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雲林院(古形)

2020-02-02 16:44:04 | 詞章
『雲林院(古形)』 Bingにて 雲林院 竹サポ 能を で検索を推奨。
※「:」は、節を表す記号の代用。
【公光の登場】
ワキ:藤咲く松も紫の、
  藤咲く松も紫の、
  雲の林を尋ねん
ワキ:これは津の国
  蘆屋(あしや)の里に
  公光(きんみつ)と申す者なり
  「われ若年のいにしへ、
  さるおん方より伊勢物語を相伝し
  明け暮れ玩び(もてあそび)候、
  ある夜の夢に
  とある花のもとに
  束帯(そくたい)たまへる男、
  紅(くれない)の袴(はかま)
  召されたる女性(にょしょう)、
  かの伊勢物語の冊子をご覧じて、
  木蔭に立ちたまふをあたりに
  ありし翁に問へば、
  これこそ伊勢物語の根本(こんぽん)
  在中将(ざいちゅうじょう)
  業平(なりひら)、
  女性は二条の后、
  ところは都紫野(むらさきの)の
  雲の林と語ると思ひて夢覚めぬ
  :あまりにあらた
  なりつる夢なれば、
  急ぎ都に上り
  かの所をも尋ねばやと思ひつつ
ワキ:蘆屋の里を立ち出でて、
  われは東(あずま)に赴けば、
  名残りの月の西の宮、
  潮の蛭子(ひるこ)の浦遠し、
  潮の蛭子の浦遠し
ワキ:松蔭に、
  煙をかづく尼が崎、
  煙をかづく尼が崎、
  暮れて見えたる漁(いさ)り火の、
  あたりを問へば難波津に、
  咲くや木(こ)の花冬籠もり、
  いまは現(うつつ)に都路の、
  遠かりし、
  ほどは桜にまぎれつる、
  雲の林に着きにけり、
  雲の林に着きにけり

【公光の詠嘆】
ワキ「面白やな花の都の北山蔭、
  紫野に来て見れば、
  夢に見しごとくの
  古跡と見えて、
  甍(いらか)破れ瓦(かわら)に
  松生ひたる気色なるに
  :花は昔を忘れぬかと、
  見えたる気色の面白さよ、
  ところは夢に違(たが)はねども、
  逢ひ見し人は見えたまはず、
  かくてはいつまであるべきぞ、
  帰らん道の家づとにと、
  木蔭に立ち寄り花を折る

【老人の登場】
シテ「誰(た)そよ花折るは、
  今日は朝(あした)の霞
  消えしままに、
  夕べの雲も春の日の
  :ことにのどかに眺めやる
  「嵐の山も名にこそ聞け
  :まことの風は吹かぬに
  「花を散らしつるはもし人の
  手折るかさなくはまた、
  枝を木伝ふ鶯の、
  羽風(はかぜ)か松の響きか人か
  「それかあらぬか木の下風か、
  あら心もとなと、
  散らしつる花やな

【老人、公光の応対】
シテ「さればこそこれに
  人のありけるぞや、
  花守の候ふぞ、
  花を散らしつるはみ内で
  わたり候ふか、
  あら落花狼藉(ろうぜき)の人や、
  そこ退(の)きたまへ
ワキ「それ花は乞ふも盗むも
  情けあり、
  とても散るべき花な
  惜しみたまひそ
シテ「とても散るべき花なれども、
  花に憂きは嵐、
  さりながら風も花をこそ誘へ
  枝を手折りたまへば、
  おことは花のためは
  風よりも辛き人や、
  あらなにともなの人や
ワキ「何とて素性(そせい)法師は、
  見てのみや人に語らん桜花
  :手ごとに折りて
  家づとにせんとは
  詠みけるぞ
シテ「さやうに詠むもあり、
  またある歌には
  :春風は花のあたりを
  よぎて吹け、
  心づからや
  移ろふと見ん
  「春の夜のひと時をば
  千金にも替へじとは、
  花に清香(せいきょう)月に影、
  しかれば千顆万顆(せんかばんか)の
  玉よりも、
  宝と思ふこの花を
  「折らせ申すこと候ふまじ
ワキ「されば花
  物言はずとこそ見えたれ、
  人にて花を恋ひ心のあるは
  理(ことわり)ならずや
シテ「軽漾(けいよう)激(げき)して、
  影唇(くちびる)を動かせば、
  われは申さずとも
  花も惜しきと言つつべし
地:げに枝を惜しむは
  また春のため、
  手折るは見ぬ人のため
地:惜しむも乞ふも情けあり、
  惜しむも乞ふも情けあり、
  ふたつの色の争ひ、
  柳桜をこき交ぜて、
  都ぞ春の錦なる、
  都ぞ春の錦なる

