・ 人生を舞踏レベルで貫通した人間の死は、まだ現世の舞台上に残る者にとり、日常の悲しみさえも翻弄するほどの圧倒的な言葉と記憶の圧力で迫ってくるものがある。死体は脱ぎ捨てられた衣装だし、いずれ儚く処理されてしまい、一応何かのメディアで資料化されて人々の記憶のヨリシロになるのだろう。特別な死を受け入れるには相応の覚悟とエネルギーが用意されねばならない。強烈な死ほど、それに付き合ってゆけるまでには時間がかかるだろうが、さて、それが自分の生の時間内で収まるかどうか?ここは静かに過ごすのみ、「無」の想念の癒しを待ってみる。日常的な全ての言葉から離れる技の習得訓練に挑戦する。
・ そうだ、歳のせいか忘れかけていた瞬間のこと。ジョン・ケージとロバート・ラウシェンバーグ、ジャスパー・ジョーンズ。アール・ブラウンとアレクサンダー・カルダー。クセナキスとル・コルビジェ。サティとマン・レイ等々。それから「アヴァンギャルド」のこと。フランスかどこかの軍隊で使っていた切り込み隊、決死隊をそう呼んだ。「前衛」と訳したのは文字通り正解。抗すべき対象に触れて知覚する身体性、身体反応から防御すべきもの、生き延びるべきものの確認をする。即興(触境、即響いずれもソッキョウ、ソクキョウ)はいつでもそこにあった。
・ 何年か以前に中村明一氏(尺八奏者、作曲家、音楽研究など)の誘いで両国のシアターχで、リチャード・タイテルバウム氏の参加するコンサートを手伝ったことがある。カランやジェフスキーらと共に過激な音楽集団ムジカ・エレクトロニカ・ヴィヴァの設立メンバーでもあるタイテルバウム氏はイメージと違い随分と静かで穏やかな人柄だったのを思い出した。実はこの数年、「ジョン・ケージの100年」を軸に現代の音楽について整理していたのだが、サウンドスケープの辺りで再び触れることとなったわけである。私が音響、照明、舞台設計、構成、イヴェントなど総合的に関わっているのも考えてみるとケージの他、クセナキス、ライリー、シュトックハウゼン、フェッター、MW2アンサンブル(ポーランド)やフェルドマン、ボー・ガメラン・アンサンブルら時代の先駆者たちを観ていたことや、70年大阪万博のドイツ館でアルバイトしているついでに体験、目撃した当時の音楽現場が今尚、記憶の背景になっていると感じる。タイテルバウムの音楽は曲名などは全く忘れているが、その音は実にリアルに身体に残っている。今の自分の行動全ては或る意味、作曲行為の延長に在るのだと改めて思う。当然の事ながら、踊りの身体、テクノロジー、音の環境、社会的条件、言葉と記号、サインの事などがこれからも必須のフィールド要素である事は間違いないだろう。
・ 『論理哲学論考』(ヴィトゲンシュタイン)が書かれたのは1920年代初頭で、そこでは言語記述に関する論理展開がされるが、それから約30年後に書かれた『哲学探究』ではそれまでの自説を或る意味、真逆から捉え直したような、そしてかなりざっくりと切り捨てるように「言語は表現の演じる言語ゲーム」とまで言っている。この差の背景を想像してみたが、そこに至る30年間には第二次世界大戦があり、自身のイギリス帰化や病院勤務などを経ており、『論理~』を書いていたちょうど第一次世界大戦中とは、本人の体力気力(多分20歳代のこと)の差、社会の空気感の違いなど考えられる。ヨーロッパ現代思想バブルと崩壊の両極を見る思いだ。
・ 三浦梅園の断片を読み直している。江戸時代中頃の大分辺りの人でほぼ独学らしいが、その時代に全くの弁証法的論理をもって思索していた事にあらためて驚く。いや、江戸から遠く離れた地であった事が、よりシャープな思考に向かわせたという意味で幸いしたのかも知れない。雑踏から距離を置いて始めて純粋培養の思考が出来るであろうことは、メディア・リテラシーの進化した現代でも同様では。マスキングとチョイシングが時間・空間軸上で可能だという証明を梅園が残している。
・ 以前(10年ほど前だったか)舞踏舎天鶏のツアーの途中、テキサス州オースティンのFM放送で私の音楽を流すので放送に参加しろと言うので「何かしゃべってやろう!」と思っていたが結局中途半端に終わってしまい今でも心残りがある。その時の親切なDJの人は本当に温かくて私の曲もたくさん紹介してくれとても感謝したが、舞踏の音楽について充分に伝えられず自分の語学力不足を深く感じ入るのみでじつにもどかしくもあった。この時通訳の方もいたが、ワンクッション置く事のもどかしさに伝えたい勢いが勝ってしまい、後で考えるともう少しゆったりと臨むべきだった事を考え続けている。
・ 先日、大阪と和歌山の県境にある信太山近くを通り過ぎる際、ふと遊行寺での公演「きつね葛の葉」(台本演出 白石征)のワンシーンを思い出した。「恋しくば尋ね来てみよ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」。もちろん原作は浄瑠璃や歌舞伎などの演目「葛の葉」ではあるが、白石征によるこの子別れのシーンでの葛の葉の絶叫は胸に迫るものがあった。公演の現場ではとにかく手元の操作が多くて完璧な演出をと精一杯だったのだが、少し時間が経過したところでふと気付いてみると、しっかりと何かが記憶にインプットされていることに感動する。更にこの物語を典型として日本人の本当の故郷について思考した柳田国男や寺山修司らが一様に言うところの「自分の故郷は生まれ育った場所だが、真に心の故郷は母親の生まれ育った場所にこそある」というのも実感として深くよみがえってきた。
