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桜蔭会 京都支部
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御苑の春―満開の近衛邸跡糸桜と御所参観のおすすめ

2025-03-30 13:37:50 | 季節の便り

京都御苑の北辺、今出川御門の近くに、江戸時代まで近衛家(藤原北家嫡流)の屋敷だった場所があります。
庭園の池のほとりの枝垂れ桜が今年も満開になりました(3/29)。

ヒヨドリ、メジロ、シジュウガラ…。蜜を求めて花の雲の中で大忙し。

 

近衛邸跡のすぐ南側に、五本線のついた塀で囲まれた御所があります。
鎌倉時代の終わりから明治維新までの約500年間、天皇の住まい(内裏)だった場所です。
今の形に整備されたのは、江戸時代の初めの徳川幕府による造営です。

現在はほぼ毎日、簡単な荷物チェックだけで自由に参観することができます。
また1日に数回、宮内庁職員による丁寧なガイドツアーが行われています(無料。約50分間。建物内には入らない)。
詳しくは下のリンクを。

参観要領 - 京都御所

 

「宜秋(ぎしゅう)門」の内側。腕章の人はガイドさん。

公家たちが参内(さんだい)するときに使った門です。
烏丸通にある蛤御門(はまぐりごもん)など、江戸時代の公家町への入り口だった外門と比べると繊細華麗です。

 

 

 

天皇の即位式などの儀式を行う紫宸殿(ししんでん)とその前の広場(南庭)は、瓦葺で木材を赤く塗った築地塀に囲まれています。

御所の南端部。左の塀の内側が南庭。赤い屋根のでっぱりが「承明門」。
正面に東山の大文字山がちょこっと見えます。
右の檜皮葺の門が御所の正門「建礼門」で、現在も天皇・皇后だけが使われるそうです。

 

 

建礼門に続く「承明門」より、南庭をはさんで紫宸殿が正面に見えます。

 

 

南庭の東南角より、紫宸殿の全貌。
江戸時代の考証学の成果にもとづき、松平定信の時代に平安時代の様式が忠実に再現されました。
幕末の火災の後、1855年に再建されています。
檜皮葺の屋根は途中で角度を変えて二段に見えます。兜に似ているので「錣葺(しころぶき)」と呼ばれます。
中央部に南庭に降りる幅の広い木の階段「南階(みなみのきざはし)」があります。
南庭の左近の桜は山桜。まだ咲いていません(3/29)。
常緑の右近の橘は江戸時代以来の木だそうです。
昭和天皇の即位の礼(1928年)まで、天皇の即位式はここで行われていました。

1915年11月、即位した大正天皇が紫宸殿の中に置かれた高御座(たかみくら)に立ちました。
77歳の首相大隈重信が、衣冠束帯に沓を履いた姿で、南階を登ります。
大隈は、20数年前に条約改正担当者であった時に、爆弾を投げつけられて右脚をほとんど根元から失い、一人で歩くことも不自由なうえ、絶え間ない痛みに苦しんでいました。
息子に助けられながら18段を登り切り、南の軒下に立った大隈は、元気な大声で大正天皇への祝詞を奉り、万歳三唱を唱えます。
南庭に居並ぶ要人たちだけでなく、天皇即位のお祝いをしようと御苑内や周辺に集まっていた15万人の群衆が、瞬時に応じて万歳を連呼しました。
市中から形容しがたいほどの音量の「万歳」が御所に押し寄せてきた…
と、当時の『京都新聞』が報じています。
大隈首相はその後、決まり通りに後ろ向きに南階を降り、無事に儀式を終えました。
不屈の政治家大隈の気迫と、大正デモクラシーの明るさが感じられるエピソード。
南階を見ると思い出します。
(注:この部分はツアーガイドさんの説明にはありません)

 

 


左側の建物が紫宸殿の裏側(北側)です。
南から見た印象よりも、実際にはずっと大きい建物であることがわかります。

 

 

紫宸殿の裏に、やはり松平定信時代以降、平安時代の様式が再現された清涼殿があります。

清涼殿は本来は天皇の日常の住まいでしたが、江戸時代には主に儀式に使われたようです。
平安時代の建築様式では天井がなく、大空間を几帳や屏風で仕切っただけでは寒かったのでしょう。

 

 

 

小御所(こごしょ)。
武家は公家の空間に慣例上入ることができなかったので、将軍や大名などの武士はここで天皇に対面します。
明治維新の時に、大政奉還した徳川慶喜に官職を辞退して領地を天皇に返納せよという処分を決めた「小御所会議」の舞台になりました。

