わが輩はオムザである

オムザとはベトナム語のお爺さん。
アジア・アフリカの思い出から日記まで

番外・ムゼーのアフリカ

2006-06-30 00:15:18 | 思い出のアフリカ

今回は何故かベトナムではなく40年前のアフリカに跳びました。


あのアドリアーノのオフサイド気味の得点がなければ・・・
文字通りの惜敗でした。わが青春の地、西アフリカのガーナはブラジルを相手に一歩も引かない戦いをピッチに繰り広げました。NHKもTBSも何故かブラジル寄りのアナウンスでしたが、無理もありません。

1966年に当時戦火のベトナムへの派遣を希望していた私が派遣されたのは何処にある国かも知らなかったガーナでした。正直なところ、チョコレートのブランドネームとして知っていただけで、慌てて世界地図で確認したくらいです。


泥縄で読んだ本によると「白人の墓場」と呼ばれる程の高温多湿の地で黄熱病研究中の野口英世博士が亡くなったところでもあります。


詳しくガーナについて書くつもりはありません。ただ国際化を叫ぶ昨今の日本の政治家の知識は、官僚たちのネゴシエーション・スキルは・・・一度も海外に出たことが無かった40年前の私と比べて大きく変わったのでしょうか?
当時海外へは羽田空港からの出発でした。「ライオンに喰われるなよ」が横断幕で見送ってくれた友人たちの送別の言葉でした。


ブラジル戦でみせたガーナ人選手の身体能力は碌なものを食べていなかった彼らと相撲をとった時に嫌と言うほど実感させられました。テクニックの素晴しさは灼熱の空き地で裸足でボールを蹴っていた少年たちの姿から容易に想像できます。


そう、あの頃はテレビの取材もフィルムでした。


東アフリカではベトナム語のオムザはスワヒリ語でムゼーと呼ばれ年寄りではなくても敬称として、例えばムゼー・ケニヤッタ(初代大統領)のように使われていました。当時30代で独身だった私でさえムゼーと呼ばれたこともあります。


「モテナイ男はガーナへ行け」


出発前に読んだ週刊誌の「完全なフリーセックス社会。女性警官でも誘ったら直ぐにやって来る」との日本人滞在者のインタビュー記事。いまで言うODA派遣ダム建設の技術者のは話だった。
「嘘こきやがって!」が正直な感想でした。が、彼の言はホントウでした。


アフリカの大地と気質は セックスなど人生の大事ではない ことを教えてくれました。
このストーリーはいずれ小出しに紹介することにして・・・


今回は番外編としてオムザがムゼーになってしましましたが、長期滞在の最大の利点は
旅では味わえない経験が出来ることですね。


この所の暑さで散歩用に千円で麦藁帽子を買いました。ベトナムのノンなら十分の一で買えるのにと思いながら。(写真;ノンはハノイ市内でも女の行商人などに愛用されています)


 



 


 




 


 


 


 


 


 




 


サッカーは国民的スポーツです

2006-06-25 20:37:29 | ベトナム人物像
 一回目の映像が何故か消えてしまったりで、暗中模索状態で今度はアドバンスとやらに格上げしての3回目の挑戦です。FAYさんの初コメントに励まされて気を取り直しての再スタートです。

 ”賭け好き”はミス・ライオンに限りませんね。社会主義の国ベトナムでもギャンブルはサッカー同様国民的な嗜好のひとつと言えそうです。昼休み時のオフィスで締め切ったドアを開けると車座になってのトランプ賭博が盛んです。都市では男女同権と言うよりも経済的な実力がものを云うベトナム社会です。床に胡坐を組んでカードに興じる女性の姿を多く見かけました。写真を撮ろうとすると全員から叱声が飛んできました。特に共産党幹部はギャンブルや女性の居るカラオケなど公序良俗に反する行為を厳しく規制されているそうです。

サッカーの熱狂的なファンの多さは日本など足元にも及びません。 1998年春VTVのサッカー中継に同行した時中継車なしでのスタッフの知恵に感心しました。カメラは日本ではニュース取材用に使っているもの2台をピッチレベルで使っていました。驚いたのはメインのカメラを据えた場所。スタジアム事務所の二階の窓から屋根に這い出して恐る恐る隣の棟の屋根まで這うように進むとピッチを見下ろす斜面に置かれた風呂場のプラスティック製の椅子がアナウンス席、その近くにスポーツファインダーつきのメインカメラが三脚に据えられていました。そして準備は全て技術のテクニシャンに任せてPDもカメラマンもアナも試合開始の25分前に現場に到着。打ち合わせもなく始めるというベトナム流の中継でした。軍隊と地方の省のチームのゲームでしたウィークデイの勤務時間内にも係らずかなりの観客が熱心に声援を送っていたのが印象的でした。

 帰国前に訪れたVTVに新しい日本製の中継車が駐車していました。当時の技術局長で現副会長に昇進したフンさんが「日本製のカメラ6台を搭載している。車も日本製だが購入先はUSAだ」と誇らしげに話してくれました。外国の援助に頼らずに自前での購入でした。