・ インド、マドラス近郊にAuroville(オーロヴィル)と言うコミュニティがあり世界中からアーティストや精神的社会的に平和を求める人々が集まり自給自足生活で独自の文化圏を形成しているエリアが有ると、ホンシンジャさんが教えてくれた。早速ネットで調べると想像を遥かに超えた規模でコミュニティが機能している。この類のムーヴメントには何やら怪しげな宗教や偏向的思想などが背景にあるのではとつい疑いたくなる、私も現代人の一人だが、ここは全くそんなものはなさそうで、最低限の村内ルールだけでお互いの生命を尊重し尊敬しあって暮らす事だけとか。或る意味、現代における理想郷の実現への実験がなされている。現在ホンさん自身は現地に滞在しているが韓国出発前に「あなたも一度でいいから、ただ来てみると良いですよ」と勧めてくれた。多分インドネシアのついでにでも訪ねてみようかと思う。
・ 風の強い日だった。車で狭い路地裏を走っていて前の方をのろのろとベビーカーを押しながら歩く老人の後を付く状況で、広い所に出るまではこのままだろうと、このノロノロさ加減を諦めていたが、やっと道幅の拡がったところでそのベビーカーの老人を追い抜くことが出来た。ずっと後ろに付けていた時には「この風の強い日に孫でも散歩させているのかな?」などと勝手な事を考えていたが、追い抜きざまにその孫の顔でも見てやろうとちらりとその屋根つきのベビーカーを覗いてみると、乗っていたのは大根やらねぎの束。そこからこの老人の人生についての想像が始まった。「かつてはこのベビーカーに自分の赤ん坊を乗せた生活があり、その後その赤ん坊が育った後は・・・」。そう言えば老人の後ろ姿の見え方が何となく・・・。
・ 山田美妙(びみょう)が発端とされる口語詩のインパクトは後に土方巽「病める舞姫」他作品や古賀忠昭「血ん潟」など一連の作品へと川幅を広げる。既に土方に至っては詩も飲み込む濁流となり底なしのエネルギーで私達に覆いかぶさってくる。古賀忠昭の底なし沼のさらにまた奥底からやってくる言葉達の泡ぶくもまた、私達の前で容赦なく破裂する。現代の文明とやらはこうした口語体の身体性に対してドッジボールゲームのように存在の直撃を「かわす」ことに知恵を絞り、そこでまた新たな経済を呼ぶ。即興音楽、民族音楽、ノイズミュージックなどもまた或る意味「口語体」の音版と言えよう。現在必要なのは元気な口語では?こんな感じでよろしかったでしょうか?いらっしゃいませ、こんにちは!うるさい!マニュアル時代からマニュアルを全部取っ払おう!マニエリスムは本物の職人にのみ許される秘伝術として肯定される。虚弱な素人の逃げ込み場所ではない。マニュアルは頼るものではなく文明の歴史的価値としてのみ記されるべき。
・ MEXICALI-メヒカリ(又はメキシカリ)で公演をした事がある。メキシコとカリフォルニアのボーダー付近で工鉱業が中心の新興都市である。特筆はその地が標高マイナス数百メートルらしいこと。海面よりも相当低く、はっきりと気圧の重さを感じる。直前の公演地がメキシコ中央部で標高2,000メートル辺りの土地だったので、その気圧差は身体に随分と負担をかけ、メヒカリでは数度も気が遠くなる想いを味わった。この時の身体感覚と記憶は今でも自分の大事な財産だと思っている。
・ J.S.バッハ - シェーンベルク - ジョン・ケージのラインを眺めることは価値のヒエラルキーについて、その解体のための便利で合理的な道具を得るに等しい。その時系列の中でもヴェルディ、プッチーニの音組織の最高のオルガンが事実であることは現代を生きる私達の至上の財産である。これを知らず、ただいたずらに部分の衣装、飾り物に気を取られる刹那を重ねる者は耳の数でモダニズムをもてあそぶ。大多数はこんな感じですね。
・ 多田正美のサウンド・エンカウンターの表情とジョンケージのチャンスオペレーションを組み合わせると、時間の身体性が見えてくる。かつて「楽器の身体論」をやったレベルから更にもう一段、概念の投網が大きくなったようだ。これは自由度が高まり許容度が増したことを意味する。
・ 大いに関与する「アジア・トライ・プロジェクト」。新規にプレゼンする際に必ず「何でアジアに特定するのか?これでは西洋を排除するのでは?」と聞かれるが、全く逆である。「大いなる器、母なる大地、全てを受け入れ育てる土壌」のこと。マリア様、菩薩、胎蔵界などつまり「母体」に通ずる概念で、カルチャーの本分であるカルチベーション(耕作、農耕、栽培、養殖など)そのもを目指している。そして「パン・ワールド」がフィールドであるのに。少々混乱するネーミングだったかなあ?
・ 「スタイル」について訳も無く考えてみた。坊主の剃髪、これはラスコー洞窟やフィリピンのどこかの洞窟で発見された指の無い古代人の手形が沢山残されている事や、やくざのお兄さんの赤ちゃん指が無い事、つまり身体の一部を切り落とす何らかの信仰、或いは人としての反省やまじないの印にもしかして通底する感覚なんだろうか?出家する際には大体が髪を落とすという事の意味。「腰パン」、これは明快だ。元々がニューヨークの刑務所で囚人の自殺防止や喧嘩の際に武器にするのを防止するため、囚人服のベルトを取ってしまったため、ずるずるとズボンが落ちて腰の位置でやっと引っかかっている状態をハーレムの黒人のガキが真似てみた、「世の中の不公平、差別のシンボル」。ただまあ、それだけのことでアジテーションになるほどの積極的なものではない。「チェ・ゲバラの帽子にひげ、いつも咥えている葉巻煙草」。そういえばカストロも似ている。ゲリラ活動時、ほとんどをジャングルでの行動を強いられて、そこでのしつこい蚊の大群や凶暴な虻から身体の最期の露出部分である顔を少しでも護るために髭を蓄えたりいつも蚊取り線香代わりの葉巻を煙らせていた。彼らのもう一つの戦いが顔の皮膚近辺で展開していたわけだ。東南アジアのあちこちでよく見かける「鼻の下の白い線」。何かの薬品か芳香剤の様なものを塗ってるらしい。これを塗っておくと鼻がスースーと通りが良くなって表情も明るくなるらしい。鼻と上唇の間で起きている楽しい出来事。スタイルもなかなか悪くないかも?
