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主に謡曲の詞章を、紹介していきます。
テレビの字幕のようにご利用ください。

2020-10-14 10:10:30 | 詞章
『融』 Bingにて 融 竹サポ 能を で検索を推奨。
※「:」は、節を表す記号の代用。

【旅僧の登場】
ワキ「これは東国方(とうごくがた)より
  出でたる僧にて候、
  われいまだ都を見ず候ふほどに、
  このたび思ひ立ち都に上(のぼ)り候
ワキ:思ひ立つ、
  心ぞしるべ雲を分け、
  舟路(ふなじ)を渡り山を越え、
  千里(ちさと)も同じ
  一足(ひとあし)に、
  千里も同じ一足に
ワキ:夕べを重ね朝ごとの、
  夕べを重ね朝ごとの、
  宿の名残りも重なりて、
  都に早く着きにけり、
  都に早く着きにけり
ワキ「急ぎ候ふほどに、
  これははや都に着きて候、
  このあたりをば六条(ろくじょう)
  河原(かわら)の院とやらん申し候、
  しばらく休らひ
  一見(いっけん)せばやと思ひ候

【潮汲の老人の登場】
シテ:月もはや、
  出潮(でじお)になりて
  塩竃(しおがま)の、
  うらさびわたる景色かな
シテ:陸奥(みちのく)は
  いづくはあれど塩竃(しおがま)の、
  恨みて渡る老いが身の、
  寄る辺もいさや定めなき、
  心も澄める水の面(おも)に、
  照る月並(な)みを数(かぞ)ふれば、
  今宵ぞ秋の最中(もなか)なる、
  げにや移せば塩竃の、
  月も都の最中かな
シテ:秋は半(なか)ば身はすでに、
  老い重なりて諸白髪(もろしらが)
シテ:雪とのみ、
  積もりぞ来(き)ぬる
  年月(としつき)の、
  積もりぞ来ぬる年月の、
  春を迎へ秋を添へ、
  しぐるる松の風までも、
  わが身の上と汲みて知る、
  潮馴衣(しおなれごろも)袖寒き、
  浦廻(うらわ)の秋の夕べかな、
  浦廻の秋の夕べかな

【老人、僧の応対】
ワキ「いかにこれなる尉殿(じょうどの)、
  おん身はこのあたりの人か
シテ「さん候(ぞうろう)、
  この所の潮汲みにて候
ワキ「不思議や
  ここは海辺(かいへん)にてもなきに、
  潮汲みとは誤りたるか尉殿
シテ「あら何(なに)ともなや、
  さてここをば
  いづくと知ろし召されて候ふぞ
ワキ「この所をば六条河原の院とこそ
  承はりて候へ
シテ「河原(かわら)の院こそ
  塩竃の浦候(ぞうろ)ふよ、
  融(とおる)の大臣(おとど)
  陸奥(みちのく)の千賀(ちか)の塩竃を、
  都のうちに移されたる
  海辺(かいへん)なれば
  :名に流れたる河原の院の、
  河水(かすい)をも汲め
  池水(ちすい)をも汲め、
  ここ塩竃の浦人なれば、
  潮汲みとなど思(おぼ)さぬぞや
ワキ「げにげに陸奥の千賀の塩竃を、
  都のうちに移されたること
  承はり及びて候、
  さてはあれなるは
  籬(まがき)が島候(ぞうろ)ふか
シテ「さん候(ぞうろう)、
  あれこそ籬が島候(ぞうろ)ふよ、
  融の大臣(おとど)常は
  み舟を寄せられ、
  ご酒宴の遊舞(いうぶ)
  さまざまなりし所ぞかし、
  や、月こそ出でて候へ
ワキ「げにげに月の出でて候ふぞや、
  あの籬が島の森の梢に、
  鳥の宿(しゅく)し囀りて、
  しもんに映る月影までも、
  :こしうに返る身の上かと、
  思ひ出でられて候
シテ「何(なに)とただいまの
  面前(めんぜん)の景色が
  お僧のおん身に知らるるとは、
  もしも賈島(かとう)が言葉やらん
  :鳥は宿(しゅく)す
  池中(ちちう)の樹(き)
ワキ:僧は敲(たた)く月下の門
シテ:推(お)すも
ワキ:敲(たた)くも
シテ:古人(こじん)の心
シテ、ワキ:いま目前(もくぜん)の
  秋暮(しうぼ)にあり
地:げにやいにしへも、
  月には千賀(ちか)の塩竃の、
  月には千賀の塩竃の、
  浦廻(うらわ)の秋も半ばにて、
  松風も立つなりや、
  霧の籬の島隠れ、
  いざわれも立ち渡り、
  昔の跡を陸奥の、
  千賀の浦廻を眺めんや、
  千賀の浦廻を眺めん

【老人の物語、慨嘆】
ワキ「塩釜の浦を都のうちに
  移されたる謂(い)はれ
  おん物語り候へ
シテ「嵯峨(さが)の天皇の御宇(ぎょう)に、
  融の大臣
  陸奥の千賀の塩竃の眺望を
  聞こし召し及ばせたまひ、
  この所に塩竃を移し、
  あの難波(なにわ)の
  御津(みつ)の浦よりも、
  日ごとに潮(うしお)を汲ませ、
  ここにて塩を焼かせつつ、
  一生御遊(ぎょいう)の便りとしたまふ、
  しかれども
  そののちは相続して
  翫(もてあそ)ぶ人もなければ、
  浦はそのまま干潮(ひしお)となって
  :池辺(ちへん)に淀む
  溜水(たまりみず)は、
  雨の残りの古き江に、
  落葉散り浮く松蔭の、
  月だに住まで秋風の、
  音のみ残るばかりなり、
  されば歌にも、
  君まさで、
  煙絶えにし塩竃の、
  うら淋(さみ)しくも
  見えわたるかなと、
  貫之(つらゆき)も詠(なが)めて候
地:げにや眺むれば、
  月のみ満てる塩竃の、
  うら淋しくも荒れ果つる、
  後(あと)の世までも
  塩染(しおじ)みて、
  老いの波も返るやらん、
  あら昔恋しや
地:恋しや恋しやと、
  慕へども嘆けども、
  かひも渚の浦千鳥、
  音(ね)をのみ泣くばかりなり、
  音をのみ泣くばかりなり

