再び岩和田へ
ミゲルは、夕日に向かって急いでいた。岩和田の細い道から広い十字路に出ると右は大原、一宮へ、左は勝浦、鴨川へ、直進すれば大多喜へ。江戸には、布施の山道を越えて大多喜へ向かうのが早いから十字路をまっすぐに速足で過ぎようとすると、
「ミゲルさぁん、ミゲルさぁん」
後ろから声が聞こえた。
振り向くと、たえが息を切らして追いかけて来た。
「たえさ~ん。どうしましたか~?」
ミゲルが立ち止まると、追いついたたえが、
「おっ母が、これを持って行けって。腹が減ったら食いなってよう。アワビの肝を入れたたたきはえらぁく精がつくからね。それに白い米の飯も包んであるよ」
「有難うごぜぇます。皆様によろしくねぇ。さようなら~」
「ミゲルさん、また帰って来てねぇ」
「は~い」
ミゲルは、返事をすると、後ろを振り向き振り向きして先を急いだ。
7、再び岩和田へ
茉莉の白昼夢は、ここで途切れた。
T先生からしばらくぶりに連絡があり、
「この連休には、御宿で撮影会があり、I社長からは、あなたをを指名して来た。日本人離れしたスタイルと、肌の白さが気に入ったからぜひ頼んでもらいたい」
と言うのである。
茉莉も連休には仕事が空いていたので承知した。むしろ自分から頼みたい思いであった。もう一度海女のリーダー菊さんと、長老のおばぁさんにお会いして、湯浅家のルーツを尋ねたかったので渡りに船だった。
両国駅から早朝の一番列車に乗り込み、千葉駅で焼き蛤弁当をもとめて朝食を済ませた。
「やぁ、お早う。同じ列車に乗っていたのかい」
T先生が、大きなカメラボックスを下げて、歩いて来て隣へ座った。
「この間、神田の古本屋でね、三百七十年前に岩和田の海で座礁したサンフランシスコ号に乗っていたドン・ロドリゴの日本見聞録という本を見つけたよ。ちょっと翻訳が読みにくいが、大筋はだいたい分かる」
「まぁ、その本はどんな内容ですか」
「スペインの国王に遭難の様子を報告したことが中心だがね、彼は東海道を九州の臼杵まで往復していてねぇ、駿府城では大御所に往き帰りに会っているんだ。岩和田の田尻浜では、村の者たち、ことに海女さんに助けられたそうだよ」
「まぁ、わたしも読んでみたいなぁ」
茉莉の目がきらっと輝いた。
「ああ、ぼくはもう読み終わったから君に上げますよ。鞄に入れてあるから後でね」
「嬉しいなぁ。先生、有難うございます」
「君は、なぜあんな古い本を読みたいのかね」
「海女さんは、裸商売でしょう。私もそうですから興味を持っているのです」
「ふうん、なるほどねぇ」
T先生は、さも感心したように相槌を打った。
汽車は、のんびりと田園風景の中をガタンゴトンと進んでは、小さな駅に止まり、また走る。窓を開けると、かすかに海の香りが車内に漂う。
そうこうしているうちに御宿駅に到着した。
改札口には、I社長が立っていて、T先生に会釈をした。
「やぁ、しばらくですなぁ。社長さん、この前のお電話のとおり茉莉子さんを案内して来ましたよ」
「お手数をかけましたね。茉莉さん、いらっしゃい」
と、にこやかに出迎えてくれた。
T先生は、さも手柄を立てたような話しぶりで、待っている車の方へさっさと歩いて行った。
「あなたも隣に乗りなさい。運転手さん、このカメラボックスはトランクに入れてくれたまえ」
T先生は自分の車のように後ろの席にでんと座った。
I社長は、前の座席に乗ると、
「先生、いつもは海岸で撮影会をしていますが、たまには山の方でやったらどうかと会員が言うのでね、養老渓谷に趣のある所を見つけてあります。先ずそこへ行きましょう」
「あぁそれは面白いねぇ。僕は若いころ尾瀬沼の近くの鄙びた所の湖でヌードを撮って評判になったことがありますよ」
「先生、その写真は東京の個展で拝見したことがあります。神秘的な湖のほとりに髪の長い美女が静かに立っている作品でしょう」