・ バンクーバーでの公演が無事終わり主催者との食事の席での会話。ちょうどその日が3月11日だった事もあり話が2011年の東北の震災と大津波の様々な影響に触れていた。主催者の一人が「今日は私達にとっても特別な日なんです。人生で忘れてはならない日が誰にもありますが、その一つですね。もちろん昨年の津波やら震災の様子はテレビやインターネットで毎日のように流れていましたが、それらが少しづつ間隔が開くようになった頃、近くの海岸に流れ着いた物を実際に目にして身体の奥から衝撃を受けました。それは少しだけ残った瓦をのせた屋根の一部や何とか丸と書かれていた漁船らしき残骸、その文字はおそらく被害の際に受けたダメージか遠く流される途中ではがされたものか不明ですが、ともかく日本で起きた事がリアルにここまで送られてきました。他にも無数の瓦礫が流れてきており、またその後にはアメリカ西海岸のいたるところで同じように日本から流れ着いたことが伝えられています。これは実に日本の出来事ではなく、地球に起きた一大事だと思いますよ。『事実なんだこれは』と言う事を肌で感じ、人々の悲しみや痛みは今は自分の身の上に起きた事に思えます。今日の素晴らしい公演が、その事件の重みと共に在る事に感動しています。遠く日本からのご参加に深く感謝いたします」。私にとってこの言葉以上のギャラは考えられない。それにしてもこの時のメシは美味かったしビールも格別でした。
・ 昨日久しぶりに職質(正義の味方のおまわりさんによる不審者への法的に保障された職務質問と言う名の、人の時間を止める行為)を受けた。勿論私は不審者ではあるが、一応大人の対応をしてあげた。つまり質問にお答えしたわけです。「お仕事か何かですか?」「そうです。」「どこか近くに住んでるんですか?」パスポートと運転免許証を見せて「私はこちらに住所がありますが仕事の都合で今近くのホテルに滞在してます」。人が答えている間に、その見せた書類のデータを、どこかの秘密基地かも知れないところに無線で照会し始めた。「私の答えていること聴いてますか?」と私。一通り連絡が済んで渡したものを返してきたので「じゃあもう良いですね?」と再び私。しかしどこかの秘密基地からの返事待ちらしく「すみません、もうちょっと待ってね」。私も午後のリハーサルには少し時間の余裕があったので「では伺わせてください、私のどういうポイントがあなた達に職質のきっかけになりましたか?」「いやいや、そういう訳じゃあないです。なんせ駅の近くは色々とあるもんで。」「そういうことではなくて私が不審だったんですよね、自分では気が付かないから、どういうところで不審者と判断したか教えて欲しいんですが。目つきですか?服装ですか?」「いやいや、なんせ駅の近くなもので」・・・。正当な質問のはずが対話にはならず残念!庶民にするとかっこいいおまわりさんには、もっと正しい日本語と目上を尊敬する気持ち、人に面と向き合うときの礼儀、なぜ権力が与えられているのかなどなどの基礎的お勉強をもっとしてから外に出ていただきたいものです。正義の味方には税金でユニフォーム着せといても文句は言いませんが。ともかく、ご苦労様!
・ 「ニクシともつれてごんせやシチゴサン、ロクイチハチはあとにしやしゃんせ」。ばあやんが子供の俺を遊ばせていた時に教えてくれた唄。「これはオダイッさんがシナで習うたもんじゃそうな、妙な遊びがあるもんじゃ!ばあやんも子供の頃に教わったんじゃけんどの!」。
・ 最近、電車やバスを利用することが多い。そこでいつも感じる妙な気持ち悪さについて、その原因にふっと気が付いた事がある。車内にうるさく掲示されている様々な宣伝のパネルの何とも美人、美男の綺麗で華やかな写真の数々。その全てが自分の方向を見て(と言うか正面向きの表情だが)何かを伝えようと、とにかく満面の笑み、大げさな表情、うっとりとして見せたりと、実に撮影時の苦労がにじみ出ているのをうかがわせる。おそらくその宣伝の制作者に「もっと笑って!もっと表情たっぷりと、あっ、いいね~、それそれ!」などと励まされた上の作品なんだろう。ご苦労様ですが全て作り表情なんだろう?つまり公共の場(?)でおおっぴらに嘘をついてるわけですね。しかしそれにしてもあまりにも溢れすぎです、こんなものが!「宣伝とはこんなもの」とはよく言うが、やはり煩いし、しつこすぎる。嘘に囲まれていて何で皆さん平気なんだろう?ああ、胃が痛い!
・ 確率論や統計学などが日常的に用いられているが、本来この適用は「~光年」とかでしか測れない程の宇宙規模のスケールについてのアプローチ理論のはず。いつの間にか社会学などという怪しい学問に使われ同時に経済原理にもされるほどに偉くなっている。個人が「大体この範囲の人間」として括られるわけだ。更にはもっと怪しい心理学、精神分析学と結びついた日には、もう決定的に人格までも規定されてしまうほど。分析や引き出される割合は過ぎた時間の解釈、解説以上には何の絶対価値は持ちえない。資料作成過程に過ぎない。統計や確率から引き出される予見は有るにしてもそこまででは。近頃あまりにも過剰な保険社会になりつつある。バカバカしい!