【老人、僧の応対、老人の中入】
ワキ「いかに尉殿(じょうどの)、
  見えわたりたる山々は
  みな名所にてぞ候ふらん、
  おん教へ候へ
シテ「さん候(ぞうろう)、
  みな名所にて候、
  おん尋ね候へ、
  教へ申し候ふべし
ワキ「まづあれに見えたるは
  音羽山(おとわやま)候(ぞうろ)ふか
シテ「さん候(ぞうろう)、
  あれこそ音羽山候(ぞうろ)ふよ
ワキ「音羽山音(おと)に聞きつつ
  逢坂(おうさか)の、
  関のこなたにと詠みたれば、
  逢坂山もほど近うこそ候ふらめ
シテ「仰せのごとく
  関のこなたにとは詠みたれども、
  あなたにあたれば逢坂の、
  山は音羽(おとわ)の峰に隠れて
  :この辺(へん)よりは見えぬなり
ワキ:さてさて音羽の峰続き、
  次第次第の山並みの、
  名所名所を語りたまへ
シテ「語りも尽くさじ言の葉の、
  歌の中山(なかやま)
  清閑寺(せいがんじ)
  :今熊野(いまぐまの)とは
  あれぞかし
ワキ:さてその末に続きたる、
  里(さと)一叢(ひとむら)の
  森の木立(こだち)
シテ「それをしるべにご覧ぜよ、
  まだき時雨(しぐれ)の秋なれば、
  紅葉も青き稲荷山(いなりやま)
ワキ:風も暮れ行く雲の葉(は)の、
  梢も青き秋の色
シテ「いまこそ秋よ名にし負ふ、
  春は花見し藤の森
ワキ:緑の空も影青き、
  野山に続く里はいかに
シテ:あれこそ夕されば
ワキ:野辺の秋風
シテ:身にしみて
ワキ:鶉(うずら)鳴くなる
シテ:深草山よ
地:木幡山(こわたやま)
  伏見の竹田、
  淀(よど)鳥羽(とば)も
  見えたりや
地:眺めやる、
  そなたの空は白雲の、
  はや暮れ初(そ)むる遠山の、
  峰も木深(こぶか)く見えたるは、
  いかなる所なるらん
シテ:あれこそ大原や、
  小塩(おしお)の山も今日こそは、
  ご覧じ初(そ)めつらめ、
  なほなほ問はせたまへや
地:聞くにつけても秋の風、
  吹くかたなれや峰続き、
  西に見ゆるはいづくぞ
シテ:秋もはや、
  秋もはや、
  なかば更け行く
  松尾(まつのお)の、
  嵐山も見えたり
地:嵐更け行く秋の夜の、
  空澄み昇る月影に
シテ:さす潮時(しおとき)もはや過ぎて
地:暇(ひま)もおし照る月に愛(め)で
シテ:興(きょう)に乗じて
地:身をばげに、
  忘れたり秋の夜の、
  長物語(ながものがたり)よしなや、
  まづいざや潮(しお)を汲まんとて、
  持つや田子の浦、
  東(あずま)からげの潮衣(しおごろも)、
  汲めば月をも、
  袖に望潮(もちじお)の、
  汀(みぎわ)に帰る波の夜(よる)の、
  老人と見えつるが、
  潮曇りにかきまぎれて、
  跡も見えずなりにけり、
  跡をも見せずなりにけり

(間の段)【都人の物語】
(近くに住む都人が、融の生まれや、
陸奥の塩竃の致景に魅せられ、
自邸に模した庭を造らせたこと、
融の没後は荒れ果てたことなどを語る)

【僧の待受】
ワキ:磯枕(いそまくら)、
  苔の衣を片敷きて、
  苔の衣を片敷きて、
  岩根(いわね)の
  床(とこ)に夜もすがら、
  なほも奇特(きどく)を見るやとて、
  夢待ち顔の旅寝かな、
  夢待ち顔の旅寝かな

【融の亡霊の登場】
シテ:忘れて年を経(へ)しものを、
  またいにしへに返る波の、
  満(み)つ塩竃の浦人の、
  今宵の月を陸奥の、
  千賀(ちか)の浦廻も遠き世に、
  その名を残す公卿(もうちきみ)、
  融の大臣(おとど)とはわがことなり、
  われ塩竃の浦に心を寄せ、
  あの籬が島の松蔭に、
  明月に舟を浮かめ、
  月宮殿(げっきうでん)の
  白衣(はくえ)の袖も、
  三五(さんご)夜中(やちう)の
  新月(しんげつ)の色

【融の亡霊の舞】
シテ:千重(ちえ)振るや、
  雪を廻らす雲の袖
地:さすや桂の枝々(えだえだ)に
シテ:光を花と散らすよそほひ
地:ここにも名に立つ白河の波の
シテ:あら面白や
  曲水(きょくすい)の盃(さかづき)
地:受けたり受けたり遊舞(いうぶ)の袖

《早舞》

【終曲】
地:あら面白の遊楽(いうがく)や、
  そも明月のそのなかに、
  まだ初月(はつづき)の宵々に、
  影も姿も少なきは、
  いかなる謂はれなるらん
シテ:それは西岫(さいしう)に、
  入り日のいまだ近ければ、
  その影に隠さるる、
  たとへば月のある夜(よ)は、
  星の薄きがごとくなり
地:青陽(せいよう)の春の始めには
シテ:霞む夕べの遠山(とおやま)
地:黛(まゆずみ)の色に三日月の
シテ:影を舟にもたとへたり
地:また水中の遊魚(いうぎょ)は
シテ:釣り針と疑ふ
地:雲上(うんしょう)の
  飛鳥(ひちょう)は
シテ:弓の影とも驚く
地:一輪(いちりん)も降(くだ)らず
シテ:万水(ばんすい)も昇らず
地:鳥は池辺(ちへん)の樹(き)に
  宿(しゅく)し
シテ:魚(うお)は月下(げっか)の
  波に伏す
地:聞くともあかじ秋の夜(よ)の
シテ:鳥も鳴き
地:鐘も聞こえて
シテ:月もはや
地:影傾きて明け方の、
  雲となり雨となる、
  この光陰(こういん)に誘はれて、
  月の都に、
  入りたまふよそほひ、
  あら名残り惜しの面影や、
  名残り惜しの面影

※出典『能を読むⅡ』(本書は観世流を採用)



道成寺

2020-10-09 14:27:42 | 詞章
『道成寺』 Bingにて 道成寺 竹サポ 能を で検索を推奨。
※「:」は、節を表す記号の代用。

【住僧、従僧、能力の登場】
ワキ「これは紀州(きしう)道成寺(どうじょうじ)の
  住僧(じうそう)にて候、
  さても当寺(とうじ)において
  さる子細あって、
  久しく撞き鐘(つきがね)
  退転(たいてん)つかまつりて候ふを、
  このほど再興し鐘を鋳(い)させて候、
  今日(こんにち)吉日(きちにち)にて候ふほどに、
  鐘の供養をいたさばやと存じ候

【住僧、能力の応対】
ワキ「いかに能力(のうりき)
アイ「おん前に候
ワキ「はや鐘をば鐘楼(しゅろう)へ上げてあるか
アイ「さん候(ぞうろう)、
  はや鐘楼へ上げて候、ご覧候へ
ワキ「今日(こんにち)鐘の供養を
  いたさうずるにてあるぞ、
  またさる子細あるあひだ、
  女人(にょにん)禁制(きんぜい)にてあるぞ、
  構へて一人(いちにん)も入れ候ふな、
  その分心得候へ
アイ「かしこまって候
アイ「皆々承はり候へ、
  紀州道成寺において
  今日鐘の供養の候ふあひだ、
  志(こころざし)の方々は
  皆々参られ候へ、
  また何と思(おぼ)し召し候ふやらん、
  供養の場(にわ)へ女人禁制と
  仰せ出だされて候ふあひだ、
  その分心得候へ、心得候へ

