
NHKラジオ英語会話講座を21年間にわたって担当
「戦後始まった『ラジオ英語会話放送』の黎明期」(2014年11月03日) を投稿してから実に17年の歳月が過ぎ去りました。またその一年前に 「『10年一昔』、『20年は二昔』以上でした」 (2013年12月20日) を投稿...あっと言う間に過ぎ去った中の世界の動乱と日本が衰退を続けた年月です。
今、NHKの総合番組で連続テレビ小説が 「カムカムエヴリバディ」 の表題で放映されているようですが、内容や時代の設定は全く平川唯一氏が放送していた当時とは異なるようで、何故 「カムカムエヴリバディ」 なのか、首をひねるどころか腰をひねります。カタカナ語の乱用もここまで来たかという最悪の例です。前回の投稿で (2021年10月22日) 指摘した 「エビデンス」 や 「マニフェスト」 が霞んで見えます。カタカナ英語は alphabet スペリングの英語と同じに扱われているのです。つまり 「カムカムエヴリバディ」 = Come Come Everybody は、NHKでは同じ言語表示としているのです。
上記「戦後始まった『ラジオ英語会話放送』~」で、出版社:英友社に関わる話を約束して途切れてしまいましたが、コロナ禍で日本に限らず世界中が激震に見舞われている最中に、約束した松本亨氏と氏に関わる "English" を振り返り、再、再度、日本人の英語という外国語に対し、驚愕するほど幼稚な認識に、無駄とは分かりつつもその病巣にまたぞろ照準を充てます。その理由は、これまで度々述べてきた日本村の住民の思考能力の後退と低下、それに付随する使用言語、日本語の著しい劣化です。

在りし日の松本亨、NHK放送室にて。
松本亨 「ラジオ英語会話」 講師就任
平川唯一氏が 「ラジオ英語会話講座」 の番組を降りることになり、代わりの後継者を探すことが私の父、折登健三郎に託されたという話で前回は終わりました。「ラジオ英語会話講座」 の テキストを出版するために設立された 「メトロ出版社」 が、ドル箱の 「ラジオ英語会話講座」 テキストの出版権を失い倒産の憂き目に遭い、テキストの編集責任者であった父は同時に失職し、その後、嘱託とかの名目で 「ラジオ英語会話講座」 の編集者として復職したものの、その間、我が家は貧乏のどん底に喘ぐことになりました。
その様な父が、何故後継者を探す役を受けることになったのか今となっては不明ですが、平川唯一氏に代わる講師の候補で白羽の矢が立ったのが松本亨氏です。氏と父親との出会いは、明治学院大学に始まります。
明治学院は、長老派教会/Presbyterian Church の宣教師‣医師で、ヘボン氏が横浜で開いた 「ヘボン塾」 が基になって、1887年に東京の港区白金台に日本最古のキリスト教主義学校 (ミッション・スクール/mission school=キリスト教に基づく教育を行う学校。mission=キリスト教の伝道会) として設立されました。ヘボン/James Curtis Hepburn氏は、幕末に来日し、横浜で医療活動に従事、また日本初の和英辞典『和英語林集成』を編纂し、それによってヘボン式ローマ字を広めたことでも知られています。
- 中学校で英語の授業を受け、英語のアルファベット/alphabet を習うと共に、日本語のローマ字表記も学習の一環として学んた記憶が蘇ります。日本語のローマ字表記には基本的に 「訓令式」 と 「ヘボン式」 の二通りあることも教えられましたが、カタカナ語が氾濫する現在、かつてHepburnが 「ヘボン」 と表記された摩訶不思議な理由は?映画『ローマの休日』で一躍有名になった女優/俳優のオードリー・ヘップバーン/Audry Hepburn をオードリー・ヘボンと表記も発音もしないのはなぜでしょう?
