京都御苑の北辺、今出川御門の近くに、江戸時代まで近衛家(藤原北家嫡流)の屋敷だった場所があります。
庭園の池のほとりの枝垂れ桜が今年も満開になりました(3/29)。
ヒヨドリ、メジロ、シジュウガラ…。蜜を求めて花の雲の中で大忙し。
近衛邸跡のすぐ南側に、五本線のついた塀で囲まれた御所があります。
鎌倉時代の終わりから明治維新までの約500年間、天皇の住まい(内裏)だった場所です。
今の形に整備されたのは、江戸時代の初めの徳川幕府による造営です。
現在はほぼ毎日、簡単な荷物チェックだけで自由に参観することができます。
また1日に数回、宮内庁職員による丁寧なガイドツアーが行われています(無料。約50分間。建物内には入らない)。
詳しくは下のリンクを。
「宜秋(ぎしゅう)門」の内側。腕章の人はガイドさん。
公家たちが参内(さんだい)するときに使った門です。
烏丸通にある蛤御門(はまぐりごもん)など、江戸時代の公家町への入り口だった外門と比べると繊細華麗です。
天皇の即位式などの儀式を行う紫宸殿(ししんでん)とその前の広場(南庭)は、瓦葺で木材を赤く塗った築地塀に囲まれています。
御所の南端部。左の塀の内側が南庭。赤い屋根のでっぱりが「承明門」。
正面に東山の大文字山がちょこっと見えます。
右の檜皮葺の門が御所の正門「建礼門」で、現在も天皇・皇后だけが使われるそうです。
建礼門に続く「承明門」より、南庭をはさんで紫宸殿が正面に見えます。
南庭の東南角より、紫宸殿の全貌。
江戸時代の考証学の成果にもとづき、松平定信の時代に平安時代の様式が忠実に再現されました。
幕末の火災の後、1855年に再建されています。
檜皮葺の屋根は途中で角度を変えて二段に見えます。兜に似ているので「錣葺(しころぶき)」と呼ばれます。
中央部に南庭に降りる幅の広い木の階段「南階(みなみのきざはし)」があります。
南庭の左近の桜は山桜。まだ咲いていません(3/29)。
常緑の右近の橘は江戸時代以来の木だそうです。
昭和天皇の即位の礼(1928年)まで、天皇の即位式はここで行われていました。
1915年11月、即位した大正天皇が紫宸殿の中に置かれた高御座(たかみくら)に立ちました。
77歳の首相大隈重信が、衣冠束帯に沓を履いた姿で、南階を登ります。
大隈は、20数年前に条約改正担当者であった時に、爆弾を投げつけられて右脚をほとんど根元から失い、一人で歩くことも不自由なうえ、絶え間ない痛みに苦しんでいました。
息子に助けられながら18段を登り切り、南の軒下に立った大隈は、元気な大声で大正天皇への祝詞を奉り、万歳三唱を唱えます。
南庭に居並ぶ要人たちだけでなく、天皇即位のお祝いをしようと御苑内や周辺に集まっていた15万人の群衆が、瞬時に応じて万歳を連呼しました。
市中から形容しがたいほどの音量の「万歳」が御所に押し寄せてきた…
と、当時の『京都新聞』が報じています。
大隈首相はその後、決まり通りに後ろ向きに南階を降り、無事に儀式を終えました。
不屈の政治家大隈の気迫と、大正デモクラシーの明るさが感じられるエピソード。
南階を見ると思い出します。
(注:この部分はツアーガイドさんの説明にはありません)
左側の建物が紫宸殿の裏側(北側)です。
南から見た印象よりも、実際にはずっと大きい建物であることがわかります。
紫宸殿の裏に、やはり松平定信時代以降、平安時代の様式が再現された清涼殿があります。
清涼殿は本来は天皇の日常の住まいでしたが、江戸時代には主に儀式に使われたようです。
平安時代の建築様式では天井がなく、大空間を几帳や屏風で仕切っただけでは寒かったのでしょう。
小御所(こごしょ)。
武家は公家の空間に慣例上入ることができなかったので、将軍や大名などの武士はここで天皇に対面します。
明治維新の時に、大政奉還した徳川慶喜に官職を辞退して領地を天皇に返納せよという処分を決めた「小御所会議」の舞台になりました。
御学問所(おがくもんじょ)。
慶長年間の建築で、屋根の下に安土桃山風の飾り。総畳敷きで、和漢の学問をする場所。
慶応3年(1867)末、王政復古の大号令がここで発せられました。
当時、明治天皇は満15歳。
その奥にあった、孝明天皇がプライベートな時間を過ごしたという簡素な建物が心に残りました。
御所の桜はまだ咲き始めたところでした。
手入れの行き届いた松が美しいです。
無料で参観でき、ツアーガイドも受けられるというのは、お得なような…日本にとって損なような…
〔投稿:SI〕