わが輩はオムザである

オムザとはベトナム語のお爺さん。
アジア・アフリカの思い出から日記まで

インレー湖へ(1)~少年僧の部屋

2007-05-18 23:43:05 | ミャンマーの旅

         Xin Chao

神風航空でインレー湖を目指してヘーホー空港へ飛んだ。

空港から湖まではバスで一時間も掛かる。

途中マーケットで趣味の値下げ交渉を楽しんで「布袋像」など
2~3点を買い込んだ。

前世紀に建てられた木造の「シェヤンウェ僧院」はマーケットの
前にあった。

高床式でトタン屋根の古い寺院はあまり手入れされていない
ようにみえたが、雅た風情があった。

午前中の院内では少年修行僧たちが所在無げにゴロゴロしていた。

彼らの狭い部屋の壁にはスペインやイングランドの有名サッカー選手の
ポスターが所狭しと貼られていた。

少年僧も世界の少年たちと興味を共有しているのだなぁ、と思った。

 

備忘録

今回は新PC導入で未だに四苦八苦している。このブログの書き込みも
これまで使ってきた「ブログライター」のツールバー・ファイルが
機能せず、不慣れな編集用で書き込んだ。

写真のアップも「アップ、アップ」しながらであった。

とに角「疲れた」

はじめてPCを使い始めた頃同様に画面がフリーズして回復にも手間取った。

明日はどうなることか?


マンダレー(5)~国内航空

2007-05-13 22:25:44 | ミャンマーの旅

    Xin Chao



マンダレーを発つ前にホテルの窓からヒルに昇る美しい朝陽を見た。



空港に向かうバスの中から「水祭り」で観光できなかった「王宮」を垣間見た。



ミャンマーの国内航空は実に「速い!」また「独自の知恵」に長けている。


乗客は行く先別に「赤」「緑」「黄」などのマークをシャツにつける。


最初はツアーのグループを判るようにするためだ、と思っていたが、
「航空会社別」で「行く先別」のマークであった。


待合室でミャンマー語のアナウンスが判らなくても、同じマークをつけた
乗客と一緒の飛行機に乗れば間違いはない。


なにしろ、一度は出発予定の15分前に飛び立ち、もう一度は20分前に
飛び立つことを経験した。飛行機は轟音を立てて着陸し猛スピードで
タクシーングして乗客を降ろし、また乗せると直ちに離陸する。


「神風航空」と呼べるほどの迅速運行振りである。


民営化されたいま、4社の競争に拍車が掛かっているのか?


パイロットは多分軍人上がりに違いない。


モスクワでガイドから「地下鉄は3分おきに運行されている」と聞かされて
実体験するまでは信用できなかったが、それに似た体験であった。


「速い!」そして「怖い!」


 


備忘録


大穴の出たG1競馬には金箔程度の供託金を払っただけなので
さほどショックはない。


散歩序でにスーパーに買い物に行く。戻ってもう始まった「大相撲」を
見ている内に寝てしまう。


変な夢をみた。


プレー不能の体になっているのに、テニスクラブで順番が来た時に
「シューズが見つからず、見知らぬパートナーに速く来い」と
呼ばれて焦った。なんで靴を脱いでいたのかは判らない。


鍼灸の効果は未だであるが、なんとか元の体に戻りたいものである。


祈りを込めて「しまアジ」「モンゴーイカ」「天然ぶり」で日本酒をたしなむ。


マンダレー(4)~金箔肥り

2007-05-12 22:21:45 | ミャンマーの旅

Xin Chao



金色の仏陀で知られるマハムニ・パゴダは女人禁制である。


ただし、台座に上ることを禁じているゆるい禁制である。



本尊は高さ4メートル、信者が貼る金箔で毎日肥っている。



金箔を購入した信者は1mの台座に上がり金箔を貼る。


不信心者のツアー客は金箔を購入することもなく
無遠慮にシャッターうを切り、誠に申し訳なく思う。


マンダレーでも何ヶ所かのパゴダや寺院をまわったが
パゴダにはバガンで食傷気味になっており、追われる
羊のようにガイドの指示に従いバスから裸足で降り、
歩いたことのみが記憶に残っている。



