教科書やマニアルにはない考え方。

これはいずれ本を書くためのメモみたいなものなので、理解不能・誤字脱字でいっぱいです(^▽^;)

施工管理工程表・・・【感知しない】から【感じる】へ その19

2013年05月26日 | 日記

 安定とは、「変動のないこと」つまり「零」であることだと私は以前かたったことがある。しかし、人は生のある限り「安定状態」ではありえないことを知った。つまり、常に外乱に襲われていて、常に平衡状態ではないということだ。それは過去・現在・感情・欲望・意志・感覚等の記憶が融合し脳の中で反響し合い、常に新しい変化を無意識のうちに探しているのである。お子様をお持ちの方々には、理解しやすいかもしれない。子供の成長は日々変化し、集団に交じり生活を送る頃には成長は加速する。それをわれわれは「子供の能力」だろうとか、「柔軟性(やわらかさ)」だろうとかと、大人になるとなくなってしまうエネルギーかのように受け入れ扱ってしまいがちだ。そして、大人になりわれわれの成長は止まったかのように、出来上がったかのように、悟ったかのように、自己観念を創り上げてしまい他との観念の差異を環境的因子や遺伝子的因子などであるかのように、差を計りそれを他との距離として境界を引いてしまう。この「差」は能力の「差」ではなく恐れであり、境界までの「距離」は自分にないもの(可能性を信じれない試せないもの)への憧れである。それは自己観念から感じる単なる予測と、人の計る不適当な初期値であり、単なる途中過程であることを理解していないだけである。

 例えば、大人と子供のある「差」を考察してみよう。一般に子供には吸収力はあるが判断力にかけ、逆に大人には判断力はあるが吸収力は衰えはじめるという。確かに脳の柔軟性や老化現象も原因の一つかもしれないが、それらを結果であることにすることに端を発する。それが完全なる原因と結果であるなら、子供の頃はひたすら知識を詰め込み、ある次元や社会、文脈において機能しなくなれば知識は省いてゆくような過程となってもおかしくはない、まさに、現在の教育である。しかし深く「差」を考察しようとするとあらためて感じる部分がある。子供の頃は好奇心(自由な心、オープンな心)の塊であり好奇心の中で無意識に知識を望んでいて機能は必要ではなく判断力は「飽きる」という現象でしかない。それとは対象に大人になると好奇心(自由な心、オープンな心)がうすれるのは知識と恐れと観念の中で好奇心ですらも無意識のうちに機能的に分割し小分けにしそれを判断力としているのではないかと思われる。つまり、望んだ知識と詰め込まれた知識の中でさらに分割し、現実に機能する知識を判断力と呼んでいるのである。大人の判断力も「飽きる」「あきらめ」ということに変わっただけの、「飽きる」「なごり」ではないかと思われる。

 では、われわれが子供の頃の成長のように半年くらいでガラリと(良くも悪くも)変わろうとしたらどうだろう。まずはたいてい環境的評価(第一次社会的評価)を気にして次に利己的評価(第二次社会的評価)を気にするものだ。環境的評価(第一次社会的評価)は周囲の反応やなじみある自己世界への他者からの評価であり、利己的評価(第二次社会的評価)は環境的評価(第一次社会的評価)の膜を突き破り、他者から自己を認めてもらうための評価である。この付きまとう評価に「差(恐れ)」が生じる。子供にも評価への反応はつきまとうが、好奇心の中で無意識に知識を望んでいるため、われわれのような評価への機能評価への予測などは持ち合わせていない。あるとすれば、良い悪い、褒められる叱られるなどのような直感的評価であり分析するような評価ではないのである。われわれは、評価を分析し力学的法則に従いグラフや表にし、さらにそのことに対し評価の反応を計ろうとする。これはただ「恐れ」を分析しているに過ぎないのである。どんなも分析も完全に評価できるもの(コンピューターなど)があっても、初期値を入力するのは「評価を恐れる揺らぎある(われわれ)人」だということを忘れてはいけない。この時点で大人と子供の「差」は歴然としてくる。

 われわれも子供の頃の好奇心とは異なが、融合する知識を利用し直感と変え新しいエネルギーとすることができる。例えば、さっきまで夢中になり練習(学習)していたことが上手くいかず苛立ちを覚え投げやりになり、それでも満足がいかずもう一度振り返る時がある。それでも上手くいかなくとも、ある時ふと身に付いていてという経験はないだろうか?(ギターのコードがいつの間にか握れるようになったとか、理解できない本がある時、理解できるようになったとか・・・。)それが知識・感覚・思考の融合である。それは手や足、体全ての感知できる部分が脳とは分割できない構造を持っているからであり、可能性を探し出す脳の根本的なシステムである。成長というよりも変化のほうに近いもので、あらゆる過去・現在・感情・欲望・意志・感覚等の記憶の融合体である。そしてそこでは、意外なことが起こったかのような感覚を得るのである。まさに苛立ちを覚えるほどの「努力」は感情をも巻き込んだ可能性を探し出す「検索エンジン」なのである。この「検索エンジン」を利用するには、あらゆることを経験(達成するために必要以外のことも含まれる)することが必要となってくる。あることの意味のある自己へにしか働かず、それでいて全体を分割せずに包み込んでいるのである。そして「検索エンジン」が働き始めると、あらゆるものに対し自己に必要な部分を考察する。例えば、朝刊を手にして習慣的にチラシを抜き取るとする(そのとき(朝起きたばかり)でも「検索エンジン」は何かを探している)。その瞬間、通常では目に入らぬものが直感(子供の頃の直感評価と類似性があり分析とはまったく異なるもの)といわれる類を脳は利用し情報として受け入れ、融合するための力を発しているのである。まさに、意外な理屈に合わないことが起こったかのような感覚を得るのである。それを利用する融合知識は、好奇心に含まれる無意識的な知識を望むものと類似であり新しいエネルギーとなる可能性を秘めているものである

 つまり、われわれが何気なく送る生活の中でも、脳は常に何かを検索し融合させるために外乱と付き合っており「安定状態(零)」を保とうとはしていないのである。脳にとっては成長や変化は当たり前の過程であり、それを正のエネルギーにするか負のエネルギーにするかは、可能性を検索するか安定性を検索するかの違いだけではないかと思われる。


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