オフィス・ソガ 曽我傑 

曽我傑 関係イベント年度予定

閑房幻聴録 3

2024年04月14日 | 転写実験

・   「時勢はどうでも 世間はなんでも 踊りコ踊たんせ 日本開びゃく 天の岩戸も 踊りで夜が明けた~~」「お盆恋しや かがり火恋し まして踊り子なお恋し」 これ、西馬音内盆踊りと秋田音頭の唄のほんのさわり。もう一つ、「お寺の和尚さん法事さ行くのに にわとり貝焼き食うた ナムカラタンノウトラヤーヤたば 頭さ羽根おいだ」土方さんが踊ってる!因みに小野小町の生まれ在所は秋田だって!おめさん、しらねのげ!

・   石井漠にはその後ろにイサドラ・ダンカンが乗っかかってる。その漠さんを乗っけて大野一雄、大野慶人、土方巽、石井歓、石井真木、石井みどり、折田克子、谷桃子、松島トモ子、黒柳徹子・・、もっともっといらっしゃるのでしょうが私はさほど詳しくないですが、山田耕筰の名も切り離せないところ位なら伺っております。吃音者(どもり)だったことは武満徹にも通じる身体であったとは容易に想像できますね。

・   現代が失語症になりかかっている「多様性」(ダイバシティ)の健全な回復はこの先どれほど大事なことか。更に角度を変えて「古今、新旧」に投網を掛けての「時間の多様性」について。舞踏がそれをやっているのに気付いた。閑の効能でしょうか。

・   石井漠の言葉から。「踊りは音・運動・呼吸が合わさって出来上がるもの、即ち生命のリズムそのものである。西洋でこれまでに当たり前のように考えられていたような、技巧や型に思想とか感情を盛り込んで行なうのではなく、思想、感情が発酵して自ずと技巧、型を生み出してくるのであって、そこのところが面白く大切な事なのである。」フムフム、納得!触境だよねこれは、良かった!

・   目の前に透明なグラスに入った水がある。眺め続けると、少しづつ深さが増し水面が拡がり、やがて私を引きずり込み、飲まれるはずだったやつが反対に飲み込んでくる。閑房幻覚録。

・   男が流す涙は身体の内に居座る赤子の己の心の傷から流れ出る血。女の涙は与える赤子を見失った母の乳。いずれももはや失う色も無く只苦さを残すのみ。

・   嘗て作曲を近藤譲さんに師事していた際のテキストの一つにパウル・ヒンデミットの「音楽家の基礎訓練」という表題の本があった。そこでは主に変拍子や複合拍子の訓練を段階的に覚えて行くものだったが例えば左手で5拍子をカウントしながら右手は7拍子を刻むとか、ワルツの様に3拍子で歩きながら腕は5拍子で振る、更に同じワルツの歩行の間左腕を4回振りながら右腕を5回振る等。何の訓練か練習か解らないままテキストのほぼ全部をクリアするところまでやったことがある。それから随分と時が経って「頭で色々計算するより身体に訊いて心を解いてやる」方法の一つだったんだと気付く。「そうか、あれは音楽とは何を意味するかを知る為の訓練だったんだ!演奏とか作曲法を習得するプロセスの先にあるものに近づく訓練だった!」。そう言えば今は亡き親父の口癖で「バカの考え休むに似たり。中途半端なら何もするな!」を思い出した。土方巽の提供する舞踏譜の示すものも全く同様、その先にあるもの、つまり「自分という存在は何か?」の答え探しを続けることのみ。興業では無い舞踏の公演が成立するのは、その場を共にする観客も日常の中から一歩踏み出して「その先にあるもの」を舞台上の出来事と共に探し始めることで同じ地平線に立つこと、「何だか解らないけど、今の感じアルアル!」さえあれば成立する。

・   「舞踏感覚」の いと面白きかな。 例えばここに一人の典型的身体の人間がただ立っているものとする。こいつをAさんと取りあえず呼ぶとして、このAさんを表すのに ①立っている動物 ②身体の中の鞴(ふいご)でそとの風を出し入れする肉の風船 ③目のふりをしてまるで何も見ようとしない眼球と呼ばれる部品の具合を気にしている首と肩の案山子 ④Aさんが少し場所を移動したとき「その身長分の空気層がズレたか運ばれた」又は移動した分「超高速で飛ばされて全く違う生き物として再生している奴」だったり ⑤肉と骨が総掛かりで守りたいおしゃべりな十二指腸 ⑥重力と遠心力に安穏と乗っかかっている怠け者の絡んだ神経 ⑦顔の真ん中付近にぽっかり空いている鼻と呼ばれる二本の底無しトンネルの方角を猟師の鉄砲の様に何かに狙い定めている人 ⑧いずれ燃やされる火種の骨を大事に持ち運ぶ肉の執念 ⑨涎や涙となってこぼれ落ちる高純度の滴(しずく)製造装置 ⑩口と言われている洞穴から言葉と呼ばれる屁を出す特技を持った人 ⑪「ヒト」と表されるぶよぶよの一塊(かたまり) ⑫立っている間は光そのもの、完全な脱力(暗転)には一旦死んでみるしかない微生物の抵抗 ⑬「エス」(イド)を口実にネクタイに賭ける快楽原則をはき違える「幸せなイノチ」・・・。まだまだ続くがともかく面白い。で、「舞踏の公演」「舞踏を教える」「舞踏のワークショップ」「舞踏のお勉強会」、ともかく面白い、面白い。

・   『色は匂へど散りぬるを、我が世誰ぞ常ならむ、有為の奥山今日越えて浅き夢見じ、酔いもせず ン(京)』

涅槃経の偈の和訳でどうやら空海の作らしいとされて日本人の身体に染みこんだ唄なのでしょうか。それにしても粋で色っぽくてやけっぱちの坊主の鼻歌の様にも。「色即是空 空即是色」、後は唄だけ......、何と格好良いんだろう!

・   そこでもう一曲やってみる。

『 遠き別れに たえかねて この高殿に 登るかな 悲しむなかれ 我が友よ 旅の衣を 整えよ   別れと言えば 昔より この人の世の 常なるを 流るる水を 眺むれば 夢恥ずかしき 涙かな  君がさやけき 瞳のいろも 君紅(くれない)の 唇も 君が緑の 黒髪も またいつか見ん この別れ 』(島崎藤 - 惜別の唄)

これはべたべたの演歌として色々な歌手が歌っているが、なんと美しい日本語のセンスだろう。そして深い無常観、諦観などなど。更に「目の前の川を流れているのは恥ずかしいけど俺の涙か・・」とも読める様な言葉の多角性があり、舞踏譜に匹敵する実に豊かな多面言語である。しかしながら、これを実際の舞台にかけようものなら「なんで小林旭なんだ、なんでちあきなおみなんだ、クラシックのアリアか何か歌曲に変えてくれ~!」と叫んで私は怒られます。 土方さん、どうしたものでしょうね? 一応私も大人なもんでクライアントさんは大事にしますが。