昼食にはアジア各地の料理を食べた。ベトナムの定番料理、
「空芯菜のニンニク炒め」を久し振りに味わった。


ベトナム語で「ザオ・モン・サー」であるがオムザの発音では
「俺の尻炒め」になる、と云われた。


ハノイの市場では食べきれないほどの「空芯菜」が2~30円で
買えるが日本のスーパー値段は10倍以上である。


「ザオ・モン・サー」を気軽くは食べられない。


マンダレーの夜はツアーの「お楽しみ企画」でミャンマー風マッサージ
を味わった。アジア各地のマッサージは大同小異であるが
ミャンマーのマッサージは「清潔で手抜きなし」も余り効かなかった。


 


備忘録


神さんは都心の帝国ホテルへドレスアップしてお出掛けになった。
同窓会らしい。


オムザは相変わらず蕎麦を食いに行く。Yさんに会い雑談する。
ヤンキースの松井は「何故初球を見送るのか?」「スリーボールから?」
面白みのない性格からだろう、が結論だった。


「気をつけて帰ってください」の声を背に、車検の代車にA君が置いて
いってくれた軽自動車でトコトコ帰宅する。



夕方、独り散歩に出る。


竹の「新旧交代」 青竹に生長した筍はいつ枝葉をつけるのであろうか?


夜は料理blgのレシピで神さんにつくってもらったニンニク・ジャガイモを
娘の結婚記念日祝いプレゼントのシャンペンで食す。


明日もG1レースがあるが、阪神戦同様にあまり熱心にはなれない。


マンダレー(3)~丘へ

2007-05-11 23:08:25 | ミャンマーの旅

   Xin Chao



   有名なマンダレー・ヒルに登った。


ヒルは丘全体が寺院となったマンダレー最大の聖地らしい。


丘からはクドードォ・パゴダ~729の白いパゴダには仏教の経典を
刻んだ石版が一枚ずつ刻み込まれている~の遠景がみえる。



七合目まではバスで、更に地元民の足、ピックアップに乗り換えれば
楽に丘に登ることが出来る。



タイのトゥクトゥク、マレーシアのミニバスなど地元民の乗りものの
運転手は何故危険を感じさせるほどにすっ飛ばすのか?



幸い事故に遭わずに辿り着いたが、先行したツアー客の車は
出発直後に水掛の洗礼を受け、濡れてカメラが壊れるなどの
被害が出た。
オムザの車はガイドのタンさんが大声で制止してくれたため
被害に遭わずに済んだ。


これまでオムザの水被害を笑っていた同行者も伝統の儀式の重さを
初めて感じたことと思う。



下車した後は思いのほか新しいエスカレーターが頂上へと
運んでくれた。



丘からの眺めで印象に残ったのは半円形にひろがる大きな
「刑務所」であった。


受刑者は反軍事政権の政治犯なのであろうか?


 


備忘録


すっかり忘れていたが今日はわが38回目の結婚記念日であった。


神さんには忘れていたお詫びも含めて「お気に召すレストラン」での
食事を申し出たが、いつもの蕎麦屋が良い、「でも」でなく「が」、
というので「天ぷら」をプラスして藪を食べた。



運転の必要がないオムザは天ぷらで「黒龍」を一杯やった。


そうだ。午前9時にはCATVの電話敷設工事で係員が来た。
モデムの隣に同じくらいの機器を取り付けるだけの
小工事であった。


これでテレビ、ネット、電話と全てCATV任せになった。


夕方先ず鰹の刺身でビールを、餃子で老酒を呑み阪神の勝利を
ラジオで聴く。


blg書きの後はワインを飲みながら録画した「ミステリーCH」
を見ることにする。


穏やか~な良い記念日であった。


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


マンダレー(2)~絹織物

2007-05-10 21:39:45 | ミャンマーの旅

Xin Chao



元旦を翌日に控えたマンダレーの市街地は水掛け祭りの熱気が
最高潮に達した。

水掛ステージが並んだゴールデン・パレスには近付くことは出来ず
旧王宮の観光は中止になった。


水を掛ける方法もペットボトル、バケツ、ホースから消防ホースにまで
エスカレートしていた。



ミャンマーのツアーで感心したことのひとつは土産物屋での
立ち寄り時間が少なかったことである。


猫ならぬ「招き梟」が飾られた絹織物の店



複雑なデザインも織り手職人独自の伝統の技だという。



職人たちも本来なら正月休み、織機が並んだ工場内は観光客のために
駆り出された「休日出勤」の気の毒な職人が数人だけであった。


ミャンマーの土産物店と各国の土産店との違いにも気付いた。

アジアの中国、ベトナムだけではなくトルコ、イタリアなどで
値引き交渉は売り買いの常識であるが、ミャンマーの店では
値切りすぎたら売り手は簡単に諦めてしまう。


粘り腰も相手に対するゴマすりも全く効果なし。


値切り交渉が趣味のオムザにとっては極めて不本意な国であった。


 


