『黒マリア流転―天正使節千々石ミゲル異聞』

太東岬近くの飯縄寺に秘蔵の黒マリア像を知った作者は、なぜこの辺境に日本に唯一のマリア像があるかと考え小説の着想を得た。

ミゲルさぁん!

2015-11-30 | 小説
再び岩和田へ
 ミゲルは、夕日に向かって急いでいた。岩和田の細い道から広い十字路に出ると右は大原、一宮へ、左は勝浦、鴨川へ、直進すれば大多喜へ。江戸には、布施の山道を越えて大多喜へ向かうのが早いから十字路をまっすぐに速足で過ぎようとすると、
「ミゲルさぁん、ミゲルさぁん」
後ろから声が聞こえた。
 振り向くと、たえが息を切らして追いかけて来た。
「たえさ~ん。どうしましたか~?」
 ミゲルが立ち止まると、追いついたたえが、
「おっ母が、これを持って行けって。腹が減ったら食いなってよう。アワビの肝を入れたたたきはえらぁく精がつくからね。それに白い米の飯も包んであるよ」
「有難うごぜぇます。皆様によろしくねぇ。さようなら~」
「ミゲルさん、また帰って来てねぇ」
「は~い」
 ミゲルは、返事をすると、後ろを振り向き振り向きして先を急いだ。
7、再び岩和田へ
 茉莉の白昼夢は、ここで途切れた。
 T先生からしばらくぶりに連絡があり、
「この連休には、御宿で撮影会があり、I社長からは、あなたをを指名して来た。日本人離れしたスタイルと、肌の白さが気に入ったからぜひ頼んでもらいたい」
と言うのである。
 茉莉も連休には仕事が空いていたので承知した。むしろ自分から頼みたい思いであった。もう一度海女のリーダー菊さんと、長老のおばぁさんにお会いして、湯浅家のルーツを尋ねたかったので渡りに船だった。
 両国駅から早朝の一番列車に乗り込み、千葉駅で焼き蛤弁当をもとめて朝食を済ませた。
「やぁ、お早う。同じ列車に乗っていたのかい」
 T先生が、大きなカメラボックスを下げて、歩いて来て隣へ座った。
「この間、神田の古本屋でね、三百七十年前に岩和田の海で座礁したサンフランシスコ号に乗っていたドン・ロドリゴの日本見聞録という本を見つけたよ。ちょっと翻訳が読みにくいが、大筋はだいたい分かる」
「まぁ、その本はどんな内容ですか」
「スペインの国王に遭難の様子を報告したことが中心だがね、彼は東海道を九州の臼杵まで往復していてねぇ、駿府城では大御所に往き帰りに会っているんだ。岩和田の田尻浜では、村の者たち、ことに海女さんに助けられたそうだよ」
「まぁ、わたしも読んでみたいなぁ」
 茉莉の目がきらっと輝いた。
「ああ、ぼくはもう読み終わったから君に上げますよ。鞄に入れてあるから後でね」
「嬉しいなぁ。先生、有難うございます」
「君は、なぜあんな古い本を読みたいのかね」
「海女さんは、裸商売でしょう。私もそうですから興味を持っているのです」
「ふうん、なるほどねぇ」
 T先生は、さも感心したように相槌を打った。
 汽車は、のんびりと田園風景の中をガタンゴトンと進んでは、小さな駅に止まり、また走る。窓を開けると、かすかに海の香りが車内に漂う。
 そうこうしているうちに御宿駅に到着した。
 改札口には、I社長が立っていて、T先生に会釈をした。
「やぁ、しばらくですなぁ。社長さん、この前のお電話のとおり茉莉子さんを案内して来ましたよ」
「お手数をかけましたね。茉莉さん、いらっしゃい」
 と、にこやかに出迎えてくれた。
T先生は、さも手柄を立てたような話しぶりで、待っている車の方へさっさと歩いて行った。
「あなたも隣に乗りなさい。運転手さん、このカメラボックスはトランクに入れてくれたまえ」
T先生は自分の車のように後ろの席にでんと座った。
 I社長は、前の座席に乗ると、
「先生、いつもは海岸で撮影会をしていますが、たまには山の方でやったらどうかと会員が言うのでね、養老渓谷に趣のある所を見つけてあります。先ずそこへ行きましょう」
「あぁそれは面白いねぇ。僕は若いころ尾瀬沼の近くの鄙びた所の湖でヌードを撮って評判になったことがありますよ」
