
(ひっそりとした入口)

南禅寺の近くにある、明治・大正期の軍人・政治家山県有朋の別荘だった「無鄰菴〔無隣庵〕」。
ただ今、紅葉の真っ盛り。
事前予約制なので、ゆったり見ることができました。
明治になっても大根畑や荒れ地が広がっていた南禅寺界隈は、琵琶湖疏水が完成した後、平安神宮や有力な経済人たちの広壮な邸宅が立ち並ぶ場所へと一変していきました。
その開発の第一号となったのが、この別荘でした。
山県はそれまで、現在の京都ホテルの裏側の「二条がんこ苑」の場所に別荘「無隣庵」を持っていたのですが、静かな環境のこの地に理想の別荘と庭園を新しく造ろうと意気込みます。
約3,100m2(1000坪に満たない)という、大して広いとはいえない敷地の形は、細長い三角形。
その底辺の部分に、日本家屋の母屋とレンガ造りの洋館が並んで建っています。

山県は、植治(うえじ)こと7代目小川治兵衛という造園家に作庭を依頼し、特に次の3点の要望を出します。
① 東山を借景とし、そこを風景の中心として全体を構成すること。
② 西洋庭園のデザインを取り入れて、広々とした起伏のある芝生地を作ること。
③ 水の流れを大事にすること。
植治は山県のプランを見事に実現していきます。

(母屋の座敷からの眺望)
母屋から眺めると、紅葉したモミジの向こうに、芝生と池や小川、そしてその先に東山のゆるい峰が見えます。
山県はこの峰を、「主山」と呼びました。

水の起点は、庭の敷地の一番奥、細長三角形の敷地の頂点にしつらえた三段の滝。
少し黒く映っている石が滝口です。
ここから、琵琶湖疏水の水が絶えず流れ落ちてきます。

滝の水は浮島のある池に流れ込みます。周囲の紅葉が映っていました。

池の下半分は浅く平らに作られていて、実際より広々と見えます。
真ん中のポイントがカルガモさんのお気に入りらしく、毛づくろいで体が動くたびに水の輪が広がっていました。

池から流れ出た水は、芝生の丘にさえぎられて小川になり、画面の左下に集められます。

集まった水が、画面左上から勢いをつけて落ちてくる下に、石を直線的に並べた小さな段差が設けられ…
石の間を水がこぼれ落ちる時に、コボコボというやさしい音が絶え間なく生じるように作られています。

芝生の丘には、春に真っ先に赤い花を咲かせる木瓜(ボケ)が何株も植えられていて、大きな実をたくさんつけていました。
その間に、春の野の花(ジシバリかな?)の芽がたくさん伸びてきているのが見えます。
見る位置で景観がどんどん変化する庭園。
山県が表したかったのは、故郷の長州萩の里山の風景だったと言われています。
山県はこの新しい無鄰菴を愛し、晩年に近くまで毎年長く滞在していました。
山県の死後、何年か経って、ここは京都市に寄贈されます。
7代目小川治兵衛はこの後、平安神宮神苑をはじめ対龍山荘(豪商市田家が作り、現在はニトリの所有。ただ今公開中)・住友家の有芳園・野村家の碧雲荘など南禅寺界隈の疏水を引き込んだ庭園群や、長浜の慶雲館庭園、仁和寺庭園など、名だたる庭をたくさん作りました。
どの庭園もそれぞれに、見どころや印象が違っています。
植治は芸術家肌というより、施主それぞれの好みに合わせ、その要望に対して和洋の造園業の技・アイデアを柔軟な発想で繰り出して最大限応えてみせる、究極の職人だったように思います。
キャリアの早い時期に無鄰菴の作庭で山県と共同作業したことは、植治にとって大きな勉強になり、その後の飛躍のターニングポイントになったようです。

(見事に染まりつつある母屋前の大モミジ)
〔投稿:SI〕