・   千年の「舞踏」を背景に生まれた土方巽の「暗黒舞踏」がいつの間にか「The Butoh」或いは現在の「舞踏」となり舞踊に連なる身体表現の新たにカテゴライズされる位置に配されて久しい。舞踊(ダンス)や言葉の好事家の視線が希求して止まないところなのだろう事は想像出来るが、やはりもう一度「舞踏」の原点、つまり現象の出所について整理整頓をしてみたいと思う。何故かと考えると「暗黒舞踏」をキーに開かれた「存在の背景」についての紐解きツールが私達にも与えられたからだろう。「演繹」「帰納」ともう一つ「舞踏」という認識に関する思考の切り口から、より柔軟に「平等、或いは多様性の本来」に触れることで土方巽(米山九日生)が客観に位置し、そこから無名者に通ずる命の連鎖に加わることが出来るのではないだろうか。ダンスのフィールドではあくまでコンテンポラリーだろうし、ノーテーション(舞踏譜と呼ばれるもの)の有り様も同じ生成プロセス上にあるのは言うまでもない。それはそれである。一時期、何かの革命にでも直面したかのような文化的興奮が土方周辺にあったらしいし今でもそれを引きずる(時差をもって海外では特に)ものがあるようだ。古代の恐竜の骨を集めて分析と再構成して、その在りし日のエネルギーをリアルに見せてゆく作業に等しく、冷静で気長な付き合いをしたいものだ。集めた骨の保存はともかく、所有権や独占権などの主張は言語道断、模索する自由の拘束、制限行為は犯罪に等しいと言うべき。「暗黒舞踏」は商品で良いが「舞踏」は商品ではない。基本的人権そのものだろう。土方巽の特筆は「超古典、即ち超現代」、アヴァンギャルドは古典の最前衛だが「超~」の隣接は実験、即興を伴っており、従って記録されて残る土方作品では確実な古典様式と不確定領域に踏み込む実験を観ることが出来る。何とかこの「眼を開く」術についての面白さを次世代とも共有したいと思うのだが。

・   石井漠から土方巽への連鎖、山伏神楽或いは古代能とされる番楽、梵天の痕跡、西馬音内盆踊りの所作、独特の食文化等々、これらは全て秋田、山形地方に集中して興った文化芸術の記録である。特に秋田では無形文化財が日本の中では最も多いらしい。これはただ事ではないと思いその現象の理由を考えてみた。かつては大陸に直面して海流のルートでもハブ的な位置にあった男鹿湾を玄関にして海の文化往還、内陸部では鳥海山、太平山、出羽三山などを巡る山伏が運ぶ世界。大陸に直面する時代からすると極端にはそのままチベットタントリズム、密教などとのリンクを想う。国内でも各所に山岳信仰が点在し日常の中で身近な精神高揚のリズムを植え付けた。メッセンジャーとしての修験者や旅の商人芸人、松前船のような交易システムとそれによる利益権益への欲求も様々な形で時代を過ぎてゆく。考えようでは日本という国そのものを一つの身体とすると交流流通ルートは血管或いは神経ネットワーク、季節の風が心臓の鼓動、出来上がった芸術は皮膚に浮かび上がる斑点模様、それを守るか消去するかは民衆(体調や気分)の多数決の結果、山伏などのメッセンジャー次第の時々のショック。秋田が確実に身体の重要なパーツでありここが文化芸術芸能を作り出していた事に改めて驚く。体内でどこかが血液を造ったり消化液を造り出したりというように。そう考えると現在の東京は胃袋、肛門はマスメディア、広島、長崎、福島、沖縄は神経中の痛点、脳味噌はあちらこちらでそれぞれで必死、嘗て頑丈だった骨格はお金の作用でナメクジのように溶けてしまい筋肉の拠り所を失った状況か。再度、石井漠から土方巽の景色を眺め返して、更に現在とこれからを重ねて想像を鍛え直し、どの姿であるべきかを想う。

・   「近頃ミヤコで流行るもの(結構以前から流行っているが)、コロナにコラボにアートさん、スマホやデジ物、脱炭素、再生可能にエコ生活、健康サプリやコンテンツ、アプリケーションお手軽に、画面でチェックのワクチンも、ウイルス頼みのオリパラや経済界の趣味嗜好、夜間外出自主規制、正義の味方のお巡りさん、免許返上おじいさん、行政判断文化策、ゼネコンありきで復興支援、マスクはともかく金バッジ、金看板の霞ヶ関、リバイバルなら60年代、スカスカなのにカス政権、何にも出来ない何にもしない法曹界、キャッチコピーの花盛り、アニメカルチャー魚の頭、地球に優しいエコプラン、平和利用の原子力、ビッグデーター背景に、あれだめこれだめこうしましょう、余計なお世話も国民の、命を守ってあげるため、平和な世の中守るため、安心安全未来は百年、明日のニッポン創りましょう、回覧板を回しましょう、ゴミは仕分けを厳格に、公共、環境、坊主はお経、めざしの頭は神様で、自己責任はご自身で~~~~あーこりゃこりゃーッと!」

・   ぼんやりと覚えているが多分60年台だったと思う、「怪傑マスクマン」と言うヒーローの事。何かのパロディだが手ぬぐいでほっかむりした泥棒に鉢合わせした少年が思わず悲鳴をあげるのを聞きつけた正義の味方マスクマン(誰だか分からないようにとの変装をしたお父さん)が助けに行き、そこで泥棒と闘うがあっさりと泥棒に負けてしまう。マスクとほっかむりが入れ替わり少年は余りの強さにすっかり泥棒をマスクマンと信じてしまう。泥棒は少年の夢を壊すまいと「坊や、戸締まりをしっかりしてもう泥棒に入られないように気を付けるんだよ!」と言い残してそこを颯爽と立ち去るというもの。やられた本物のマスクマン(少年のお父さん)はこそこそと顔をかくしたまま逃げ出したがやがて何気ないいつもの調子で「ただいま~」と帰ってくる。そこで少年の事件の話を聞くわけだが「そうだね、これからはもっと気を付けようね!」と相づちをうつのである。お父さん、心中や如何に。昨今のマスクマンに溢れる世の中では誰が泥棒で誰が善良なお父さんなのかよく分からないが、ともかく戸締まりを確かめてっと。

・   雨が降り、庭の植木の葉っぱから落ちる水滴に見とれて、気がつけばかなりの時間が経っている。この過ぎ去った時間に惜しい気持ちは微塵も無い。効率や経済効果を問う事を否定はしないが何とバカバカしいことか。「時は金なり」の金とは人それぞれの価値でありその形は様々。どうもこの「金」のところを単純に「お金」と解して疑わないところに気持ち悪さを感じる。

・   作曲に関して幾つかの実験思考。動機が神話や哲学、文学作品、物語、詩、伝承されたもの、自身の心情等、言葉が先にある場合、または伴わなければ成立しない場合にはそれを音楽で表現するのに大いに時間がかかる。所謂「練る」時間が必要になってくる。作品によっては一曲の完成に数年を要したと記録されたものも少なくない。更に存命中には出来上がらず未完成曲として妙な価値を生むものさえあるほど。一方、ミニマル音楽や「神の啓示」によって生まれたものにはさほどの時間はかけられておらず、幾つかのユニットフレーズやパターンの発明、組み合わせ構造の理論化などが主な作曲時間となる。乱数表やサイコロの答えを待つもの、次のアクションの欲求まで待つものなども。現代においては進化した電子音楽技術により作曲そのものが一般的市民権を獲得しつつあり相当のクオリティをもって世に出されるようになり、さほどの音楽基礎教養が無くても音楽の専門家に迫る、或いは、より斬新な音楽に触れることが多くなった。この事からふとジョン・ケージが謂わんとした未来の状況が現実になりつつあるのかも知れないと思う。脳の特性からすると左脳、右脳それぞれからの作品化の違いか。若干危惧するは、全体が安直で簡便、それでいて豪華な音響を生ませられるとするとどこかで思考停止に向かってしまうのではないか、言語と音楽の不分離に苦悩する古典的作曲家がもはや文化財的扱いとなり、やがて全て失われてゆくのではと言うことである。勿論、音楽学校では一通りの教養は得られようが、その動機の必然の知覚、生成にまでは至るまい。類似の現象は既に現代美術の世界で顕著に進行している。共に背景には経済的価値の要請があるようだが、救いがあるとするなら現代の経済構造社会から距離を置いて、内なる音楽の欲求に只向かうことのみか。これなら自分でも出来そうである。