「先生、その写真は東京の個展で拝見したことがあります。神秘的な湖のほとりに髪の長い美女が静かに立っている作品でしょう」
「そうそう、よく覚えているねぇ。さすがは海女の写真を撮っては定評のある社長ですなぁ」
「そんなに大げさな者じゃありませんが、先生のあの写真には感動しましたよ」
 茉莉は、車窓の新緑を二人の会話を聞きながら眺めていたが、頭の中はミゲルとたえの物語の展開が気がかりなのだった。
 撮影会は、かなりの山奥らしく、茅葺の民家が谷合に数軒、固まって建っているだけの所だった。日当たりのよい傾斜地に大樹があり、山椿の花が満開であった。ショールを羽織っただけの茉莉がその木や民家を背景にしたり、横に張り出している太い枝に登ったりして撮影するのである。これは、かなりハードな撮影会になりそうな予感がした茉莉は、カメラを構えた会員たちの注文にあまり笑顔や愛嬌をふりまいたりはしなかったが、椿の花の小枝を口にくわえたポーズは後に名のある写真展で「木の花咲くや姫」の名で受賞した。
 「ここはユニークなバックとは言えるが、どうも芸術的では、ありませんなぁ。やはり岩和田や鵜原の怒涛や波しぶきをバックの方が、モデルさんを生かした作品が撮れますぞ。明日は、いつもの場所へ行きましょうよ」
T先生は、苦笑いをしていた。
 I社長は、自分が選んだお気に入りの情景だからその声を無視して、いろいろな角度からシャッターを押し続けていた。
 帰り道では、これも鄙びた湯宿に案内された。この辺りには、茶褐色のラジウム鉱泉の湯宿があって、秘境の宿として宣伝されているが、それは秘湯好みのマニアの世界だけで、入浴する観光客は少ないようだ。
「茉莉さん、体が冷えたでしょうから温泉に入って、温まってから帰りましょう」
 I社長が提案すると、
「おお、それはいいねぇ。僕はこのあたりの湯宿の名前は知っていましたが、来たことがないので一度入浴してみたかったんですよ。でも、お若いレディがご一緒だからまさか混浴ではないでしょねぇ」
T先生はにやりとされた。
「ここは、個室もありますから心配はないですが、ご希望ならば混浴の方でもよいですが」
茉莉の方に顔を向けて、笑いながら答えた。
 薄暗い浴場に明りの天然ガスの炎が燃えているだけの本当に鄙びた浴場で、お湯は濃い茶褐色でぬるめであった。茉莉子は、こわごわと肩まで体を沈めて自分の乳房を眺めた。
写真家たちが、よく
「茉莉さんの胸は、美しいですねぇ」
と、感嘆する乳房をうす濁ったようなラジウムの湯を透かして見ると、ゆらゆらと白い乳房が漂っているようだった。
 ゆっくりと入浴して上がると、テーブルに川で獲れた鮠とヤマベのから揚げが山盛りに出されていた。もうT先生は、ビールの肴にもりもりとその川魚を頭から食べていた。
「やぁ茉莉さん、お先に戴いていますよ。美味しいからあなたもお食べなさい」
と、食通らしいお顔であった。
「遠慮しないで食べてください。東京では食べられない清流の川魚ですよ。この辺りは房総半島の奥地で標高はあまりないのですが、深山の趣があります」
I社長は、茉莉の湯上りの紅潮した顔に見とれていたが、
「それにしてもあなたは日本人離れした肌の色ですねぇ。パリじゅうをうならせた藤田嗣治の白の色です」と、感心した口調であった。
I社長の言葉を聞いて食べることに夢中のT先生が、思わず噴き出してしまったほど、社長の言葉はまじめそのものの言葉遣いだっだ。
その夜は、この前と同じI社長の離れに泊まった。明日は、早起きをして海岸風景を背景にしてヌードを撮影することになっているので早寝をした。だが、寝付かれないので、いただいた「日本見聞録」をぱらぱらとめくった。
昔の翻訳なので、文字や言葉遣いが古風で読みにくいが、大筋は分かる。特に村人の献身的な救助の様子は、細かくは描かれていないのだが、想像を加えると興味深いものであった。三百人余りの乗組員を小さな漁村の人たちが、四十日間あまりもお世話をしたことは、今の時代に生きる茉莉には理解しがたいものであったが、はるかな昔ではありえたのであろうと納得して読み進めた。