- ここに日本人の母語ならびに外国語に対するジレンマ/dilemma (二者択一、板挟み) があります。「ヘボン」 と表記するか 「ヘップバーン」 または 「ヘプバーン」 と表記するかは悩ましい選択です。「ヘボン」 は音声的にはより正しいが、「ヘップバーン」 は文字表示としてはより正しい、というジレンマです。英語のネイティブ・スピーカー/native speaker (母国語とする話者) がナチュラル・スピード/natural speed (日常話す速さ) で話すと、日本人の耳には大体 「ヘボン」 のように聞こえるはずです。
- 中国語を視覚による文字だけを輸入し、音声をないがしろにして来た付けが、現在の日本人の日常生活に影響を及ぼしている好例です。
- 言い過ぎても言い過ぎない音声を無視したカタカナ語の乱用がそれです。
- 先日結婚された真子さんを、アメリカ人は 「マイコ (Mako)」 と言っていました。何故か分かりますか?OPECを 「オーペック」 ではなく 「オペック」 と言うのと同一習性です。
人づてに 「明治学院にすごいのがいるぞ」 という話を聞いた父は、早速、明治学院大学に出向いたところから、松本亨氏と英友社と後年私をも巻き込む運命の交流が始まりました。「すごいのがいるぞ」 のすごいというのは、英語に堪能であるという意味ではないかと解釈していますが、アメリカで長く生活・活動していたという意味も含まれていたかもしれません。そして1951年に就任した松本氏の 「英語会話放送」 も順調に推移するにつれ、父親と松本氏の交流が深まりました。
松本亨:1934年東京で開催された第Ⅰ回日米学生会議に日本代表として日本側代表演説を行う。1935年明治学院高等学部英文科卒業後、ニューヨーク市マンハッタン/Manhattan区に在るユニオン神学校 / Union Theological Seminary入学。1941年日米開戦により1942年「敵性外国人」として、ニューヨーク市のエリス島/Ellis Island に抑留される。1944年アメリカ改革派教会/The Reformed Church of America より按手礼を受け牧師となる。1949年コロンビア大学/Columbia University 教育学部卒業 (教育学博士) 後、北米外国伝道協議会/The Foreign Council of North America より明治学院に派遣され、戦後の母校の再建に関わった。
回顧すれば、私が高校生となった冬のある日、すき焼き鍋を囲むという名目で、松本氏と秘書の愛子氏 (後妻となった) を父が自宅に招いた時が初対面でした。1950年代は、日本はまだ戦後の食糧不足を引きずっていた頃で、すき焼き鍋は我が家にとっても大変なご馳走でしたから、氏に最上級のおもてなしをしたのです。その後、私は芸大に進学し、念願の留学計画が実を結び始めた頃、助言を得るために松本氏と再度お会いしています。
松本氏が第2回日米学生会議の日本代表として客船で渡米した時に、同乗していた若い女性が最初の奥さんとなりました。その出会いについて、後の著書『英文・ユーモア作文集/Laughing at Myself』(英友社) に英文で述懐されています。米国生活に慣れた彼女は、帰国後の日本の生活に馴染めず、ニューヨーク市に戻り離婚しています。
折登洋の渡米の実現と英友社の誕生
留学の足掛かりを掴んだ私は、川崎汽船の貨物船で一週間かけて他の三人の乗客と共に生まれて初めて北米の地、カナダ/Canadaのブリティシュ・コロンビア/ British Columbia州、ヴァンクーヴァー/Vancouver市 に先ず足を踏み入れることになりました。ヴァンクーヴァー市では、英語が話せる私は観光のため下船し、同乗船者の一人と市内を巡る中で、スタンレーパーク/Stanley Park に行き当たり、広い緑豊かな美しい自然公園が深く印象に残りました。ネット上で見て今も変わらぬ風光明媚で休心しています。