・   政界財界の大物小物の周辺でウロチョロしている所謂身辺警護の人達にもの申す。ある日「○○先生がこちらを通られるからそこどいて!」とはなんたる無礼。もしかして警護しなければならないほどに悪いことしてる先生でしょうか?まあ、大体が税金泥棒か証拠隠滅罪はたまた贈賄収賄、人種差別、職権乱用、裏取引などで挙げられなければならない先生なんだろうけど。

・   変な病気のせいで酒が全く飲めなくなってしまった。誰かが言っていた様に「人生の楽しみの大半が無くなる」思い。若い頃には日本酒は合わなかったがテキーラ、ウォッカ、ウイスキーを好きでストレートでめちゃくちゃ飲んでいたのにどうやらそれが良くなかったようだ。親父が死の間際まで大酒飲みだったが様態を余りにも心配して無理矢理押さえつけて持っていた酒のコップを取り上げたり「もう飲むな!」と怒鳴りつけてしまった。臨終の後で「酔っ払ってあの世に送ってやれば良かったのかも」と居なくなった寂しさに後悔もトッピングされて居たたまれない気持ちだが「今のオレが飲めなくなったのは親父の復讐かもしれんな」と諦めの境地の扉が少し開く。

・   天の啓示とやらで出来上がる曲が殆ど駄作なのは致し方ない。が、何かあるのではと過去の作品を掘り返し聴き直してみると記憶にないフレーズや和音に意外にも新鮮なものがあったりして、しかも今は思いつかないだろう様な構成、展開、はぐらかしなどの工夫もされている。肉や発酵食品のように少し寝かせてみるタイプなのだろうか。それにしてもこの時間差では曲を売る商売には向いていないのは明白。とっくに承知の筈だがそれでもこれを舞踊家や映像作家に提供したときには耳ではない別の身体感覚で聴いてくれて時に役立つこともあるようなので、そうなるともはや自分の善し悪しの判断の範疇を超えるに任せるわけだ。この様な事の流れを考えると、このどこに著作権とかオリジナルを主張出来よう。ピタゴラスに音階の使用料はまだ払っていないし請求も来ない。天の啓示は身体の欲求に等価、生理的反応、精神的バランスシート(貸借対照)、仕方ないですね駄作が出来続けても。それにしても現在の曲数が間もなく5千になろうかと言うところに来ていて足の踏み場も無くなりつつあるのを何とかせねば。

・   通り相場の「舞踏カンパニー」を標榜しながら内実、とっくに挫折して結論も出ているアングラ演劇集団の夢を見ている集団が今も存在する。舞踏をツールにして舞台演出を見せるのだがそもそも真逆の行為である。舞踏は演出、空間、光、音、その他のマテリアルを衣装にするが真逆の行為はそれらでデザイン、レイアウトするだけの商品製造行為である。そのために多くの時間を何度も繰り返す稽古に当て人生の時間を無為に過ごさせる。終いに真っ白く塗ったり手の込んだ作られたボロ衣装の具合に舞台の成果を賭ける。典型的虚しさ。声の大きな自称演出家は要らない、必要は開いた感性、鋭敏な神経、ミクロに反応できる身体、底知れぬ想像力、リアルなイメージ。どんなユニゾンも基本の個々のばらばらを削いではユニゾンにならない。皆でやる体操教室ではないですよ。開放の具合、許容、度量、包容力、存在への愛、限りない無名性への希求、カルティベイション、呼吸、鼓動にシンクロする単純な反復行動などなど。

・   先日、自動車免許更新のための講習を受けた際に見せられた交通事故の瞬間の映像から。それは自転車と乗用車がとある交差点で衝突するわけだがドライブレコーダーの記録から自転車が信号無視で交差点に突っ込んできてそこに青信号なので直進する乗用車が運悪くぶつかる。この映像を見せられて、所謂安全教育の専門家とやらの人が言うには「この場合、過失はどちらでしょう?」と問いかけます。答えは「自転車は当然信号無視、乗用車は前方不注意、安全確認を怠りブレーキ操作の初動遅れなどでどちらも過失が問われますが最終的には弱者の安全優先の原則から殆どは乗用車側の責任が問われます。」と訳の分からない、理不尽なことをべらべらしゃべってくれました。なんのためにもなりません。これこそ奥行きと幅の無い公共秩序とやらの実態。私は一言文句を言おうかとも思ったのだがここでは無駄と思ったがいまだに消化不良の不愉快が残る。言いかけたのは例えば「最も悪いのは信号機だ。これが無ければ人間はもっと身の安全に注意して神経を使う。信号機に善悪を支配されてそれを判定するしかしない警察の判断なら誰だって出来るだろう、何も公務員を置く必要は無い。人間は痛い目に遭いたくない本能をもって生活し神経を張るのだからそれをさせなくすることに何とも思わない安全教育とは何事か。ルールを教えてそれで良いわけが無い、かえってこの映像のように危険を煽るものだ。」信号を守る、ルールを守る、守る守るが安全につながるのか?更に保険に入っておくともっと安心だってか?因みにインドネシアの都市部では信号機が増えてから急に事故が多くなったとか。以前はスピードも遅くどこから他の車が出てくるか分からないので慎重だったとかでそれ程の事故は余りなかったと聞きました。

・   世間の流行病で「ステイホーム」と犬のように扱われる社会とそれを何とも思わないで懐深く受け入れるキャパの無い自分は「さてどうしたものか?」と悩む。そこで出てきたキーワードが「覚悟」。「仕事が出来ないことを覚悟する」「暇を持て余すのを覚悟する」「金回りが悪くなるのを覚悟する」「親しい人に会えない、行きたい所に行けないのを覚悟する」等々。簡単なイメージとして「○○を覚悟する」の「○○」の部分はもう考えないで次に取りかかると言うことである。「死を覚悟する」と言ったらもうこの先「死」について悩まない、考えない等である。仏教で言うところの「迷いを脱して道理を悟る」事なのだろう。「清水の舞台から飛び降りる覚悟」と言うとき「落ちたら死ぬかも、痛いだろうか、足が折れるかな・・?」を考えないようにすること。もっともあの高いところから飛ぼうとするわけだからとっくにそんなことは承知の上なのだろう。はてさて飛び込むことに何の意味合いがあるのかさえも考えない境地。これまでに色々な場面で無意識に覚悟を重ねてきたのだろうかとも思う。畢竟「思考を経済的に合理化して現れる余剰の命をもっと将来の糧に注ぎ込む」。自分の人生はそれ自体が生きることのワークショップの時間だと思えばまだまだやれることがありそうだ!

