フーコーのビオ・ポリティック

Michel Foucault)(1926.10.15~1984.6.25)

「週刊・山崎行太郎の毒蛇通信」の二回目■はじめに。

2010-07-19 04:15:34 | 日記
■はじめに。
「週刊・山崎行太郎の毒蛇通信」の二回目の配信です。参院選の結果を見ているうちに、配信が遅くなりました。申し訳ありません。
さて、私は、小沢一郎主導の政権交代を支持し、民主党政権による様々な改革の試みを評価し、支援してきました。しかし、6月の「小沢排除」を声高に叫ぶだけの「反小沢クーデター」「官僚クーデター」に直面して以後の民主党には、かなり批判的で、むしろ今回の参院選については、「民主党惨敗」と「菅直人・枝野幸男退陣」を公然と主張してきました。理由はいろいろありますが、菅直人政権は、明らかに民主党の政権交代という歴史的な転換を裏切る形での反動的な政権奪取内閣であり、普天間基地問題に対する態度に見られるように沖縄県民への公然たる裏切りを行い、さらに国民への裏切りとも言うべき「消費税増税」を堂々と宣言するなど、国民無視もここにきわまれりり、というべき内閣であると判断しているからです。
 菅政権は、むしろ自民党よりも自民党的な、いわば最悪の従米属国の植民地政権となろうとしています。このまま菅・民主党を放置するならば、日本が永遠に、米国による植民地的支配から抜け出せないことを意味しています。なぜなら、政権奪取前後の菅直人の動きを見ていると、節目節目で、どうも「「CIAの影」を感じるからです。
たとえば、菅直人とその仲間の行動には不可解なものがいくつかあります。菅直人は、何故、敢えて小沢一郎追放を宣言したのか。政権交代の最大の功労者は明らかに小沢一郎だったはずです。何故、わざわざその功労者のはずの小沢一郎排除を公言し、党内に亀裂をつくる必要があったのか。今回の選挙結果にも小沢排除の後遺症が現れています。あるいは何故、連立を組んでいる社民党や国民新党に対して、敢えて連立解消を誘発するかのように積極的に政争を仕掛けたのか。そしてさらに、選挙に不利ということは分かっているにもかかわらず、何故、意気揚々と消費税増税を打ち出したのか。
 いずれも国内的な政治分析のレベルで考えれば疑問だらけです。おそらく、菅直人は長期政権を狙っているでしょうが、その見返りに、それらのことを誰かに約束させられたのでしょう。その「誰か」は言うまでもなく米国とその代理人たちです。菅直人の「自信」と「余裕」の根拠は、言うまでもなく米国でしょう。
 菅直人は選挙結果を受けて辞任するべきですが、おそらく菅直人は辞めないでしょう。米国がついているからです。どせんなに見苦しくとも、最期までジタバタして、政権の延命をはかるはずです。しかし菅直人の政権存続の根拠である米国は、菅直人をいずれ見捨てるでしょうが、いずれにしろ、小沢一郎のいない民主党は、自民党に対抗できるような政党ではないということがはっきりしたということです。民主党員は、政権交代が、誰の力によって実現したかを、もう一度、考えてみるべきです。


■連載「今こそ小林秀雄を読み直せ!」(2)