ミゲルは江戸へー別れ

2015-11-29 | 小説
ミゲルは江戸へ
長い時が過ぎた。
「ミゲルさん、どうして江戸へ戻るんだい。ねぇ戻らねぇでくんどよう」
 たえは嗚咽をしながらミゲルをきつくきつく抱きしめていた。
「たえさんねぇ、また来るから~明日の夕方には~帰らせてくださいねぇ」
 たえは、駄々っ子のようにいやいやをして泣きじゃくっていた。浜の南風が北寄りにかわり、ひゅうひゅうと辺りを吹き飛ばしそうな強風になった。若い二人は、風の音を耳にしながら互いの温みで体を温め合った。
「ミゲルさん、江戸へ帰らねぇでよう。おらぁは、はぁ(もう)離さねぇだ」
 たえは、ミゲルを力の限りぎゅうっと抱きしめて、耳元でささやいた。
「また~来るからね~。御免なさい。行かないと~ロドリゴさんに叱られてしまいます」 
「だけんが、ミゲルさんは、じきにアカプルコに行ってしまうんだべぇ(しまうんでしょう)。今度は、いつ来るの?」
「浜辺に~花が咲くころに~きっと来るからねぇ。それまで~私を待っていてくだせぇよ」
「ほんとだねぇ。嘘つくと、指を切ってしまうだよ」
 たえは、そう言うと、振り返りもせずに大風の吹く中を真っ暗な浜辺へ駈け出して行った。空には、小さな貝を散りばめたような星たちが、瞬いていた。
 ミゲルが岩和田に来て三日がたった。たえは、とても悲しくて食事の用意が手につかないのだった。
みんなが、朝食のお膳を囲むと、ミゲルが口を開いた。
「みなさま~お世話になりましたよう。今日の夕方に~江戸行きます。また~休みが取れたら~お邪魔しますよう。有難うごぜぇました」
「船の訓練は、まだ時間がかかるのかい?」
 お父が尋ねた。
「そうですねぇ、よくは分かりませんが~夏のころまでぇ~かかりそうですよう」
「ああ、そうだっぺなぁ。何しろこの海の向こう側まで行くんだそうだから訓練もてぇへん(大変)だよう」
 お爺は、ミゲルを本当の孫のように思っているのであろうか、さびしそうにポツンと言った。
 おっ母が、
「また、来なよねぇ。体に気をつけるんだよう。それにしてもルソンの家族には、無事だと言うことを知らせたのかい?」
「それは~わかりませんが~遠い国から来ている神父様が~南の国へ行くときに~ロドリゴさんの手紙を持ってゆきます」
「それならルソンの家族にも知らせが届いているかも知れねぇな」
おっ父が言った。
 たえは、みんなの話を黙って聞いていたが、心の中では「新しい船が大風で沈んでしまえばいい。岩和田の沖に住む大鮑に石を当てると、怒って大しけを起こすと言う話があるから網代湾の沖を船が通る時に大鮑を怒らせてやろうか」などと途方もないことを考えたりした。