・   昨今、国や行政レベルでやたらと標語やらキャッチコピー、かけ声、コンテンツの畳かけが目に余る。まるで洗脳活動だ。おそらくどこかの宣伝屋やマスメディア関係の陰の入れ知恵なのだろうが余りに幼稚。まるでスマホのゲームのレベルで責任の所在不明の現象が起きている。政治家が断片的に何か発言する際もミニマルのいくつかの言葉のユニット並べ替えで過ぎる。マスコミはそれを右から左に駒を埋めて「はいっ、おしまい!」。「命に関わる重大な危機」と警鐘を出すなら「命の維持に関わるファクター(エネルギー、食料、医療、住居などのライフライン)のカバーをして、中間搾取はせず、お友達優先はやめてから始めて遊んでもらって良いですが。

・   長年の不摂生がたたり先日ついに救急車の世話になる事態にまでなってしまった。振り返ると自分には確実なデータと言うか実践から得たボーダーラインに頼る癖があり、例えば車を乗り換えたら一度はガソリンを満タンにしてからタンクに全くガソリンが残らないまで走ってみてもうこれ以上は走れないところまで走り、その時に示す走行距離から「ああ、この車の燃費はこうだ」と身体にインプットしてそこから改めてその車とつきあい始める様なところがある。自分の体調についてもいずれ限界はあるだろうが「やれる限り頑張る、人生の時間に無駄を創りたくない、壊れたら直ぐさま直す・・」等々、実に都合の良い若い甘さで生きてきたものだと思い知らされる事態となってしまった。かといって保険ビジネスや不動産確保に向かう気はしないが、倒れたときの死の恐怖や怖さ、耐えがたい痛さ苦しさは二度と味わいたくない経験だ。薬ばかりで手当てされる現在の医療にも若干の疑問はあるがともかく死そのものでは無く死に向かった時のプロセスの恐怖感から今後の与えられた時間の過ごし方に少しは知恵を授けてくれるのだろう。先に逝ってしまった愛する人達を抱きながら私はもっと生きたい!

・   照明で関わる舞台や美術イベントなどが多いが自分のスタンスは明快単純である。分担作業としての照明参加は決してしないがもしもそれを望まれれば決然と高額の報酬を職人として請求する。そうした一般的な関わり方では無く自分を必要としてくれるところで生きる実感がもてれば報酬は度外視して臨める事すらある。この様なときには作業上の諸経費を自分で持ち出すのもいとわない場合もある。それ程に大事な機会だからこそ次の自分を生かしてくれると思える。某美術イベントで超有名なフランス人現代美術家の制作に関わった時のことだが制作プロセスに或る問題が発生して関係者で解決法を色々と模索していて私も幾つかの提案をした。はじめの頃はこの美術家も神妙に耳を傾けていた様子だったがどうやら専門的なところで理解できない部分が有るようで、と言うか先ず発想が違うのかそのうちに潜在していた超有名である自負からか高圧的な態度や反応を示し始め、終いには「私が必要なのは単純な技術者でありおまえみたいに私の作品に食い込む奴じゃ無いんだ!」と言い出す始末。私はその時までその作家は彼の背景や過去の作品から大いに尊敬の念をもってほぼボランティアで協力していたのだがこの時の彼のヒステリックで高圧的な態度に出会い自分にはこいつを見る目が用意されいなかったと痛感したものだ。つまり「底が知れる」というもので一億円ほども注ぎ込んでいるこのイベントの主催者に直ぐさまコンプレインを出した。「彼は芸術家では無いただの乞食有名人だ!他者の目を拒否するテリトリー第一主義者でこれこそ現代の最たる似非アーティスト、表面化しない権力志向そのもの。私にはこれは許せない、世間がこんなものをちやほやともて囃すところに現代社会の根源的問題があるのであり、これに抗するものが現代アートの役割だ。こいつの参加は私には同意できないので協力はこれで終わりにします。」と現場放棄した。この時点で既に制作プロセスは八割近くまでは進んでおりその後誰かが何とか仕上げたようで無事(?)に目出度く公開となり主催者の思惑通り大勢の見物人で賑わったそうだが、自分からすると既にカスカスのゴミの山でしかない。

・   久し振りに我が閑房に戻った。ふとよぎる悪しき想念癖の克服のためにここに垂れ流すとしよう。十代の頃のことだがどうにも釈然とせず教師にいつまでもしつこく尋ね続けたことを思い出す。「我思う、故に我あり」のソクラテスについて「なぜそうなのか?」の納得のゆく回答を受けられないままだったこと。帰納法なる因果律やら「悪法も法」は一応理解したつもりであったがやはりどこかで都合の良い論理立ての様に思えてならなかった。「何か隠しているのでは」の部分が払拭されないのである。同時に演繹法側にも何か胡散臭さを感じた。数学上に限定するならまだしもどうも東洋的世界観なる感覚には絵空事みたいで説得力を感じない。「実態、実相との関係は?」が引っかかるのである。後続の言語文化圏が発明した世界観の表現技術の一つと考えれば未だに議論の最中であるのはうなずけるがこれぞまさしく大いなる閑房の有様。石っころが何かにぶつかって「カチーン」と発音する一瞬に全てが収斂されるのを観ずる神経もこの世にはあるはずと思うが。

・   劇場に関わる仕事をしていると時に我を忘れる、所謂「忘我の境地」を彷徨う瞬間がある。こいつについて思うに「魂を舞台に持ってゆかれる」のと「自我に没頭する」の二つの対極があるようだ。前者については「感情移入」などとはほど遠く「舞台上の事件に巻き込まれる」様な瞬間、これには精神的高揚ののアイドリングがあり生理的変調すら来す。一方後者の没我はある意味瞑想状態に近い感覚である。これらが交差する瞬間に覚える舞台の快楽と神聖なる事態とをこの上なき福音、或いは不思議の恩寵と受け取る。

・   白石征さんの構成演出による「一遍聖絵」の舞台に関われた。法然系譜の一遍、すなわち遊行上人または捨て聖とされ、その生涯には現代の似非過保護社会への過激な批判を見る思いであった。「断捨離」の元祖とも呼ぶべき「無駄の排除、無駄と思えるものの排除、抗権力、スーパーシンプル・・etc.」。しかしこれに至る背景の実に生臭いどろどろした一遍の人間性に共感も覚え、来世の事はいざ知らず現世の救いを得る思い。要注意は不徳を良しとしないことだろう。踊り念仏を祈り、又は自己弁護のツールにせずただ踊らされるのに身を預ける事、暗黒舞踏の概念にも通ずる自己解放、環境同化、自在なる異化、生命の快楽の確認。そして命がけの人生と覚悟の姿。

・        これから自動車運転免許を取りたいと考えている方は、お近くのスーパーマーケットとかアウトレット何とかとかショッピングモールとか呼ばれているところに行きカートを押しながらうろついてみて下さい。多くのカートが行き交い、暴走する人、交差点無視の人、スマホを初めとして脇見などのながら運転、道の真ん中での立ち話、割り込み、頻繁に起こる衝突追突、人の足の上の通過、カートに小さな子供を残したまま何処かに消える母親、突然の方向転換、飛び出してくる人、やたらと煽り運転の人(これは俺の事だが)など全く普通の道路を車で走るような経験が出来ます。普通にこうした状況に付き合います。

