教科書やマニアルにはない考え方。

これはいずれ本を書くためのメモみたいなものなので、理解不能・誤字脱字でいっぱいです(^▽^;)

施工管理工程表・・・【感知しない】から【感じる】へ その32

2013年07月25日 | 哲学

 受け入れやすい言葉を集団で、「文化」「習慣」にするという行為を、無意識にそして何かの法則に従い、我々は育み歩んできた。それぞれに存在する時間の差異に影響を与え、矛盾した法則の中で同一視した関係の下に我々は差別を覚え、ある意味、貧富の差と価値観の違いを生んだのである。例えば、「義務教育」というその行為は、ある時期までは教育者と子供の関係の相互作用により、環境の構造と個人の構造との間に、互いに選択できるドラマチックな影響を与えながら変化を続けてきた。車が多くなれば道路に影響を与え、交通手段に広がりを見せるように・・・。しかし、我々は「義務教育」という言葉を使っているうちに、新しい「文化」「習慣」にするという行為にしたのである。つまり、「義務教育」という意味を変化させながら、単体の言葉として(義務と教育として)扱う「習慣」により互い(教育者と受ける側)に影響を与え合う「攪乱」を受け入れたのである。意味や理論がすり替わるのは当たり前の話(進化の話)ではあるが、ある条件によっては変わってはならないものが存在する。それは理性の反応である。理性の反応はその環境の中で総選挙され民主主義という名のもとに、独立した理性と習慣(餌づけ)の下に現れるそれぞれの環境の差異によって裁かれている。それは電力供給考え方と、脱原発の意見の差異に今まさに現れている。そして、生き残るもの、絶えてしまうもの(自然に忘れられてしまうもの)、つまり環境に適応し生産力を拡大するもの、環境に対応できなくなり自己組織化が機能しなくなるものとして別れているわけだ。

 「義務教育」において、誰に決定権があるのか?時間の差異(成長の差異)は学力で判断できるのか?名のある「教育」には、将来受け入れられる確実性はあるのか?この正体不明なものに、我々は身を置いてきた。つまり、予測の中で育てられ、それを信じるという蓋然性のなかには、経験により組み立てられたその時代の者の予測的な習慣化された知識が存在するということだ。つまり、その者の知識の中では我々は実際には存在できない予測だけの存在だ。その者の認識の中に存在るということは、その者の歴史の中に(期待する予測の中に)存在しなくてはならないということになる。しかしそれは、指導者にせよ、上司せよ、その者に対して存在しなくてはならない意図は何もない。だけどなぜ、自己の存在を我々は示そうとするのか?強者にせよ、弱者にせよ、安定した日常にある者にせよ、自己の存在を自ら消そうとする者はいないと私は信じている。ただ、自殺するもの(追い込まれる者)の最後の存在の表現は間違っている。「義務教育」にせよ、「自殺願望」があるものにせよ、基本的に(自己に対しても)我々はもう一人の観察者だ。環境の中に変化を気付くのも観察者であり、その変化に流されまいとする意志を持つのも観察者である自分であり、そこに問題を生じさせるのも観察者である自分である。そして本当の問題を生じさせるのは、それに対応するために「無理矢理」、認識の中にある構造の一部に対応させるという振舞が内的に起きるときである。

 我々は、自己組織化という親とも他人とも違う自己を持っている。実際、それがなくては時代は自然の流れの対応だけに、革命など革新などという言葉は出来ていなかったであろう。そして、「コミュニケーション不足」という、「不足」の意味もありえなかったであろう。 



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