 


備忘録


昨日の備忘録に大切な書き忘れがあった。わが愛車の11年目の
車検のためにわざわざ鎌倉から友人のA君が来てくれた。


現在はラリーのグループ代表として普段はラリー車のメンテだけしか
やっていないガレージの主人はもうK君とも呼べない、還暦だという。


振り返ってみると、ニュースの特集で砂上を走るバギー車を取材して
知り合ってからもう35年以上になる。以来、彼とは職場の同僚以上に
親しい付き合いを続けてきた。


アフリカのサファリ・ラリーで知り合ったI君も、もう君付けでは
呼べない。彼の一家もハノイまで訪ねてくれた。


最も近々の知り合いは鍼灸師のTさんである。



今日の午後は二回目の鍼治療を受けてきた。この小さな看板では
治療院とはわからない、一般住宅である。


前回「青葉」の蕎麦は美味い、と教えたら一家で食べに行ったという。
蕎麦ッ喰いの師の感想は「確かに美味くなった」であった。


今夜は阪神の実に久方ぶりの勝利をみた。しかし、試合中岡田監督が
首を傾げる度に、わが頚椎の状態も悪化していることに気付いた。


わが頚椎悪化による手の痺れはあの不決断の監督が辞めるまで
治らないのでは、と不安になった。


マンダレー(1)

2007-05-09 23:03:33 | ミャンマーの旅

Xin Chao



バガンからミャンマー第二の都市マンダレーまでは飛行機で
僅か30分である。


マンダレーは英国植民地になるまでビルマ王室最後の都であった。


空港で一行を待っていたバスは島根県益田市の「石見交通」



地方色豊かな会社名のバスが並んで観光グループを待っていた。



最初に訪れたマハーガンダーヨン僧院は全国から集まった僧1000人が
修行生活をおくっている、謂わば僧侶のための全寮制高校である。



午前10時半、全校生徒が托鉢姿で食堂前に列をつくる。


外国人観光客にも見物・カメラ撮影が許されており、裸足の白人・東洋人が
カメラの放列をつくっていた。

参観する前、バスの中でガイドのタンさんは
「僧院は人々の寄付で支えられているので・・・」と観光客からの
寄付が大いに期待されていることを仄めかした。


添乗員に「みんなの志を集めよう」と提案して集金袋が回された。
一人当たり1000チャット~僅かに百円である。が、しかし、
わが観察ではひとりで参加したZi4人のうち3人は何も入れずに
袋をまわした。



列の中には白い僧服の少年僧も混じっていた。



全員が席について一斉に食事が始まったが、飯櫃からかっ込むような
空腹の僧はいないように見受けた。


食事中は「無言の行」である。



タンさんの案内で大釜を据えた厨房まで僧院内を隈なくまわったが
大木の幹に「もう帰って」の徴を見た。


一行の善意は高位の僧にタンさんから手渡され、
僧は「日本の繁栄を祈ってくれた」という。


 


備忘録


昨夜はノジマで推奨された米国製PC <gateway>春物を雑誌とネットで
検討した。


雑誌で「HDDが古くなると故障する」ことなどを初めて知った。


ノジマと同じPCがなんと2万円も安くネットで買え、しかも「在庫限り」で
あった。モニターは「六感」で米国製を選んで手続きに入った。


購入のためにショップの会員になる必要があったり結構面倒であったが、
結果は~実はすんなりとは決まらなかった~改めてメールでソフトの
追加注文が可能かどうかを問い合わせたりして、ノジマと同額で
ソフトをプレインストールしたPCをゲットすることが出来た。