・        明け方の「中空の月」から思う。サイレント・ムービーとそれに伴う弁士や楽団、歌舞伎の黒御簾音楽、能の地方謡、バレエのピット・オーケストラ、神楽の囃子などもタンツ・テアター(舞踊劇或いは劇舞踊)の要件であるならば、やはり音楽や効果音を纏う関係が背景としてではなく更にコラボレーションや異なるメディアのインスタレーションとは本質的に別物であろう。これは舞踏の観賞や創作するに大いなるヒントになるのでは。

・        「生者必滅会者定離これぞ浮世のならひなり」、そんなこたーこちとら百もご承知だい!何とかなんねーのかコノヤロー!だからなんだってーんだ、たまには「滅者必生離者定会、必ずや浮き世に帰るべし」くれーの事でも言ってみろいってんだ、バカヤローのこんちくしょうめ!伊達に親からもらった命を生きてんじゃあねえんだ、伊達の暗黒舞踏じゃあねえんだぞ!世の理(ことわり)には裏表があっていずれがいずれか往ったり来たりの遊び人たあおいらの事さ。

・         先日、舞踏の長谷川恵美子さんが倒れられその後の様子を案じていた。気丈な方とは言え92歳である。病院のベッドにふせっている姿が想像できないような方でもある。暫く時が過ぎたので様子を伺うべく試しに彼女の携帯をならしてみるとご本人が出られ、現状を色々と例によって早口でお話しされたので、内容はともかく声の張り具合から気力の回復が充分に伝わってくる様であった。中でも強烈だったのは「私は今、週に何日か老人ばかりのある施設に通っていて、知らない人達と長い時間をそこで過ごします。今までの人生では全く経験のない環境で戸惑っている自分がおります。まるで素直な子供に帰っていますよ。でもね、自分はここで本当に舞踏家になれた様に感じてます。私の中のざわつきが舞踏を始めたんですね!ある意味とても面白くなってきてますよ。もしかしたら以前よりも深いところに来ているんでしょうか、ありがたいことです。」とおっしゃった。私もそろそろ老境とは言え足下にも及ばない未熟を痛感させられた言葉だった。

・        「対価」と言うと、とかく相場とかその物に見合う値段、金額等とされるがこれが間違い。資本主義が未完な経済とされるポイントでもある。動産価値が曖昧なままで歴史を重ねたものだからいつの間にか馴れ合い経済学に胡座をかき続けたものに成り下がっている。資本主義は費やすエネルギー、情熱量、愛情量などを計るには限度がそもそもある。史上最高の集金システムであるいろいろな宗教の成立原理に立ち返ってみれば、現代の自由経済社会よりもはるかに整合性が有るのに気付く。つまり感謝やねぎらい、奉仕、お布施、分配の精神等がお金の形でやり取りさせるわけだ。災難時には無償の救援をし、不幸な人々の駆け込みシェルターでもあり、そこでのイベントは生かされている感謝の心を表し奉納するものであった。現代の劇場生活が長いとこの辺りの感覚はおそらく人一倍敏感なんだろうと思う。一つ、「音・光」について徹底的に思考を重ねる訓練を子供の頃からやってみると良い。例えば禅問答みたいなものになるかも知れないが、そこでは見つからない結論をひたすら探す身体時間が必要なんだ。

・  私の場合とにかく移動の激しい仕事で人からよく「あなたはどちらにお住まいですか?」と訊ねられても「私はここに住んでます」と答えられない生活が続く。それでも最近まではこの移動の時間が私には大切で、これから向かう現場のイメージを作ったり気持ちを切り替えたり作った音楽を聞き直したり出来る貴重な時間だった。良く言えば「メリハリのある生活」とも言えるのだろうか、人から見れば特異な生活なんだろうと思う。仕事の特性上仕方ないが、それでもここ数年、この移動する事自体にストレスを覚えてしまう。「時間のロス、経済的負担感、エコノミー症候群への対処」などなど、どうもネガティヴになってきている。かといって今さらどうにも出来ないだろうから、このネガティヴな人生の季節に何とか対応出来る体質改善の方法について考えてみよう。

・  先達ての琵琶湖の傍で開催したイベント「アジア・トライ・ジャパン滋賀・葛川」にインドネシアから大勢のダンサー、ミュージシャン、それに現場作業するスタッフまでもが参加してくれて充実した内容と結果、更に不十分な受け入れ態勢にも快く対応してくれて、改めて彼らの人間性の素晴らしさに触れられ、また教わる事も大いにあった。会場の環境はほとんど冬に差し掛かる山間の野外ステージで宿泊場所も充分な温かさを保てない古民家で、とにかく寒さと戦いながらの時間だった。交通もほとんど無く、ショッピングなど今風の気晴らし出来るチャンスもあげられず本当に申し訳ない思いがした。しかし彼らと一緒に過ごす間、どの人も全く嫌な顔一つ見せずいつもニコニコと私に接してくれて思い出すと涙が出そうになるほど感謝を覚える。全行程終了から数日後、感謝を伝えるべく電話をしてみると、とんでもなくひどい声で出たので「どうしたんだ、その声は?」と訊ねると「風邪で寝込んでいる、熱が下がらない。他の人達も軒並みダウンだよ。でも大丈夫、心配するな、直ぐに回復するから!」とのこと。そこまでしてこの会に参加してくれたんだと改めて感動するばかり。そう言えば、同じく日本人で参加してくれた舞踏の女性三人の臨時ユニットは彼女達として初めての試みで完璧な金粉の化粧によるパフォーマンスを展開してくれた。これには地元の観客数人から「こんなに寒い場所で良く踊れるものだ、私らは鼻水出るほどなのに彼女達はしっかりと立っていたし裸足で地面に長く居て、それだけでも本当に素晴らしいと思います。」と嬉しい感想をもらった。これも或る意味命がけのパフォーマンスだし、言葉に尽くせない感謝を彼女達に覚える。僻地での公演の試みはやはり観客動員が困難だったが、中身の凄さは一切の手抜きの無い誇れるものと自慢したいくらいだ。

・  インドネシア・ジョクジャカルタで、とあるツーリスト向けホテルに滞在した時の事。部屋に置いて在るはずのミネラルウォーターが無かったので届けてくれるように頼んだ。直ぐに持ってきてくれるものと思い、自分の用事に取り掛かる。その内に仕事に夢中になってしまったが、ふと水を頼んだのを忘れていた。時間は既に注文から一時間を過ぎておりこれは催促せねばと、半分頭にきはじめていたちょうどそのタイミングで何やら楽しげな口笛が中庭から聞こえてきてやがて私の部屋をノックした。「水が来た」と、ドアを開けるとお盆に目一杯載せたペットボトルの水を肩に乗せてパンクスターの様な雰囲気のお兄ちゃんが、もう一方の手に持っている煙草をくわえて、両手で大事そうにその重たそうな水のお盆を差し出す。私は受け取り「遅かったけどどうもありがとう」と言うと、何事も無かったかのようにまた煙草をふかしては口笛を繰り返し、その後ろ姿は完全に踊っていた。名前も知らない若者だが私はこいつにノックアウトされた。