 

 

 

御学問所(おがくもんじょ)。
慶長年間の建築で、屋根の下に安土桃山風の飾り。総畳敷きで、和漢の学問をする場所。
慶応3年(1867)末、王政復古の大号令がここで発せられました。
当時、明治天皇は満15歳。

 

 

 

その奥にあった、孝明天皇がプライベートな時間を過ごしたという簡素な建物が心に残りました。

 

 

 

御所の桜はまだ咲き始めたところでした。
手入れの行き届いた松が美しいです。
無料で参観でき、ツアーガイドも受けられるというのは、お得なような…日本にとって損なような…

 

 〔投稿:SI〕

 


金閣寺(鹿苑寺)―方丈の特別公開(~3/18)

2025-03-14 21:00:34 | 季節の便り

花の少ない季節、平日、雨模様の天気、昼食時。
これだけ条件揃えたら大丈夫かなと、金閣寺(鹿苑寺)に向かいました(3/12)。
それでも参道に入ると、思った以上の観光客が来ていて、ざっくり90%が外国人のように感じました。

 

まず、本堂「方丈」の特別公開を見に行きます。
こちらは日本語のみのガイドツアーで、ほぼ日本人のみの参加でした。

室町幕府の3代将軍義満が、極楽浄土をこの世で表現しようとした山荘「北山殿」。
義満の死後、遺言により寺院となり、戒名の文字をとって鹿苑寺と名付けられました。
応仁の乱では西軍の陣が置かれたこともあり、本堂以下、多くの建物が焼き討ちされ、金閣などのわずかな建物のみが残ります。
その後、徳川家康時代に住職が政治のブレインとして活躍したことから、江戸幕府の保護で復興が始まります。


(方丈―内部は撮影禁止のため、外から撮ったもの)

現在の本堂は、江戸時代の初めの寛永年間に後水尾天皇の寄進で再建されたものです。

南の3室が、住職がお勤めや来客・檀家との応対に使う表の空間。
白砂の石庭に面しています。
狩野派の水墨画の襖絵が、格調高いです。

背後の北側3室は、住職と弟子の起居のためのプライベートな空間。
植栽の中庭に面します。
曽我蕭白(そがしょうはく)の奇想天外で大胆なタッチの襖絵に、禅宗の遊び心を感じました。

平成時代に解体修理をした際に新調された日本画の杉戸絵(石踊達也・森田りえ子)は、どれも鮮やかで大変美しかったです。

 

方丈を出て、庭園に向かいます。

実は金閣を見るのは20数年ぶり。
鏡湖池はこんなに広かったか…
曇っていても輝く金閣。
世界中の人に伝わる美しさ。

 

金閣(舎利殿)は、三層それぞれ違う建築様式で作られています。
一階が公家の寝殿造風、二階が武士の住宅の武家造風、三階が禅宗様の仏殿風。
当時の社会の三大勢力のトップに君臨した足利義満による、3つの文化を融合させた北山文化の象徴のような建物です。


(金閣内部の様子を示す写真パネル。右下・一階  / 右上・二階 / 左上・三階)
 ☆本物の金閣や木がカバーガラスに写り込んでしまいました。

 


こけら葺きの屋根の上に鳳凰。

 


(池辺には鯉がたくさん集まっている)


満々と水をたたえる鏡湖池に木々や金閣が映る。
雨でも風情があります。

この豊かな水は、裏山(「左大文字」の大文字山)から常に供給されています。


(龍門の滝と、滝を登ろうとする鯉に見立てて置かれた鯉魚石)

 


裏山の上の池「安民沢(あんみんたく)」は、義満がこの土地を得る前、鎌倉時代にここに別荘を構えていた西園寺家の庭園の遺構です。
裏山の水がここに集まり、沈砂池の機能を果たして、上澄みを下の「鏡湖池」に流しています。
鴨たちがのんびり遊んでいました。

 

馬酔木が咲く裏山の遊歩道をさらに登っていくと、一番高い所に、お茶室「夕佳亭(せっかてい)」がありました。

寛永時代の文化人のひとりで、金閣の建物や庭園を修復整備した住職が、ここに後水尾天皇を招いた際に用意したもの。
後水尾天皇お気に入りの茶の宗匠、金森宗和好みの数寄屋造だそうです。
ここから眺める夕日を浴びた金閣が「佳い」ということで命名されました(明治の初めに火災で再建)。