【白拍子の登場】
シテ:作りし罪も消えぬべし、
  作りし罪も消えぬべし、
  鐘の供養に参らん
シテ:これはこの国の
  傍(かたわ)らに住む
  白拍子(しらびょうし)にて候
  「さても道成寺と申すおん寺に、
  鐘の供養のおん入(に)り候ふよし
  申し候ふほどに、
  ただいま参らばやと思ひ候
シテ:月はほどなく入潮(いりしお)の、
  月はほどなく入潮の、
  煙満ち来る小松原、
  急ぐ心かまだ暮れぬ、
  日高(ひたか)の寺に着きにけり、
  日高の寺に着きにけり
シテ「急ぎ候ふほどに、
  日高の寺に着きて候、
  やがて供養を拝まうずるにて候

【白拍子、能力の応対】
アイ「のうのう、
  女人禁制にて候ふほどに、
  供養の場(にわ)へは叶ひ候ふまじ
シテ「これはこの国の
  傍(かたわ)らに住む
  白拍子(しらびょうし)にて候、
  鐘の供養にそと舞を舞ひ候ふべし、
  供養を拝ませてたまはり候へ
アイ「まことにこれはまた、
  ただの女人とはちがひ
  申し候ふあひだ、
  それがしが心得を以て
  拝ませ申さうずるにて候ふあひだ、
  面白う舞を舞ふておん見せ候へ、
  いやをりふし
  これに烏帽子(えぼし)の候、
  これを召して一さしおん舞ひ候へや
シテ「あら嬉しや、
  涯分(がいぶん)舞を舞ひ候ふべし

【白拍子の前奏歌】
シテ「嬉しやさらば舞はんとて、
  あれにまします宮人(みやびと)の、
  烏帽子をしばし仮に着て
  :すでに拍子(ひょうし)を進めけり
シテ:花のほかには松ばかり、
  花のほかには松ばかり、
  暮れそめて鐘や響くらん

【白拍子の舞】
《乱拍子》
シテ:道成(みちなり)の卿(きょう)、
  承はり、
  始めて伽藍(がらん)、
  橘(たちばな)の、
  道成興行(こうぎょう)の寺なればとて、
  道成寺(どうじょうじ)とは、
  名付けたりや
地:山寺(やまでら)のや

《急ノ舞》

シテ:春の夕暮(いうぐ)れ来て見れば
地:入相(いりあい)の鐘に、
  花ぞ散りける、
  花ぞ散りける、
  花ぞ散りける

【白拍子の鐘入り】
シテ:さるほどにさるほどに、
  寺々(てらでら)の鐘
地:月落ち鳥啼(な)いて、
  霜雪(しもゆき)天に、
  満潮(みちじお)ほどなく、
  日高(ひたか)の寺の、
  江村(こうそん)の漁火(ぎょか)、
  愁(うれ)ひにたいして、
  人々眠れば、
  よき隙(ひま)ぞと、
  立ち舞ふやうにて、
  狙ひ寄りて、
  撞(つ)かんとせしが、
  思へばこの鐘、
  恨めしやとて、
  龍頭(りうず)に手をかけ、
  飛ぶとぞ見えし、
  引きかづきてぞ、
  失せにける

(間の段)【能力の立働き】
(白拍子の舞に眠りかけていた能力は、
大音響で目覚め、鐘が落ちていることを発見、
住僧に報告する。女人禁制を守らなかったことで、
住僧に報告しにくく、なすり合う。)

【住僧、能力の応対】
アイ「落ちてござる
ワキ「落ちたるとは
アイ「鐘が鐘楼(しゅろう)より落ちて候
ワキ「何と鐘が鐘楼より落ちたると申すか
アイ「なかなか
ワキ「その謂(い)はればしあるか
アイ「随分念を入れて候ふが落ちて候、
  それにつき思ひ出でて候、
  最前この国の傍(かたわ)らに住む
  白拍子(しらびょうし)にて、
  この鐘の供養を拝ませてくれよと
  申し候ふほどに、
  禁制(きんぜい)のよし申して候へば、
  余(よ)の女人(にょにん)とは変はり、
  舞を舞ふて見せうと申し候ふほどに、
  拝ませてござるが、
  もしさやうの者のわざにても
  ござらうずるか
ワキ「言語道断、
  かやうの儀を存じてこそ、
  かたく女人禁制のよし申して候ふに、
  曲事(くせごと)にてあるぞ
アイ「ああ
ワキ「さりながら立ち越え見うずるにて候
アイ「急いでご覧候へ、
  のう助かりや、助かりや

【住僧の物語】
ワキ「のうのう皆々かう渡り候へ
ワキ「この鐘について女人禁制と申しつる
  謂(い)はれの候ふを、
  ご存じ候ふか
ワキヅレ「いや何とも存ぜず候
ワキ「さらばその謂はれを
  語って聞かせ申し候ふべし
ワキヅレ「懇(ねんご)ろにおん物語り候へ
ワキ「昔この所に、
  真砂(まなご)の荘司(しょうじ)といふ者あり、
  かの者一人(いちにん)の息女を持つ、
  またその頃奥より、
  熊野(くまの)へ年詣(としもう)でする
  山伏のありしが、
  荘司がもとを宿坊と定め、
  いつもかのところに来たりぬ、
  荘司娘を寵愛(ちょうあい)のあまりに、
  あの客僧(きゃくそう)こそ
  汝が夫(つま)よ夫(おっと)よ
  なんどと戯れしを、
  幼な心にまことと思ひ
  年月(ねんげつ)を送る、
  またある時かの客僧、
  荘司がもとに来たりしに、
  かの女夜更け人静まって後、
  客僧の閨(ねや)に行(ゆ)き、
  いつまでわらはをば
  かくて置きたまふぞ、
  急ぎ迎へたまへと申ししかば、
  客僧大きに騒ぎ、
  さあらぬよしにもてなし、
  夜(よ)に紛れ忍び出(い)で
  この寺に来たり、
  ひらに頼むよし申ししかば、
  隠すべき所なければ、
  撞(つ)き鐘を下ろし
  その内にこの客僧を隠し置く、
  さてかの女は山伏を、
  逃すまじとて追っかくる、
  をりふし日高川(ひたかがわ)の水
  もってのほかに増さりしかば、
  川の上下(かみしも)を
  かなたこなたへ走り回りしが、
  一念の毒蛇(どくじゃ)となって、
  川をやすやすと泳ぎ越し
  この寺に来たり、
  ここかしこを尋ねしが、
  鐘の下りたるを怪しめ、
  龍頭(りうず)をくはへ
  七まとひまとひ、
  炎を出だし尾をもって叩(たた)けば、
  鐘はすなはち湯となって、
  つひに山伏を取りおはんぬ、
  なんぼう恐ろしき物語にて候ふぞ
ワキヅレ「言語道断、
  かかる恐ろしきおん物語こそ候はね
ワキ「その時の女の執心残って、
  またこの鐘に
  障礙(しょうげ)をなすと存じ候、
  われ人の行劫(ぎょうこう)も、
  かやうのためにてこそ候へ、
  涯分(がいぶん)祈って、
  この鐘をふたたび
  鐘楼(しゅろう)へ上げうずるにて候
ワキヅレ「もっともしかるべう候