江戸へ

2015-11-28 | 小説
6、ミゲルは江戸へ
 翌朝、ミゲルはとても辛そうに言った。
「たえさ~ん。わたし~ロドリゴさんと~一緒に、江戸に~行きますよ~」
「船はアカプルコへいつ行くのかい」
「いえ、いえ、まだですが~私を連れて行かないと~一緒の~ルソン人が困ります」
「なぜ困るんだい。ミゲルさんは、ルソンの言葉も出来るからかい」
「わたしは~おかぁさんが~ルソンの人ですから~すこうしルソンの言葉も~出来ますよ~」
「へぇ、それで一緒に行くのかぁ。でも、また岩和田に戻って来るよね」
「新しい船が~ようく動くかどうか~調べます。それで、キャプテンと~ルソンの人が乗るのです。わたしが~キャプテンの言葉を~皆にお話しする役目です」
「それじゃ、戻って来るかどうかは、わからねぇね。あぁいやだぁ、いやだぁ」
 たえは、ミゲルにとりついて泣きじゃくった。
「たえさん、わたしは~また必ず戻ってぇ来ます。だから~泣かないでぇくだせぇよう」
「ミゲルさん、きっとだよ。必ず戻って来るよね」
「それでは~指切りげんまんをしますから~泣かないでくだせぇましよう」
数日後、船を操作する乗り組み員の者たち百人余りがロドリゴに連れられて、江戸へ向かった。たえの家にはオットーが残ったが、ミゲルがいない家は、たえには耐えきれないほどさびしかった。
 岬の山桜が、ちらほらと咲き出した日だった。
 江戸に行ってしまったミゲルが、岩和田に朝早く戻って来た。
「船の練習が~三日の間~お休みになりましたから~わたしは~眠らないでぇ帰って来ましたよう。たえさんは~お元気でしょうか~」
 ちょうど、みんなで朝飯を食べていたので、
「しんぺぇしてだだよう。ミゲルさんも台所に上がって、朝飯を食うといいよ」
おっかさんが言った。
「どうも~有難うごぜぇます」
ミゲルは、おなかを減らしているので、鯵や鰯の煮つけを頭からもりもりと食べた。
「ミゲルさん。わたしのも食うといいよ」
たえは、自分のおかずの皿を差し出した。 
「ありがとうねぇ、こちらの御飯は~うまいなぁ」
ミゲルは出された物を全部平らげてしまった。
 お爺が、尋ねた。
「ミゲルさんよう、江戸に行った人たちは、みんな元気かい」
「おかげさまでぇ、みんな元気ですよ。ただ、船を動かすのが~とても難しいので~みんな困っています」
「その船でアカプルコまで行くんだからようく練習しねぇと大波に飲まれてしまうだよう」
漁師のお父が、心配そうに言った。
 たえが、気を利かして
「ミゲルさん、夜も寝ねぇで来ただかん、布団を敷いてやるから少し寝るといいだよ」
隣の部屋へ行って寝る用意をしてやった。
 満腹のミゲルは、布団にばったりと倒れるようにして死んだように眠った。たえは、その寝顔をじぃっと見つめていた。
ミゲルは、昼過ぎに目をさまして、「たえさん」と呼んだが、だれも家にはいなかった。オットーもマストを引き揚げに浜へ出かけていた。ミゲルは、のどが渇いているので裏手にまわると、たえが、畑で菜っ葉を摘んでいた。
今夜のおかずの材料とりをしているので、ミゲルが起きたのには気づかなかったが、旨い物を食べさせようと朝から一心に働いていた。浜では、ワカメが打ち寄せられていたのを拾い集めたし、栄螺も五個ほど獲った。
「これにお父の獲って来る小魚の煮つけがあれば、何とかなる。春先のワカメ汁は、とても旨ぇのだ。ミゲルさんもうめぇ、うめぇと言って食ってくれるにちげぇねぇよ」
 独り言を言いながら菜っ葉の若芽を摘んでいた。
 家にミゲルさんがいるのだと思うと、自然に元気が出るのだ。
「たえさん、お手伝いを~しましょうか~」
後ろからミゲルが声をかけた。不意を突かれて、たえは驚いて振り返った。
「目が覚めたかい。よう寝ていたから起こさねぇったが、腹が減ってるだっぺぇよ」
「わたし~朝、沢山~食べたから~減っていませんのでぇす。次は~何を致しますかぁ?」
「ああ、そんならこの鍬で畑をうなってくんど。石ころがいっぺぇ混じっているから容易じゃうなえねぇだよ」
「そうですか~わたしは~ルソンで山にタロイモや~バナナを植える仕事もしていましたよう。だから~鍬は旨く使えま~す」
ミゲルは、石だらけの畑を耕し始めた。
「ミゲルさんが、おらがにいると助かるねぇ。ずうっとここへいてくんど(下さい)よう」
 たえは、自分の気持ちをはっきりとミゲルに伝えた。
 その目は、ミゲルをじぃっと見つめて、瞬きもしないので、ミゲルは、たえに見つめられて、どう返事をしたらよいのか困ってしまった。
 夕食の時だった。お父が、笑いながら言った。
「ミゲルさんよう。岩和田もいい所だっぺよう(だろうよ)。どうだい、アカプルコなんかに行かねぇで、ここに暮らさねぇか」
「えっ、ここに住むのですか~。でも、わたしに~出来る仕事が~ありませんよう」
 ミゲルは、目を白黒させて答えると、お母っさんが、からかった。
「でぇじょうぶだよう。この村には、食う物は何でもあるし、冬でも雪は積もらねぇからね」
「それでも~ルソンは~いつでも裸で暮らせますよう」
 ミゲルは、真面目だから本気で答えた。
 たえは、「本当にミゲルさんが、ここで暮らせばいいなぁ。でも、異国の人が岩和田に住むのは大変だ」と、心の中で思うのだった。
 お爺が尋ねた。
「ミゲルさんは、いつ江戸に戻るんだい」
「はぁい、わたしは~あしたの夕方~ここを出て~次の朝に~ロドリゴさんの所に着きますよう」
「ほう、そりゃ大変だなぁ。若いから体がもつのだねぇ。まぁ体に気を付けるんだよ」
おっ母が言った。
 夕食の後、たえは裏の納屋に明日食べる野菜を取り出しに行った。その後をミゲルがついて来て、後ろからたえに抱き着いた。二人は、もつれて藁束の上に倒れた。
 そのまま二人は、きつく抱き合っていた。