・ インドネシア・ジョグジャカルタの山の中にあるバティックミュージアムの中庭に新しい劇場を造る作業を沢山の友人たちと続けていた。野外で時間も遅く、山なので雨も多い中、さきほどからビモ・ウィヲハトモの顔が見えないと思っているとしばらくして霧の中から彼の姿が現れてきた。片手にはなにやら小さな紙袋を大事そうに提げ、「ソガサン、コレ!」と差し出す。「何?」と聞くと、「コーヒーデス、ドーゾ!」。私は冷えた体でありがたく紙袋の中のコップを連想しながら受け取った瞬間、何やらグニャっとした感触に全身を支配された。しかも異常に熱い。「何コレ?」「コーヒーデス、ドーゾドーゾ!」。中からはビニール袋に入れられた確かにコーヒーらしき液体、しかも袋の口は何重にもゴム紐で縛られている。「どうやって飲むの?」「アナアケマス」と教えてもらった。その間も持っていられないほど熱い。これほどに飲みにくいコーヒーに出会った事がないが、これほど美味かったコーヒーも初めてである。味の裏側に「この時間、この山の中でどこから持ってきたんだろう?一時間近く姿を消してこのコーヒーを探したんだろうか?ずっとこの熱いやつを持ってきたのだろうか?」などの感動もブレンドされていた。しかしあの飲みにくさときたら世界一!
・ ビモは私を見るといつも聞く。「ネコサンゲンキデスカ?」。
・ イタリア・スポレットであちらの蛍を見た。小さいがまるで針のように鋭い強くて棘の様な真っ白な光で、ふんわりと点滅するのではなく「ピーンッ!」という音がするような光を放っていた。
・ 最近になってまた怒りがこみ上げてくる。以前、千葉県浦安市で車上荒らしの被害に会い、貴重品全てを失った。地元警察に被害届を出しに行くとおまわりさんに「そんなところに大事なものを置いておいたあんたが悪い、車は金庫じゃないんだから」。と、いかにも人を諭すかのような口ぶりで更に「まあ一応は被害届は受けときますが、よほど運が良くなければ獲られたもが帰ってきた例は無いね」。その後、無くしたカード類や運転免許証、パスポートなどを再発行してもらうためには身分証明が必要と言うので役場にいって住民票やら住民謄本を申請すると「あなたがご本人だという証明が要ります。例えば運転免許証とかパスポートとか」。「私が本人です」では通じないのです現代社会は。良い勉強にはなったが、この時の何かに対する怒りがしこりになって、その内に自分の精神の癌に成長していっているのではと思う。
・ ベンちゃんの政策基本方針。「除洗した放射能とか地球上のあらゆる放射能は宇宙船で月にでも持って行って捨ててしまえば良いんじゃないでしょうか?」私は大賛成です。
・ 「舞踏って何ですか?舞踏を一言で説明できますか?」などと言う質問の場面によく出くわす。これはいわゆる「ねじれ会話」の典型で、質問の出所は言語文化圏からくるが、答えを待たれる側は「語り得ぬもの」の動機を持っているから。単純に「舞踏」の意は「手の動き、表現を主とする『舞い』と足を踏みならす動きが軸の『踏』の二つを組み合わせ、又は同時生起でなされる行為の形であるにすぎなくて、つまり「このようになる、動く姿」を述べるに留まる言葉だが、これを「ダンス」と捉え解釈しようとしたところに様々な誤解や混乱が生じる原因を生みだす。「語り得ぬもの」を「語ろう」とさせたがる「経済学」とは、そもそも別次元であるにもかかわらず、ついつい西洋的近代の思考構造にはまり込んでいる私たちが振り回されることになる。「舞」で使われる手の動きは「空間が水平方向に広がり、どこまでも自由に空気世界を泳ぎ、「踏」の足踏みは「大地」のエネルギーやら鼓動に感応して「垂直方向」に自由度を拡張させようとする意志の表れ。或る意味で「祈り」の形に近く、またどうしようもない「叫び」の形だったりするわけで、なぜこの原始的な人の表情を「ダンス」(一般的な意味の)としたがるのか?あるいは「ダンス」の解釈、捉え方がそもそも間違っているのか?おそらく後者ではないだろうか。音楽からみれば「ダンス」は「音楽」の一種に過ぎない。そこで「舞踏」は「舞踊」とは別物と理解するべきだろう。そうしたことなどから、土方巽、大野一雄を現代の舞踏の典型としてすっきりと置いてみれば、気持ちは楽になるのに。参考例として 1)ボリショイバレエのプリマが舞う「白鳥の湖」には「舞踏」がある。 2)駅前のスーパーマーケットで魚を売ってるおっさんのだみ声には「舞踏」がある。 3)あの役者は「舞踏」から出てきている。 4)コンクリート塀をピアノのつもりで弾いている洟垂れ小僧は「舞踏」がある。 5)あの激しいモダンダンスには「舞踏」があるから感動する。 ・・・などなど。
・ 臨済と曹洞の違いには例えば一方は前向きで、もう片方は後ろ向きで座禅するなどの行法、作法においてディテールの差こそあれ、共に根本は「止観」法に重心を置くところにある。死に似た形で無く生きる命が「点」になる形として重心をケツの穴周辺に集め、その一点を手掛かりに宇宙空間と往還する。人の体内にあってそのまま宇宙に通じるトンネルが存在するわけだが、そう考えるとただじっとしているだけでも、わくわくとした自由と興奮が味わえる。このケツの穴の前では近代、現代の問題などは糞喰らえ!