【住僧、従僧の祈祷】
ワキ:水かへって日高川原の、
  真砂(まさご)の数は尽くるとも、
  行者の法力尽くべきかと
ワキヅレ:みな一同に声を上げ
ワキ:東方(とうぼう)に
  降三世明王(ごうさんぜみょうおう)
ワキヅレ:南方(なんぽう)に
  軍荼利(ぐんだり)夜叉(やしゃ)明王
ワキ:西方(さいほう)に
  大威徳(だいいとく)明王
ワキヅレ:北方に
  金剛(こんごう)夜叉明王
ワキ:中央に
  大日(だいにち)大聖(だいしょう)不動
ワキ、ワキヅレ:動くか動かぬか
  索(さっく)の、
  曩謨三(なまくさ)曼陀(まんだ)
  縛曰羅南(ばさらだ)、
  旋多(せんだ)摩訶(まか)
  嚕遮那(ろしゃな)、
  娑婆多耶(そわたや)吽多羅(うんたら)
  吒干●(たかんまん)、
  聴我説者(ちょうがせっしゃ)
  得大智慧(とくだいちえ)、
  知我心者(ちがしんしゃ)
  即身成仏(そくしんじょうぶつ)と、
  いまの蛇身(じゃしん)を祈る上は
ワキ:なにの恨みか有明けの、
  撞(つ)き鐘こそ
地:すはすは動くぞ、
  祈れただ、
  すはすは動くぞ、
  祈れただ、
  引けや手(て)ん手(で)に、
  千手(せんじゅ)の陀羅尼(だらに)、
  不動の慈救(じく)の偈(げ)、
  明王(みょうおう)の火焔(かえん)の、
  黒煙(くろけむり)を立ててぞ、
  祈りける、
  祈り祈られ、
  撞かねどこの鐘、
  響き出で、
  引かねどこの鐘、
  躍るとぞ見えし、
  ほどなく鐘楼(しゅろう)に、
  引き上げたり、
  あれ見よ蛇体(じゃたい)は、
  現はれたり

《祈り》

【終曲】
地:謹請(きんぜい)東方(とうぼう)
  青龍(しょうりう)清浄(しょうじょう)、
  謹請西方(さいほう)
  白帝(びゃくたい)白龍(びゃくりう)、
  謹請中央黄帝(おうたい)黄龍(おうりう)、
  一大(いちだい)三千(さんぜん)
  大千(だいせん)世界の、
  恒沙(ごうじゃ)の龍王(りうおう)
  哀愍(あいみん)納受(のうじゅ)、
  哀愍自謹(じきん)のみぎんなれば、
  いづくに大蛇のあるべきぞと、
  祈り祈られかっぱと転(まろ)ぶが、
  また起きあがってたちまちに、
  鐘に向かって吐(つ)く息は、
  猛火(みょうか)となってその身を焼く、
  日高(ひたか)の川波、
  深淵(しんねん)に飛んでぞ入りにける
地:望み足りぬと験者(げんじゃ)たちは、
  わが本坊(ほんぼう)にぞ帰りける、
  わが本坊にぞ帰りける


※出典『能を読むⅣ』(本書は観世流を採用)



石橋

2020-09-03 18:28:11 | 詞章
『石橋』 Bingにて 石橋 竹サポ 能を で検索を推奨。
※「:」は、節を表す記号の代用。

【寂昭の登場】
ワキ「これは大江(おおえ)の
  定基(さだもと)といはれし
  寂昭(じゃくじょう)法師(ほうし)にて候、
  われ入唐(にっとう)渡天(とてん)し、
  はじめてかなたこなたを拝みめぐり、
  ただいま清涼山(しょうりょうせん)に
  参りて候、
  これに見えたるが
  石橋(しゃっきょう)にてありげに候、
  しばらく人を待ちくはしく尋ね、
  この橋を渡らばやと存じ候

【童子の登場】
シテ:松風の、
  花を薪(たきぎ)に吹き添へて、
  雪をも運ぶ山路(やまじ)かな
シテ:山路(さんろ)に日暮れぬ
  樵歌(しょうか)牧笛(ぼくてき)の声、
  人間万事さまざまの、
  世を渡り行く身のありさま、
  物ごとにさへぎる眼(まなこ)の前、
  光の陰をや送るらん
シテ:あまりに山を遠く来て、
  雲また跡を立ち隔て
シテ:入りつるかたも
  白波(しらなみ)の、
  入りつるかたも白波の、
  谷の川音(かわおと)雨とのみ、
  聞こえて松の風もなし、
  げにやあやまって、
  半日(はんじつ)の客(かく)たりしも、
  いま身の上に知られたり、
  いま身の上に知られたり

【童子、寂昭の応対】
ワキ「いかにこれなる
  山人(やまびと)に尋ぬべきことの候
シテ「なにごとをおん尋ね候ふぞ
ワキ「これなるは承はり及びたる
  石橋にて候ふか
シテ「さん候(ぞうろう)、
  これこそ石橋にて候へ、
  向かひは文殊(もんじゅ)の浄土
  清涼山(しょうりょうせん)、
  よくよくおん拝(のが)み候へ
ワキ「さては石橋にて候ひけるぞや、
  さあらば身命(しんみょう)を
  仏力(ぶつりき)にまかせて、
  この橋を渡らばやと思ひ候
シテ「しばらく候(ぞうろう)、
  そのかみ名を得たまひし高僧たちも、
  難行(なんぎょう)苦行(くぎょう)
  捨身(しゃしん)の行(ぎょう)にて、
  ここにて月日を送りてこそ、
  橋をば渡りたまひしに
  :獅子は小虫(しょうちう)を
  食はんとても、
  まづ勢ひをなすとこそ聞け、
  わが法力(ほうりき)のあればとて、
  行(ゆ)くこと難(かた)き石の橋を、
  たやすく思ひ渡らんとや、
  あら危(あよお)しのおんことや
ワキ:謂(い)はれを聞けばありがたや、
  ただ世の常の行人(ぎょうにん)は、
  左右(そう)のう渡らぬ橋よのう
シテ「ご覧候へこの滝波の、
  雲より落ちて
  数千丈(すせんじょう)、
  滝壺までは霧深うして、
  身の毛もよだつ谷深み
ワキ:巌(いわお)峨々(がが)たる岩石に
シテ:わづかに掛かる石の橋
ワキ:苔(こけ)は滑(なめ)りて
  足もたまらず
シテ:わたれば目もくれ
ワキ:心もはや
地:上の空なる石の橋、
  上の空なる石の橋、
  まづご覧ぜよ橋もとに、
  歩み臨めばこの橋の、
  面(おもて)は尺(しゃく)にも
  足らずして、
  下は泥梨(ないり)も白波の、
  虚空(こくう)を渡るごとくなり、
  危(あよお)しや目もくれ、
  心も消(き)え消(き)えとなりにけり、
  おぼろけの行人は、
  思ひも寄らぬおんこと