南米チリが最終目的地である船は、途中、課せられたそれぞれの寄港地で荷の積み下ろしのため、ヴァンクーバー市から南下し、アメリカ、オレゴン/Oregon州のコロンビア/Columbia川を遡り、アストリア/Astoria市、ポートランド/Portland市 に立ち寄り、さらにカリフォルニア/California州へ向け南下しました。有名な金門橋/Golden Gate Bridge の下をくぐった船は、私の下船地サン・フランシスコ/San Francisco市 の港に到着しました。船上で入管手続きを済まし、芸大在学中から同じ画学生と文通していたペン・パル / pen pal=ペン・フレンド/penfriend が、嬉しいことに新婚の夫とともに出迎えに来てくれていて、初対面をしました。
気候の温暖化で高温や火災の被害からテレビに映し出された、上記の西海岸のヴァンクーヴァー市もポートランド市も現在は高層ビルが林立し、当然とは言え以前とは様変わりです。気候変動だけではない、過去半世紀の間に地球上で加速する変化に私は危機感を覚えます。
スコットランド/Scotland のグラスゴー/Glasgow市で COP26/ Conference of the Parties (締約国会議) が先日開催されましたが、まさに、この半世紀と言うよりも、第二次世界大戦以降の世界の変動ぶりには、危機というより恐怖感が先立ちます。COVID-19 はある意味での警鐘を鳴らす役目を果たしているのかも……。ただ一つだけ私が言えることは、地球は自転を続けるということです。つまり、毎日朝と夜を告げ時を刻みます。脳みその肥大化した人類もそれを制御することは永遠に不可能でしょう。地球上を騒がせている、プーチン大統領も習近平国家主席も回転する地球に乗っかっているだけです。
サン・フランシスコ市内を車で観光案内してくれたペン・パル宅に一泊し、翌日、陸路列車で滞在先のカリフォルニア/California州ロング・ビーチ/Long Beach市 に向かいました。出迎えてくれたスポンサー (身元引受人) 一家とこちらも初対面を果たし、スポンサー宅に一時滞在することになりました。それは、予期していた波乱万丈のアメリカ生活の第一歩の始まりでもあった訳ですが、アメリカ本土の地に足を踏み入れたにも拘らず、アメリカ生活に関わる情報を散々集めていた為か、異国の地という実感が湧きませんでした。かつて父親がワシントン大学に留学していてその話を幼少の頃から聞き、また留学時代の多くの写真を見慣れていた事も一助したかもしれません。
ただ強いて言えば、列車から見る LA/Los Angeles市 から Long Beach市 に至る平野のいたるところに、カラスの嘴のような形状の巨大な機械が上下して原油を汲み上げているのが印象的でした。同時にこの原油確保のために日本が馬鹿げた戦争を始めたのだ、という感慨がよぎりました。
ホームシック/homesick という言葉があります。何人もの日本人が経験しているのを見聞きしていますが、私は経験したことがありません。戦時中のひもじく貧しい虐げられた生活を経験した私には、アメリカ生活は天国での生活のようでした。一方で、世界のあちこちで現在も貧しい虐げられた生活を強いられている、特に女性子供には、かつての自分の事のように心が痛みます。
人生を欧米で全うする覚悟で日本を出国した私は、欧米の生活に溶け込むことは望むところで、難事は挑戦のための試練であったので、意に反して帰国せざるを得なくなったこれまでの半世紀は、逆のホームシックに掛かっています。挑戦しても前進する成果が得られない日本村の現実に、閉塞感と息苦しさだけを感じています。
以後、ロス・アンジェルス市に移動、ミシガン/Michigan州、ブルームフィールド・ヒルズ / Bloomfield Hills市 の留学先 Cranbrook Academy of Art に何とかたどり着き、留学生活を始めた頃、父親から届いた手紙に、日本放送出版協会退社を期に英友社を創業したとありました。
社名は、松本氏の 「英語の友になる」 という提案を受けて命名された、ということも後で知らされましたが、出版社の社名が英語に特化するのは、選択肢が限定され賛同できることではないと思い、その後帰国することになって、氏にそれを伝えましたら、「あぁそうかね」 の返事で終わりました。結果として危惧したことが誠になったのは皮肉なものです。