・ グアテマラで産直のコーヒーを頂いた。別にカフェとかレストランとかではなくて普通の農家の庭先だったが、深炒りでとにかく溢れんばかりのコーヒーの香りに満ちた空気の中での味は忘れられない。
・ 空豆の旨い喰い方。鞘付きのままで片面5分づつ、焦げ目が着く位焼くとふっくらと中の豆が自然に蒸された状態となり、塩でもふりかけて喰うのが旨い、実に自然の味がする。これは、はるかに私よりもずっと若い人から教わりました。
・ 高速道路で追い越し禁止区間、ずっと先の方をノロノロと走る車のために、その後ろが行列となって等間隔で長い列を作る。自分はいつもこのストレスと付き合わされる。望まないのに集団化されてしまう。まるでニュース価値の無い新聞やテレビを無理やり見せられるように感じる。こうして出来上がる長い行列のことを世間では「一般社会」とか呼んでいるようだ。そして通行料金として税金とやらの仕掛けにまんまと嵌められているのだろう。搾取、利権が絡まなければ何の問題は起こらないが。
・ 山片蟠桃(やまがたばんとう)を知ったのは高校生の頃に触れた一冊の本の中だった。わずかな記述だったが妙に魅力的で一瞬にして虜になったように覚えている。江戸時代後期の民間(?)思想家で、何処かの金貸しの番頭をしていたのをもじってその名にしたらしいが、徹底した唯物史観で生涯を貫いたようだ。当時の日本で地動説、無神論、神話と史実の明快な境界線を引くなど、おそらく当時はとんでもない人だったのだろう。更に彼の残した書「夢の代」、なんと素敵な題名なんだとついつい引き込まれてしまったものだ。途中の雑念、数十年が経ってこの数年、再び懐かしさを覚える記憶の一つだ。
・ 夢の中で夢の話をしている夢を見た。現実の(?)夢のシチュエーションは目覚めて間もなく朧になったが、その夢の中で語っていた夢については明確に記憶している。しかしこんなに疲れる睡眠には体力も必要で、これは若い証拠か、はたまたボケの端っこに引っかかったものか?夢のような眠りにあこがれる。
・ 「今日スーパーに行ったら鮭の切り身が一つ百円で安かったので二つ買った。だから一つあげるから焼いて食べな」。私は確かに美味しい愛を頂きました、心からありがとう。こんな舞台を私はやってみたいものだ。
・先日エジプトでの政変のニュースが飛び交っていた。何かの仕事の時にエジプトにトランジットで立ち寄った事があり、数時間ではあるがピラミッド周辺の空気を吸った。そこで飲んだコーヒーが結構インパクトがあり、しっかりと今でも私の身体の中にプリントされている。
・ ドイツには温泉施設が沢山ある。ミュンヘンでの事、とある「労働者温泉」みたいな建物が街の真ん中を流れる川の側に有って、もちろん外からは内部は見えないが、どうも水着で温泉に入るらしいのだが、大勢のご老人達が外の川の中州でスッポンポンの全裸で日光浴していた。そこに若いお姉さんが一人もいなかったのが残念至極。しかしこのじいちゃん達、どのような精神構造なのか、シャイな私には不思議な光景だった。
・ 何かのステップアップのプロセスには「型から入る」「真似る」「定番のセオリーで臨む」「アナライズから割り出す」など様々なルートがあるが、こと舞踏においてはそれでは済まないものが在るらしい。同時に鑑賞眼についてもこの辺の特殊な事情に精通しなければ、まるでピンボケなメガネで見るようなもので、畢竟、変なマイナーな社交界に終わる。ああ、もったいない!ダメなところの数万倍の面白い命が、そこに昼寝している。グタグタと駄々をこねる前に、ご一緒に日向ぼっこでもしてみましょうか!フワーッ!
・ 今日は不覚にも涙してしまった。先の東北大地震のニュースが世界に相当なインパクトを与えたらしく、多くの友人から私の近況について心配する電話が相次いだ。「日本は大丈夫か?お前は無事か?」なのだが、やはりインドネシアと韓国からの電話が多く、インドネシアからは「ビールのボトルが傍に有る、お前が無事で来るまで皆で飲まずに待ってるぞ!(多分直ぐに飲んでるだろうが)」。韓国からは「お前の家はこちらに有るから危ない日本から早く移住しなさい。いつでも準備してるから!」。また、福岡の共犯者から「とにかくこっちに来い、こっちの方が良い、悪い事言わない。なんで早く来ないか?」。等々。自分の人生で犠牲にしたものも数えきれないが、得たものの深さ、大きさ、幅の広さ、そしてそれらの有難さに、ちょっとグッときてしまった。
・ 先日、北京に縁があり初めて一週間ほどそこの空気を吸った。以前抱いていた中国人と中国風土についてかなり違ったものを実感した。政治経済環境が異なるとはいえ、懐かしいほどの日本人の肉体の源流を見せてくれる様だ。良いも悪いも全てオーバーラップでそこにはあった。瞬間の微笑み、無神経な生命力、所在無いときの所作・・・。今まで香港とか上海、更に外国での中華街の人々からのみ、これまでの一方的な中国イメージを作り上げていたが、もろくもたった一週間でまったく違う、また想像を超える国のポテンシャルの高さに圧倒されてしまった。
・ ここのところ世間の空気の重さを感じる。もちろん津波や原発事故なんだろうが、それよりもっと奥深い、根深い何かが顔を覗かせたのではないだろうか?存在とか命そのもののはかなさ。経済価値の便利に馴れきった習慣にちょっとだけ距離を置かれて、戸惑ってる様な。こういう時にも残されているチャンスとは何があるか?
