映画なんて大嫌い!

 ~映画に憑依された狂人による、只々、空虚な拙文です…。 ストーリーなんて糞っ喰らえ!

ロベルト・ロッセリーニ 語録

2010年01月06日 | 映画の覚書
●科学者との会話
― 私がいつも一緒に働いている科学者は、ある日私に言いました。つまり、科学の恐ろしさは、発見をすればする程、我々の無知の無限さを理解するという事です。それで、私自身は少し後でこの事を再考し、《謎》と呼ばれるものについて彼に話しました。けれども、彼は私に次のように言って答えました。《謎》について話すものではありません。それは《遠くにあるもの》なのです。それでは、我々は《遠くにあるもの》へ向かいましょう。


 ロベルト・ロッセリーニの真意を文面通り素直に受け止めれば、興味深い解釈の輪が広がって行くように感じます。まず真っ先に思い浮かんだのは、日頃、僕が映画から思い知らされている《見る》という幻惑です。作品は見返せば見返すほど発見の連続ですが、それは同時に、今まで見落としていた自分に対し、見る目の無さを思い知る連続でもあります。しかも、1度や2度で済む保証などは全く無く、作品全体の解釈を翻し兼ねない何かを平然と見落とし続けている可能性を孕むものです。実際、見返す度に、作品の側から《見た》ことを否定される事はしばしばです。それ故、“科学”を“映画鑑賞”と置き換え、「映画鑑賞の恐ろしさは、発見をすればする程、我々の無知の無限さを理解するという事です…」と読み直す事で、R・ロッセリーニからの共感を得られたような気分に救われます。多分に見落としを孕んだ作品への解釈が《謎》に包まれて感じるのも、至って当然の事なのでしょう。しかし、それだからこそ、見落としている未知の何かを発見する為に、つまりは《謎》を解き明かす為の前進が重要なのだと改めて確信します。R・ロッセリーニが語る科学者の言葉を借りれば、《遠くにあるもの》への前進。即ち、何度も何度も《見る》ことです。

 これまで、R・ロッセリーニの作品が広く人々に親しまれて来なかった理由も、評論界が《遠くにあるもの》への前進を回避し、ひたすら《謎》に留まっていたからなのではないかと思っています。R・ロッセリーニを《謎》に留め、評論界自身も《謎》に留まっていたのではないかと…。科学的見地とは対極の、主観的で観念的な見地から映画を身勝手に語ってきた皺寄せが、そのままR・ロッセリーニへ降り懸っていたような、そんな気がしています…。


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