小林秀雄の「物の考え方」の基本構造について、小林秀雄は、「Xへの手紙」という初期の作品でこう言っています。
≪ニイチェだけに限らない、俺はすべての強力な思想家の表現のうちに、しばしば、人の思索はもうこれ以上登ることが出来まいと思はれる様な頂をみつける。この頂を持つていない思想家は俺には読むに堪へない。頂まで登りつめた言葉は、そこで殆んど意味を失うかと思われる程慄えている。絶望の表現ではないが絶望的に緊迫している。無意味ではないが絶えず動揺して意味を固定し難い。俺はかういふ極限をさまよふていの言葉に出会ふごとに、譬へやうのない感動を受けるのだが、俺にはこの感動の内容を説明する事が出来ない。だがこの感動が俺の勝手な夢だとは又どうしても思へない。正確を目指して遂に言語表現の危機に面接するとは、あらゆる執拗な理論家の歩む道ではないのか。どうやら俺にはこれは動かし難いものの様に思われる。≫(「Xへの手紙」)
私は、ここに、小林秀雄的思考の本質があるのではないかと思います。ニイチエについて語りながら、小林秀雄は、自分自身について語っています。「人の思索はもうこれ以上登ることが出来まいと思はれる様な頂」とか「正確を目指して遂に言語表現の危機に面接する」とかいう表現の中に、つまり、こういう「もうこれ以上登ることが出来まいと思はれる様な頂」や「言語表現の危機」の中に、小林秀雄の「物の考え方」の特質があると考えます。つまり、小林秀雄は、考えることにおいては、徹底的なラディカリズムの持ち主だということです。むろん、小林秀雄の書き残したテキストは、その具体的な実践の結果としてあります。「保守」や「保守主義」とは言いながら、決して平凡な、健全な物の考え方ではなく、ある意味では、ニイチエの「病者の光学」という言葉が示すように、「病的」な、「異常」な物の考え方でさえあるということです。たとえば、そういう思考のラディカリズムの例として、小林秀雄は次のような例をあげています。
≪子供は母親から海は青いものだと教へられる。この子供が品川の海を写生しようとして、眼前に海の色を見た時、それが青くもない赤くもない事を感じて、愕然として、色鉛筆を投げだしたとしたら彼は天才だ、然しかつて世間にそんな怪物は生まれなかっただけだ。≫(「様々なる意匠」)
おそらく、小林秀雄の「物の考え方」の基準によれば、「眼前の海の色」を見た時、「それが青くもない赤くもない事」を感じて、愕然として、色鉛筆を投げだすような思考こそ、ホンモノの思考だということになろう。しかし現実には、多くの子供は、母親から「海は青いもの」と教えられとすれば、それを疑わないどころか、むしろそのまま鵜呑みにして、「海」を、「青い」という概念を通して見るものです。そういう物の見方、あるいは物の考え方をすることこそ、健全で、健康な子供ということになります。むろん、小林秀雄が拒絶しようとするのは、そういう健全で、健康な子供の物の見方、あるいは物の考え方です。実は、小林秀雄のテクストを読んでいくと、小林秀雄のテクストこそ、「それが青くもない赤くもない事を感じて、愕然として、色鉛筆を投げだしたとしたら彼は天才だ、然しかつて世間にそんな怪物は・・・」という時の
「怪物」の書き残したテクストだということです。
たとえば次のような表現の中にも、小林秀雄的な物の考え方の神髄が見られます。
≪創造というものが、常に批評の尖頂に据っているという理由から、芸術家は、最初に虚無を所有する必要がある。そこで、あらゆる天才は恐ろしい柔軟性をもって、世のあらゆる範型の理智を、情熱を、その生命の理論の中にたたきこむ。≫(ランボウ論)
 ここで、小林秀雄が、「芸術家は、最初に虚無を所有する」ということは、芸術家は、「眼前に海の色を見た時、それが青くもない赤くもない事を感じて、愕然として、色鉛筆を投げだしたとしたら彼は天才だ、然しかつて世間にそんな怪物は生まれなかっただけだ。・・・」という時の「天才」や「怪物」にあたる存在だということです。小林秀雄の物の考え方や物の見方とは、そういう過激な、そして病的とも言うべき、極限と虚無を彷徨う種類の思考だということになります。
西部邁等、左翼から転向してきた保守、あるいは保守思想家には、それがまったくわかっていません。(続く)







