琉球王府時代、王府からの令達を伝え、貢租のために使う宿道を整備し(道に石畳を敷き、川に石橋を架け)ました。「中頭方西街道」は、首里城から浦添を経て読谷に至るルートです。今回は、中頭方西街道の「経塚の碑」「安波茶橋」を訪ねました。
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0120-1337-02 中頭方西街道
「中頭方西街道~なかがみほうせいかいどう~…琉球王府時代(一四二九~一八七九)、首里王府からの諸令達(しょれいたつ)や貢祖(こうそ)のために使われた宿道(しゅくみち)の一つで、「公事道(くうじみち)」とも呼ばれています。中頭方西街道は、首里城を起点に平良、大名を通り、浦添の沢岻(たくし)、経塚、安波茶(あはちゃ)、仲間、牧港を経て読谷に至るルートを指し、北の恩納、国頭方面を繋ぐ主要道路でした。一九五七年建立の『浦添城の前の碑」』には、尚寧王の命により首里平良から浦添城までの道を拡張し、平良橋を木橋から石橋に架け替え、道に石畳を敷く国家的大土木工事を実施したと記されています。中頭方西街道は、琉球王国の政治・経済の発展に伴い整備されてきた道であり、琉球の歴史・文化・交通を考える上で重要な文化財です。 浦添市教育委員会」
0129-1726-01 中頭方西街道
0129-1727-02 今も地中に眠る石畳道
「今も地中に眠る石畳道…この場所の地下約1.5mには発掘された石畳道が保存されています。道は、幅3.1mほどのややきつい坂道で、外側には雨水を逃がす側溝が取り付けられています。また、道沿いの屋敷からすりつけられた小さな石畳の出入り口も見つかっています。」
0129-1723-01 浦添工業高等学校
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0120-1341-01 うらおそい歴史の道
「琉球の宿道(昔道)…王府時代に始まった宿次により、首里を中心に道路が整備されました。宿次のルートは次のようなものでした。沖縄本島を大きく国頭方(北部地域)、中頭方(中部地域)、島尻方(南部地域)に分け、それぞれ東海岸沿いにのびる宿道を東宿、西海岸沿いにのびる道を西宿といいました。島尻方(本島南部地域)は東回りを南風原之宿、西回りを真和志之宿といいました。」
引用(浦添の歴史を探る|琉球の宿道(ンカシミチ) http://history.urasoeshikankou)
「経塚の碑」
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0120-1344-02 経塚の碑
「浦添市指定文化財 史跡 経塚の碑…昔、このあたりは松が生い茂る人里離れたさみしい場所で、ここに巣(す)くう妖怪が道ゆく人々をたぶらかしていました。一六世紀のはじめ、高野山で修行した日秀上人(にっしゅうしょうにん)が、お経(金剛経こんごうきょう)を書いた小石を埋め、その上に『金剛嶺こんごうれい』と刻んだ石碑を立て、妖怪を鎮めたと伝えられています。その後、地震の時に「チョウチカチカ」、あるいは「チョウチカ、チョウチカ」と唱(とな)えるとおさまると信じられるようになりました。お経を埋めた塚を経塚(きょうづか)といい、この地域の名前の由来となっています。妖怪の碑は旧暦一〇月一日のウマチーヌウガンで拝まれるなど、地域の人々から大切にされています。 昭和五六年三月二日指定 浦添市教育委員会」
0120-1343-01 金剛嶺
「安波茶橋」
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0129-1730-01安波茶橋と石畳道
0129-1733-01安波茶橋と石畳道
0129-1733-02安波茶橋と石畳道
0129-1731-02安波茶橋と石畳道
0130-1455-01 安波茶橋
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「安波茶橋と石畳道…安波茶(あはちゃ)橋と石畳道は、一五九七年に尚寧王の命で浦添グスクから首里平良までの道を整備したときに造られたと考えられています。首里城と中頭・国頭方面を結ぶ宿道(しゅくみち、幹線道路)として」人々の往来でにぎわい、国王もこの道を通って普天間宮に参詣しました。橋は石造のアーチ橋で、小湾川に架けられた南橋と支流のアブチ川に架けられた北橋からなります。深い谷の滝壷の側に巨岩を積み上げる大変な難工事だったと思われます。南橋は沖縄戦壊され、で破北橋も崩壊していましたが平成十年に北橋を修復しました。橋の下流には、赤い皿(椀)で水を汲んで国王に差し上げたと伝えられる赤皿ガーがあります。浦添市教育委員会」
0130-1452-01 安波茶橋と石畳道
0130-1454-01 赤皿ガー
0130-1456-03 てだこウォーク
浦添市では、2月1日、2月2日の両日、「てだこウォーク」が催されます。コースには、表示板が設置されていました。
参照(てtedakowalk2014.ti-da.net/)だこウォーク2014) http://
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