フーコーのビオ・ポリティック

Michel Foucault)(1926.10.15~1984.6.25)

北岡伸一 【歴史見据え日本の針路探る】

2010-07-20 21:04:03 | 日記
北岡伸一 【歴史見据え日本の針路探る】
きたおか・しんいち=東京大学法学部教授・日本政治外交史。1948年生まれ。東京大学大学院博士課程修了。日米関係、政党政治、憲法など幅広い分野で発言。奈良県出身




 米ソ冷戦の終結から10年。その後の世界は、アメリカを中心とした国際秩序の再構築が模索される一方、各地で民族紛争が続発、「文明の衝突」が意識されるなど混迷を深めている。歴史家、政治学者としてこの世界の動きを鋭敏にとらえ、自由主義と国際協調という歴史の潮流を基軸に据えながら、日本の進むべき針路について説得力のある議論を展開してきた。

 論壇に本格的に登場し、その発言が注目を集めたのは、1990~91年の湾岸危機の時だった。イラクのクウェート侵攻後、『中央公論』(90年11月号)に発表した「協調の代価」では、現地の平和維持のため、自衛隊法を改正の上、「自衛隊派遣にまで進むべきだ」と訴えた。

 PKO法(国連平和維持活動協力法)が成立する2年前で、自衛隊の海外派遣がまだ戦後のタブーであった時代。資金面での「国際貢献」を説く議論が大勢の中、「湾岸地域の安定を最も必要とする日本がリスクを負わなければ、国際世論は納得しない」と説いた。 湾岸戦争勃発後、90億㌦を拠出しながら人的貢献は乏しかった日本に対し、国際社会が日本に示した冷やかな反応は、この予見の正確さを証明した。

 「歴史の応用問題を解くつもりで、現代の問題に取り組んでみた。政策提言と言うよりも、まず現実を分析し、理解したいという思いが強かった」。その構えは、あくまで学者らしく、自然流だ。

 湾岸危機についての論考をまとめた「日米関係のリアリズム」で読売論壇賞を受賞。また、「清沢洌」でサントリー学芸賞、「自民党」で吉野作造賞をそれぞれ受賞した。大学院の博士論文をベースにした学術書「日本陸軍の大陸政策」も、学界での評価が高い。

 歴史と向き合っていると、戦前の軍国主義と、戦後の非軍事主義の共通点が見えてくるという。

 「ようやく1999年にガイドライン関連法が成立しましたが、日本はこれまで朝鮮半島の有事の備えを長年怠ってきた。『有事はおきないだろう』という願望にすがり、本質的な判断を避けてきたためです。冷徹な現実認識に欠けていたという点では、米英両大国を相手に、無謀な戦争に突入した戦前の日本と共通しています」――。

 92年に設置された読売新聞社の憲法問題調査会の委員として、読売憲法改正試案の策定にも当たった。

 「基本的人権の保障、象徴天皇制、議院内閣制、平和主義などの点で、日本国憲法はかなりよく出来た憲法だと思います。しかし、様々な不適切な条文もある。特に戦力の不保持を定めた第9条後段は、国連加盟国が部隊を派遣することで、紛争の平和的解決をめざす国連憲章の精神とも矛盾する。削除か、または修正すべきです」

 戦前への回帰ではない、21世紀の国際協調主義に見合った未来志向の憲法改正が持論だ。30年代、日本の満州事変に対して列国は有効な対応策を打ち出せず、関東軍の自由な行動を結果的に認めたことから、国際秩序は崩れて行った。戦後の国連が、その過ちを繰り返してはならないとの思いがそこにある。

 国内政治システムについても、「一定期間、国民が選択した政権に権力を集中させ、その結果を選挙で審判するべきだ」とし、政権交代を前提としたデモクラシーの徹底を説く。

 実家は奈良の古くからの造り酒屋。大叔父の北岡寿逸は、戦前、ILO(国際労働機関)政府代表を務めた。少年時代から祖父母に連れられ、歌舞伎、能など日本の伝統文化に親しむ一方、「史記」などの中国の古典や世界文学全集などを夢中で読んだ。

 東大に進み、2年生の時に、東大紛争に遭遇。大学はバリケードで封鎖されたが、有志と共に教養学部の佐藤誠三郎助教授(当時)のゼミナールを、喫茶店などを転々としながら自主的に続けた。「幕末の上野彰義隊戦争の最中に授業を続けた慶応義塾の気分でした」と振り返る。「学生運動のような大衆運動的な熱狂には、当初から懐疑的でした」。

 時流におもねらず、文化や教養、自由の精神を尊ぶ。その構えは、どこか福沢諭吉の精神に通じるものを感じさせる。その福沢について、「いつか本格的に論じてみたい」という。どんな福沢像が描かれるのか、今から楽しみである。


(天日 隆彦)