『黒マリア流転―天正使節千々石ミゲル異聞』

太東岬近くの飯縄寺に秘蔵の黒マリア像を知った作者は、なぜこの辺境に日本に唯一のマリア像があるかと考え小説の着想を得た。

御宿町の文学散歩

2017-10-29 | エッセー
御宿町の文学散歩―田畑修一郎・浅見渕 
 田畑には、町を描いたものが3点ある。それを同人誌「作文」145号(平成2年4月)の「白砂の町御宿」渡辺利喜子で知った。「外房にて・砂と鳥・海浜記」である。彼は「鳥羽家の子供」で芥川賞候補になって多忙を極め思うように執筆が出来なくなった時、御宿に住む作家・文芸評論家の浅見渕に誘われて転居した。(昭和16年末から3月1日までの短い日時)
 彼は、この町を「何となくあたりの空気が一種特別な冴えた明さを持ってゐることに気づいた~彼の借りた家は、町からは大分はなれた小高い砂丘の上にあった。そこからは広い砂浜とその向こうの海が見えた~朝は東側の砂丘の上から日が出た。砂丘の頭にぼやつぼやつと寝倒れてゐる枯れ草がさつと色づいて見え、急にあたりは目がくらむやうに明るくなる」と海浜記に書いている。
 作中、私の注目したのは「白ペンキ塗りの六角の望楼を持った別荘風の建物が見えた~何となく夢の中のやうな美しさを持ってゐた。~その建物の持主がずっと以前に疑獄事件の中の中心人物だった高官だといふことを聞いた。
 その場所と人物を知りたくて「作文」誌の渡辺氏の調査を開いた。その場所は八幡神社のある天王台の古賀別荘であり、パリ帰りの画家荻須高徳も同居していたことがあった。荻須は「御宿の砂浜ほどきれいな砂の色はほかにない、又岩和田の断崖風景はフランスのエトルタ海岸に似ている」(?紙)と書いている。
 なお、田畑を御宿町へ誘った浅見渕の住居の位置も分かった。それは、新町の鈴木輪業店の裏手にあった。また戦時中の隣組は積田コンニャクやだそうだ。
浅見淵 あさみふかし(1899―1973)
小説家、評論家。神戸に生まれる。早稲田(わせだ)大学国文科卒業。1926年(大正15)10月『新潮』新人号に『アルバム』を発表。以後、身辺に材をとった私小説風の作品を多く書いた。小説集に『目醒時計(めざましどけい)』(1937)、『手風琴(てふうきん)』(1942)など。文芸評論にも作家の体験が生かされ、その親身な批評態度が評価される。評論集に『現代作家研究』(1936)、『昭和の作家たち』(1957)など。『昭和文壇側面史』(1968)ほかの回想にも私的文壇記録の趣がある。『『浅見淵著作集』全三巻(1974・河出書房新社)』
古賀錬三
明治・大正期に、刑法学の第一人者として、また「平民宰相」原敬の腹心として、法律と政治の世界で活躍した古賀廉造(1858‐1942)。原内閣の拓殖局長官として政治中枢にいたさなか、政権を揺るがした「大連アヘン事件」の責任を負い失脚、その業績は歴史の闇に葬られた。1858-1942 明治-大正時代の司法官。
安政5年1月16日生まれ。大審院の検事,判事や内務省警保局長などを歴任。大正元年貴族院議員となる。阿片(あへん)事件にかかわり,12年貴族院から除名された。昭和17年10月11日死去。85歳。肥前佐賀出身。司法省法学校卒。
猪瀬直樹の解説によると、「当時、関東庁の下には阿片総局という財団法人があった。名目上は医薬品としての阿片を中国人に専売し、それで得た利益をもとに宏済善堂という慈善団体で病院を経営、貧しい阿片患者の救済にあてるタテマエだった。長春行き列車の一等車で定太郎は、その阿片総局の書記を務める小畠貞次郎のトランクを運ぶはずだった。阿片総局で扱う阿片は、表向きの帳簿に記載される取引だけではなかった。小畠のような人物が、自分の裁量というより組織的に、阿片を密売人に売り捌いて裏金づくりに励んでいた。小畠に指示を出していたのは関東庁民政署長の中野有光で、さらにその上に拓殖局長官古賀廉造がいた。(中略)古賀は原敬の司法省法律学校時代の同期生である。原が内相になれば警保局長、首相になれば拓殖局長官と、いつも引き立てられていた。樺太庁長官を六年も務めた定太郎は外地の行政に詳しい。拓殖局長官古賀廉造は、職制上、外地一般を視野に入れている。(原の)つぎの課題は外地であった。(中略)定太郎は原と政友会の資金集めのため、危ない橋を渡っていた」という※平岡定太郎は三島由紀夫の祖父。

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1 コメント

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ありがとうございした (佐賀賢人)
2017-11-17 21:22:03
古賀廉造の親戚のものです。
古賀廉造に興味を持っていただきありがとうございました。古賀別荘の場所は、私も、調査していまして、大変、勉強になりました。

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