・  色々な場所で音響や照明の仕事をしていると先ず環境のクリーニングとそして電源確保のところからの作業が多いのに気付く。更にその電源の不安定にも悩まされることが多い。その影響は例えば音源ならデータがスムーズに実行されないとか照明なら点灯した奴が途中やたらとふわふわしてひどい場合は点いたり消えたりと、客商売としてはほんとに悩ましい思いをする。しかしそのうちにこうした状況の方が人間的なのかも、と思い始めていた。そういう保障されないエネルギーをどこまで使いこなせるか、その不安定なコンディションで劇場を成立させられるか、と言う様な妙な楽しみも生まれている。どこかの国のゼネコン劇場やそんなところで大きな顔をする奴らには想像もできないだろうし、寄りつけない境地の様なもの。この過酷な状況では「おい!何とかしろっ!」と小さなヒエラルキーで怒鳴ったところで全くの時間の無駄なのだ。それよりも何とかしなければならない緊張がある。緩く見える社会から学ぶ緊張感、即充実感。こういう仕事場を得られる事にこの上なく感謝だ。

・    このところは余り暇ではないが、なんとなく今の心境からか却って何かを読んでみたいと思い久し振りの「方丈記」(鴨長明)を読み返した。既に15年も以前だったろうか、これを最期に読んだのは。「行く川の流れはたえずして�・」の名文は相変わらず素晴らしいが、今回は時代の照らしや自分の年齢、生活環境などもあってか随分と別作品のような驚きや感心を刺激される。そう言えばこれを書いたのは鴨長明が今の私の年齢に近い頃、多分60歳前後らしい。前半は移り行く世の儚さを想い後半が天変地異、特に多分南海トラフ地震ではないかと思われる災害レポートに埋まる。加えて小役人の儚い財産のむなしさなどなど。文字通り「方丈」の中で書かれたのだろうが、その思考するスケールの自在さには感動を覚える。私も長く「移動式方丈(と言っても更に半分の広さしかないが)」の生活を続けているが、こう言う人に再会すると気分も救われる。

・    どうも自分の身体と頭の具合は2時間単位でスイッチが切り替わっているようだ。第一スイッチは朝6時から8時迄を正確にオンする。続く第二スイッチが朝8時から10時迄と実にはっきり切り替わる。そしてこのリズムは1日の間、更に年中変わりない。スイッチボタンは結局12個有るわけだが、夜10時から朝6時迄の分はほとんど機能しないから入れ替わるのは都合8個と言うことだ。バイオリズムとか何とかは良く分からないが多分この切り替わりの状態を括るものなのかと思ったりする。こんなどうでもよい事をついつい考えてしまうのは第一スイッチのところ。しかし、色々な計画を立てたり全ての曲が出来るのもこの時だけなので、自分の人生もこの第一スイッチで決まっているのかと実感。後の部分はほとんど世間付き合いみたいなもの。劇場のパフォーマンスは第一スイッチで起きたことの実証の場面になるわけだ。

・ これまでずっと「貴方の職業は本当は何ですか?」と聞かれ答えに詰まった事が何度も有る。「あんたは照明をしたり音響の事だったりイベントを主催したり、時々は演奏や作曲もしているみたいだけど、いったい芯は何なんだ?」と言うものである。年齢を重ねるほどにそう言われる機会が増えているのを実感している。色々と考えてみれば自分の中ではぶれるものは一切無いが何が軸になっているか、と自問してみてやっと見つけた答えは「これは全て音楽現象だ。そうか作曲のカテゴリーで良いんだ。」と気が付いた。以前参加していたGAPの活動も元は「権威的音楽を脱して新たな即興からの出直しを図ろう」とするものだった。それを集団でやる事には社会性の概念が見えてくるし、音響は自然とそれにふさわしい光を呼び出し、機材維持には経済が伴い、それらに沿う生活の現実等々。なにも複雑な事をやっているのではなくて実に単純だった事にあらためて気付く。生涯、嫌悪し続けるであろうことは「権力、保守保身、装飾の経済価値、お山の大将、他人のふんどし・・・」。今後「自分の職業は作曲家です」で通すかな?そうすると仕事が減るかな?まあここまでやってきたから何とかこれからも便利屋さんでいられるだろう・・・。複雑なオヤジ心の時もある。

・ オーロヴィルはチェンナイ(旧マドラス)からベンガル湾沿いに南に160Kmほどの位置にあり、ラーマーヤナなど多くの神話伝説発祥の地でもある。現在は深いジャングルの中だが実は数十年前までは完全な砂漠状態で殺伐とした土地だったとか。想像に難いが、今ある植物は全て人の手で植えられたものだと聞かされた。壮大で偉大な歴史を目の当たりにした気がする。宿泊施設の周囲では名も知らない珍しい鳥やのんびりした犬等が人と共生しており、中でも驚いたのは全長3mにもなろうかと言う野生のクジャクが自由に行き来していて、これがまた素晴らしく美しくて実に高貴な姿を見せていた。私が近くで見ていても「お前なんかとは話す事は何もない」とでも言うように完全無視されてしまった。ここにあるコミュ二ティはこのジャングルを創った人々を元に現在を形作るらしい。生活の形態は様々で、それぞれのペースを尊重しあい共生している。ある日、一人の住民が訊ねてきた。「ここのコミュニティについて貴方はどのように思いますか?」と言うので私は「今時のコミュニティと聞くと何か宗教かイデオロギーか都会を脱走した人達がお互いを慰めあう様な所かと思っていましたがどうも違うみたいですね。私は新参者で何ともまだはっきりとした感想を述べられません。」と言うと、その方は「ここは水のコミューンなんです。この地はほとんど雨が降りません。地下深く掘った井戸から汲み上げる少しばかりの水を最大限の効率で生活に循環させるためだけに村人は連携しているんです。くみ上げポンプの動力は風力発電によるものだし生活で使用する電気エネルギーもそのおこぼれ分の範囲で行います。ここの村人はその水とエネルギーの平等な配分の下でお互いを信頼し合っています。現代的な主義主張や宗教などでは無く実に単純で素朴なものですよ。」と教えられた。「色眼鏡」をかけていた自分に恥じ入ってしまった。近くの野原で火事が起きたかと思うほどの猛烈な煙が出ているところに出くわし「火事ですか?」と聞くと、「いやいや、近くに住む村人の誰かが死んだのでその死体を焼いているだけですよ。」と、日常会話のごとく平然と教えてもらった。「焼いた後はどうすの?」と聞くと、「そこら辺の森に撒くんでしょうね、多分。」それだけの答え。南インドは私達にあるインドの典型的なイメージに近いかも知れない。カーストも残り私達が滞在したホテルには少年のお手伝いさんが何事も世話をしていた。その仕事を手伝おうとすると「手伝ってはダメです、彼らはカーストですから。」と理解に苦しむ作法を教わる。とにかくインドは私にとって未だ現代の神秘に満ちていた。

