●無明
岡 :「人は自己中心に知情意し、感覚し、行為する。その自己中心的な広い意味の行為をしようとする本能を無明という。ところで、人には個性というものがある。芸術では特にそれを喧しく言っている、そういう固有の色というものがある。その個性は自己中心に考えられたものだと思っている。本当はもっと深いところから来るものであるという事を知らない。つまり自己中心に考えた自己というもの、西洋ではそれを自我と言っております。仏教では小我と言いますが、小我から来るものは醜悪さだけなんです。ピカソのああいう絵は、無明から来るもので、ピカソ自身は、無明を美だと思い違いして描いているのだろうと思います…」
●情操
岡 :「順序数が分かるのは生まれて八ヵ月ぐらいです。その頃の子に鈴を振って見せます。初め振った時は「おや」というような目の色を見せる。二度目に振って見せると、何か遠い物を思い出しているような目の色をする。三度目を振りますと、もはや意識して、後は何度でも振って聞かせよとせがまれる。そういう区別が截然と出る。面白いのは、二度目を聞かした時、遠い昔を思い出すような目の色をする。それが後の懐かしさというような情操に続くのではないか。その情操が文化というものを支えているのではないか…」
●情緒
岡 :「赤ん坊がお母さんに抱かれて、そしてお母さんの顔を見て笑っている。この辺りが基になっているようです。その頃ではまだ自他の別というものは無い。母親は他人で、抱かれている自分は別人だとは思っていない。しかし乍ら、親子の情というものは既に有る。有ると仮定する。既に母親は別格なのです。自他の別は無いが、親子の情は有るのですね。時間というようなものが分かりそうになるのが、大体生後三十二ヵ月過ぎてから後です。そうすると、赤ん坊にはまだ時間というものは無い。だから、そうして抱かれている有様は、自他の別無く、時間というものが無いから、これが本当の長閑というものだ。それを仏教で言いますと、涅槃というものになるのですね。世界の始まりというのは、赤ん坊が母親に抱かれている、親子の情は分かるが、自他の別は感じていない。時間という観念はまだその人の心に出来ていない。そういう状態ではないかと思う。その後、人の心の中には時というものが生まれ、自他の別が出来て行き、森羅万象が出来て行く。それが一個の世界が出来上がる事だと思います。そうすると長閑というものは、これが平和の内容だろうと思いますが、自他の別無く、時間の観念が無い状態でしょう。それは何かというと、情緒なのです。だから情緒が最初に育つのです。自他の別も無いのに、親子の情というものが有り得る。それが情緒の理想なんです…」
●不易
小林:「芭蕉に《不易流行》という有名な言葉がありますね。俳諧には不易と流行とが両方必要だと言う。詩人の直感なのですが、不易というのは、ある動かない観念では無い。あなたの仰有る記憶の力に関して発言されているのではないかと思うのですね。幼時を思い出さない詩人という者はいないのです、一人もいないのです。そうしないと詩的言語というものが成立しないのです。誰でも銘々がみんな自分の歴史を持っている。オギャアと生まれてからの歴史は、どうしたって背負っているのです。伝統を否定しようと、民族を否定しようと構わない。やっぱり記憶が蘇るという事があるのです。記憶が勝手に蘇るのですからね、これはどうしようもないのです。これが私に何等かの感動を与えたりするという事もまた、私の意志ではないのです、記憶が遣るんです。記憶が幼時の懐かしさに連れて行くのです。言葉が発生する原始状態は、誰の心の中にも、どんな文明人の精神の中にも持続している。そこに立ち返る事を、芭蕉は不易と呼んだのではないかと思います…」
●批評
岡 :「近頃の小説は個性がありますか?」
小林:「やはり絵と同じです。個性を競って見せるのですね。絵と同じように、物が無くなっています。物が無くなっているのは、全体の傾向ですね…」
岡 :「世界の知力が低下しているという気がします。日本だけではなく、世界がそうじゃないかという…。小説でもそうお思いになりますか?」
小林:「そうでしょうね…」
岡 :「物を活かすという事を忘れて、自分が作り出そうという方だけを遣り出したのですね。良い評論家である為には、詩人でなければならないという風な事は言えますか?」
小林:「そうだと思います…」
岡 :「本質は直感と情熱でしょう…」
小林:「そうだと思います…」
岡 :「批評家というのは、詩人と関係が無いように思われていますが、尽きるところ作品の批評も、直感し情熱を持つという事が本質になりますね…」
小林:「勘が内容ですからね…」
岡 :「勘というから、どうでも良いと思うのです。勘は知力ですからね。それが働かないと、一切が始まらぬ。それを表現なさる為に苦労されるのでしょう。勘で探り当てたものを主観の中で書いて行く内に、内容が流れる。それだけが文章である筈なんです…」 (「人間の建設」小林秀雄、岡潔共著/新潮文庫より)
