私は「鬱」だったのだろうか?
いい大人が「子ども返り」していただけなのだろうか?
という原因・予測・結果・思考も、なんと小さく、冷たく、狭い、執着と習慣だったのかと気付かされる・・・・・。
この静寂な時間は現代の常識や文化の中で生きる私たちにとっては、なかなか感じずらい流れであろう。一般にある流れは、一見深くしかし乱れた思考と、習慣的に執着する志向がいっぺんに生起するのであるから仕方がないことだ。善も悪もその思考の生起により情熱という執着に変えられて、排他的な感情に変わるように仕組まれている(テロ・戦争・派閥など)。その情熱は探している自己・自我に執着する余りに、無くすことの怖さに怯えている。傷跡と、終生何も残らぬものを探すことにより、その見え隠れする感情を隠すのである。
そして、信用、信頼、戦争、テロなどという生命の有無を取引するような賭け事を起こすきっかけを自ら起こしてしまっているだけなのである。
そ執着により、人はあらゆる「苦」を自ら選び出しているのである。
もう悩むことはないだろう(この知覚に関しては)。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます