いつもは徹夜しつつも、その日の朝とか午前中に4,5時間くらい寝てたりするんだけれど、今日(昨日)はほんとに寝てなくて、ようやく家に帰ってきたのが8時くらいで、そのまま睡眠。。。。けれども、投げられた話題がおもしろかったからなのか、そういう半分寝ながら動いているような日に限って、とてもとても興味深いアイディアが浮かんでくるものらしく。新しい資本主義社会が到来する可能性について。資本主義社会が「資本主義」のまま抜本的に変質する機会があるとしたら、それが今だし、それはおそらく過去10年か20年くらい前から始まっていて、今後10年は続いてくと思う。早い会社とか目利きの人は、もうそういう社会で生きていくノウハウを持っているか、あるいは少なくともそれを構築中のはず。そしてその変化はおそらく大規模な組織からは起こりにくい。
リーマン以降、社会科学の世界で(あと実は私の知る限り映画界でも)、資本主義、社会主義、ときによっては共産主義再考というような風潮があるなかで、資本主義の強みが実感を伴ってわかってきた。冷戦はやっぱり共産主義に対する資本主義の勝利だったし、2010年から顧みると、それは現代社会が発展する原動力をも示唆していたように思う。資本主義の原動力は利益追求、利潤最大化だと思っていたし、それも間違いではないのかもしれないけれど、たぶんそうじゃない。そうすると、金融危機がおそらく組織災だったとみなすことができるし、社会が国があるいは制度がそれを容認してきたという意味では、人災だったとうこともできる。責任を、国にもとめるなら国家災、政府災。国家(民主主義前提)が国民の意志に拠って行動しているとするなら(政治学的にはそのはずだけど)、それが人災、市民災、デモクラシー災であるということもできる。ただ、金融危機についてはあまりそうじゃないのかも。金融危機発生における問題は、資本主義社会において「自由」であることの本質的問題が問われないまま、自由放任がよしとされたこと。そこにデモクラシーの入り込むすきがあったかは、甚だ疑問。アメリカ社会の格差をみれば(実際には見たことありませんが)、その弊害は明らか。資本主義モデルは、何をもってなりたっていたのか、それはモデルとして再現・継続可能なのか、humanitarianな意味合いにおいて継続は推奨されるべきなのか、再考する必要はあるでしょう。「金融界」に直接関係せず生活する一般市民にとって、金融危機は人災でしかありませんから。ウォール街が恨まれるのは当然。グローバルに波及した人災。
これはまた本質のズレる別の話になっちゃうけど、コペンのcop15の失敗にみられるように、世界が温暖化対策を共有できないのことを、民主主義国家社会のグローバルな市民災の発生とみなすこともできる。(世界は民主主義国家だけじゃないとう事実は横に置いておくとして)。とすると、グローバルなデモクラシーが実現した世界では、市民は自己の生存期間の利益(お金、便利さetc)追求を最大化することにより、地球の寿命を縮めるという選択を消極的に、あるいはともすると積極的に選択する可能性が、高いということなのでしょう。もとも、政府の失敗を市民に押し付けて国家を擁護するつもりはありませんが。それでもなお、デモクラティックに地球崩壊への道が選択されていくのはみもの。ちなみに、cop15が1919年のパリ講和会議を連想させることの詳細はまた別稿に譲る。
意味が分からなくてごめんなさい。頭の中は、この2割増くらいくらいはまとまってるけど、それはまだpublicにしたくない。だけど、今日のひらめきは今後の私の考えに少なからぬ影響を及ぼす可能性が高いので、記念にメモしただけです。それに、派生して思いつくことが多すぎて、うまくいろんなひらめきをまとめきれない。あとは、publicにするのがもったいないので、仮にうまく考えがまとまったとしても、そんなにすぐにはブログに出さない予定。といっても、私が思いつくくらいのことだから、おそらく岩波文庫にをたどれば、100年前か200年目か、ひょっとすると紀元前にも、同じようなことを書いている人はいると思うし、新書レベルでも何かしら似たようなことを思いついついている人はいそうだけど。というわけで、詳しく聞きたい人がもしいたら、個別にお問い合わせください。ただ、たぶん1月はかなりの程度で捕まりません。2月以降の詳しい予定は未定だし忙しさは続くと思うけど、たぶん1月よりは会いやすいと思います。