「そうそう、よく覚えているねぇ。さすがは海女の写真を撮っては定評のある社長ですなぁ」
「そんなに大げさな者じゃありませんが、先生のあの写真には感動しましたよ」
茉莉は、車窓の新緑を二人の会話を聞きながら眺めていたが、頭の中はミゲルとたえの物語の展開が気がかりなのだった。
撮影会は、かなりの山奥らしく、茅葺の民家が谷合に数軒、固まって建っているだけの所だった。日当たりのよい傾斜地に大樹があり、山椿の花が満開であった。ショールを羽織っただけの茉莉がその木や民家を背景にしたり、横に張り出している太い枝に登ったりして撮影するのである。これは、かなりハードな撮影会になりそうな予感がした茉莉は、カメラを構えた会員たちの注文にあまり笑顔や愛嬌をふりまいたりはしなかったが、椿の花の小枝を口にくわえたポーズは後に名のある写真展で「木の花咲くや姫」の名で受賞した。
「ここはユニークなバックとは言えるが、どうも芸術的では、ありませんなぁ。やはり岩和田や鵜原の怒涛や波しぶきをバックの方が、モデルさんを生かした作品が撮れますぞ。明日は、いつもの場所へ行きましょうよ」
T先生は、苦笑いをしていた。
I社長は、自分が選んだお気に入りの情景だからその声を無視して、いろいろな角度からシャッターを押し続けていた。
帰り道では、これも鄙びた湯宿に案内された。この辺りには、茶褐色のラジウム鉱泉の湯宿があって、秘境の宿として宣伝されているが、それは秘湯好みのマニアの世界だけで、入浴する観光客は少ないようだ。
「茉莉さん、体が冷えたでしょうから温泉に入って、温まってから帰りましょう」
I社長が提案すると、
「おお、それはいいねぇ。僕はこのあたりの湯宿の名前は知っていましたが、来たことがないので一度入浴してみたかったんですよ。でも、お若いレディがご一緒だからまさか混浴ではないでしょねぇ」
T先生はにやりとされた。
「ここは、個室もありますから心配はないですが、ご希望ならば混浴の方でもよいですが」
茉莉の方に顔を向けて、笑いながら答えた。
薄暗い浴場に明りの天然ガスの炎が燃えているだけの本当に鄙びた浴場で、お湯は濃い茶褐色でぬるめであった。茉莉子は、こわごわと肩まで体を沈めて自分の乳房を眺めた。
写真家たちが、よく
「茉莉さんの胸は、美しいですねぇ」
と、感嘆する乳房をうす濁ったようなラジウムの湯を透かして見ると、ゆらゆらと白い乳房が漂っているようだった。
ゆっくりと入浴して上がると、テーブルに川で獲れた鮠とヤマベのから揚げが山盛りに出されていた。もうT先生は、ビールの肴にもりもりとその川魚を頭から食べていた。
「やぁ茉莉さん、お先に戴いていますよ。美味しいからあなたもお食べなさい」
と、食通らしいお顔であった。
「遠慮しないで食べてください。東京では食べられない清流の川魚ですよ。この辺りは房総半島の奥地で標高はあまりないのですが、深山の趣があります」
I社長は、茉莉の湯上りの紅潮した顔に見とれていたが、
「それにしてもあなたは日本人離れした肌の色ですねぇ。パリじゅうをうならせた藤田嗣治の白の色です」と、感心した口調であった。
I社長の言葉を聞いて食べることに夢中のT先生が、思わず噴き出してしまったほど、社長の言葉はまじめそのものの言葉遣いだっだ。
その夜は、この前と同じI社長の離れに泊まった。明日は、早起きをして海岸風景を背景にしてヌードを撮影することになっているので早寝をした。だが、寝付かれないので、いただいた「日本見聞録」をぱらぱらとめくった。
昔の翻訳なので、文字や言葉遣いが古風で読みにくいが、大筋は分かる。特に村人の献身的な救助の様子は、細かくは描かれていないのだが、想像を加えると興味深いものであった。三百人余りの乗組員を小さな漁村の人たちが、四十日間あまりもお世話をしたことは、今の時代に生きる茉莉には理解しがたいものであったが、はるかな昔ではありえたのであろうと納得して読み進めた。