鹿苑寺も室町時代の北山文化だけの遺産ではなく、江戸時代に大きなテコ入れがあって、その後も時代に合った選択をしながら、今に続いていることがわかります。


(「夕佳亭」から見た金閣)

 

そこを過ぎた所で、この寺で初めて目に入った色花、見頃を迎えた紅梅。

ヒヨドリが蜜を吸っています。
横の白梅はまだ全部つぼみでしたが、これから華やぐ季節が始まりますね。

入口からここまでは飲食禁止で、非日常の「聖」なる区域。
以後は、下り坂にお土産や食べ物などのお店がにぎやかに並ぶ、庶民の区域へ。

観光客の流れを一筆書きの一方通行に統制し、背の高い垣根などを設けながら、人々の視線に配慮しているようです。
こちらの庶民的な場所は、鹿苑寺の出入り口や「聖」の区域からはまったく見えません。
すばらしい景観のコントロールに感動しました。
オーバーツーリズムと言われながらも、外国人観光客からダントツの人気がある理由は、このお寺のこういう努力もあるんだなと納得しました。

 

出入り口付近で庭師さんが苔の手入れをしていました。
苔は動物が歩いたり、鳥につつかれたりすると、簡単にはがれてしまうのだそうです。

混じって生えて来る雑草は、小さいうちに一本一本手で抜いています。
そうやって手をかけて苔の好む環境を保っておくと、自然にいろんな種類の苔の胞子が飛んできて、パッチワークの緑のじゅうたんが育つのだそうです。

 

〔投稿:SI〕


銀閣寺の早春―本堂・弄清亭(ろうせいてい)の特別公開(~3/16)

2025-03-12 20:03:56 | 季節の便り


(境内と外部を隔てる背の高い「銀閣寺垣」)

 

銀閣寺の場所にはもともと、室町幕府の8代将軍足利義政の別荘、東山山荘がありました。
義政は応仁の乱が終わった数年後に山荘造営を始めると、すぐにここに移り住みます。
五山文学の担い手である教養豊かな禅僧たちや、すぐれたセンスを持つ作庭家で河原者(かわらもの。中世の被差別民)の善阿弥が、義政の話し相手となります。
彼らの助言で、趣向を凝らした建物や庭園が整っていくのを楽しみにしながら、義政はここで8年間、風雅な隠棲生活を送りました。
私たちが銀閣と呼ぶ観音殿の立柱上棟から1年も経たない延徳2年(1590)の初め、その完成を見ることなく、義政は死去します。

義政の死後、山荘は臨済宗寺院に改められ、慈照院という義政の戒名から慈照寺と名付けられますが、一般には銀閣寺として親しまれています。

 

(銀沙灘〔ぎんしゃだん〕)

境内に入って目を引くのが、グランドピアノのような曲線の形の上に大胆な縞模様を描いた白い盛り砂「銀沙灘」です。
その向こうに見える、長い縁側のある建物が本堂(方丈)です。

時々柔らかい雨が降る早春の日、「京の冬の旅」の一環で16日まで行われている、本堂(方丈)と弄清亭(ろうせいてい)のガイドツアーに参加しました(室内外ともに撮影不可)。

本堂は創建時の建物ではなく、江戸時代初期の寛永年間に再建されたものです。
建物もご本尊の釈迦牟尼仏もやや小ぶりなのは、このお寺が相国寺の境外塔頭(外部にある脇寺)だからでしょうか。
3つに分かれた部屋は、俳人で画家の与謝蕪村や、文人画家・池大雅筆のユーモアあふれる襖絵(複製)で飾られています。


(与謝蕪村「棕櫚〔しゅろ〕に叭叭鳥〔ははちょう〕図」―絵葉書を撮影)

本堂の奥の方に渡り廊下でつながっている弄清亭は、義政が香を楽しんだ「お香座敷」を明治時代に再建したものです。
平成時代に修復された際に、日本画家・奥田元宋の色鮮やかな襖絵で飾られました。


(奥田元宋「流水無限」―絵葉書を撮影)

部屋の北面の床の間の右上から発した渓流は、違い棚を横切ったあと直角に曲がり、この写真では見えませんが、西面の襖につながり、幅広い川となって描かれます。
この建物のすぐ外に、実際に人口の小さな滝がつくられているため、水音を耳にしながらこの障壁画を見ていると、水がどんどん流れてくるように感じます。
色彩と筆遣いの力強さから、現代日本画の迫力を感じる作品でした。

 