ちょっと書いてすぐ寝るはずが、1時間半も経ってしまいました。。まだまだ睡眠が足りてないので、もうちょっとだけ眠ります。
リーマン以降、社会科学の世界で(あと実は私の知る限り映画界でも)、資本主義、社会主義、ときによっては共産主義再考というような風潮があるなかで、資本主義の強みが実感を伴ってわかってきた。冷戦はやっぱり共産主義に対する資本主義の勝利だったし、2010年から顧みると、それは現代社会が発展する原動力をも示唆していたように思う。資本主義の原動力は利益追求、利潤最大化だと思っていたし、それも間違いではないのかもしれないけれど、たぶんそうじゃない。そうすると、金融危機がおそらく組織災だったとみなすことができるし、社会が国があるいは制度がそれを容認してきたという意味では、人災だったとうこともできる。責任を、国にもとめるなら国家災、政府災。国家(民主主義前提)が国民の意志に拠って行動しているとするなら(政治学的にはそのはずだけど)、それが人災、市民災、デモクラシー災であるということもできる。ただ、金融危機についてはあまりそうじゃないのかも。金融危機発生における問題は、資本主義社会において「自由」であることの本質的問題が問われないまま、自由放任がよしとされたこと。そこにデモクラシーの入り込むすきがあったかは、甚だ疑問。アメリカ社会の格差をみれば(実際には見たことありませんが)、その弊害は明らか。資本主義モデルは、何をもってなりたっていたのか、それはモデルとして再現・継続可能なのか、humanitarianな意味合いにおいて継続は推奨されるべきなのか、再考する必要はあるでしょう。「金融界」に直接関係せず生活する一般市民にとって、金融危機は人災でしかありませんから。ウォール街が恨まれるのは当然。グローバルに波及した人災。
これはまた本質のズレる別の話になっちゃうけど、コペンのcop15の失敗にみられるように、世界が温暖化対策を共有できないのことを、民主主義国家社会のグローバルな市民災の発生とみなすこともできる。(世界は民主主義国家だけじゃないとう事実は横に置いておくとして)。とすると、グローバルなデモクラシーが実現した世界では、市民は自己の生存期間の利益(お金、便利さetc)追求を最大化することにより、地球の寿命を縮めるという選択を消極的に、あるいはともすると積極的に選択する可能性が、高いということなのでしょう。もとも、政府の失敗を市民に押し付けて国家を擁護するつもりはありませんが。それでもなお、デモクラティックに地球崩壊への道が選択されていくのはみもの。ちなみに、cop15が1919年のパリ講和会議を連想させることの詳細はまた別稿に譲る。
意味が分からなくてごめんなさい。頭の中は、この2割増くらいくらいはまとまってるけど、それはまだpublicにしたくない。だけど、今日のひらめきは今後の私の考えに少なからぬ影響を及ぼす可能性が高いので、記念にメモしただけです。それに、派生して思いつくことが多すぎて、うまくいろんなひらめきをまとめきれない。あとは、publicにするのがもったいないので、仮にうまく考えがまとまったとしても、そんなにすぐにはブログに出さない予定。といっても、私が思いつくくらいのことだから、おそらく岩波文庫にをたどれば、100年前か200年目か、ひょっとすると紀元前にも、同じようなことを書いている人はいると思うし、新書レベルでも何かしら似たようなことを思いついついている人はいそうだけど。というわけで、詳しく聞きたい人がもしいたら、個別にお問い合わせください。ただ、たぶん1月はかなりの程度で捕まりません。2月以降の詳しい予定は未定だし忙しさは続くと思うけど、たぶん1月よりは会いやすいと思います。
ちょっと書いてすぐ寝るはずが、1時間半も経ってしまいました。。まだまだ睡眠が足りてないので、もうちょっとだけ眠ります。