【老人の中入】
シテ「おことは
  いかなる人にてましませば、
  この花のもとに休らひ、
  夜(よ)に入るまでは
  おんわたり候ふぞ
ワキ「これは津の国、
  蘆屋の里に公光と申す
  者にて候ふが、
  伊勢物語を玩び候ふゆゑか、
  このご在所を夢に
  見まゐらせて候ひしほどに、
  これまで尋ね参りたり、
  ところは紫野雲の林と
  まさしく承はりて候
シテ「雲の林とは雲林院候(ぞうろう)、
  これこそ二条の后の
  おん山荘の跡にて候へ、
  さては志を感じ、
  二条の后の
  この花の下(もと)に現はれ
  伊勢物語をなほなほ
  おことに授けんとの
  おんことにてぞ候ふらん、
  花の下臥(したぶし)して
  夢を待ちてご覧候へ
ワキ「さらば今夜は
  木蔭に臥し、
  別れし夢をまた返さん
シテ「その花衣を返して着、
  また寝の夢を待ちたまへ
ワキ「かやうに
  くはしく語りたまふ、
  おん身はいかなる人やらん
シテ「そのさま
  年の古(ふる)びやう、
  昔男となど知らぬ
ワキ:さては業平にてましますか
シテ:いや
シテ:わが名を
  いまは明石潟(あかしがた)
地:わが名をいまは明石潟、
  花をし思ふ心ゆゑ、
  木隠(こがく)れの花に現はるる、
  まことに昔を恋衣、
  一枝(ひとえだ)の花の
  蔭に寝て、
  わがありさまを見たまはば、
  その時不審を開かんと、
  夕べの空のひと霞、
  思ほえずこそなりにけれ、
  思ほえずこそなりにけれ

【二条の后の登場】
ワキ「不思議やな、
  夜更くるままの花のもとに、
  さもなまめける女人(にょにん)、
  紫の薄衣(うすぎぬ)に、
  紅(くれない)の袴召されたるが、
  忽然(こつぜん)として
  現はれたまふ、
  いかなる人にてましますぞ
ツレ:恥づかしながらいにしへは、
  二条の后といはれし身の、
  なほ執心の花は根に、
  鳥は古巣に帰り来ぬ
ワキ:さては現(うつつ)に
  聞きおよべる、
  二条の后にてましますかや、
  しからば夢中に伊勢物語の、
  その品々(しなじな)を見せたまへ
ツレ:いでいで昔を語らんとて、
  花も嵐も声添へて、
  その品々を語りけり

【二条の后の物語】
地:そもそもこの物語は、
  いかなる人の
  なにごとによって、
  思ひの露を添へけるぞと、
  言ひけんことも
  理(ことわり)かな
ツレ:まづは武蔵野と詠(えい)じ、
  または春日野(かすがの)の
  草葉の色も若緑
地:色を変へ花を摘みて、
  その品々もいかならん、
  げにげに伊勢や
  日向(ひゅうが)のことは、
  誰(たれ)かは定めありぬべき
地:武蔵塚(むさしづか)と申すは、
  げに春日野のうちなれや、
  しかれば春日野の、
  牡鹿(おしか)の角の
  束(つか)の間(ま)も、
  隠れかねたる声立てて、
  一首のご詠(えい)、
  かくばかり
地:武蔵野は、
  今日はな焼きそ若草の、
  夫(つま)も籠もれり、
  われも籠もれり

【基経の登場】
シテ:そもそもこれは
  かの后のおん兄(しょうと)、
  基経が魄霊(はくれい)なり
  「さてもこの物語の品々、
  夢中に現はし見せんとて、
  后もここに現はれて、
  伊勢物語のところから
  :武蔵野は、
  今日はな焼きそ若草の
  「夫(つま)とは業平
  ご詠は后を、
  取り返ししはわれ基経が、
  鬼ひと口の姿を見せんと、
  形は悪鬼
  身は基経か
シテ:常なき姿に業平の
地:昔をいまになすとかや
シテ:白玉(しらたま)か、
  なにぞと問ひしいにしへを、
  思ひ出づやの、
  夜半(よわ)の暁(あかつき)

【基経、二条の后の仕方語り】
ツレ「海人(あま)の刈る
  藻に住む虫のわれからと、
  思へば世をも
  恨みぬものを
シテ「よしや恨みも忘れ草、
  夢路に帰る物語、
  ただいま今宵
  現はして、
  かの旅人に見せたまへ
ツレ「忘れて年を経しものを、
  またいにしへをば見ゆまじとて、
  武蔵野さして逃げて行けば
シテ「武蔵野に果てはなくとても、
  恋路に限りなかるべきか、
  いづくまでかは忍び妻の
ツレ「昔も籠もりし武蔵塚の、
  内に逃げ入り隠れければ
シテ「まさしくここまで
  見えたまひつるが、
  おんうしろ影も絶えにけり、
  暗さは暗し
  いかがせん
シテ:この野に火をとぼし
地:この野に火をとぼし、
  焼き狩りのごとく
  漁(あさ)り行けば、
  ここにひとつの塚あり、
  この内こそ怪しけれとて
シテ:松明(しょうめい)振り立てて
地:松明振り立てて、
  塚の奥に入りて見れば、
  さればこそ
  案のごとく、
  后はここにましましけるぞや、
  げにまこと名に立ちし、
  まめ男とはまことなりけり、
  あさましや世の聞こえ、
  あら見苦しの后の宮や

