の花入れと、お茶碗型の水入れ。

織田信長一族の「お墓」が並んでいます。
実際には供養塔で、左から三番目が信長の五輪塔、それ以外は信長の息子たちと孫のもの。少し離れて正室濃姫の五輪塔もあります。
遠くに比叡山の頂が見えます。

このお寺は、本能寺の変で亡くなった信長の一周忌を追善供養するために、天正11年(1538)に秀吉が創建しました。
江戸時代が終わるまで広大な敷地に豪壮な堂塔が並び、隆盛を誇っていたそうですが、明治初年の廃仏毀釈で総見院は灰燼と化します。
現在公開されている寺宝の織田信長木像(創建時に製作。重要文化財)は、その時に難を逃れて本山に預けられたそうです。
このお寺は大正年間に再興されますが、木像が帰ってくるのは信長の380年忌に当る昭和36年(1961)だったということです。
木像の眼光鋭い目は、近世・近代の日本仏教史をどう見てきたのでしょう。

(「織田信長公木像」総見院のパンフレットより)

 

〔投稿:SI〕

 

 

 


寂光院―建礼門院のゆかりを訪ねて2

2024-08-28 09:19:57 | 季節の便り

大原の里の中心を流れる高野川に注ぐ支流の草生(くさお)川に沿って、農家や畑の間の道を上がっていきます。
寂光院が近づくにつれ、草生川は深い谷になっていました。


外門を入り、大きなカエデ・モミジが空を覆う石段の先に、山門が見えてきます。

 

山門を入ると、華奢な本堂がひっそりとたたずんでいます。

豊臣秀頼と母・淀君の命で、関ヶ原の戦いの頃に建てられた旧本堂。
放火により全焼してしまったのは、2000年のことでした。
本尊の地蔵菩薩立像(重要文化財、像内の文書に1229年の記載)も、表面はすっかり焼損してしまいました(胎内に納められた多数の地蔵菩薩の小像などの納入品は無事)。

現在の本堂は、新しい本尊とともに焼損前と同じ形で復元され、2005年に完成したものです。
復元再建後しばらくの間は、白木の真新しい建物が、逆に放火事件を思い出させて悲しい感じがしたものです。
20年近く経ち、新本堂もすっかり周囲の風景に溶け込んでいます。


(寂光院のパンフレットより)

新本尊は、鎌倉時代に旧本尊が製作された時と同じように施された彩色が、とても鮮やかです。
切れ長の伏し目がやさしい、童顔で元気そうな仏さまです。
衣文の表現も美しい。

建礼門院徳子(平清盛の娘、高倉天皇の中宮、安徳天皇の母)は、壇ノ浦の戦いを生き延びた後、京都の長楽寺で出家し、5カ月後の文治元年(1185)9月に寂光院に入ったとされます。
滅亡した平家一門と、『平家物語』の記述では8歳(満6歳4ヵ月)で世を去った我が子安徳天皇の菩提を弔う日々を送ります。
その没年は1191年、1213年、1223年と諸説あり、はっきりしていません。
建礼門院が旧本尊を拝んだのではなさそうです。
しかし建礼門院の没後ほどなくしてこのような姿の仏様が作られたとすれば、建礼門院を慰めたいという思いがこもっているように感じます。

 

本堂の脇の池には山の水が絶えず流れ込んでいて、その透明度に驚きました。
秋海棠が咲き始めていました。

 

本堂から少し奥まったところに、建礼門院の庵室跡の石碑がありました。
洛北の静かなお寺は、これから秋が深まるとともに、モミジの錦に彩られていきます。

 

〔投稿:SI〕

 

 

 

 


長楽寺―建礼門院のゆかりを訪ねて1

2024-08-24 02:23:32 | 季節の便り

(山門)

(本堂へ上がる坂道)

八坂神社・円山公園の南べりに沿って、大谷祖廟(東本願寺系の寺院。親鸞の廟所)との間の道を東山の方へ上がっていくと、長楽寺がひっそりと門を構えています。
山門から本堂へは、さらに急な坂を登っていかなくてはいけません。
あたりはすっかり山の空気です。


(本堂の周りで舞っていた黒アゲハ)


(長楽寺本堂)

本堂は、山際にこじんまりと建っています。
注意して見ると密度の高い木組みが見事です。秀吉の伏見城の遺構と伝えられる建物を、明治時代に移築したものです。
本堂の中にどっかり安置された、秘仏のご本尊を守る立派な厨子。
漆塗の地に龍などが金や白の浮彫で装飾され、いかにも贅沢なこの厨子は、後水尾天皇の中宮であった東福門院(和子、徳川2代将軍秀忠とお江の娘)が寄進したもの。

 



本堂の脇に、建礼門院(徳子、平清盛の娘、高倉天皇の中宮、安徳天皇の母)を記念する、十三重の石塔が立っています。
建礼門院は壇ノ浦の戦いに平家が敗れた時に、安徳天皇や母・平時子とともに入水しましたが、直後に源氏方の武士によって救出されます。
そのひと月余り後、建礼門院はこの長楽寺で住職(法然の弟子、浄土宗)を師として出家し、さらに5カ月後に洛北大原の寂光院に移って行きました。
建礼門院がお布施として長楽寺に残した、安徳天皇の直衣(のうし)を幡に仕立て直したものが、寺宝として伝来しています。