・ 仕事を終えた後、「ああ、いつかまたこの劇場で公演が出来たら良いが」と思う劇場がいくつかある。NYのラ・ママ アネックス、ジョイスシアター、リンカーン・センター、パリのオペラ・ガルニエ、テアトロ・デュラヴィル、シドニーのオペラハウス、ソウルの芸術の殿堂(ソウル・オペラシアター)、ミュンヘンのカフェ・テアトルなどなど、更に記憶の奥には名前を忘れてしまったいくつかの小劇場も多い。中でも先日のシンガポールで経験した劇場エスプラネードは私にとってトップクラスの素晴らしい劇場だった。空間や設備のみならず、そこに関わる人々が実にプロフェッショナルで流れるように私の意向に沿ってくれて、本当に気持ち良く現場が進行出来た。良い劇場の条件の一番はやはりそこのスタッフワークなのだろう。彼らは尊敬できる人達であり、無言で私の足りなさを教えてくれる。残念ながら地元の日本は難しい。あえて挙げれば中野テルプシコールに「良い劇場」のプロトタイプを見るくらいか。

・ 食に関する自分の中の大発見、又は再認識。一般に「日本人の主食はコメです」とされる。この「主食」の概念はともすると「一番多く食されている物」とか「食べる機会が最も多い物」として、他のものと比較する統計などで表現される。実はこのことに以前より違和感を覚えていたのだが、もしかして米は他のものと並べる事はどうも間違っているように思う。例えばある日「メシが喰いたい。取りあえず白いご飯だけは有るから何かおかずを・・」とかと言う場面からの飛躍。先ずはコメに向かう胃袋の声があり、次にその上に付加価値を求める食の装飾本能(辛い、甘い、しょっぱい等々)が来て、更に食前イメージの実現に付きその完成度を検証したがる煩悩の部分と、実に楽しいものだ。腹が減った時には食えるものなら何でも良いが、そうでなくても何か「口寂しい」ときは先ずコメのアレンジが欲しくなる。池波正太郎の小説に頻繁に現れる旨そうなものは「こいつにメシ(米)が有れば言う事なし」と思えるほどに食の本能を刺激してくる。いわゆる「食文化」を考える上で「米」はその文化の土台の様なもの。一本の樹に例えると、根っこから幹の芯の部分が「日本人のコメ」であり、ここは文化と呼ぶべきではなく空気や水の様な、生存上不可欠のレベルであり、そこから延びる枝葉の部分が文化となる。文化の部分は浅はかでもチープでもお洒落でも何でもいい。TPPなんとかは経済問題なのだから、農現場の苦労はともかくも私の身体には「コメ」が先ず要る。ああ、先日食べた「塩にぎり」の何と美味かったことか!

・ 踊りは音楽そのものだ。音楽教育の一般的方式(和声や対位法、楽器論、楽理、音楽史などについての教育と価値観の押しつけ)から自由になると、本当に踊りに親しくなってくる。身体を楽器とすると更に空間に放たれるリアルな精神の姿に出会う。豊かな鑑賞の仕方は、味わう事。後で分析なり批評するなりは個人の楽しい自由の時間として取っておくにしても、観客の態勢としては充分にその瞬間を享受する事のみで良い。風を感じるように。逆に、音楽側でも同様の状況が可能だろう。例えばありきたりの理論で鑑賞しないで、愉快不愉快を外して見るとか(この場合、協和音不協和音と呼ばれるものを主に指す)、発音時点のエネルギーを鑑賞するとかすればよい。今よりもっと面白くて奥深くて、益々人や自然の存在そのものの姿に接近してくる。ケージの百年はこうした事も教えている。

・ 先日、早朝にほぼ半円の巨大な虹を目撃した。周囲にさほど高い建物も無いので虹の両側の足元から実に見事に一点の欠落も無く半円を描いていた。職業上の習慣からか、その色分析など無意識に行っていたようだが、そのすぐ後では「いや~、実に美しい!」の感動で支配された。朝の虹は太陽が東なので西側に現れるから、その方角は湿度が高くてやがて天気も下ってくる、あるいは間もなく雨が降り出す兆候だと教えられた。もしかすると、こんな虹がくれる感動の力で直ぐにやってくる悪天候を乗り切れと言う自然からのギフトなのかも。

・ 「信用情報」とかいうものが有るらしい。例えば何かの支払いが遅れたり連絡が取りづらい人などはよくこの信用情報にリストアップされるとか。しかし世の中、私の様に生活フィールドの違う者は大勢いる事だろう、何かの支払期限を忘れたり書類を受け取って無かったりと状況は様々。そうした人々は相手に出来ない社会でありながら、同じように通信サービスや交通提供をするのだから、つまり社会的アウトプットにバランスのとれたインプットシステムなり、フレキシブルなサービスを提供すべきではないのか。現況は余にも幼稚なシステムであり単純すぎる。戦争ごっこに巨大な税金を使う社会の考えそうなレベルなんだろうね。ではどうすれば?簡単です、「信用情報」を管理するところが信用されれば良いんですよ。頑張って下さい。

・ 静岡駅で新幹線からローカル線に乗り換えるときの出来事。ホームの最前列で到着した目的の電車のドアが開き降りてくる乗客は休日だったこともありかなりの人数だった。その内に父親らしき男とその子供の男の子が列に続く。私の前に来た瞬間、男の子がふっと姿を消した。驚いて周りを見渡すと、その子が声も上げずに電車とホームの間に下半身すっぽりと落ちていたのだ。私のすぐ後ろに並んでいた中年の女性が、異様な悲鳴を上げて助けを呼ぶ。私もとっさの事でフリーズ状態になてしまった。肝心のその子の父親はと言うと、その時ずっと片手に携帯、多分スマホだろう、耳にはイヤホンをしていて全くの無関心にも近い状態で、その様な状況でもその子の事に関心を示さず、取りあえず引き上げてやるか、と言うかのように、駆けつけた駅員と一緒に片手でその子を強引に引き上げ、何事も無かったかのように一応その子の手を引いて出口に続く階段に向かったが、相変わらず何の声も出さないその子は時々立ち止まってはびっこになったその足をなでている。「この子は既に諦めているのだろうか?」と深く不憫な気持ちになってしまった。その父親に代わって悲鳴を挙げた女性のすぐ後ろには別の親子連れが並び、これも父親と男の子である。その子は女性の悲鳴から、状況について何かの危機感を感じたらしくその後私と同じ電車の中でもずっと鳴き続けていて「怖いから電車を降りる、もう乗りたくないからお父さん早くおろして!」と叫び続けていた。私がもし数年若い時だったら迷うことなく、先ほどの携帯男を追いかけて行って殴っていたかもしれない。いや、今でも殴っておけば良かったかもしれないと、とても嫌な気分だ。胃の辺りが何だか痛む。

・ 最近まであまり気にも留めていなかったが、インドネシアでは地方や地域ごとにそれぞれ独特の特産コーヒーがある。先日、偶然にも五種類ほどの違ったコーヒーをそれぞれ違う方からプレゼントされ、早速全てを試してみたが、今までの私の「コーヒー」と言うカテゴリーでは収まらないほどに味に幅が有りそれぞれの性格みたいなものの違いを思い知ることとなった。おそらくコーヒー業界ではマイナーな(収穫量的にハンディと言う意味で)味なのだろう、「モカ、ブラジル、キリマンジャロ、ブルーマウンテン・・等々」のメジャーブランドものの口当たりの良さについつい慣れてしまっている自分の舌に新たな経験が出来た。