 その後ハノイに駐在した2000年にロシア代表チームがハノイでベトナム代表チームと対戦しベトナムが勝った夜は多くの若者がバイクで暴走して死者が出たほどです。VTVが英国のプレミアリーグの中継をする時はいつも通りに23時過ぎに一旦は放送を終了。ゲーム開始時間に合わせて早朝再び放送を開始するほどサッカーへの人民の人気は高いのです。言い換えると一年中いつでもW杯的寝不足の人民が多いということでもありますが・・・

 さて、今日は「宝塚記念」やはり駄目でした。何しろ今春はベトナム行きで多くのG1レースを見逃してしまいました。それだけ損害が少なくて済んだ、ボランティア効果、ということでもあります。

今回は大きめな画像で2000年秋のミス・ライオンを紹介したいと思います。

何故不思議な国?

2006-06-23 03:43:04 | ベトナム人物像
ベトナムを良く知る人の多くが「不思議な国」と云います。何故?
多分ベトナム人との付き合いのなかでそう感じるのだと思います。私がベトナムに惹かれるのも多分物価の安さや美味い料理のためだけではありません。
確かにアオザイ姿のベトナム美人への憧憬は否定できませんが・・・
ベトナムの国民性についてはJICAから短期専門家として派遣された1998年以来の付き合いになったVTV(国営ベトナムテレビ)の国際渉外局長フオンさんが面白い喩えで解説してくれました。「馬車を四頭の馬に牽かせたとしましょう。それぞれの馬が勝手な方向に走ってしまうのがベトナムです」つまりは徹底した個人主義、ということでしょうか?普段はそんな気配も見せない曲者ぶりがまた不思議さを醸し出しているのかも知れませんね。

ハノイの多くの友人の中で、訪れる度毎に新しいサプライズで歓迎してくれるライオンさん(仮名)は女傑の名に相応しい人物です。中国との国境に近い山岳地帯出身の彼女が30歳代で現在の地位、政府系テレビ会社副社長に昇進した才能に驚くと同時にギャンブル好きな彼女の私生活は正に驚きの変化に満ちています。

2002年秋、ボランティアとしてハノイに滞在中の私を彼女のボーイフレンド、不倫相手の将軍宅でのパーティーに招待してくれました。その時の驚きは車を運転して迎えに来てくれたことです。空港近くの将軍邸までの有料道路は高官用車両のステッカーのお蔭でフリーパス。
パーティーは珍しい熊肉料理を花ゴザを敷いた庭で食べる野趣に富んだもので招待客には新任の大臣やVTVの幹部の顔もありました。

2003年、前回の驚きは、一年の間に離婚、その将軍と結婚していたこと。「数日後の出産予定なのでその前に会いたい」と四階建ての新居に招いてくれました。自慢の地下カラオケルームはステージやバーカウンターまで備えたものでした。

06年の今回は新規事業を立ち上げていました。市内中心部に流行のエステサロンをサイドビジネスとして開業したのです。招かれたカラオケルームでのディナーは今回は身内だけで、将軍は「国賓級の料理」とラオス産熊肉プラスミャンマー産トラ肉の料理などを床の花ゴザに並べて振舞ってくれました。
そうだ。彼女の長男は邸内を元気に走り回っていました。

3年ぶりのベトナムで

2006-06-21 22:31:36 | ベトナム人物像
最後の「ご無沙汰通信」を出したのが一月30日。メールを出すのも憚られる長期のご無沙汰でした。その間、見出しの写真のようにY市発行の「老人優待パス」をゲットして本当にオムザになりました。
そんなオムザにわが国営ベトナムテレビの研修所からは難しい依頼のメールが次々に舞い込んで来ました。そのひとつ「T社製のトランスミッターが故障し日本の本社に修理を依頼したが返事が無いので何とかして欲しい」~インターネットでT社の海外担当責任者にぶっつけの照会を試みたところ見事に解決!「ベトナムは納入時に日本からの技術者派遣を拒否した珍しい国」とは担当者の弁でした。
もういい加減にして欲しい!と思っていた矢先に舞い込んだのは「ボランティア講師」の要請メール。三年前には全額を自腹でボランティア講師をした経験から、断るつもりで「外国人ボランティアを頼む時には少なくとも航空運賃と滞在費を負担するのが常識だ」と返信したところ「局内の幹部会に諮ったところその条件でお願いしたい。国営ベトナムテレビとして初めての要請である」と、予想外の返事。海外からの援助が頼りだった国ベトナムから「初めて自腹を切っての要請」を断った、とあってはベトナムの生徒たちから貰った綽名、「頑固爺さん~オムザ・ホー・ティン」の名が廃る・・・
という訳で、去る4月末から5月の初めまでの40数日間、老体に鞭打ってのボランティア講師を務めて来ました。
帰国後はエネルギーを使い果たした為でしょう。何をする気も起きず今日までご無沙汰した、という訳であります。
これからは初めてのブログとやらで皆さんに不思議な国でまたまた経験した数々のエピソードを送るつもりです。
では、また。