【童子の物語、中入】
ワキ「なほなほ橋の謂はれ
  おん物語り候へ
地:それ天地開闢(かいびゃく)の
  このかた、
  雨露(うろ)を降(くだ)して
  国土を渡る、
  これすなはち天(あめ)の
  浮橋(うきはし)ともいへり
シテ:そのほか国土(こくど)
  世界において、
  橋の名所(などころ)さまざまにして
地:水波(すいは)の難(なん)をのがれ、
  万民(ばんみん)富める世を渡るも、
  すなはち橋の徳とかや
地:しかるにこの、
  石橋と申すは、
  人間の渡せる橋にあらず、
  おのれと出現して、
  続ける石の橋なれば、
  石橋と名を名づけたり、
  その面(おもて)わづかに、
  尺よりは狭(せぼ)うして、
  苔はなはだ滑(なめ)らかなり、
  その長さ三丈余、
  谷のそくばく深きこと、
  千丈余(よ)に及べり、
  上には滝の糸、
  雲より掛かりて、
  下は泥梨(ないり)も白波の、
  音は嵐に響き合ひて、
  山河(さんか)震動し、
  雨(あめ)土塊(つちくれ)を動かせり、
  橋の気色(けしき)を見わたせば、
  雲にそびゆるよそほひの、
  たとへば夕陽(せきよう)の
  雨ののちに、
  虹をなせる姿、
  また弓を引ける形(かたち)なり
シテ:遥かに臨んで谷を見れば
地:足すさましく肝消え、
  進んで渡る人もなし、
  神変(じんぺん)仏力(ぶつりき)に
  あらずは、
  誰(たれ)かこの橋を渡るべき、
  向かひは文殊の浄土にて、
  常に笙歌(せいが)の花降りて、
  笙笛(しょうちゃく)
  琴(きん)箜篌(くご)、
  夕日(せきじつ)の雲に
  聞こえ来(き)、
  目前の奇特(きどく)あらたなり、
  しばらく待たせたまへや、
  影向(ようごう)の時節も、
  いまいくほどによも過ぎじ【中入来所】

(間の段)【仙人の立チシャベリ】
(仙人が現れ、清涼山に参りたいが、
 橋を渡れないなど語る)

【終曲】
(乱序)
《獅子》
地:獅子(しし)団乱旋(とらでん)の、
  舞楽のみぎん、
  獅子団乱旋の、
  舞楽のみぎん、
  牡丹(ぼたん)の花房、
  匂ひ満ち満ち、
  大筋力(たいきんりきん)の、
  獅子頭(ししがしら)、
  打てや囃(はや)せや、
  牡丹芳(ぼたんぼう)、
  牡丹芳、
  黄金(こうきん)の蕊(ずい)、
  現はれて、
  花に戯れ、
  枝に伏しまろび、
  げにも上なき、
  獅子王の勢ひ、
  靡(なび)かぬ草木も、
  なき時なれや、
  万歳(ばんぜい)千秋(せんしう)と、
  舞ひ納め、
  万歳千秋と、
  舞ひ納めて、
  獅子の座にこそ、
  直りけれ

※出典『能を読むⅣ』(本書は観世流を採用)



熊野

2020-06-29 18:48:54 | 詞章
『熊野』 Bingにて 熊野 竹サポ 能を で検索を推奨。
※「:」は、節を表す記号の代用。

【宗盛、従者の登場】
ワキ「これは平(たいら)の
  宗盛(むねもり)なり、
  さても遠江(とおとうみ)の国
  池田の宿(しゅく)の長(ちょう)をば
  熊野(ゆや)と申し候、
  久しく都に留(とど)め置きて候ふが、
  老母(ろうぼ)の労(いた)はりとて
  たびたび暇(いとま)を乞ひ候へども、
  この春ばかりの花見の友と思ひ
  留め置きて候
ワキ「いかに誰(たれ)かある
ワキヅレ「おん前に候
ワキ「熊野来たりてあらば
  こなたへ申し候へ
ワキヅレ「かしこまって候

【朝顔の登場】
ツレ:夢の間(ま)惜しき春なれや、
  夢の間惜しき春なれや、
  咲く頃花を尋ねん
ツレ:これは遠江の国池田の宿、
  長者(ちょうじゃ)の御内(みうち)に
  仕へ申す、
  朝顔と申す女にて候
  「さても熊野
  久しく都におん入(に)り候ふが、
  このほど老母のおん労はりとて、
  たびたび人を
  おん上(のぼ)せ候へども、
  さらにおん下りもなく候ふほどに、
  このたびは朝顔が
  おん迎ひに上(のぼ)り候
ツレ:このほどの、
  旅の衣の日も添ひて、
  旅の衣の日も添ひて、
  幾(いく)夕暮(いうぐ)れの
  宿ならん、
  夢も数(かず)添ふ
  仮枕(かりまくら)、
  明かし暮らしてほどもなく、
  都に早く着きにけり、
  都に早く着きにけり
ツレ「急ぎ候ふほどに、
  これははや都に着きて候、
  これなる御内(みうち)が
  熊野のおん入(に)り候ふ所にて
  ありげに候、
  まづまづ案内を
  申さばやと思ひ候
ツレ「いかに案内申し候、
  池田の宿より朝顔が参りて候、
  それそれおん申し候へ

【熊野、朝顔の応対】
シテ:草木(そうもく)は
  雨露(うろ)の恵み、
  養ひ得ては
  花の父母(ふぼ)たり、
  いはんや人間においてをや、
  あらおん心もとなや
  何(なに)とかおん入(に)り候ふらん
ツレ「池田の宿より
  朝顔が参りて候
シテ「なに朝顔と申すかあら珍しや、
  さておん労(いた)はりは
  何(なに)とおん入(に)りあるぞ
ツレ「もってのほかにおん入り候、
  これにおん文の候、
  ご覧候へ
シテ「あら嬉しや、
  まづまづおん文(ふみ)を
  見うずるにて候、
  あら笑止(しょうし)や、
  このおん文のやうも
  頼み少(すく)のう見えて候
ツレ「さやうにおん入り候
シテ「この上は朝顔をも連れて参り、
  またこの文(ふみ)をも
  おん目にかけて、
  おん暇(にとま)を
  申さうずるにてあるぞ、
  こなたへ来たり候へ

【熊野、従者、宗盛の応対】
シテ「誰(たれ)かわたり候
ワキヅレ「誰(たれ)にて御座候ふぞ、
  や、
  熊野のおん参りにて候
シテ「わらはが参りたるよし
  おん申し候へ
ワキヅレ「心得申し候
ワキヅレ「いかに申し上げ候、
  熊野のおん参りにて候
ワキ「こなたへ来たれと申し候へ
ワキヅレ「かしこまって候
ワキヅレ「こなたへおん参り候へ
シテ「いかに申し上げ候、
  老母の労はりもってのほかに候ふとて、
  このたびは朝顔に
  文を上(のぼ)せて候、
  便(びん)のう候へども
  そと見参(げざん)に入れ候ふべし
ワキ「何と故郷(ふるさと)よりの
  文と候(ぞうろ)ふや、
  見るまでもなし
  それにて高らかに読み候へ
シテ:甘泉殿(かんせんでん)の
  春の夜(よ)の夢、
  心を砕く端(はし)となり、
  驪山宮(りさんきう)の
  秋の夜の月、
  終はりなきにしもあらず、
  末世(まっせ)一代(いちだい)
  教主(きょうしゅ)の如来(にょらい)も、
  生死(しょうじ)の掟(おきて)をば
  のがれたまはず、
  過ぎにし如月(きさらぎ)の頃
  申ししごとく、
  何(なに)とやらんこの春は、
  年古(ふ)り増さる
  朽木桜(くちきざくら)、
  今年ばかりの花をだに、
  待ちもやせじと心弱き、
  老いの鶯(うぐいす)逢ふことも、
  涙にむせぶばかりなり、
  ただしかるべくはよきやうに申し、
  しばしのおん暇(にとま)を
  たまはりて、
  いま一度まみえおはしませ、
  さなきだに
  親子は一世(いっせ)の仲なるに、
  同じ世にだに添ひたまはずは、
  孝行(こうこう)にも
  はづれたまふべし、
  ただ返す返すも
  命の内にいまひとたび、
  見まゐらせたくこそ候へとよ、
  老いぬれば、
  さらぬ別れのありといへば、
  いよいよ見まくほしき君かなと、
  古言(ふること)までも思ひ出の、
  涙ながら書き留む
地:そもこの歌と申すは、
  そもこの歌と申すは、
  在原(ありわら)の
  業平(なりひら)の、
  その身は朝(ちょう)に
  暇(ひま)なきを、
  長岡に住みたまふ、
  老母の詠める歌なり、
  さてこそ業平も、
  さらぬ別れのなくもがな、
  千代(ちよ)もと祈る子のためと、
  詠みしことこそあはれなれ、
  詠みしことこそあはれなれ