岡 :「人は自己中心に知情意し、感覚し、行為する。その自己中心的な広い意味の行為をしようとする本能を無明という。ところで、人には個性というものがある。芸術では特にそれを喧しく言っている、そういう固有の色というものがある。その個性は自己中心に考えられたものだと思っている。本当はもっと深いところから来るものであるという事を知らない。つまり自己中心に考えた自己というもの、西洋ではそれを自我と言っております。仏教では小我と言いますが、小我から来るものは醜悪さだけなんです。ピカソのああいう絵は、無明から来るもので、ピカソ自身は、無明を美だと思い違いして描いているのだろうと思います…」
●情操
岡 :「順序数が分かるのは生まれて八ヵ月ぐらいです。その頃の子に鈴を振って見せます。初め振った時は「おや」というような目の色を見せる。二度目に振って見せると、何か遠い物を思い出しているような目の色をする。三度目を振りますと、もはや意識して、後は何度でも振って聞かせよとせがまれる。そういう区別が截然と出る。面白いのは、二度目を聞かした時、遠い昔を思い出すような目の色をする。それが後の懐かしさというような情操に続くのではないか。その情操が文化というものを支えているのではないか…」
●情緒
岡 :「赤ん坊がお母さんに抱かれて、そしてお母さんの顔を見て笑っている。この辺りが基になっているようです。その頃ではまだ自他の別というものは無い。母親は他人で、抱かれている自分は別人だとは思っていない。しかし乍ら、親子の情というものは既に有る。有ると仮定する。既に母親は別格なのです。自他の別は無いが、親子の情は有るのですね。時間というようなものが分かりそうになるのが、大体生後三十二ヵ月過ぎてから後です。そうすると、赤ん坊にはまだ時間というものは無い。だから、そうして抱かれている有様は、自他の別無く、時間というものが無いから、これが本当の長閑というものだ。それを仏教で言いますと、涅槃というものになるのですね。世界の始まりというのは、赤ん坊が母親に抱かれている、親子の情は分かるが、自他の別は感じていない。時間という観念はまだその人の心に出来ていない。そういう状態ではないかと思う。その後、人の心の中には時というものが生まれ、自他の別が出来て行き、森羅万象が出来て行く。それが一個の世界が出来上がる事だと思います。そうすると長閑というものは、これが平和の内容だろうと思いますが、自他の別無く、時間の観念が無い状態でしょう。それは何かというと、情緒なのです。だから情緒が最初に育つのです。自他の別も無いのに、親子の情というものが有り得る。それが情緒の理想なんです…」
●不易
小林:「芭蕉に《不易流行》という有名な言葉がありますね。俳諧には不易と流行とが両方必要だと言う。詩人の直感なのですが、不易というのは、ある動かない観念では無い。あなたの仰有る記憶の力に関して発言されているのではないかと思うのですね。幼時を思い出さない詩人という者はいないのです、一人もいないのです。そうしないと詩的言語というものが成立しないのです。誰でも銘々がみんな自分の歴史を持っている。オギャアと生まれてからの歴史は、どうしたって背負っているのです。伝統を否定しようと、民族を否定しようと構わない。やっぱり記憶が蘇るという事があるのです。記憶が勝手に蘇るのですからね、これはどうしようもないのです。これが私に何等かの感動を与えたりするという事もまた、私の意志ではないのです、記憶が遣るんです。記憶が幼時の懐かしさに連れて行くのです。言葉が発生する原始状態は、誰の心の中にも、どんな文明人の精神の中にも持続している。そこに立ち返る事を、芭蕉は不易と呼んだのではないかと思います…」
●批評
岡 :「近頃の小説は個性がありますか?」
小林:「やはり絵と同じです。個性を競って見せるのですね。絵と同じように、物が無くなっています。物が無くなっているのは、全体の傾向ですね…」
岡 :「世界の知力が低下しているという気がします。日本だけではなく、世界がそうじゃないかという…。小説でもそうお思いになりますか?」
小林:「そうでしょうね…」
岡 :「物を活かすという事を忘れて、自分が作り出そうという方だけを遣り出したのですね。良い評論家である為には、詩人でなければならないという風な事は言えますか?」
小林:「そうだと思います…」
岡 :「本質は直感と情熱でしょう…」
小林:「そうだと思います…」
岡 :「批評家というのは、詩人と関係が無いように思われていますが、尽きるところ作品の批評も、直感し情熱を持つという事が本質になりますね…」
小林:「勘が内容ですからね…」
岡 :「勘というから、どうでも良いと思うのです。勘は知力ですからね。それが働かないと、一切が始まらぬ。それを表現なさる為に苦労されるのでしょう。勘で探り当てたものを主観の中で書いて行く内に、内容が流れる。それだけが文章である筈なんです…」 (「人間の建設」小林秀雄、岡潔共著/新潮文庫より)