 

すぐ下の円山公園の観光客でにぎわう雰囲気からは想像もできない、静寂な空間。

長楽寺は平安時代初期に、桓武天皇の命で最澄によって開かれました。
最初は天台宗、鎌倉時代になる頃には浄土宗、室町時代以降は時宗へと変遷していきます。
平安末期、西行はここで修行したといいます。
鎌倉時代から室町時代の時宗の高僧たちの風貌を写実的に伝える座像が、収蔵庫で公開されています。
足利義政の側近の芸術家・作庭家の相阿弥は、この寺に銀閣寺庭園の試作品にあたる庭を造営したと伝えられます。

最盛期の長楽寺は、現在の円山公園とその周辺に大きな敷地を有していました。
その後、江戸幕府から大谷祖廟建設のために土地を割譲させられ、明治の廃仏毀釈の時期には円山公園に敷地が編入され、現在の寺域だけが残されたのだそうです。
世の浮き沈みに遭遇しながら、数多くの有名人が通り過ぎた跡を守りつつ、生き延びてきたお寺です。

裏山には頼山陽らが眠る墓地があります。
木の間から、京都の町がまぼろしのように垣間見えました。

〔投稿:SI〕


貴船(きふね)神社・川床(かわどこ)

2024-08-19 21:06:10 | 季節の便り

今年の京田辺市の猛暑日は今日(8/19)までで35日、これまでの最多の年の一年分とタイ記録なのだそうです。
この先、9月も残暑が続きそうだという予報、今年の記録はどこまで伸びることやら…。

ため息ついてばかりもいられないので、京都で暑さを忘れられる場所、貴船(地名としての読みは「きぶね」)にご案内しましょう。
鴨川の源流の清流と、豊かな森が与えてくれる恵みの涼しさです。


(貴船神社本宮の手水舎)


山肌から渓流の貴船川に注ぐ幾筋もの湧水。
貴船川は賀茂川・鴨川を経て淀川につながり、大阪湾へ流れ込みます。

「きふね」は古くは「気生根」という字を当てられ、活力が生じる場所というイメージがあったようです。
生命力を象徴する樹木がカツラの木。

貴船川に沿って置かれた貴船神社の各社(本宮・結社・奥宮)は水の神を祀り、それぞれにカツラのご神木があります。


(本宮の神木のカツラ。樹齢400年、高さ30m。根元からたくさんの枝が天に向かって伸びている)

 

 

縁結びの御利益があるとされる結社(ゆいのやしろ、中宮)には、和泉式部の歌碑があります。

 もの思へば 沢のほたるも わが身より あくがれいづる 魂かとぞ見る

 


(奥宮の参道)


(高い木々に囲まれた奥宮)

一番上流にある奥宮(おくのみや)は、創建時に本宮が置かれた場所です。
龍神を祀り、平安時代から天皇の勅使が雨乞い・雨止みの祈願に訪れていました。

 

貴船の楽しみといえば、川床料理です。

貴船川沿いの各料理屋さんが、流れの上にしつらえた川床。
涼しい席で、瀬音を聞き、川風を感じながらの食事です。
メニューや器にも清涼感を誘う趣向が凝らされています。

〔投稿:SI〕

 


雨の圓光寺

2024-07-14 00:30:38 | 季節の便り


詩仙堂から北へ山際の細道を歩いていると、石畳のエントランスが格式を感じさせる圓光寺が忽然と現れます。

紅葉の時期には時間制予約が行われるほど人気のお寺ですが、梅雨時には訪れる人もまばらです。

 


(山門を入ると、龍と雲海を表したモダンな枯山水「奔龍庭」)


(中門の前に咲いていた白キキョウ)

中門を入ると、大きな盃の形の手水鉢を用いた水琴窟があります。
地下に空洞が作られていて、手水鉢から絶え間なくしたたり落ちる水滴が、澄んだ余韻のある音を響かせています。

そして「十牛之庭」へ。
雨に洗われたモミジの葉、元気いっぱいに背を伸ばす杉苔。
清々しくてエネルギッシュな緑の世界です。

本堂に座って「十牛之庭」を見ると、柱に区切られた額縁庭園となります。
この日は工事中で本堂に入れませんでした。

 

庭園の奥の方には、力強く天に向かう竹林があります。
竹の根の密度にも驚かされます。



関東の武士の学校「足利学校」の学頭の禅師が、徳川家康の命で伏見に招かれ、「圓光寺学校」を開きました。
そこでは武士や僧侶が儒学や中国古典を学び、テキストとなる本が多く木版印刷されたそうです。
圓光寺学校は、江戸前期に現在の圓光寺の場所に移されます。

ということで、このお寺には葵の紋がついていたり、日本最古の木製活字が残されたりしています。
裏山の東照宮には、家康の歯が祀られているのだとか。

 

山門のあたりから西を眺めると、8月16日夜に大文字とともに点火される「船形」が見えました。
7月中旬になり、洛中では祇園祭の諸行事が進行中。前祭の宵山が目前です。

たっぷりの雨を受けて育つ緑に元気をもらって、これからの夏本番を乗り越えられそうな気がしてきました。

〔投稿:SI〕