【熊野、宗盛の応対】
シテ:いまはかやうに候へば、
  おん暇(にとま)をたまはり、
  東(あずま)に下り候ふべし
ワキ「老母(ろうぼ)の労はりは
  さることなれどもさりながら、
  この春ばかりの花見の友、
  いかでか見捨てたまふべき
シテ:おん言葉を返せば恐れなれども、
  花は春あらばいまに限るべからず、
  これはあだなる玉の緒(お)の、
  永き別れとなりやせん、
  ただおん暇をたまはり候へ
ワキ「いやいやさやうに心弱き、
  身に任せては叶ふまじ、
  いかにも心を慰めの、
  花見の車同車(どうしゃ)にて
  :ともに心を慰まんと
地:牛飼車(うしかいくるま)寄せよとて
ワキ「いかに誰(たれ)かある
ワキヅレ「おん前に候
ワキ「こなたへ車を立て候へ
ワキヅレ「かしこまって候
地:牛飼車寄せよとて、
  これも思ひの家(いえ)の内、
  はやおん出(に)でと勧むれど、
  心は先に行きかぬる、
  足弱車(あしよわぐるま)の、
  力なき花見なりけり

【宗盛一行の道行】
シテ:名も清き、
  水のまにまに尋(と)め来れば
地:川は音羽の山桜
シテ:東路(あずまじ)とても
  東山(ひがしやま)、
  せめてそなたの懐かしや
地:春前(しゅんぜん)に雨あって
  花の開くること早し、
  秋後(しうご)に霜のうして
  落葉(らくよう)遅し、
  山外(さんと)に山あって
  山尽きず、
  路中(ろちう)に道多うして
  道窮(きわ)まりなし
シテ:山青く山白くして
  雲来去(らいきょ)す
地:人楽しみ人愁(うりょ)ふ、
  これみな世上(せじょう)の
  ありさまなり
地:誰(たれ)か言ひし春の色、
  げにのどかなる東山(ひがしやま)
地:四条五条の橋の上、
  四条五条の橋の上、
  老若(ろうにゃく)男女(なんにょ)
  貴賤(きせん)都鄙(とひ)、
  色めく花衣(はなごろも)、
  袖を連ねて行末の、
  雲かと見えて
  八重(やえ)一重(ひとえ)、
  咲く九重(ここのへ)の
  花盛(ざか)り、
  名に負ふ春の景色かな、
  名に負ふ春の景色かな
地:河原おもてを過ぎ行けば、
  急ぐ心のほどもなく、
  車大路(くるまおおち)や
  六波羅(ろくはら)の、
  地蔵堂(じぞんどう)よと
  伏し拝む
シテ:観音(かんのん)も
  同座(どうざ)あり、
  闡提(せんだい)救世(ぐせ)の、
  方便あらたに、
  たらちねを守りたまへや
地:げにや守りの末直(すぐ)に、
  頼む命は白玉(しらたま)の、
  愛宕(おたぎ)の寺もうち過ぎぬ、
  六道(ろくどう)の辻とかや
シテ:げに恐ろしやこの道は、
  冥途(めいど)に通ふなるものを、
  心ぼそ鳥部(とりべ)山(やま)
地:煙の末も薄霞む、
  声も旅雁(りょがん)の横たはる
シテ:北斗の星の曇りなき
地:御法(みのり)の花も開くなる
シテ:経書堂(きょうかくどう)は
  これかとよ
地:そのたらちねを尋ぬなる、
  子安(こやす)の塔を過ぎ行けば
シテ:春の隙(ひま)行く駒の道
地:はやほどもなくこれぞこの
シテ:車宿り
地:馬(うま)留(とど)め、
  ここより花車、
  折居(おりい)の衣
  播磨潟(はりまがた)、
  飾磨(しかま)の徒歩(かち)路(じ)
  清水(きよみず)の、
  仏のおん前に、
  念誦(ねんじゅ)して、
  母(はわ)の祈誓(きせい)を申さん

【⑦熊野の舞】
ワキ「いかに誰(たれ)かある
ワキヅレ「おん前に候
ワキ「熊野はいづくにあるぞ
ワキヅレ「いまだ御堂(みどう)に御座候
ワキ「何(なに)とて遅なはりたるぞ、
  急いでこなたへと申し候へ
ワキヅレ「かしこまって候
ワキヅレ「いかに朝顔に申し候、
  はや花の下(もと)の
  ご酒宴の始まりて候、
  急いでおん参りあれとの
  おんことにて候、
  そのよし仰せられ候へ
ツレ「心得申し候
ツレ「いかに申し候、
  はや花の下の
  ご酒宴の始まりて候、
  急いでおん参りあれとの
  おんことにて候
シテ「何と
  はやご酒宴の始まりたると申すか
ツレ「さん候(ぞうろう)
シテ「さらば参らうずるにて候
シテ「のうのうみなみな
  近うおん参り候へ、
  あら面白の花や候(ぞうろう)、
  いまを盛りと見えて候ふに、
  何(なに)とて
  おん当座(とうざ)などをも
  あそばされ候はぬぞ
シテ:げにや思ひ内(うち)にあれば、
  色外(ほか)にあらはる
地:よしやよしなき世のならひ、
  歎きてもまたあまりあり
シテ:花前(かぜん)に蝶舞ふ
  紛々(ふんぷん)たる雪
地:柳上(りうしょう)に鶯飛ぶ
  片々(へんぺん)たる金、
  花は流水(りうすい)に従って
  香(か)の来たること疾(と)し、
  鐘は寒雲(かんぬん)を隔てて
  声の至ること遅し
地:清水寺(せいすいじ)の鐘の声、
  祇園(ぎおん)精舎(しょうじゃ)を
  あらはし、
  諸行無常の声やらん、
  地主(じしゅ)権現(ごんげん)の
  花の色、
  娑羅(さら)双樹(そうじゅ)の
  理(ことわり)なり、
  生者(しょうじゃ)必滅(ひつめつ)の
  世のならひ、
  げにためしあるよそほひ、
  仏ももとは捨てし世の、
  半ばは雲に上見えぬ、
  鷲のお山の名を残す、
  寺は桂の橋柱、
  立ち出でて峰の雲、
  花やあらぬ初桜(はつざくら)の、
  祇園林(ぎおんばやし)
  下河原(しもがわら)
シテ:南をはるかに眺むれば
地:大悲(だいひ)擁護(おうご)の
  薄霞(うすがすみ)、
  熊野(ゆや)権現(ごんげん)の
  遷ります、
  み名も同じ今熊野(いまぐまの)、
  稲荷の山の薄紅葉(うすもみじ)の、
  青かりし葉の秋、
  また花の春は清水(きよみず)の、
  ただ頼め頼もしき、
  春も千々(ちぢ)の花盛り