ミゲルは、夕日に向かって急いでいた。岩和田の細い道から広い十字路に出ると右は大原、一宮へ、左は勝浦、鴨川へ、直進すれば大多喜へ。江戸には、布施の山道を越えて大多喜へ向かうのが早いから十字路をまっすぐに速足で過ぎようとすると、
「ミゲルさぁん、ミゲルさぁん」
後ろから声が聞こえた。
振り向くと、たえが息を切らして追いかけて来た。
「たえさ~ん。どうしましたか~?」
ミゲルが立ち止まると、追いついたたえが、
「おっ母が、これを持って行けって。腹が減ったら食いなってよう。アワビの肝を入れたたたきはえらぁく精がつくからね。それに白い米の飯も包んであるよ」
「有難うごぜぇます。皆様によろしくねぇ。さようなら~」
「ミゲルさん、また帰って来てねぇ」
「は~い」
ミゲルは、返事をすると、後ろを振り向き振り向きして先を急いだ。
7、再び岩和田へ
茉莉の白昼夢は、ここで途切れた。
T先生からしばらくぶりに連絡があり、
「この連休には、御宿で撮影会があり、I社長からは、あなたをを指名して来た。日本人離れしたスタイルと、肌の白さが気に入ったからぜひ頼んでもらいたい」
と言うのである。
茉莉も連休には仕事が空いていたので承知した。むしろ自分から頼みたい思いであった。もう一度海女のリーダー菊さんと、長老のおばぁさんにお会いして、湯浅家のルーツを尋ねたかったので渡りに船だった。
両国駅から早朝の一番列車に乗り込み、千葉駅で焼き蛤弁当をもとめて朝食を済ませた。
「やぁ、お早う。同じ列車に乗っていたのかい」
T先生が、大きなカメラボックスを下げて、歩いて来て隣へ座った。
「この間、神田の古本屋でね、三百七十年前に岩和田の海で座礁したサンフランシスコ号に乗っていたドン・ロドリゴの日本見聞録という本を見つけたよ。ちょっと翻訳が読みにくいが、大筋はだいたい分かる」
「まぁ、その本はどんな内容ですか」
「スペインの国王に遭難の様子を報告したことが中心だがね、彼は東海道を九州の臼杵まで往復していてねぇ、駿府城では大御所に往き帰りに会っているんだ。岩和田の田尻浜では、村の者たち、ことに海女さんに助けられたそうだよ」
「まぁ、わたしも読んでみたいなぁ」
茉莉の目がきらっと輝いた。
「ああ、ぼくはもう読み終わったから君に上げますよ。鞄に入れてあるから後でね」
「嬉しいなぁ。先生、有難うございます」
「君は、なぜあんな古い本を読みたいのかね」
「海女さんは、裸商売でしょう。私もそうですから興味を持っているのです」
「ふうん、なるほどねぇ」
T先生は、さも感心したように相槌を打った。
汽車は、のんびりと田園風景の中をガタンゴトンと進んでは、小さな駅に止まり、また走る。窓を開けると、かすかに海の香りが車内に漂う。
そうこうしているうちに御宿駅に到着した。
改札口には、I社長が立っていて、T先生に会釈をした。
「やぁ、しばらくですなぁ。社長さん、この前のお電話のとおり茉莉子さんを案内して来ましたよ」
「お手数をかけましたね。茉莉さん、いらっしゃい」
と、にこやかに出迎えてくれた。
T先生は、さも手柄を立てたような話しぶりで、待っている車の方へさっさと歩いて行った。
「あなたも隣に乗りなさい。運転手さん、このカメラボックスはトランクに入れてくれたまえ」
T先生は自分の車のように後ろの席にでんと座った。
I社長は、前の座席に乗ると、
「先生、いつもは海岸で撮影会をしていますが、たまには山の方でやったらどうかと会員が言うのでね、養老渓谷に趣のある所を見つけてあります。先ずそこへ行きましょう」
「あぁそれは面白いねぇ。僕は若いころ尾瀬沼の近くの鄙びた所の湖でヌードを撮って評判になったことがありますよ」
「先生、その写真は東京の個展で拝見したことがあります。神秘的な湖のほとりに髪の長い美女が静かに立っている作品でしょう」