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2015-11-27 | エッセー
早春の出版―2冊を同時刊行!!
小説2編+ファンタジィ童話2編
                ☆ 安藤 三佐夫 ☆
『貝の笛』=(漁村に転地療養に来た青年画家と、手に障害を持つ少女の交流)+「マナとカナルの冒険=縄文人と弥生人の戦い」
『モデル茉莉のルーツ幻想』=(400年前の漁村に漂着したスペイン船の若者と、村の娘の間に生まれた子の末裔?の娘がモデルとなり偶然漁村の伝承を知り、自分のルーツを探る)+「王子と姫はどこへ行ったのでしょう=童謡月の砂漠のファンタジィ」
大人にも興味深いファンタジィ童話を添えて、悠光堂=03-6264-0524より3月に同時出版します。(予価各1,200円)

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2015-11-27 | エッセー
 潮鳴りに包まれて
たえには、心配の種が増えてしまった。それは、間もなくミゲルがアカプルコに向かって船出するからである。その日がいつになるのかは、まだ聞いてはいない。でも、ミゲルはもう知っていて、ただ たえに言わないだけなのかも知れない。
「ミゲルさん、いつ船出をするの?」
尋ねたいのだが怖くて、その言葉は、のどに引っかかり、どうしても出て来ないのだ。
最近は食事の時など、ミゲルもたえから目をそらしてしまうので、ますます尋ねるのが怖いのである。
それでも月の良い晩には、お互い誘わないのだが、自然に砂丘の陰や、海女小屋でひそかに会うのである。会えば、若者同士のことだから黙って抱擁し、愛の契りを結んでしまう。
ある夕方のことであった。浜から帰ってきたおっ母さんが、
「ノビスパンの者たちが、江戸へ行くことになったそうだ。今日、名主どんが村の者たちを集めて、そう話しただ」
 お爺さんが、言った。
「そうか、そりゃぁよかったなぁ。きっと船の用意が出来たんだっぺ」
 たえは、息が詰まってしまって、浜へふらふらと出て行った。
 潮鳴りが、いつもより激しく聞こえる夜だった。へたへたと砂の上に座り込むと、とめどなく涙がこぼれた。
 たえの後をミゲルが追いかけて来た。
「たえさあん。たえさん。どこにいるのですか~」
 夢中になって、大声を出して砂浜を西へ東へと走り回っているが、潮鳴りにその声はかき消されるばかりであった。ただ、たえには、犬の遠吠えのように悲しく海に吸われてゆくミゲルの声がかすかに聞こえるのである。
 その声を聞くと、さらに悲しくなり、たえの嗚咽は止まらない。
 岩和田の岬から半月が登って来て、たえの泣き崩れている姿が、影となってミゲルの目に入った。ミゲルは、砂浜に足をとられて何度か倒れたが、たえの泣き伏している所にやっとたどり着いた。
「たえさ~ん。泣かないでくださ~い。あなたが~泣くと~わたしも~悲しくなってしまいま~す」
ミゲルは、やさしくたえの背をなでるのであったが、それでもたえの嗚咽は止まらない。困り果てたミゲルも、とうとう泣き出してしまった。
こうして二人は、潮鳴りに包まれて、半月が勝浦の八幡岬に沈むまで、抱き合って悲しみに沈んでいた。