【⑧熊野の舞】
シテ:山の名の、
  音は嵐の花の雪
地:深き情けを人や知る
シテ「わらはお酌(しゃく)に
  参り候ふべし
ワキ「いかに熊野
  一さし舞ひ候へ
地:深き情けを人や知る

《中ノ舞》

【熊野の詠歌】
シテ「のうのう、
  にはかに村雨(むらさめ)のして
  花の散り候ふはいかに
ワキ「げにげに村雨の降り来たって
  花を散らし候ふよ
シテ:あら心なの村雨やな
シテ:春雨の
地:降るは涙か、
  降るは涙か桜花、
  散るを惜しまぬ人やある

《イロエ》

【終曲】
ワキ「よしありげなる言葉の種(たね)
  取り上げ見れば
  :いかにせん、
  都の春も惜しけれど
シテ:馴れし東(あずま)の花や散るらん
ワキ「げに道理なりあはれなり、
  はやはや暇(いとま)取らするぞ
  東(あずま)に下り候へ
シテ:なにおん暇(にとま)と
  候(ぞうろ)ふや
ワキ「なかなかのこと、
  とくとく下りたまふべし
シテ:あら嬉しや尊(とうと)やな、
  これ観音のご利生(りしょう)なり
シテ:これまでなりや嬉しやな
地:これまでなりや嬉しやな、
  かくて都にお供せば、
  またもや御意(ぎょい)の変はるべき、
  ただこのままにお暇(いとま)と、
  木綿付(いうつけ)の鳥が鳴く、
  東路(あずまじ)さして行く道の、
  やがて休らふ逢坂の、
  関の戸ざしも心して、
  明け行く後(あと)の山見えて、
  花を見捨つる雁がねの、
  それは越路(こしじ)われはまた、
  東(あずま)に帰る名残りかな、
  東に帰る名残りかな

※出典『能を読むⅢ』(本書では観世流を採用)


定家

2020-06-09 19:05:56 | 詞章
『定家』 Bingにて 定家 竹サポ 能を で検索を推奨。
※「:」は、節を表す記号の代用。

【旅僧の登場】
ワキ、ワキヅレ:山より出づる
  北時雨(きたしぐれ)、
  山より出づる北時雨、
  行方(ゆくえ)や定めなかるらん
ワキ「これは北国(ほっこく)方(がた)
  より出でたる僧にて候、
  われいまだ都を見ず候ふほどに、
  このたび思ひ立ち
  都に上(のぼ)り候
ワキ、ワキヅレ:冬立つや、
  旅の衣の朝まだき、
  旅の衣の朝まだき、
  雲も行き交(こ)ふ
  遠近(おちこち)の、
  山また山を越え過ぎて、
  紅葉(もみじ)に残る眺めまで、
  花の都に着きにけり、
  花の都に着きにけり
ワキ「急ぎ候ふほどに、
  これははや都千本(せんぼん)の
  あたりにてありげに候、
  しばらくこのあたりに
  休らはばやと思ひ候
ワキヅレ「しかるべう候

【僧の独白】
ワキ:面白や頃は
  神無月(かみなづき)十日あまり、
  木々(きぎ)の梢も冬枯れて、
  枝に残りの紅葉の色、
  ところどころのありさままでも、
  都の景色はひとしほの、
  眺めことなる夕べかな、
  あら笑止(しょうし)や、
  にはかに時雨が降り来たりて候、
  これによしありげなる宿りの候、
  立ち寄り時雨を晴らさばやと
  思ひ候

【里女、僧の応対】
シテ「のうのうおん僧、
  何しにその宿りへは
  立ち寄りたまひ候ふぞ
ワキ「ただいまの時雨を
  晴らさんために
  立ち寄りてこそ候へ
シテ「それは
  時雨(しぐれ)の亭(ちん)とて
  よしある所なり、
  その心をも知ろし召して
  立ち寄らせたまふかと、
  思へばかやうに申すなり
ワキ「げにげに
  これなる額(がく)を見れば、
  時雨の亭と書かれたり、
  折から面白うこそ候へ、
  これはいかなる人の
  建て置かれたる所にて候ふぞ
シテ「これは藤原の
  定家(さだいえ)の卿(きょう)の
  建て置きたまへる所なり、
  都のうちとは申しながら、
  心すごく、
  時雨ものあはれなればとて
  この亭を建て置き、
  時雨の頃の年々(としどし)は、
  ここにて歌をも
  詠じたまひしとなり
  :古跡(こせき)といひ
  折からといひ、
  その心をも知ろし召して、
  逆縁(ぎゃくえん)の法(のり)をも
  説きたまひて、
  かのご菩提(ぼだい)を
  おん弔ひあれと、
  勧め参らせんそのために、
  これまで現はれ来たりたり
ワキ「さては藤原の
  定家(さだいえ)の卿の
  建て置きたまへる所かや、
  さてさて時雨をとどむる宿の、
  歌はいづれの言(こと)の葉やらん
シテ「いやいづれとも定めなき、
  時雨の頃の
  年々(としどし)なれば、
  わきてそれとは
  申し難しさりながら、
  時雨時(とき)を知るといふ心を
  :偽りのなき世なりけり
  神無月(かみなづき)
  「誰(た)が誠(まこと)より
  時雨そめけん、
  この詞書(ことがき)に
  私(わたくし)の家にてと
  書かれたれば、
  もしこの歌をや申すべき
ワキ:げにあはれなる言の葉かな、
  さしも時雨は偽りの、
  亡き世に残る跡ながら
シテ:人はあだなる古事(ふること)を、
  語ればいまも仮の世に
ワキ:他生(たしょう)の縁は
  朽ちもせぬ、
  これぞ一樹(いちじゅ)の
  蔭の宿り
シテ:一河(いちが)の流れを
  汲みてだに
ワキ:心を知れと
シテ:折からに
地:いま降るも、
  宿は昔の時雨にて、
  宿は昔の時雨にて、
  心澄みにしその人の、
  あはれを知るも夢の世の、
  げに定めなや定家(さだいえ)の、
  軒端(のきば)の
  夕時雨(いうしぐれ)、
  古きに帰る涙かな、
  庭も籬(まがき)もそれとなく、
  荒れのみまさる
  草叢(くさむら)の、
  露の宿りも枯れ枯れに、
  物すごき夕べなりけり、
  物すごき夕べなりけり