今回の買い替えに際してはブログの友人から貴重なアドバイスを戴いたこと
に感謝する。


神さんは朝からお茶の役員会とやらに出掛けたので、独りゆっくりと運転して
蕎麦屋に行った。Yさんと雑談しながらの蕎麦の味は上々であった。


帰途、ふるさと村近くの「三和」に行き、捌いたばかりの「初鰹」の刺身などを
買って帰る。


復も負けた阪神戦はどちらでも良くなって「初鰹」「朝取りのアジの塩焼き」で
オンザロックを呑み、いつの間にか寝てしまった。


 


バガンにみる格差

2007-05-08 23:15:23 | ミャンマーの旅

                  Xin Chao



バガン滞在の二日間、随分長い間いた気がするのは慣れない裸足の
行脚が続いたためなのか?


街では三日目に入った「水祭り」の熱気がいよいよ高まっていた。



街から少し離れただけの農村には市街地の賑わいは見られない。
鶏が駆け回る庭先で少年が行水を使っていた。



家々で「布をつぐむ老婆」「薪を割る男」など農家の静かな
日常生活を垣間見ることが出来、神さん族は手織りの布を
買い込んだ。



村の集会所では村人がテレビに見入っていた。


喧騒の市街地は村人にとって全く異なる世界のように思われた。



バガン最後の夕食はなんと「日本食」であった。


川辺の畔にある野外レストランはその名も「さくら」
有名な仏壇店が投資して出来た日系ホテルである。


この仏壇店はベトナムのハノイでもマンションを経営しており
友人の何人かが入居していた。


 


既に帰国した日本人料理人が書き残したレシピをミャンマー人の
シェフが忠実にまもっているという。


料理は見た目も味も、正に「ヌーベル・ジャポネーズ」



次に出てきたのが「温めん」と「炊き込みご飯」


なんとも形容しがたい、が、そこそこの味を出していると
思った。しかし、ミャンマーで食べる飯でないことだけは
確かである。


 


備忘録


蕎麦屋で久し振りに常連のYさんに会って四方山話に興じた。


帰路、ヤマダではなくノジマに寄ってPCを検証した。
63歳、多分定年後に隔日勤務の若Zi店員が聞いた。


「あなたの主な使用目的は?」


「ブログを少々とメール、それにネットショッピング位かな・・・」


「それなら高性能のものは要らない。お得なPCはこれです」


と薦められたUS製にすっかり傾いたが、一応は家に戻ってネットと
雑誌で再検証した。型落ちの「春物製品」であった。


ネットショップなら2万円も安く入手できることも発見した。



ネットでの検索作業に疲れて散歩に出た。


竹の子はもう筍とは云えず頭上遥かに伸びていた。その下には
日本名「鉄線」西洋名クレマチスが美しく咲いていた。


夜に入っても性懲りなくネットで検証作業を続けている。


今夜はわが「和食」の味も定かではない。


 


バガン(9)軍事政権の利権

2007-05-07 23:44:30 | ミャンマーの旅

        Xin Chao



仏塔遺跡地域に高層ホテル<バカン・タワー>が建立?された。


明らかにバガンの環境にそぐわない建造物と言える。


現軍事政権幹部の娘婿が経営するこのホテルは広大な敷地にコテージから
プール、そしてゴルフ場までつくってしまった。



展望を楽しみながら食事が出来る10階のレストランに客の姿は
なかった。


  供されるのは勿論、西洋料理である。



ビールなどは米ドル払い、当然他のレストランよりも高い。


ガイドも名前を呼ぶのをためらって彼女と呼ぶ「スーチーさん」が
未だに政治舞台から遠ざけられている理由のひとつは軍事政権が得た
数々の利権を手放したくないことにあるのだろう。


 


備忘録


午後、PCを見にヤマダ電機に出掛けた。


先日田園都市線の電車で娘が小耳に挟んだ若者の会話を思い出す。


「藤が丘は急行が止まらないけど24時間スーパーもある。それに
 ヤマダ電機もあるからなぁ」


現代の若者の感覚を良く表しているなぁ、と思った。


若者ばかりではない。最近では売り場にZiの姿も多く見かける。


PC売り場の担当者に聞いた。


「Ziが見やすく適当なPCを教えてね」


当分は楽しみながら研究に励むことにした。


 