特別公開を見終わり、境内を一周します。

境内に創建時から残っているのは、2つの建物。
どちらも国宝に指定され、日本史の教科書に必ず載っています。

【東求堂(とうぐどう)】

義政の持仏堂として建てられました。
内部に4室あり、中でも「同仁斎〔どうじんさい〕」とよばれる四畳半の書斎が有名です。
違い棚・書院(出窓形式で作り付けられた机)が設置され、東山文化の象徴とされます。

 

【観音殿(銀閣)】


(白砂を円錐台の形に盛り上げた「向月台」と銀閣)


(銀閣の南面。初層の幅が狭い。)

銀閣の形は、鹿苑寺の舎利殿(金閣)と、そのモデルになった西芳寺(苔寺)の瑠璃殿(現存せず)に倣っています。
金閣が三層なのに対し、銀閣は二層で簡素。
一層が書院風の「心空殿」、二層が禅宗の仏殿風の「潮音閣」。
ここに銀箔が貼られたことはなく、当初は全体に黒漆が塗ってあったらしいです。

銀閣の東側に、池泉回遊式庭園が広がっています(見出しの写真参照)。
この池は西芳寺の池によく似ているそうです。

義政の時代には、裏山を少し登った小高い場所に、もうひとつ庭園があったことが確認されています。


(今もポコポコと湧いている「お茶の井」。この水が下の池に流れ込みます。周りの石組は室町時代のもの)


(「お茶の井」の脇の崖で、1931年〔昭和6〕に発掘された枯山水の跡)

 

裏山には遊歩道が整備されており、一番高い所から見下ろすと、境内が一望できます。
向かい側に見える小山は吉田山です。

 

裏山の斜面には、早春の花、馬酔木(あせび、あしび)が綺麗に咲きそろっていました。

 

☆令和7年 銀閣寺 春の特別拝観(3/21~5/6)では、本堂・弄清亭とともに同仁斎も公開されるようです。
詳しくは慈照寺のHPなどをご参照ください。

 

行事 | 銀閣寺 | 臨済宗相国寺派

正式名称を東山慈照寺といい、相国寺の塔頭寺院の一つ。名の由来は金閣寺に対し、銀閣寺と称せられることとなったといわれています。本山である相国寺・金閣寺・銀閣寺で行...

臨済宗相国寺派

 

 

 

〔投稿:SI〕


京の食文化ミュージアムあじわい館に行ってみました

2025-03-06 22:09:17 | 季節の便り

(見出し画像は、四季を表現する京菓子の展示)

 

「京の食文化ミュージアムあじわい館」は、食材の宝庫である京都市中央市場に付属する施設で、伝統的かつ創造的な京の食文化の素晴らしさを伝える活動をしています。
JR嵯峨野・山陰線「丹波口駅」より徒歩3分のところにあります。

(外観)

 

ここで人気の料理教室では、京都市中央市場の新鮮な食材を使用して「魚のさばき方」や「おばんざい」などの基本料理から、お寿司・京料理まで京都で活躍される料理研究家や有名シェフ、老舗料亭の料理人などから学ぶことができます。

本日(3/6)は、中央市場仲卸業者おすすめのお店、「宮川町ほった」の堀田功雄先生による教室が開かれました。
料理教室ご常連の支部会員さんのお誘いで、私も初めて参加してみました。

 

まず先生のデモンストレーションを見学した後、参加者が3-4人ずつの班に分かれて調理実習を行いました。
先生の懇切な指導、質問も気軽できる雰囲気、親切なスタッフの人たちに助けられ…
和食の職人技も取り入れた献立が、サクサクと出来上がっていきます。


春らしい色合いで完成しました!
素材が良いので、お味は抜群。


(献立:サクラマスの和風オムレツ/カニのロール春キャベツ/じゃこピラフ風ごはん)

 

 

展示室では、だしの飲み比べができます。

【5つのだし】こんぶだし / かつおだし/ こんぶとかつおを合わせた一番だし /さばだし/あじわい館特製の合わせだし

上手に取られただしは、そのままでも感動するほどおいしいですが、塩やしょうゆを少し加えるとさらにうまみが引き立ち、それぞれの特色がわかります。

 


(北海道各地の昆布が、京料理を支えている)

 

 

京都の五大料理の展示がありました。
各料理の見本を、それぞれ専門店が提供しているのは流石だなあと思いました。


(宮中由来の有職料理―萬亀楼)

 


(お寺由来の精進料理―大徳寺一久)

 


(茶道由来の懐石料理―茶懐石柿傳)

 


(武家由来の本膳料理―山ばな平八茶屋)

 


(京都に多い食材の川魚料理―竹茂楼)

 

京都産のいろいろな食品などを販売するコーナーもあります。
あじわい館特製合わせだし(パック入り)も販売されています。

 

大好きな京都の食についていろいろ学べ、楽しい体験をすることができました。
詳しくは、下のリンクをご覧ください。

 

 

京の食文化ミュージアムあじわい館

伝統的かつ創造的な京の食文化の素晴らしさを実感していただくとともに、市場 及び地域の活性化を図るため、京都市中央市場内に開設された「京の食 文化 ミュージアム・ あ...

