(「西山浄土宗総本山光明寺」HPより「もみじ参道」)
長岡京市の光明寺に、家からロードバイクで毎年行っています。
紅葉の季節は入山料が必要ですが、他の時期は自由に散策できます。
青紅葉も綺麗です。
「紅葉の特別入山」のご案内 – 西山浄土宗総本山 光明寺(こうみょうじ)
〔投稿:YM〕
(「西山浄土宗総本山光明寺」HPより「もみじ参道」)
長岡京市の光明寺に、家からロードバイクで毎年行っています。
紅葉の季節は入山料が必要ですが、他の時期は自由に散策できます。
青紅葉も綺麗です。
「紅葉の特別入山」のご案内 – 西山浄土宗総本山 光明寺(こうみょうじ)
〔投稿:YM〕
(嵯峨菊で飾られた大覚寺の入り口)
平安時代の初め、嵯峨天皇が離宮(嵯峨御所)を営んだ場所が、大覚寺になりました。
嵯峨天皇が愛した古代の菊を王朝風の仕立て方で育成しているという嵯峨菊が、例年より遅く、やっと見頃を迎えています。
嵯峨菊の特色の一つは、繊細な糸状の花弁です。
高さ約2mの背高のっぽに仕立てるのは、御所の殿上から見るためだそうです。
一番大きいお堂である「宸殿」は、江戸時代の初め、後水尾天皇に入内した徳川和子(2代将軍秀忠の娘、東福門院)が使っていた女御御所を、後水尾天皇から下賜されたものです。
御所の名残の右近の橘・左近の梅がある前庭で、嵯峨菊の展覧会が行われていました。
(須知高校からの出品もありました)
渡り廊下で複雑につながる数々のお堂の周囲も、嵯峨菊で彩られています。
(大沢池)
大覚寺の東には広々とした大沢池があります。
木々の紅葉はまだこれからですが、マガモ、ヒドリガモなどの渡り鳥の姿が見られました。
〔投稿:SI〕
今年は11月半ばを過ぎても、なかなか紅葉が進んでいませんでしたが…。
洛北の寺社を訪ねた昨日(11/18)は、晴れているかと思うと冷たい北山時雨が降り、というのを繰り返し、日が当たった瞬間におぼろな虹がかかったりしていました。
これが典型的な京都の11月の空模様だ、と思い出しました。
これからぐっと気温が下がるとのことですから、色づきはスピードを増していくでしょう。
【1】上賀茂神社
下鴨神社と並んで、平安京の造営以前からこの地を支配していたカモ氏が古来聖地としていた場所です。
賀茂川のほとり、神山(こうやま)の麓にあります。
(二の鳥居を入ると、「神山」を表した独特な立砂)
(葉先から色づいてきたモミジと、境内を元気よく流れる「ならの小川」)
【2】圓通寺
江戸時代の前期、後水尾(ごみずのお)上皇が修学院離宮を造営する前に、離宮を営んでいた場所。
客殿から臨む額縁庭園の真ん中に、比叡山をほぼ左右対称のベストアングルで借景に取り込んでいます。
(手前に見えるのは客殿の座敷、柱、縁側)
(石を意図的に配置した枯山水平庭の向こうに、借景の比叡山)
【詩仙堂】
今年の4月にも訪れましたが、季節ごとの花が順繰りに見られるように工夫されています。
これからいよいよモミジの紅葉が楽しみです。
(フジバカマ)
(ノコンギク)
〔投稿:SI〕
古い街並みが残る東山の二年坂・三年坂。
レンタル着物店が多く、10年位前には女子大学生などが舞妓さんの着付けをしてもらってこの辺りを散歩するのが流行っていたようですが、今は着物をレンタルしている人のほとんどが外国人の老若男女。着心地も楽そうですね。
二年坂の御所人形の老舗の店先も、長く訪れない間に今風に変わっていました。
以前は職人さんの工房の延長のようでしたが、お洒落に改装されてお土産向きのお人形がディスプレイされています。
三年坂にありながら、入館者も少なくゆっくり見られる清水三年坂美術館。
外観は呉服屋さんと見まがうような、小さな美術館です。
ここには、江戸時代の終わりから明治時代にかけて作られた超絶技巧の工芸品が集められています。
江戸文化の爛熟とともに、諸藩や豪商に支えられて高度に発達した七宝、蒔絵、金工、薩摩焼、木彫などの技法。
幕末以降、すぐれた作品が万国博覧会で紹介され、世界に認められるようになります。
そういった工芸品は日本の重要な輸出品になり、明治政府が支援して生産を奨励しました。
京都は各種工芸品の一大産地として、卓越した職人たちが技術・センスとアイデアを競い合います。
その後、この時期の工芸作品の芸術的価値を低く見る空気が起こり、あまり顧みられない時代もありました。
しかし近年、その技術の高さに改めて注目が集まるようになってきているようです。
現代人には再現できないテクニック。
それは幼少期から厳しい修練を積み重ねなければ獲得できないものなのだそうです。
精魂込めた職人技と、西洋の影響を受けてモダンになっていく感性のコラボレーションを、明治の作品に見ることができます。
常設展示作品の一つ、本物そっくりのパイナップルとバナナ。象牙を彫って着色したものです。
(安藤緑山「南國珍果」/実物大。同館の絵葉書を撮影)
薩摩焼の花瓶に描かれた精緻な絵柄(部分拡大)。実物は、単眼レンズの拡大鏡で見ても驚くべき緻密さです。
(藪明山「祇園祭図薩摩花瓶」/高さ22.0㎝。同館の絵葉書を撮影)
現在開かれている企画展は「明治の七宝」。
日本の七宝工芸の黄金時代を知ることができます。
展示されていた、代表的七宝作家並河靖之の作品。
描線として金属の線を細かく貼り付けた間に彩色したガラス質の粉を埋めて焼き上げた、有線七宝という技法です。
(並河靖之「花文飾り壺」/高さ12.0㎝。同館の絵葉書を撮影)
〔投稿:SI〕
(見出し写真は、宇治市HPより「浄妙寺推定復元図」)
「光る君へ」の世界に触れるべく、平安時代に藤原氏の埋葬の地だった宇治市の木幡(こわた)へ行って来ました。
写真は、許波多(こはた)神社です。
(社殿の背後には、宇治市名木百選「くすのき」。高さ22m、幹廻り3.3m、推定樹齢150年)
境内に塚(伝・藤原基経の墓、36号墳)があります。
この塚を含め、JR奈良線をはさんで合計40基近い古墳があり、藤原氏の宇治陵と総称されています。
藤原道長の墓と伝わる古墳は、山を登って行ったところにあります。
〔投稿:MT〕
藤原道長は寛弘2年(1005)、木幡の地に藤原氏の菩提を弔い一族の結束をはかるために浄妙寺を建立しました。
陰陽師の安倍晴明らが寺地の制定にあたり、宇治川の北方にある平地が選ばれました。
建築工事に道長は頻繁に木幡に足を運び、その時代を代表する仏師に本尊を作らせ、扁額と鐘銘の書は藤原行成に担わせるなど、なみなみならぬ意欲で建立しました。
浄妙寺は平安時代末まで栄えましたが、中世に廃絶し、正確な場所すらわからなくなっていました。
1990年に宇治市立木幡小学校のグラウンドで堂塔の遺構が発掘され、場所が特定されたのでした。
〔補足:SI〕
(参考:宇治市HP「浄妙寺跡発掘調査説明会を開催しました」)