「そうそう、よく覚えているねぇ。さすがは海女の写真を撮っては定評のある社長ですなぁ」
「そんなに大げさな者じゃありませんが、先生のあの写真には感動しましたよ」
茉莉は、車窓の新緑を二人の会話を聞きながら眺めていたが、頭の中はミゲルとたえの物語の展開が気がかりなのだった。
撮影会は、かなりの山奥らしく、茅葺の民家が谷合に数軒、固まって建っているだけの所だった。日当たりのよい傾斜地に大樹があり、山椿の花が満開であった。ショールを羽織っただけの茉莉がその木や民家を背景にしたり、横に張り出している太い枝に登ったりして撮影するのである。これは、かなりハードな撮影会になりそうな予感がした茉莉は、カメラを構えた会員たちの注文にあまり笑顔や愛嬌をふりまいたりはしなかったが、椿の花の小枝を口にくわえたポーズは後に名のある写真展で「木の花咲くや姫」の名で受賞した。
「ここはユニークなバックとは言えるが、どうも芸術的では、ありませんなぁ。やはり岩和田や鵜原の怒涛や波しぶきをバックの方が、モデルさんを生かした作品が撮れますぞ。明日は、いつもの場所へ行きましょうよ」
T先生は、苦笑いをしていた。
I社長は、自分が選んだお気に入りの情景だからその声を無視して、いろいろな角度からシャッターを押し続けていた。
帰り道では、これも鄙びた湯宿に案内された。この辺りには、茶褐色のラジウム鉱泉の湯宿があって、秘境の宿として宣伝されているが、それは秘湯好みのマニアの世界だけで、入浴する観光客は少ないようだ。
「茉莉さん、体が冷えたでしょうから温泉に入って、温まってから帰りましょう」
I社長が提案すると、
「おお、それはいいねぇ。僕はこのあたりの湯宿の名前は知っていましたが、来たことがないので一度入浴してみたかったんですよ。でも、お若いレディがご一緒だからまさか混浴ではないでしょねぇ」
T先生はにやりとされた。
「ここは、個室もありますから心配はないですが、ご希望ならば混浴の方でもよいですが」
茉莉の方に顔を向けて、笑いながら答えた。
薄暗い浴場に明りの天然ガスの炎が燃えているだけの本当に鄙びた浴場で、お湯は濃い茶褐色でぬるめであった。茉莉子は、こわごわと肩まで体を沈めて自分の乳房を眺めた。
写真家たちが、よく
「茉莉さんの胸は、美しいですねぇ」
と、感嘆する乳房をうす濁ったようなラジウムの湯を透かして見ると、ゆらゆらと白い乳房が漂っているようだった。
ゆっくりと入浴して上がると、テーブルに川で獲れた鮠とヤマベのから揚げが山盛りに出されていた。もうT先生は、ビールの肴にもりもりとその川魚を頭から食べていた。
「やぁ茉莉さん、お先に戴いていますよ。美味しいからあなたもお食べなさい」
と、食通らしいお顔であった。
「遠慮しないで食べてください。東京では食べられない清流の川魚ですよ。この辺りは房総半島の奥地で標高はあまりないのですが、深山の趣があります」
I社長は、茉莉の湯上りの紅潮した顔に見とれていたが、
「それにしてもあなたは日本人離れした肌の色ですねぇ。パリじゅうをうならせた藤田嗣治の白の色です」と、感心した口調であった。
I社長の言葉を聞いて食べることに夢中のT先生が、思わず噴き出してしまったほど、社長の言葉はまじめそのものの言葉遣いだっだ。
その夜は、この前と同じI社長の離れに泊まった。明日は、早起きをして海岸風景を背景にしてヌードを撮影することになっているので早寝をした。だが、寝付かれないので、いただいた「日本見聞録」をぱらぱらとめくった。
昔の翻訳なので、文字や言葉遣いが古風で読みにくいが、大筋は分かる。特に村人の献身的な救助の様子は、細かくは描かれていないのだが、想像を加えると興味深いものであった。三百人余りの乗組員を小さな漁村の人たちが、四十日間あまりもお世話をしたことは、今の時代に生きる茉莉には理解しがたいものであったが、はるかな昔ではありえたのであろうと納得して読み進めた。