バガン(8)~美少女

2007-05-06 22:50:25 | ミャンマーの旅

                  Xin Chao



旅の想いは出遭った人びとの印象で決まる。


日本人慰霊碑に詣でた後、「絵ハガキ1000チャット」と少女に
付き纏われたが、彼女の表情には卑しさが無かった。


ガイドのタンさんによれば、土産売りの子供たちの稼ぎの全ては
親に手渡されるのだ、という。
子供たちは終日、貧しい家計を助けるために観光客に付き纏う。


日本では既に失われた親孝行は極く当たり前の慣習なのだ。


既に空港で絵葉書を倍の値段で買ったオムザであったが
少女の微笑み外交には勝てなかった。



女性は”タナカ”と呼ばれる柑橘系の樹の幹を摩り下ろした粉を
日焼け止めに塗っている。


市場で見かけたミャンマーの「小百合」さんも両の頬にタナカを
塗っていた。



幼児にはベビーパウダーとしても使われる自然化粧品なのだ。


 


備忘録


筍の生長を見守っている中に「あの表皮はどうなるのか?」という
疑問が湧いてきた。



表皮は生長と共に自然に脱げ、落ちるのである。


自然の不思議さと共に、売り食い生活を何故「筍生活」と云ったのか、
実感できた。
疎開時代、母親の着物が箪笥から次々に消えてカボチャや芋に
変身した。そのことはず~っと後になって知ったが、そのころは
白米の握りを頬張る百姓の同級生が羨ましかった。
現在の「食い意地」はその頃の恨みの一端である。

子供を飢餓からまもる為に戦時下の母親たちは「たけのこ」に
ならざるを得なかったのである。


雨の日は特に引き篭もり心が強化され、ただ喰って呑んで寝る。


バガン(7)~地元観光客

2007-05-05 23:07:29 | ミャンマーの旅

                    Xin Chao



ミャンマーは折から正月休み、ヤンゴンやマンダレーの裕福な
地元民がバスを連ねてバガン観光にやってきた。



父王と兄を暗殺して王位についた第5代の王が罪の意識から建てた
「ダマヤンヂー寺院」(12c)は内外からの観光客で混雑していた。



寺院内部の暗く狭い階段を”押し合い圧し合い”の状況は中国人のマナーの
悪さを実感させられた「明の十三陵」での混雑を思い起こさせた。

航空機であれば一時間足らずだが日本製中古バスでひと晩悪路を
揺られてやっと着いた寺院であれば無理もないか・・・?



バガンの寺院で最も高いタビィニュ寺院である。



寺院の隣には日本人戦没者の慰霊碑がありミャンマー人僧侶の手で
護持されている。
「無謀この上ないインパール作戦」などの犠牲者のためである。
謹んで線香をあげる。



遺族だけではなく、多くの日本人観光客もここを訪れてお布施をおくのが
慣わしになっているようだ。


太平洋戦争中の日本国民は現在の北朝鮮国民同様に軍部を頂点とする
権力者の手で塗炭の苦しみを味わされていたことを「美しい日本」の
主導者はどのように後世に伝えていくつもりなのか?


当時軍部に対して「ノー」といえるひとは「監獄」の外には殆どいなかった。



帰り際、修行中の可愛い坊主さんに歳を訊ねたら「僕七つだよ」


 


 


備忘録



左の筍は二日まえ、右は今日撮ったものである。
筍はナント二日で1メートルも伸びていた。


ヤンキース井川がR・ソックスの松坂に続いて打ち込まれていた。


やり切れない思いのまま、TVの前で寝てしまった。


昼頃に目が覚めたらヤンキースは大敗していた。


夜には届いたばかりのお米で酢飯をつくりちらしで食べる予定で
スーパーに出かける序でに蕎麦屋に行った。2時前なのに客は
結構入っていた。


青葉台のスーパーは二店とも結構混んでいた。わが11年物の
国産車の隣も、その隣もドイツ製高級車が止まっていた。
銀行の調査でもこの辺りは金持ちが多いのだそうだ。


そういえば近所の元テニスコートの建売住宅には同じ様な
高級車が窮屈そうに駐車している。


ひとは高級なものに憧れるのだ。オムザが高級食材に涎を垂らす
ように、である。


最近通っている回転風?のすし屋は残念ながらシャリがイマイチである。


 


 この「きれいな花」の名は?


いつもの散歩道、川の土手にたった一輪だけ咲いていた。