・ 度々、亡くなった人達が集まって何やら語りあっている夢を見る。皆、私には大切で大好きだった人達で、ただそこではなぜか話に加われずにいる。話の内容はおそらく他愛ない事の様だがやはり気になる。勿論、この現象は私自身の神経の記憶のどこかが睡眠中に回路接続されているのだろう、決して「あの世からの何らかのメッセージ」等では無い、自身の内なるメッセージと受け止めている。だがそれが体調なのか交感神経上の事か栄養の偏りかは良く分らないが。取りあえずメザシでも喰うか。

・ 先日滞在したカリウランのホテル。昼過ぎにチェックインした時には気付かなかったが夜中ふと眼を覚まして壁に一本の太い筋が描かれている事を発見した。しかし「なぜこんなに派手な線が有った事、気が付かなかったか?」と、改めてその線を見直す。なんとそれは無数の地蟻で埋め尽くされて微妙に蠢いていた。どちら側が出発点か分らないが、ともかく往来する蟻たちのラッシュである。どこに続いているかとその筋をたどると、入り口との間にあるドアの隙間を抜け、脇の洗面所の壁、更にクローゼットの天井を過ぎて表の屋根のどこかに一旦は消え、その屋根の付いている壁の中ほどから再び現れた後、地面にある石の土台部分へとつながっていた。全ての蟻が生き生きとしてひたすら何かやってる。彼らにはいちいちの個人名は無いだろうが、ともかく現実に生きている。そこに居合わせた私は彼らにとっては危険の対象だったかもしれない。貴重な出会いをしたものだと存在の不思議を思う。

・ 「ダメだし」。これはモダニズムの習性。「ダメ」は何にとって「ダメ」なのか、つまり商品にならない、と言う無意識と「ダメ」を発する者の力学慣性からくる。こと舞踏にあって「ダメ」というカテゴリーは外される。オモテにとってダメをてこにして生まれる創造のエネルギーは底無しに深く重く迫力を伴う。とかく「ダメだし」は古臭い演劇のプロセスや優等生の学芸会、企業の成績判定の場面で有用かもしれないが、舞踏は無口でも、もっと過激でそれぞれの人生に覚悟を伴っているのを想うべき。

・ 「お・も・て・な・し」の心が委員達に伝わり、その結果今回の開催決定に繋がったのでしょう。あ~、吐き気するコメントだ!自分の運の悪さを思い知る、めったに観ないテレビを点けた途端、これだもの。このコメンテーターは結構有名ないわゆる有識者らしいが、こんな冗談の様なコメント吐いて世間にちやほやされているかと思うと、何も放射能汚染の海水だけでは無く、汚染された世間の空気に晒されているのに等しい。諸々の生活格差の中で、その先には冗談が待っているのみ。「許してはダメだ!」と耳鳴りがいつも自分をしかりつける。

・ その昔、輝く(?)地上が有っての地下活動であったが、その地上が幻想だったりでっち上げられたものと判明したら、その場合の「地下」にはアンチ~の執着か、ロマンチシズム、SMにも近い官能の日々への未練しか残らない。メルヘンだったりもする。その延長で今日の執拗で狡猾でともすると無意識でもある搾取構造に切り込む振りには我慢ならない。薄っぺらな社会性、市民性、公民性、民主主義などについて、その薄皮剥がしを地味にやってゆくしか無いのか。自身の寿命と体力の不足を思い知る今日この頃。

・ 照明と言う事について。特に劇場に於いて勿論デザインは大切であり完成(これで良いと判断出来るレベル)までの試行錯誤は容易ではないが、更に大事な事は場面がシフトする際の時間と言うか変化のスピードの問題。いわゆるフェードタイムというやつで、ここに作品の理解度が現れる。演出の下請け作業でも演出を刺激して新たなインスピレーションを引き出すのも照明家の仕事の一つだ。昨今常套のキューメモリーの感覚は本来の時間的不確定につき真逆の感覚でメガスケールには必要でもブラックボックスでは全く必要の無い技術。ロングランの省エネ公演でも使ってはいけないと肝に銘ずべき。どのような瞬間でも光から生まれ来る生命力にシンクロする感性で照明家自身が光の粒子になれる。

・ この数年、一つの思考軸に「音・音楽のリテラシー」を置いており、この視点、切り口はまた自分の専売特許的立ち位置を感じていた。マリノフスキーやレヴィストロース、デズモンド・モリスらに通ずる冷静な事態観察、現場体験などから様々なサインや言葉をキャッチする感覚、感性についてのアプローチを意図している。更にこの事は「舞踏」「踊り」「演劇」「祭り」などの諸行為に関するための動機付けにもなる事柄である。ところが先日ある楽器店の音楽書籍コーナーでまさに「音楽のリテラシー」と言うタイトルの一冊を発見。驚くと共に俄然興味をそそられてしばしの立ち読みをしてしまった。そこで余の内容の貧弱に愕然としてしまった。そこに書かれていたのは「音符の読み方、聞き取り方、書き方」等、正にべたべたの「読み書き算盤」を一見新しいタイトルに挿げ替えただけの素人向けの古典的「音楽教科書」に他ならないものだったからだ。それでも「まあ、これもリテラシーと言えばそんなんだよな~」と妙な同感も覚えもしたが、それにしてもあまりにも情けない。書籍に表わされるのはやはりこの程度のものか、私の意図するところでは世間では話にならないのだろう、などと感傷的にもなったが「やはりこれはだめだ、何とか自分なりに音楽のリテラシーについてもっと明確にしてゆかねば・・」と、おかげであらためて思い直すことも出来た。

・ 今更ではあるが、ナム・ジュン・パイク、ヨーゼフ・ボイスらの衝撃の強烈さを想う。いや、現代こそ真に必要なアーティストなのではないだろうか。どこか破壊的だし極端だし、明確に反体制で社会に対し直接行動をアートで実践してきた人々である。精神的タフネスと共に溢れるばかりの創造性やメッセージ性、アンチテーゼ、芸術行為についての純粋理念の表明など、今日意図すべき課題モデルがここにある。ボイスは早くに離脱したがフルクサスの運動についても学ぶべき、または継続すべき創造のエネルギーは豊富に在るだろう。

・ ジョン・ケージにとって「きのこ」は「破壊」と「埋葬」の二つを同時に意味していた。そこに美しさがあり、優しさ、こっけいさも観ていた。彼の音楽のヒントでもあり、合理音楽、形式音楽、組織音楽の破壊動機でもあり新たな音楽発生源ともなる。

・ もう一つケージの話で。彼が好んで使う言葉のフレーズがあった。例1)質問「なぜ機能和声を勉強しないといけないんですか?」ケージ「話を面白くするため」。 例2)質問「演劇・美術・音楽・建築などの分野にそれぞれの主張があるのは専門的だからですか?」「いいや、ただ話を面白くするため」。どうもこのフレーズはインド人哲学者の友人の話からのパクリらしいが完全にケージの言葉、作品と一致していると思いませんか?

・ そこで一つの計画が浮上。タイトルは「Cage in Cellar」(地下室の鳥かご)。この場合の地下室は舞踏舎天鶏の稽古場(中目黒マンション地下)のイメージ。

・ マリノフスキー、レヴィストロースから学ぶべきは、実証主義、実地主義と言うよりも「実踏手法」とでも言おうか。真に学問的ジャーナリズムでもある。彼らには自身の感動こそあれ、評価、評論の兆しすら余裕がない。「触手・実踏・記録と生活」。

 

 

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