・ 先日の東北地震津波災害ニュースで頻繁にレポートされる中で岩手県の宮古市の画面が出ると、特に胸を痛める。ここは特別の思い出がある。学生でアルバイトや学生運動の真似ごとに出かけたりしながら、しかし金も無く毎日を悶々と過ごしていた頃のこと、ある日多少のバイト代が入り、衝動的に「何処かに行きたい、ここから脱出したい!」と何も考えずに新宿駅に向かった。そこで取りあえず一番でかい列車時刻表を買い「最初に開いたページの列車に乗る」と決めた。命中したのが東北本線のところ。四国出身で関西育ちの自分にとっては東北は文字通り「蝦夷地」であり「これだ!」と即決。切符窓口で「今から乗れる東北本線、どこでも良いです、大人一枚!」。「夜行便だけど盛岡行きなら間に合うよ」「じゃあそれでいいです、下さい、いくらですか?」。で、とにかく盛岡に行った。着いたのが多分朝の8時頃だったとは思うがここの記憶は正確ではない。元々、目的も何も無く来てしまったのだから、その後の行動予定も無かったが、その時点での次の判断基準は「腹が減った、旨い物が喰いたい」である。しかも「海の側で」というキーワードも出てきた。盛岡からは太平洋側に何とか線のローカル鉄道がつながっているので、自然とこれに乗り継ぎ終点「浄土ヶ浜」と名前もそそる駅に降りた。ここが宮古市の海岸端で、当時は海の近くに駅舎が在り少し歩いて、とにかく浄土ヶ浜に行ってみた。電車の中でのイメージ通り、そこで獲れた海産物を焼いて売る屋台などがほんの少しだけ商売していた。お約束で帆立だかさざえだかよく覚えてないが、醤油が焦げた味のするやつを奮発した。その日は晴天で実に静かな浄土ヶ浜の海岸で座っていると実に良い気持ちになって砂浜にそのまま眠ってしまった。物音で目を覚ますと、漁師らしきおじさんが獲ってきた海藻を浜に拡げている。「あんちゃん、これ食ってみな、うめーよ」(多分そのような事を言ったんだろう、土地の言葉で良くは判らないが)。本当に旨かった。この瞬間「この旅は成功だ!」と確信したものだ。わずかなバイト代だったので、その時点で手元に残っているのはぎりぎり東京までの電車賃くらいなので、後はもう考えることも無く駅窓口で「今から乗れる電車で東京まで大人一枚」。そこから2011年の今日までまだ旅が続いている。
・ 以前、マレーシアでカエルの唐揚げを試しに喰ってみたり、メキシコのカンクンでイグアナの炒めものを喰ったことがある。バンコクでは蛇が旨いと勧められたがさすがにこいつだけは勇気が出なかった。もしもこれが日本でならとてもじゃないがおぞましい食事に感じただろう。違った土地に行くと自然と身体の記憶とやらも怪しくなるのを実感する。身体ないし存在そのものの不確定さ加減の底なしを想う。
・ 群馬県片品村の武尊(ホタカ)で1983年~2002年の20年間、「武尊音楽週間」と言う音楽祭を行っていた。主謀のパートナーである小山夫妻はそこでペンション・コスモラマを運営しており、こよなく山を愛し、また山の生活の達人でもあった。音楽祭の20年間には実にたくさんの出会いと別れがあり、自分の人生の大きな歴史を作ってくれた。小山夫妻がある日「ソガちゃん、金あるの?」と心配してくれて「腐るほどあるよ」と答えたら「じゃあ、少し貸してやろうか?」と言うので、「冗談じゃない、また何か悪い事でも考えてんじゃないの?」「ばれたらしょうがないか」。こんな話で一日を過ごしていた。
・ かつて高円寺南口に建っていたアパート「源氏荘」が懐かしい。元陸軍病院だった木造の大きな建物で内部をベニヤ板で細かく仕切ってアパートにしたもので、部屋によっては畳一畳ちょっとくらいの部屋から、大きくてもせいぜいが三畳程度が無数に設えられてあり、私はその中でも特別室に住んだことがある。なんせ角部屋だし部屋の壁に取り付けた物置棚がものを言った。寝るときはその棚の下に足が伸ばせた。問題は隣のおやじだった。そいつはバリバリのやくざおやじで、どうも夜中はどこかで仕事らしく、大体明け方には規則正しく部屋に帰ってから眠りについていた。その頃私は一日のかなりの時間、楽器を練習していて、その日も夜は近所迷惑だろうと午前中に練習を始めた。もちろん大きな音のしないようしっかりと楽器をミュートをしていたのだが、突然このやくざが私の部屋のベニヤ板製のドア(と言うか部屋のふた)をけやぶって怒鳴りこんできた。「てめぇ、このやろう朝からうるせーじゃねーか!こっちは夜中働いてんだ、バカヤロー!仕事もしねーで遊んでんじゃねーぞ!」と朝から有難い説教をされた。こいつはもう誰かに刺されて死んでんだろうな。
・ 千葉幕張メッセ近くを流れる花見川の河口付近に、もう亡くなってしまったがスーパーアイドル野良猫のハナちゃんが住んでいた。生後数カ月で捨てられていたらしいが、とにかくその美貌と頭の良さでたくさんのファンを持っていた。私もその一人で、しょっちゅうご飯をあげていたものだから特になついてくれていた。ある日、私の前を大型犬を連れて散歩にやってきた人が通り過ぎようとした時、ハナちゃんがものすごい表情で私とその散歩の犬の間に割って入ってきて、まるで私を守るかのようにその大きな犬を威嚇した。犬の方が尻尾を縮めてしまい、足早に去っていてしまったのだ。「なんと気の強い猫なんだろう」と感心し、また「なんとカッコ良い猫だ!」とも思ったりしたが、後になるほどに「自分を守ってくれようとしたんだ」という思いが大きくなり、今さらながらに感動を覚える。
・ タイのバンコクから北に列車で数時間、アユタヤに行ったことがある。駅から寺院群までトゥクトゥクに乗ったが遺跡の入り口からは程遠いところで降ろされて「あそこから行けばよい」と運転手に教わり、その「あそこ」に行ってみた。予感はしていたが案の定、蟻塚の様なお土産売りの巣の真只中でした。閑だし金もないし緊張もない私は嬉しくなり、「俺はチャイニーズだけどベトナムで生まれてカンボジアで育ったんだ!」などと適当なこと言ってお土産売りのオヤジ達と仲良しになってしまった。遺跡の入り口にたどり着く頃に一人のオヤジが「これはここから出土した貴重なものだ」と前置きのある怪しい仏陀の手のひらサイズの石像を一つくれた。もともと適当な値段で観光客に売り付けるものだろうが、「ただでもらったら悪いな」の良心をもって、やはり「ここは礼儀だ、ただでもらうしかない」と判断。その後、普通の観光客としてアユタヤを巡り、帰りの駅で列車を持つがなかなか来ない。そこで駅員に尋ねると「直ぐ来るから」の答え。さらに一時間後もう一度尋ねて「直ぐ来る」の答え。これを4回繰り返してやっと列車がカッコよく向こうの方からやってきた。駅にホームなど無く、結局四時間線路に座っていたわけだが、その間にだんだんと太陽が沈んでゆき、空の色もずいぶんと変化を楽しませてくれた。ほど近いところの寺院の屋根が金色に輝いて自分にも光をくれたように感じた。本当に良い気分の一日だったなぁ。
