強制的指導とは「心」を操るための、
あるいは対象に有る、「意味」を捻じ曲げるための
限りある言語の中での選択である。
しかし、私たちには限りなく必要とされるものであり、
自分自身の存在をその瞬間に表現する手段でもある。
まったく、言語にとらわれた私たちは、
それによる方法(強制的指導において)を使い、さらに喜怒哀楽でトーンを決め
「愛(切望)」の処理において複雑なものとしてゆく。
「愛(切望)」は過去の条件に基づいて自動的に生じるものであるが、
ほぼ、時代の言語の強制的指導により選択肢を強制する。
言語により誘導される「心」に気付かぬまま選択しているのである。
例えばいつの時代でも「金は人を変える」と言うが、間違えである。
「人の心」が「金」を良くも、悪くも変えているのである。
その時代の言語の強制的指導が「心」を操って、変えているのである。
それは強制とは気付かず、「平等」と言うあらゆる意味を持った言語の中にナチュラルに流されている。
「金」は人の「心」が意味を持たせた、鉱物と紙。
「心」が意味を持った鉱物と紙を手に入れるために、
意味を持ったものを食し、意味を持った活動をし、意味のある生活を期待する。
「金」は「愛(切望)」の処理の一部の中で芽生え、執着心へと姿を変えた、
実は免れたい世界の一面なのだ・・・・。
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