『黒マリア流転―天正使節千々石ミゲル異聞』

太東岬近くの飯縄寺に秘蔵の黒マリア像を知った作者は、なぜこの辺境に日本に唯一のマリア像があるかと考え小説の着想を得た。

わがふるさと島田2

2017-12-16 | 連載小説
 /安藤を名乗る家は、内田村には、隣の原田集落に2戸、ちょっと離れた米沢集落に1戸あるが、おそらく島田集落から分かれた家であろう。養老川本流沿岸にも安藤家は数軒あるので、そこからの別れなのかもしれない。
3軒の地主の家と小作との関係はよく分からないが、おそらく島田集落の先住人が切り開いた土地を後から入り込んだ者たちが借りたのかもしれない。
 この3軒の地主の主人は「旦那さん」、婦人は「おかみさん・奥さん」、娘は「むっこ」、男児は「坊」と小作人たちは呼んでいた。
小作人の家では、父親を「ちゃん・とお」、母親を「かぁ・おっかぁ」と呼ぶが、自作農の2軒は「おとっちゃん」・「おっかちゃん」と呼んだ。他に屋号「うえ(上)んがぁ・やつ(谷津)んがぁ・おもて(表)んがぁ」などと呼ぶこともあった。「~がぁ」は「方・家」であろうか。
 内田村には、米沢・江古田・安久谷・石川・真ケ谷・原田・宿・堀越・市場・奥野・水沢と島田の12集落がある。そのほかに桐木原があったが、ここは幕末に浜松城の領主井上公が館を造って移住して来て「鶴舞」と名付け、養老川沿岸、今の市原市の中心地にしたが、すぐに廃藩置県で城下町はさびれてしまった。
 わが家の入り口には、長屋門があった。それは井上様の倉庫を払い下げて移築した物だそうで、かなり木組はがっちりしていて屋根裏を含めて物置として使われていた。その西側に畳敷きの部屋を造り祖父母が住んでいた。私は10歳ぐらいまでは、祖父と毎晩入浴していて、いろいろな昔話を聞いて育った。
 集落の家々の呼び名は、先祖の名前か、俗称であったが、それは同姓では識別が面倒だったからである。
「へんどん=平兵衛・ぜんべぇ=善兵衛」や「なかごう・にいぇ・いんきょ・じょうぼ・むけぇ・つけぎや・した・うえ・やつ」などがあるが「くぬぎめぇ」は「くぬぎ」が意味不明である。「どん」は「殿」だろう。
 戦争に負けて、農地解放があり、小作人の家も耕作していた借地を所有したので少しは経済的に潤ったが、それまではひどく貧しいものだった。平均的な住居は茅葺屋根の平屋2間に土間があり、土間にはカマドがあった。便所は別棟の物置小屋の隅にあったが、穴に大きい壺が埋められ、足を乗せる板が2枚掛けられていた。2間か1間の座敷は板の間で、稲藁を編んだ蓆を敷いてあるだけだった。
 小さな集落なので結束力はあった。月に1度は地主の3軒を除く者たちの家族全員が寄合って会食をする習わしがあった。その日は「日待ち」(休耕日)になっていた。家々が飼っている鶏を1~2羽順番に提供し、それを捌いて、各戸が持ち寄った米を炊き鶏飯を作る。骨は出刃包丁で丹念に叩いたつくね団子汁を作る。この鶏飯のおいしさは、今でも忘れられないのだが、それは普段の粗食のせいであろう。
 集落の東の丘陵地は「こめんでぇ(米の台)」、西は「むこんでぇ(向こうの台)」と呼んで、林間の急坂を上ると台地が畑になっていた。水の便は全くないので畑地にしていたが、肥料の人糞を担ぎ上げるのはとても大変だった。島田川の源流「島田谷(しまっじゃつ)」は堰き止められていて水を貯めてあり、干ばつの時にはこの水を下流に流して水田を潤すのだった。子供たちはその日を待ちかねていた。ウナギやコイ・フナなどが沢山捕まえられるからだ。
 戦争が終わると、出征していた男性が、ぼつぼつ帰ってきたが、消息不明な者が2名いて、家族はその安否をとても心配していた。
 1人は、ニイヤの若旦那で、もう一人は小作のゼンベェ(善兵衛)のおとっつあん(おやじさん)である。2人とも愛児を残して出征したから家族は苦労していた。
 わが家は、集落の細道に入っていくと、正面い見えてくる。水田の向こうに槙の垣根があり、その奥の母屋、馬小屋・長屋と風呂とトイレの小屋がある。井戸は2か所であるが、しぼり水を貯め込んであり、水質は良くない。家の裏手に池があり、渇水期には前の水田に水を流す溝が屋敷の周辺にあった。庭は、かなり広くて、それは秋のモミ干しに使うためである。池にはスイレンがびっしりと生えていて花の季節はとても美しいのだが、夏は水を腐らせるので困り者だった。鯉やフナが数匹いて、毎年稚魚が育つ。釣をすると、フナが釣れたが、恋は警戒心が強くて釣れなかった。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