・ コスタリカの首都サン・ホセからバスで4時間ほどの所に何とかと言う富士山に似た形の活火山があり、その一帯は多分国立公園みたいな場所で、ロッジやレストラン、別荘などが多く建ち並んでいる。その山は頻繁に小規模な噴火を繰り返しているので、めったに大惨事になるほどの危険性は低く毒性ガスも少なくて、ふもとの生活は実に平安な雰囲気だった。かなり大きな川を中心に、なんだかレジャーセンターみたいな施設があり、そこではオーガニック料理を売りにしたレストランや川の水を引き込んだプールなどが併設されていて、自分もしばしの時間を過ごすついでで川に入ってみると、何と全て温泉で生まれた川だった。落差20メートルほどの滝や狭くなった場所の急流も全てが温泉。たくさんの人々が水着ではしゃいでいる風景が実に浮世離れしていて、「地球の片隅でこんなにも解放された場所がある」ことに感動した。薄暗くなってから、ふっと富士山似の山を見上げると、てっぺんからだらりと真っ赤な溶岩を涎の様に垂らしていた。
・ 物事の認識、判断、処理は何らかの身体的情報反応システムによるが、さてその際の反応がどの部分で行われるかが問題だ。更にその反応についての検証器官の出来不出来にもよって、その後の身体表象の差異が生じる。大いなる課題は「無意識の読み取り方」の判定。
・ 自分は宗教などは要らないが、例えばイスラム教(シーア派とかスンニとかは別にして)の基本的な考え方などは一つの社会構造における耐震性判断においてバランス・シート的なポジションで見ると大変面白いのではないかと思う。しかし諸宗教で在りがちのバカバカしさや滑稽さ、素朴さなどはいずれもローカルな話で微笑ましいのは同じだが。
・ ドイツとポーランドの国境付近に広大な風力発電地帯が拡がる。ベルリンからの車移動の途中で休憩をその辺りでとった。実に快晴の空の下、その風車の群れを眺めているとまるで「地球のスクリュー」のようで、雲の流れと相まって自分が何処かに運ばれている気分になった。人生が鏡に映っているようでもあった。
・ 音楽の典型の一つに「ペンタトニック(5音音階)」があり、その内のどれかの音をずらすことで地域性やら時代性、気分やメッセージの表現ができる。よく言うヨナヌキというやつだがここに日本の音楽教育の誤りがあるのでは。つまり基本は7音階(西洋の合理的音楽システム)であるように教わる。そもそも歴史が逆さまだ。圧倒的にペンタトニックの歴史と量が違う。これは何を意味するか。更にインド音楽のラーガに至ってはヌキではなくて音を盛り込む。音階を徹底的に複雑にして、それを追いかけるのをヨガの一つとして修行するのだ。音楽システムの超毛細血管。こぶしとかリトルネルロ、前打音などは脈拍なんだろう。そういった意味では無調音楽や12音階音楽はまだまだ現代の音表象のためのキャンバスに成り得る。
・ 江差追分とグレゴリアンチャント(グレゴリオ聖歌)が兄弟音楽として血縁関係にありますが、同じく「演歌、艶歌、恨歌」「パンソリ」「ファド」「ブルース」「カンシオン」「シャンソン」「カンツォーネ「ミロンガ」「カンテホンド」などのローカルな音楽も実は親戚なんですよ。だからみんな仲良くしましょうね!
・ スコットランドの5月は素晴らしい!ヨーロッパ全体そうかもしれないが、この季節には本当に驚くべき自然の愛に触れられる。前日まで何も無かった草地が、次の日に目覚めると辺り一面タンポポで全く黄色の世界になっていたりする。そのまた次の朝には、更に向こう側どこまでも何かの花で赤と黄色と緑の世界になっているのだ。日本の微妙な四季の移り変わりも良いが、こういうのも実に感覚を刺激してくれる。かつてこの辺りが熱帯地方だった頃の記憶を思い出せとでも言うように。ロンドンがレゲエの進入口になったのも分る気がする。
・ 三浦梅園、山片蟠桃、新井白石など江戸期の異端とも言えるような自由な思想の在りように触れ、その後マルクス「資本論」と妙な具合に混ざり合い、私の頭の構造に影響しているらしい。すんなりと物事を現実社会の中で処理できないでいる。それでも「これで良いんだ」という思いは時間と共にますます強力になっているみたいだ。
・ 文字活字の世界は或る意味「バーチャル」世界だから、それに慣れてしまった者が現実に直面した時の驚き様は想像を絶するものかもしれない。
・ 「人間不平等起源論」(ジャンジャック・ルソー)を通じて、大切な事が見えてくる。事態の差異が風景に見えてくればしめたもの。「生命(いのち)」が作りだす景色を鑑賞する楽しみが生まれる。
・ お釈迦様よりキリスト様より聖徳太子様より天皇陛下様より校長先生より会社の社長さんより代議士様より、どんな人よりも自分の父と母の方が偉い。なんせ色々と怒られたことでさえ有り難いと思えるのだから。
・ かつて赤坂の「何とかホール」とかいう劇場でロンドンから来た演劇グループの舞台照明をしたことがある。その時、劇場の担当の人に提出したライトプロット(照明図面)について、そこのおやじから妙なことを言われた。「知ったかぶりして分りもしないのに、こんな図面なんか書くんじゃねえよ、このやろう!」。いきなりである。私は、この人が何を言ってるのか一瞬理解出来なかった。そこで質問した。「どういうことですか?」。そのおやじ答えて、「英語で書けば偉いかと思いやがって、ウチのホールのことも知らない奴が適当な事してんじゃね~よ、このやろう!」。どうも私は「このやろう」らしい。この図面は当然、主催グループにも提示したものだから内容は欧米式だし、私の基礎教養もロンドンとかニューヨーク辺りで仕込んだものだから、私としてはこの場合、そんなこと言われても、という気持ちではあったが、まあそれは良いとして、それでも話は先に進まないし、早く現場を具体的に進めねば、ということで一言、このおやじに言ってやりました。「じゃあ、私この仕事やめます。おたくの劇場ですべて面倒見てやって下さい」。おやじいわく、「そんなこと言ってんじゃね~よ、ちゃんとしろよ、と言ってんじゃね~か、このやろう!」。あ~、面倒くさい人間がこの世にはいるもんだと、しみじみ思った。面白いでしょ、この業界!