【終曲】
地:年を経て、
  住み来(こ)し里を
  出でて往(い)なば、
  住み来し里を
  出でて往なば、
  いとど深草、
  野とや
  なりなんと、
  亡き世語りも、
  恥づかしや
シテ:野とならば、
  鶉(うずら)となりて
  泣き居(お)らん、
  鶉となりて泣き居らん、
  仮だにやは、
  君が来(こ)ざらんと、
  慕ひたまひしもあさましや
地:げに心から唐衣(からころも)、
  着つつ馴れにし妻しあれば
シテ:はるばる来ぬる、
  恋路の坂行くは、
  苦しや宇津の山
地:現(うつつ)か夢か
  行き行きて、
  隅田川原の都鳥
シテ:いざ言(こと)問はん
  武蔵野とは
地:まことに東(あずま)か
シテ:もしは都か
地:まことは春日野の、
  まことは春日野の、
  飛火(とぶひ)の野守も
  出でて見よや、
  上は三笠山、
  麓は春日野に、
  伏すや牡鹿の
  夫(つま)も籠もりし、
  この武蔵塚よりも、
  つひに后を取り返して、
  帰ると思へば夜も明けて、
  あたりを見れば、
  武蔵野にても春日野にもなく、
  ところは都紫野の、
  雲林院の花のもとに、
  雲林院の花の基経や
  后と見えしも、
  夢とこそなりにけれ、
  皆夢とこそなりにけれ

〔間の段〕

【公光、従者の待受】
ワキ、ワキヅレ:いざさらば、
  木蔭の月に臥(ふ)して見ん、
  木蔭の月に臥して見ん、
  暮れなばなげの花衣、
  袖を片敷き臥しにけり、
  袖を片敷き臥しにけり

【業平の登場】
シテ:月やあらぬ、
  春や昔の春ならぬ、
  わが身ひとつは、
  もとの身にして

【業平、公光の応対】
ワキ:不思議やな、
  雲の上人にほやかに、
  花にうつろひ
  現はれたまふは、
  いかなる人にてましますぞ
シテ「いまは何をか包むべき、
  昔男のいにしへを、
  語らんために来たりたり
ワキ:さらば夢中に伊勢物語の、
  その品々(しなじな)を
  語りたまへ
シテ「いでいでさらば語らんと
  :花の嵐も声添へて
ワキ:その品々を
シテ:語りけり

【業平の舞い語り】
シテ:そもそもこの物語は、
  いかなる人の
  なにごとによって
地:思ひの露を
  染めけるぞと、
  言ひけんことも
  理(ことわり)なり
シテ:まづは弘徽殿(こきでん)の
  細殿(ほそどの)に、
  人目を深く忍び
地:心の下簾(したすだれ)の
  つれづれと
  人はたたずめば、
  われも花に心を染みて、
  ともにあくがれ立ち出づる
地:如月(きさらぎ)や、
  まだ宵なれど月は入り、
  われらは出づる恋路かな、
  そもそも日の本(ひのもと)の、
  うちに名所といふことは、
  わが大内にあり、
  かの遍昭(へんじょう)が
  つらねし、
  花の散りつもる、
  芥川(あくたがわ)をうち渡り、
  思ひ知らずも迷ひ行く、
  被(かず)ける衣(きぬ)は
  紅葉襲(もみじがさ)ね、
  緋(ひ)の袴踏みしだき、
  誘ひ出づるやまめ男、
  紫の、
  一本(ひともと)結(ゆ)ひの藤袴、
  しほるる裾をかい取って
シテ:信濃路や
地:園原(そのはら)茂る
  木賊色(とくさいろ)の、
  狩衣(かりぎぬ)の袂(たもと)を、
  冠(かむり)の巾子(こじ)に
  うち被き、
  忍び出づるや、
  如月の、
  たそがれ月もはや入りて、
  いとど朧夜に、
  降るは春雨か、
  落つるは涙かと、
  袖うち払ひ、
  裾を取り、
  しをしを
  すごすごと、
  たどりたどりも迷ひ行く

【業平の舞】
シテ:思ひ出でたり
  夜遊(やいう)の曲
地:返す真袖(まそで)を
  月や知る
《序ノ舞》

【終曲】
地:夜遊の舞楽も、時うつれば、
  夜遊の舞楽も、時うつれば、
  名残りの月も、
  山藍の羽袖、
  返すや夢の、
  告げの枕、
  この物語、
  語るとも尽きじ
シテ:松の葉の散り失せず
地:松の葉の散り失せず、
  末の世までも情け知る、
  言の葉(ことのは)
  草のかりそめに、
  かく現はせるいにしへの、
  伊勢物語、
  語る夜もすがら、
  覚むる夢となりにけりや、
  覚むる夢となりにけり

※出典『能を読むⅠ』(本書は観世流を採用)