以前、「安全」という言葉が包み込んでいる「意味」を『施工管理工程表・・・感知しないから感じるへ その16』で
「安全とは、自己だけではなく他人を含んだ分割不可能(二人称以上の「人やもの」を含んでいる)なものである。労働災害は減ってきているものの、精神的労働災害が多方面に広がるのは調整能力による分断化が招いた病理である。」
と、語った。しかし、これも単一の思考パターンから派生させた二次的な道徳性を含むある意味、力学的な流出といえる。別の言い方をすれば、ある基本構造や規則・ルールを良(従う・当たり前)とする意識の中に組み込まれた、無意識的判断・平均化するための調整能力が働くといえる。またそれも全体構造の一部であり秩序を守るための能力なのだろう。しかしそれが、調整能力によるかたよった思考の発達だとしたら、その他のまだ知らぬ能力との飽和状態であることに気付くことができる。飽和状態であることは、どんな形であれ確かにそこに存在し非因果的の関係も含め接触しうるある意味、可能性であることにも気付く。
例えば、一般にいう自律や自立するときある側面を分割し選択をする(しなくてはならない)状態を何かしらの影響から受け入れる。ある意味これも二次的な言葉の力学的影響といえる。自己の知識の中で理解をしているだけで、実は他の空間の(影響力のある空間の)意味を理解しきれないでいる。最も理解をするのは不可能なのである。それを理解しようとすることは、力学的な法則と、原因と結果をある文脈の中に当てはめなくてはならないと作用する証明的ふるまいにすぎない。ある意味、方程式に当てはめた平均化・統計的に求められた「≒」に相当する幻想なのである。
影響力のあるものは、自律・自立より変化に意味を持っている。道理や信条は飽和された世界に棄て(消滅し)、全体の中で開かれる知覚器官は分割や分析を必要としないのである。しかしそれに気づくものは少ないであろう。それは、包まれた関係のネットワークの中で、分割不可能であることを直感的に感じ可能性に変えているからである。
つまり、会議や議論もざまざま思考の飽和状態であり、包み込まれた空間が存在していることに気付くことである。そこは答えを出す場ではなく、その空間の中に存在する可能性を感じ取り開き出す場であることを意識することにより(または導くことにより)、調整能力・平均化は消え、まだ知らぬ能力との対面と可能性(革新)が開けるものである。それは非因果的に現れ瞬間移動のような体験でもあろう。調整・平均・分割を減少させ可能性に変えてゆくことができれば、精神的労働災害も減少させる手助けの一部となるだろう。
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