その後、改めて知らされた英友社創業に関わる事は、松本氏 (以降松本亨・松本) と父と後述する森喬伸氏 (以降森喬伸・森)の三者が会合を持ち、アメリカで自著の出版歴のある松本が、英語学習書を執筆、英友社が出版、森が英語塾で松本の英語学習書を使用する、という三者合意があったことです。
そして危惧が誠になった英友社と運命を友ではなく共ににしたのは誰あろう、このブロッグの投稿者: 折登洋です。日本の英語教育は口にするのもはばかる程、当初から当ブロッグで指摘していた事ですが、日本の衰退と行動を一にするかのように退化・劣化しています。日本も かつての GM の後を追っかけているようです。是非、「GMの破たん」(2009年6月20日) を参照してください。
私見として、アメリカは 「腐っても鯛」ですが、対する日本村は、かつては光る日本刀のように見えた世界地図の右端の離島も、今はぶら下がる 「鰯の目刺し・干物」 のようです。敗戦後復興したものの結局は栄枯盛衰を地で行く態になっています。
著者としての松本亨とその功績
数十年前までは、松本亨の名前は世間に広く知られる存在でしたが、光陰矢の如しの諺にあるように、今ではほんの限られた年配者に記憶されているだけではないかと思います。
余談ですが、「光陰矢の如し」を英語で何と言うか知っていますか? Time flies です。Time flies like an arrow ではありません。調べてみると、「光陰矢の如し」 の出典は明らかではないが、古代中国や日本の平安時代以降の文献などに、度々その表現が見られるということです。Time flies の意味は、時間が経つのは早い、とか時の流れは早いという意味で、他に time に関わる言葉では time is money があります。
私の意に反して帰国して英友社を引き継ぐ事になった頃、松本亨も21年続けたNHKの 「ラジオ英語会話講座」 の講師を、私の帰国に合わせたかのように降りることになる一方で、長年のラジオ英語会話講師・執筆活動により、多くの信奉者・賛同者を松本亨は得ることになりました。
松本亨の21年間続いた、 「ラジオ英語会話講座」 を支えたのは、聴衆に対する松本の放送中の話しっぷりや声や進行の仕方や英語の知識であったかもしれませんが、最大の武器であり才能は、もし執筆力という言葉があれば、文章を書く能力です。松本は常に自身の書き下した原稿を公にすることを望んでいました。それも日本語よりも英語でです。
その希望に合致したのが英友社であり「ラジオ英語会話講座」のテキストです。結果的に英友社は、松本亨の御用出版社のように、数々の英語学習者向け著書を世に送り出しましたが、松本にとって、毎月発行される講座のテキストを執筆するのも喜びであったようです。その結果が21年という長寿番組につながりました。
松本が生涯に渡って残した著書は100点を超えました。英友社が出版し、私が推奨する英語学習書で後世に残る作品として代表的なものとしては、当ブロッグで紹介した 「『書く英語・基礎編』How to Write English Vol.1」と (『書く英語・実用編』How to Write English Vol.2〈2010年8月26日〉参照) でしょう。他に『英作全集‣全10巻』がありますが、膨大な量であるのと時代に合わせた改訂が必要で、私が関わる改訂版の 「第1巻」と「第2巻」 は出版にこぎつけましたが、「第3巻」 は英友社の存続が不可能になり、中途で断念、以降の巻は絶版となりました。
『書く英語・実用編』How to Write English Vol.2 は、4年の歳月を掛けて改訂しましたが、現在の日本人の英語力では程度が高過ぎて、使い道が無いでしょう。本当に残念ですが、日本が太平洋に面した東の再果ての夢も希望も失った、小学生並みに幼稚で家畜化された民族が居住する村と化した現実は受け入れるしかありません。虚しく空回りした松本亨の努力は霧消してしまいました。併せて馬鹿正直な当ブロッグの執筆者の私の悔しい思いのやり場がありません。運命と受け止めるしかないのでしょう。
「松本亨高等英語専門学校」の開校