京の食文化ミュージアム あじわい館

 

 

〔投稿:SI〕

 

 


仁和寺―経蔵・五重塔の特別拝観(~3/18)と御所庭園

2025-01-22 22:25:53 | 季節の便り

(陽射しが暖かいお昼時、仁和寺の塀の上で、青いイソヒヨドリが歌っていました)

 

仁和寺の入り口の仁王門から眺めると、額縁の絵のように、赤い中門と御室(おむろ)の山々の重なりが見えます。

 

(門を守る仁王様たち)

 

宇多天皇は888年に仁和寺を創建し、翌年出家して法皇となりました。
数年後に仁和寺の住職となったので、ここは御室御所とよばれるようになりました。

その後仁和寺は有力な門跡寺院として勢力を誇りましたが、応仁の乱(1467-1477)によって壮麗な伽藍が全焼してしまいます。
現在の伽藍の建物は、17世紀半ばの寛永年間に徳川家光によって再興された時のものです。

2025年の「京の冬の旅」の一環で、どちらも重要文化財の経蔵(1640年代建立)と五重塔(1644年建立)の内部の特別拝観が行われています。

「京の冬の旅」非公開文化財特別公開 仁和寺 経蔵・五重塔|【京都市公式】京都観光Navi

 


経蔵は、内部に入ることができ、お坊さんによる解説があります。
木版の仏教の全経典(天海版一切経)を800個近くの引き出しに収める回転式の八角輪蔵は、精巧な作りで大きく、迫力がありました。
輪蔵の前には、釈迦如来・普賢菩薩などの仏像も安置されています。
室内の漆喰の壁には、菩薩像や十六羅漢などの壁画が大きく描かれていました。

 


五重塔〔36.18m〕では、初層の四方の扉が開かれ、ガラス越しに心柱の4面を守る仏像や壁画などを拝観できました。
バランスのきれいなこの塔にふさわしく、内部の作りも丁寧で繊細な感じを受けました。

どちらも、創建時には内部が鮮やかな彩色で彩られていたのがわかります。
経蔵の方は、緑色の縦格子の花頭窓が開口部になっているためか、やや退色が進んでいます。
一部取り出して展示されていた経典にも、虫食いが見えました。
それに比べて五重塔は気密性が高いのか、色彩がよく残っていました。

 

 

仁和寺の本堂は、国宝の金堂です。

経蔵や五重塔より少し古い慶長年間(1618年)に徳川幕府が寄進した京都御所の紫宸殿を、寛永年間にここに移築したもの。
現存する紫宸殿建築として、最古のものだそうです。
屋根が檜皮葺から瓦葺に変更されていますが、格子のある蔀戸(しとみど)や金属板を使った装飾など、御所っぽさが大いに残っています。

昨年7月までは、宿坊の御室会館に宿泊すると、朝6時から金堂内で行われる朝のお務めに参加することができました。
御室会館の営業終了により、今のところその機会はないようです。

 

 

仁王門を入ってすぐ左手にある御所とその庭園は、常時拝観ができます。
御所は門跡の住まいだった建物で、典型的な御所建築。
江戸時代の建物が明治半ばに火災に遭い、明治から大正期に再建されたものです。


(外側からみた御所の勅使門〔天皇の使いのみが使う豪華な門〕。透かし彫りの精巧さが明治らしい)


(内側から見た勅使門)


庭園の植栽と池の向こうに、五重塔が見えます。
御所の北側の庭園は、江戸時代の庭を7代目小川治兵衛(無鄰菴庭園・平安神宮神苑などの作庭者)が改修したもので、モダンな要素が加味されています。




この建物は毎年、将棋の竜王戦の会場になります。
直近4年間は、藤井聡太さんの勝利が続いています。

 

 

仁和寺は、高校生以下の拝観料が無料(御室桜も同様)です。
将来の文化を担う人への粋な配慮、素敵ですね。


(観音堂と背の低い桜の木々)

御室桜が春を待っています。

 

〔投稿:SI〕