■連載「今こそ小林秀雄を読み直せ!」(1)
私の若い頃は保守論壇は輝いていました。「私の若い頃・・・」というのは、つまり私が大学生だった頃と言ってもいいのですが、ちょうど「70年安保」を前にした大学紛争の時代で、いわゆる思想的には全共闘運動が過熱し、左翼系の思想家や学者達がマスコミやジャーナリズムを席巻していた時代であり、保守思想家といえば、文芸誌などごく少数の雑誌等を舞台に細々と生き延びていた時代だったわけですが、そしてその後も、左翼陣営からはハイジャック事件、連合赤軍事件、イスラエル・ロッド空港事件、と次から次へと大事件が起り、よかれあしかれ左翼全盛の時代だったと言っていいわけですが、そうであるにもかかわらず、いや、そうであつたが故に、保守論壇は、つまり保守思想家たちは輝いていました。保守思想家たちは量的には明らかに左翼思想家たちに負けていたわけですが、つまり論壇やジャーナリズムにおいて絶対的少数派を強いられていたわけですが、そうであるが故に、思想的な「質」において光り輝き、そしてその作品の質と量で左翼思想家たちを圧倒していました。具体的に言うならば、三島由紀夫自身が「腹を切り、介錯を受ける」という命がけの思想的営為としての「三島由紀夫事件」は、右派・保守派からの決定的な思想的反撃であり、左翼陣営は、この事件を契機に思想的に壊滅しました。私が、「保守論壇は輝いていた」というのは、そういう意味です。たとえば、当時、私は、江藤淳、小林秀雄、三島由紀夫、福田恒存、に田中美知太郎などを興奮しなから読んでいました。彼等の仕事は、文字通り「輝いて・・・」いました。たとえば、江藤淳には「漱石論」があり、小林秀雄には「ドストエフスキー論」や「本居宣長論」が、三島由紀夫には「仮面の告白」「金閣寺」「葉隠入門」「革命哲学としての陽明学」などの小説や批評が、そして福田恒存には「シェイキスピア全集」の翻訳や多数の戯曲が、田中美知太郎には「プラトン全集」の翻訳や研究が、というように政治的・思想的発言とは別に、他の追随を許さないような専門分野の優れた業績があります。彼等は、その政治的発言以前に専門の研究者として一流なのです。彼等の発言を担保しているの政治的立場を超えて存在する専門家としての業績です。従って私は、彼等の書いた本や雑誌類に掲載される論文などを読みながら、数において劣勢ではあるが、質においてははるかに左翼陣営を凌駕している「絶対的少数派」である保守論壇と、そして保守思想家の本を熟読している自分自身に酔っていました。が、中でも熱心に、貪るように読んだのは文藝評論家の小林秀雄と江藤淳でした。そして奇妙に聞こえるかもしれませんが、その頃、同時に私が熟読していたのは、吉本隆明であり、デビューしたばかりの柄谷行人でした。この私の読書傾向は、今でも変わらずに続いています。実は、江藤淳は言うまでもありませんが、吉本隆明も柄谷行人も、小林秀雄をよく読み、小林秀雄から深く影響を受けた文藝評論家としとしてスタートし、哲学や政治にまで守備範囲を広げ、後に思想家と言われるようになった人たちです。こう見てくると、私の物の考え方の根底に、「小林秀雄的なもの」が存在することが分かるでしょう。というわけで、これから、保守思想の元祖とも言うべき小林秀雄の「文章(テクスト)」を引用しながら、「小林秀雄の物の考え方」について、そして小林秀雄の思考方法から深い影響をうけている「私自身の物の考え方」について解説・説明していきたいと思います。出来るだけ手に入りやすいテキスト、たとえば「考えるヒント」(文春文庫)「Xへの手紙」等の文庫本などから引用しながら、説明していきたいと思います。
 まず、最初に小林秀雄が、本居宣長の言葉を例に取りながら、「考える」ことについて書いた文章を引用してみます。小林秀雄は「考えるヒント2」(文春文庫)の中の「考えるという事」という文章で、こう言っています。
《宣長が、この考えるという言葉を、どう弁じたかを言って置く。彼の説によれば、「かんがふ」は、「かむかふ」の音便で、もともと、むかえるという言葉なのである。「かれとこれとを、比校(アヒムカ)へて思ひめぐらす意」と解する。それなら、私が物を考える基本的な形では、「私」と「物」とが「あひむかふ」という意になろう。「むかふ」の「む」は身であり、「かふ」は交うであると解していいなら、考えるとは、物に対する単に知的な働きではなく、物と親身に交わる事だ。物を外から知るのではなく、物を身に感じて生きる、そういう経験をいう。実際、宣長は、そういう意味合いでむ、一と筋に考えた。彼が所謂「世の物しり」に嫌いだと言っているのも、彼の学問の建前からすると、物しりは、まるで考えるという事をしていないという事になるだろう。》
 私の考えでは、小林秀雄が、ここで言っていることは、マルクスが言うところの、厳密な意味での「唯物論」に近いと言うべきです。「私」と「物」の間に何ものをも前提しないで、物そのものと向き合うこと、それがマルクスの唯物論の正確な意味です。小林秀雄は、あるいは本居宣長は、物事を考える時に「観念的に考えること」を「物しり」の考え方として、実はそういう考え方は「まるで考えることをしていない」と見るわけです。たとえば、最近の保守派・右翼は、保守思想を声高に語り、論じるが、本当に考えたうえで語っているだろうかと考えると、彼等が、考えることを放棄して「言葉」、つまり知識を振り回しているだけだということが分かります。「歴史」「伝統」「国柄」「国家観」「品格」・・・というような言葉を何も考えないで振り回しているだけです。たとえば三島由紀夫は「日本の歴史と伝統を・・・」重視せよ、それらを忘れるなと言いましたが、三島由紀夫にとって「歴史と伝統を・・・」を重視するとは、優れた「小説」や「批評」という作品を書くことでした。三島由紀夫は、日夜、日本語と格闘していたと言っていい。いわば、それが三島由紀夫にとって「考えること」でした。単に、「歴史」「伝統」「美意識」という言葉を声高に叫び、それを繰り返すことではなかったのです。しかし、三島由紀夫を神のごとく尊敬するという最近の保守思想家たちは、三島由紀夫のように「日本語」と格闘し、作品を生み出すということをしているでしょうか。つまり、小林秀雄や本居宣長が言うところの「考えるということ」を実践しているだろうか。私は、自戒を込めて言うのですが、最近の保守思想や保守論壇は、一見、活気を呈しているように見えながら、実は、保守思想が衰弱し、保守論壇は思想的に劣化しているとしか私には見えません。私は、あらためて小林秀雄や三島由紀夫、そして私が熟読した江藤淳等が立っていた地点に帰るべきだと考えます。というわけで、保守論壇や保守思想の再生のためにも、もう一度、小林秀雄の残したテクストを、細かく読んでいきたいと思います。(続く)