・ USAでは照明デザイナーは完全にアーティストとしてのステイタスを持っている。教育システムも成熟しており、一人前になるにはかなりの難関らしい。それと共に「エレクトリシャン」(照明技術者)も対等に権威あるもので、私などはそのどちらの足元にも及ばない。だがちょっと考えると、そんなに人の能力を分割しなくても、と思ってしまう。この辺りが東洋的なんだろうが、それにしても、それが当然みたいな顔をされると、あまりの単純さにあきれるばかり。もうちょっと呼吸、哲学、ライブ感、自然反応、センスが欲しいもんだ。綺麗な照明はそれで良い。凝った照明もそれで良い。望むべきは「心深く刷り込む」照明について。コストの差が価値の差になってはいけない。いつも新鮮な生命感を持っていたい、と素人の私は思う。
・ 人には時々なんとなく帰ってゆく記憶の場面があるようだ。年齢と共にその場面の数が増えてゆき、終いには現実はその記憶そのものにすり替わるのでは、と思えてくる。逆に考えると、現実とは?と疑問の一つも投げかけてみたくなるものだ。リアリズム、リアリティとははたして何処に。話が飛ぶが、本来、仏教が唯識以上の概念を提示していないように、つまり「解脱」を大願とするのみであるにもかかわらず、やたらとそのプロセスにおける雑音が多い。時に政治の道具になったり、経済構成の核になったりと実に様々。その内容は不動産信仰につきる。ああ情けなや!せめて「あ」字観に留めよ。人として謙虚ではないか。
・ 微細なうごめきの中に見え隠れする「大自然の鼓動」。リアルな命の有難い姿を拝む。振付けても振付無くてもどちらでもいいよ、そんなもの!「センス」が大切。つまり「センサー、触角、感覚、アンテナ」などなどの事です。
・ ロスからティファナに入り、バハカリフォルニアをバスで南下した。途中でどこかのロッジで一泊してから一気に先端のラパスへと向かう。車中、「大体この辺は台湾辺りかな」などと太陽の加減を見ていた。それにしてもでかいサボテンだ。まるで大木の様。心が無性にときめく。「知らないところに来ている」実感。いよいよラパスに到着してこじゃれたホテルにチャックインして「少し街を散歩してみようか」と出てみる。初めに見つけた雑貨屋で発見したもの、「メイドイン香港の下駄」・・。なんで?
・ メキシコ、ユカタン半島の先の方でベリーズとの国境近くにトゥールンというカリブ海に面した村がある。そこにはアステカかマヤの末裔かと思われる人々が暮らしておりかなり古いらしいピラミッドが残るトゥ-ルン遺跡がある。このピラミッドの中の壁画が面白い。アフリカ大陸を起点に赤道辺りをインド洋、太平洋と渡り、この場所を示す位置にたどり着き、更に東に進んで大西洋から再びアフリカまでの足跡が描かれている。足跡のある位置にはちょうどどこかの島が存在するようだ。この足跡が示すのは、太陽のある時期の進路かそれとも自分達民族がかつて海をこのようにして渡ってきたと伝えたものか分らないが、ともかく大きな海の上をテクテク歩いている。
・ 70年代初め、まだ天井桟敷が渋谷に有った頃に三日間稽古場を借りて或る実験コンサートを行った。それは「いかにすれば早く聴衆を出ていかせられるか」がテーマのような、とんでもないもので知恵を絞ったことがある。人並みにチラシなど配ったりして友人知人、さらにはそのまた友人にもおいで頂いて決行したものだ。なぜこんなものをやったかは今だ結論が出ないのだが、それなりの成果も否定できない。思い出してみて以下のような事柄を実証した(?)。
1.「かなり退屈な曲をかなり退屈に演奏してみる」。これには退屈を感じるまでの最低時間が必要で、早く帰すには失敗か?
2.「難聴を来たすほどの大音量で全曲やってみる」と、これには大成功!やってる方もいち早く止めたくなってきた。不愉快なほどにでかい音に責められると同時に、あまりの空気振動で呼吸困難になるお客さんもいたりして、本当に危険と隣り合わせの大成功でした。
3.「逆にやたらと小さな音でやってみる」。聴いていて多分途中で嫌になるだろうと思っていたが、却って神経を立てさせてしまったようでこれは大失敗。
4.「お客さんを完全無視してやる」。演奏を勝手な方向で勝手なフレーズで好きにやることに徹してみたらどうなるか。客席用の椅子も用意せず、「どのようにして聴いて下さい」とも言わずに突然始めた。だがこれは「新種のパフォーマンスか?」という興味を持たせてしまった。
5.「やたらと下手くそに演奏する」とどうか?これもパフォーマンスと受け取られたようだ。何と素直でない客達なんだ!
6.「さも何かが始まる雰囲気だけで時間が過ぎても結局何もしないでおしまい」だと、それでまんまと帰ってしまった人もいれば、次を期待してしまう人もいて成否は半々。
などなど・・。今こんなことやったら、おそらくネットで袋叩きでしょうね。さらに、その時に集まってくれた聴衆からは絶交されていたかもしれません。あんな時代で助かりました。