【里女の物語】
シテ「今日(きょう)は
  志(こころざ)す日にて候ふほどに、
  墓所(むしょ)へ参り候、
  おん参り候へかし
ワキ「それこそ出家の望みにて候へ、
  やがて参らうずるにて候
シテ「のうのう
  これなる石塔(せきとう)ご覧候へ
ワキ「不思議やな
  これなる石塔を見れば、
  星霜(せいぞう)古(ふ)りたるに
  蔦葛(つたかずら)這(は)ひまとひ
  形(かたち)も見えず候、
  これはいかなる人の
  標(しるし)にて候ふぞ
シテ「これは式子(しょくし)内親王の
  御墓(みはか)にて候、
  またこの葛(かずら)をば
  定家葛(ていかかずら)と申し候
ワキ「あら面白や定家葛とは、
  いかやうなる謂(い)はれにて候ふぞ、
  おん物語り候へ
シテ「式子内親王
  はじめは賀茂の斎(いつき)の
  宮(みや)にそなはりたまひしが、
  ほどなく下り
  居(い)させたまひしを、
  定家(ていか)の卿忍び忍びの
  おん契り浅からず、
  そののち式子内親王ほどなく
  空(むな)しくなりたまひしに、
  定家の執心(しうしん)葛となって、
  御墓(みはか)に這ひまとひ、
  たがひの苦しみ離れやらず
  :ともに邪淫(じゃいん)の
  妄執(もうしう)を、
  おん経を読み弔ひたまはば、
  なほなほ語り参らせ候はん
地:忘れぬものをいにしへの、
  心の奥の信夫山(しのぶやま)、
  忍びて通ふ道芝の、
  露の世語りよしぞなき
シテ:いまは玉の緒よ、
  絶えなば絶えねながらへば
地:忍ぶることの弱るなる、
  心の秋の花薄(はなずすき)、
  穂に出でそめし契りとて、
  また離(か)れ離(が)れの
  仲となりて
シテ:昔はものを思はざりし
地:後(のち)の心ぞ果てしもなき
地:あはれ知れ、
  霜より霜に朽ち果てて、
  世々(よよ)に古りにし
  山藍(やまあい)の、
  袖の涙の身の昔、
  憂き恋せじと禊(みそぎ)せし、
  賀茂の斎(いつき)の宮にしも、
  そなはりたまふ身なれども、
  神や受けずもなりにけん、
  人の契りの
  色に出でけるぞ悲しき、
  包むとすれどあだし世の、
  あだなる仲の名は洩れて、
  よその聞こえは大方の、
  そら恐ろしき日の光、
  雲の通ひ路絶え果てて、
  少女(おとめ)の姿とどめ得ぬ、
  心ぞつらきもろともに
シテ:げにや嘆くとも、
  恋ふとも逢はん道やなき
地:君葛城(かずらき)の峰の雲と、
  詠じけん心まで、
  思へばかかる執心の、
  定家葛と身はなりて、
  このおん跡にいつとなく、
  離れもやらで
  蔦紅葉(つたもみじ)の、
  色焦がれまとはり、
  荊棘(おどろ)の髪(かみ)も
  結ぼほれ、
  露霜に消えかへる、
  妄執を助けたまへや

【里女の中入】
地:古(ふ)りにしことを聞くからに、
  今日もほどなく
  呉(くれ)服織(はとり)、
  あやしやおん身誰(たれ)やらん
シテ:誰(たれ)とても、
  亡き身の果ては
  浅茅(あさじ)生(う)の、
  霜に朽ちにし名ばかりは、
  残りてもなほよしぞなき
地:よしや草葉の忍ぶとも、
  色には出でよその名をも
シテ:いまは包まじ
地:この上は、
  われこそ式子(しょくし)内親王、
  これまで見え来たれども、
  まことの姿はかげろふの、
  石に残す形(かたち)だに、
  それとも見えず蔦葛(つたかずら)、
  苦しみを助けたまへと、
  言ふかと見えて失せにけり、
  言ふかと見えて失せにけり

(間の段)【里人の物語】
(近くに住む里人が、時雨の亭や、
定家葛の由来を語る)

【僧、従僧の待受】
ワキ、ワキヅレ:夕(いう)べも
  過ぐる月影に、
  夕べも過ぐる月影に、
  松風吹きてものすごき、
  草の蔭なる露の身を、
  念(おも)ひの珠(たま)の数々に、
  弔ふ縁(えん)はありがたや、
  弔ふ縁はありがたや

【式子内親王の登場】
シテ:夢かとよ、
  闇のうつつの宇津の山、
  月にもたどる蔦(つた)の細道
シテ:昔は松風(しょうふう)
  羅月(らげつ)に言葉を交はし、
  翠帳(すいちょう)
  紅閨(こうけい)に枕を並べ
地:さまざまなりし情けの末
シテ:花も紅葉も散(ち)り散(ぢ)りに
地:朝(あした)の雲
シテ:夕(いう)べの雨と
地:古事(ふること)もいまの身も、
  夢も現(うつつ)も
  幻(まぼろし)も、
  ともに無常の、
  世となりて跡も残らず、
  何(なに)なかなかの草の蔭、
  さらば葎(むぐら)の宿ならで、
  外(そと)はつれなき定家葛、
  これ見たまへやおん僧

【式子内親王、僧の応対】
ワキ:あらいたはしの
  おんありさまやな
  あらいたはしや、
  仏(ぶつ)平等(びょうどう)
  説如(せつにょ)一味雨(いちみう)、
  随(ずい)衆生(しゅじょう)
  性所(しょうしょ)
  受不同(じゅふどう)
シテ:ご覧ぜよ
  身はあだ浪(なみ)の
  起居(たちい)だに、
  亡き跡までも苦しみの、
  定家葛に身を閉ぢられて、
  かかる苦しみ隙なき所に、
  ありがたや
シテ:ただいま
  読誦(どくじゅ)したまふは
  薬草(やくそう)
  喩品(ゆほん)よのう
ワキ:なかなかなれや
  この妙典(みょうでん)に、
  洩るる草木(くさき)の
  あらざれば、
  執心の葛(かずら)をかけ離れて、
  仏道ならせたまふべし
シテ:あらありがたや
  「げにもげにも、
  これぞ妙(たえ)なる
  法(のり)の教へ
ワキ:あまねき露の恵みを受けて
シテ:二つもなく
ワキ:三つもなき
地:一味(いちみ)の御法(みのり)の
  雨の滴(しただ)り、
  みな潤ひて
  草木(そうもく)国土(こくど)、
  悉皆(しっかい)成仏(じょうぶつ)の
  機を得ぬれば、
  定家葛もかかる涙も、
  ほろほろと解(と)け広ごれば、
  よろよろと
  足弱車(あしよわぐるま)の、
  火宅(かたく)を出でたる
  ありがたさよ、
  この報恩にいざさらば、
  ありし雲居の花の袖、
  昔をいまに返すなる、
  その舞姫(まいびめ)の
  小忌衣(おみごろも)

【式子内親王の舞】
シテ:面(おも)なの舞の
地:ありさまやな

《序ノ舞》

シテ:面なの舞の、
  ありさまやな

【終曲】
地:面なや面はゆの、
  ありさまやな
シテ:もとよりこの身は
地:月の顔ばせも
シテ:曇りがちに
地:桂(かつら)の黛(まゆずみ)も
シテ:落ちぶるる涙の
地:露と消えても、
  つたなや蔦の葉の、
  葛城(かずらき)の
  神姿(かみすがた)、
  恥づかしやよしなや、
  夜の契りの、
  夢のうちにと、
  ありつる所に、
  返るは葛(くず)の葉の、
  もとのごとく、
  這ひまとはるるや、
  定家葛、
  這ひまとはるるや、
  定家葛の、
  はかなくも、
  形(かたち)は埋(うず)もれて、
  失せにけり

※出典『能を読むⅢ』(本書では観世流を採用)