松本亨の弟子を任じ、信奉者の一人森喬伸は、東京渋谷で経営していた英語塾の格上げに挑み、同じ渋谷の宮益坂の中途に土地を購入、学長として松本亨の名を冠し 「松本亨高等英語専門学校」 を立ち上げました。10階前後の立派なビルで、開校の日に招待された私は、松本亨の学長としての英語の挨拶を、他の来賓と共に聴くことになりました。アメリカ全土で1000回以上演説した経歴を持つ人物だけに、期待に違わないものでした。
森は松本亨の信条とも言える 「英語で考える・Think in Englsh」 を、英語学校の指導の主軸にしました。従って校内では日本語の会話を禁じ、英語でのみの教授・指導を (近年では珍しいことではない 「英語が社内公用語になるという怖~い話」 〈2010年8月26日〉参照) 是に施行しました。
ただ松本亨の学長就任は名のみで、実権は理事長の森喬伸が握り、看板である松本亨の授業は週一回程度で、松本本人は利用されているのは分かっていても、さすがに校長に対しての処遇には不満だったようで、英文で一冊の本に著しました。『ある学長の死/Death of a College President』(英友社) です。内容は学長としての自身の行く末を予測するもので、原稿を受け取った私は 「えぇ~っ」 と思いましたが、ほぼ著書通りの経過と病 (心臓疾患) で、65歳で逝去されました。
松本亨の著書は、既存の書 Thinking in English が在ることから Think in Englishとした経緯があります。ニューヨーク市の広告代理店に勤め始めた頃、父から新刊で 『英語で考える本/Think in Englsh』という書名で新刊書を出版するとかで、カバーの装丁を頼まれました。「英語で考える」をどの様に視覚化するか名‣迷案が浮かばず、不満ながらも何とか期日に間に合わせ、版下を東京に送りました。
学習法としてThink in English=「英語で考える」 という提唱は、上記 Thinking in English という著書が既に存在し、私自身、高校 (青山学院) の英語の授業で、該当の書は宣教師のアメリカ人教師が使用、教わった経験があります。ドリル式で似たような文章を反復練習させることで、日本語に訳さずに次第に英語のまま理解させるという手法だったようです。参考書として所有していましたが、今、手元に無いので確認できません。ネット上で調べましたが、古い本なので同じ内容と思われるものは見つかりませんでした。
『英語で考える本』は、幸い書店での売上が好調で再版を重ね、また松本亨高等英語専門学校の主軸となる教科書として採用されたこともあり、英友社の経営の一助となりました。
松本亨は二人いる?
もう一人の松本亨の存在が、英友社の経営に携わってから知りました。創業者の父も松本亨も故人となった、とある日、松本亨の知人と称する人物から松本について話したいことがあるので来社したいとの電話があり、約束した日時に会いました。二人きりの会話の内容は全く覚えていませんが、帰る間際にもう一人の松本亨の実像を明かしました。なるほど、と納得しましたが、それを私に伝えたいがためにわざわざ来社されたようです。その松本亨は本物の松本亨の知名度に便乗したのでしょう。
そこで改めて松本亨の履歴をたどると、1960年母校、明治学院校舎の再建に関わるごたごた (詳細は知る由もない) で同校教授辞任、その後フェリス女学院大学教授など勤めました。1971年には、NHKより日本放送協会放送文化賞を受賞するに至るなど、松本亨の知名度はさらに広まったようです。
もう一人の松本亨を、ウイキペディア/Wikipedia で調べてみると経済評論家とあります。株式投資について知られた存在であったようですが、何年か前に故人となっています。改名前というか実名を知りたかったのですが、叶いませんでした。
松本が存命の時に、夜中に投資の事で電話がかかってきて迷惑したと、こぼしていましたが、かつては、電話帳で個人の電話番号を知ることが出来、そのような事は日常茶飯事でした。英語学習者が松本亨は英語だけでなく金儲けに手を貸している、と怒っているという話も聞いた事があります。
次回は、「松本亨高等英語専門学校」 の破綻です。
to be continued, friends!