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現役セラピストのスピリチュアルエッセイ

現役セラピストが綴る、日々思うこと、感じたこと、気付いたこと。仕事のお話も少し。

最善

2013-02-04 20:19:05 | エッセイ
どんなに、もっとこうすればよかったとか、

どんなに、なんであんなことしちゃったんだろうとか、

後悔したり、反省したりするけれど、

その時その時の、最善を、わたしたちは尽くしているのだ。

今、自分にできることしか、わたしたちはできない。

それ以上でも、それ以下でもない。

あとからだったら、いくらでも色々思えるけれど、

その時、できる最善を、わたしたちは尽くしている。

だから、むやみに自分や人を責めることはないんだ・・・

そして、後悔したり、反省したりすることが、

次への学びになり、成長にきっと、なる。




存在

2012-05-08 14:02:47 | エッセイ
わたしという人間を表すために、

本当は、肩書きも、評価も、名前すらもいらないのかもしれない。

ただそこに、ありのままの姿でいさえすれば。


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常識と自分らしさ

2012-02-07 17:38:43 | エッセイ
それは、小学校半ばの歴史の授業のこと。

わたしは、ふと気付いたことがあった。

確か、第二次世界大戦についての授業だったと思う。

「今は、戦争はしてはいけないこと、となっているのに、

過去の時代では、戦争は天皇のためとして讃えられていた。

時代によって、常識は変わるんだ。

ってことは、絶対的に正しい常識なんて、ないってことだ!

今、常識と思われていることが、いつかはそうでなくなる可能性もあるんだ」

そう思った時に、パアッと目の前の視界が開けたような、不思議な感覚があった。

悟り・・・なんていったら大げさだが、

パンッと目の前で手をたたかれて、目を覚ましたような感覚だった。

元々、「常識」というものに対して、疑問を持っていた子ども時代。

親が常識的なタイプだったため、

余計、反発や違和感を感じていたのかもしれない。

常識的に生きることが悪いということではないのだが、

常識的に生きることが、わたしにとっては枠にはめられるようで窮屈で、

決して「自分らしい」とは思えなかった。

そして、あの気付きの体験によって、

「常識よりも、自分を信じよう」

小学生のわたしは、深いところでそう決意した。

おそらく、このときの決意は、

今のわたしの心の奥でしっかりと根付いているように思う。

常識を選択するか、自分のハートを選択するかという選択に迫られた時、

たいてい、自分のハートを選択してきた。

20代半ばで退職し、一人でセラピストとして開業したことも、

一般常識からすると、おそらく<非常識>に映ったことだろう。

周りからすると、「大丈夫か?」と思われたり、

奇想天外に見えたこともあったかもしれないが、わたし自身は後悔はないのだ。

今でも、わたしは常識というものをあまり信頼していない。

それは時代の流れによって、変わるものだから。

そして、これからはますますこれまでの常識が覆されていく時代に突入すると思う。

経済、会社組織、教育、環境やエネルギー問題、などなど・・・

移り変わりゆく時代の中で、何を選び取っていくかは自分次第なのだ。

常識的な人生を選ぶのか、自分らしい人生を選ぶのか。

わたしたちには、選ぶ自由がある。

正しい間違いはなく、どちらでもOK!なのだ。

もちろん、両極端ではなく、

常識と自分らしさの間をかいくぐっていく生き方だってあるだろう。

そうそう、わたしは常識は信頼していないが、<良識>は持っていたいと思う。

仕事において、人間関係において、コミュニケーションにおいて、

大人としての良識やマナーは大切にしたい。

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自分のリアクションに意識的になること

2011-12-30 00:13:25 | エッセイ
2011年もあと数日で終わり、

2012年がいよいよ幕を開ける。

2012年については、何年も前から、いろいろと言われてきた。

マヤ暦の終わり、分離から統合へ、ワンネス、ユニティ、

アセンション、五次元へのシフトなどなど・・・

言葉は違えど、大きな地球の変わり目である、ということには変わりなさそうだ。

わたしは、数年前からこの年を迎えるのを楽しみにしていたが、

今、目の前にすると、静かなワクワクを感じながらも、

淡々と落ち着いている自分を感じている。

さあ、何が起こるか?

じっくりと観察してやろうじゃないか―――

そんな気分だ。

2011年は、日本で大激震の出来事があった。

3月11日、日本列島が激しく揺れ動き、水に飲まれ、原発事故が起き、

多くの人々はパニックとショックに陥った。

たくさんの人々が、同時に同じ状況を共有したが、

その後のリアクションは、様々だったように思う。

不安から買占めに走った人。

周りを励ました人。

情報収集に奮闘した人。

あくまで落ち着いて冷静に対応した人。

自分のことに専念した人。

これまで通りに過ごした人。

どれが良い悪いではないのだが、

あのような非常時にどんなリアクションをとったかに、

やはり、その人の本質の一部が現れたように思う。

それは、普段の何気ない日常の中では、

垣間見られなかった部分だったかもしれない。

波風の立っていない日々の中で、

穏やかで落ち着いていることは、たやすいだろう。

だが、そうではない、非日常の現実に置かれた時に、

同じように穏やかさを維持することは難しい。

そして、そのような時にこそ、

「真の穏やかさ」が試されるように思うのだ。

それは、いかに自分のリアクション(反応)に対して意識的でいられるかが、

カギになるように思う。

何か予期せぬ出来事が起こった時にどうリアクションをとるか、

それを意識し、自覚して選択するようになることが、

これからさらに大切になるように感じている。

2012年からは、自分がリアクションしたことの結果が、

ますますすぐに反映されるようになっていくようだ。

だからこそ、

「自分にとっても、周りにとっても、どんな結果を生み出したいか?」

を意識し、自分の反応を丁寧に且つ瞬時に自覚しながら、

リアクションをとっていくことが大切なように感じている。

自分の反応に意識的になれば、それはもう眠っていない。

意識が目覚め出している証拠だ。


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基本を大切にした生き方

2011-12-22 14:22:21 | エッセイ
先日、九州の祖母が他界した。

101歳だった。

亡くなるまで大病もせず、自然に衰えて、

静かに灯が消え入るかのように、安らかなに息を引き取ったそうだ。

今年の夏に会いに行った時、

2年前に会った時よりも、いくらか体力が衰えているように感じたが、

それでも、頭はしっかりしていて、笑顔で迎えてくれた。

最後に握手を交わした時の、手を握る力の強さが、今でも思い出される。

祖母は、基本的なことを丁寧に丁寧に、続けてきた人だと思う。

早寝早起き、

太陽に挨拶をし、お仏壇に祈りを捧げること、

適度に体を動かし、三食をよく噛んで食べ、

家族や地元の人たちと交流すること。

よく笑い、よく感謝すること。

幼稚園のときに教わるようなことを、

そのままずっと実践してきたような人だ。

基本的なことを、ただ、コツコツと淡々と。

そして、それこそが、長生きをし、幸せに息を引き取った秘訣なのかもしれない。

大きなことを成し遂げるのも素晴らしいかもしれないが、

祖母のように慎ましく、同じことを淡々と続けてきた生き方も、

なんて尊く、美しいのだろうと思う。

ある意味で、大きなことを成し遂げた、と言えるのかもしれない。

わたしたちは、つい基本的なことをおろそかにして、

その先を先を、上を上を行こうとしがちだ。

(わたし自身も耳が痛い)

基本を大切にした生き方の美しさを、

祖母から身をもって教えられたような気がする。

肉体から離れて自由になった祖母の魂に、心からの愛と感謝をこめて。


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