3月31日

2006-03-31 00:19:04 | Weblog
春の夢みてゐて瞼ぬれにけり      三橋鷹女

「春の夢のごとし」とはかなさの例えに引かれる「春の夢」。この句では、春眠中にみた夢の意味。眠っている間にみた夢であるが、瞼をぬらす夢であった。すでに遠くなった別れであろうか。女身であることのせつなさであろうか。夢の中身はいろいろ想像されるが、経験がすでに昇華されて、うっすらと滲むせつない悲しみが詠まれている。夢とは言え、不覚にも瞼がぬれたことも、また、春の夢に帰ってゆく。 

3月30日

2006-03-30 00:18:43 | Weblog
春の雪青菜をゆでてゐたる間も     細見綾子

青菜をゆでながら窓を見ていると、そんな時にもひらひらと雪が降ってきた。春の雪である。「間も」に詠嘆があって、春の雪の明るさとはかなさが詠まれている。雪を見る目、茹でられて色の冴えた青菜を見る目と、よく働いている。雪の白と、青菜の青の対比が鮮やかで、厨仕事の束の間にも詩があるのである。                         

3月29日

2006-03-29 00:18:14 | Weblog
梨咲くと葛飾の野はとの曇り      水原秋櫻子

「葛飾」という地名は、柴又の寅さんや矢切の渡、菖蒲園などを思いおこさせるが、庶民的でのどかなところである。その葛飾に白い梨の花が咲くころには、うす曇の日が多くなる。白い梨の花は、との曇る空に溶入るようになる。梨の花ととの曇る空を配した景色が美しい。
                     

3月28日

2006-03-28 00:17:44 | Weblog
わが背丈以上は空や初雲雀       中村草田男

「わが背丈以上の空」は、文字通りは、作者の立っている地面から上の、作者を入れての空の意味。人家を離れ来ると、ひろびろと春の野の広がりに出会う。その野に触れて空があり、一点となった雲雀が声を空に弾かせている。のけぞって見る初雲雀に、生命賛歌の高らかな気持ちが胸に広がる。        


3月27日

2006-03-27 00:17:23 | Weblog
イースター青い卵の贈り物        高橋句美子

作者二十歳の早春、フランクフルト近郊にある愛媛大学教授のヴィラント先生の実家にホームステイさせていただいたときの句。ちょうどイースターのころで、れんぎょうの花が窓辺に飾られ、それにいろとりどりのイースターの卵が付けられていた。その中の一つの青い卵を日本に帰る作者への贈り物として、幼いヴィラント先生の甥が、手にのせてくれたものと聞く。青い卵には、美しい小花の絵が描かれ、イースターらしく、命のやさしさが感じられる。

2月26日

2006-03-26 00:16:52 | Weblog
村中に水流れ出しつばめ来る       澤井 渥

田植えの準備が始まり、村中の水路に水が流れ出した。ちょうどこの頃につばめが生き生きとやって来る。水も流れ、つばめもやってきて、村は生気に満ちている。

3月25日

2006-03-25 00:16:10 | Weblog
一点より縦横の道卒業す         大石和堂

卒業式のあと、校門から出て、それぞれが、思い出や希望を胸に、自分の家へと帰って行く実景とも読めるが、卒業の一点を契機に、それぞれが進む道の縦横であることよ、の思いの句であってもよい。

3月24日

2006-03-24 00:15:32 | Weblog
産声を待つ部屋の窓白木蓮        高橋秀之

子の誕生を待って落ち着かない父親の目に、白木蓮が映る。産着のような純白の白木蓮に、まもなく誕生する子が重なって見える。若い父親の心境。

2月23日

2006-03-23 00:14:59 | Weblog
物の種にぎればいのちひしめける     日野草城

物種をにぎったことがあるだろうか。種をにぎると、掌に張り切った種の刺激がくる。にぎった掌をひらくと種はさらさらと落ちる。そういった感覚からいうと、「いのちひしめける」の「ひしめく」は、語彙は正確でなく作為的な感じがしないでもない。種に「いのち」があるのは当然で、たくさんあれば「ひしめく」ことになるという常識がある。詩はその常識の非本質を見極める必要があるのだ。初期の作品。

3月22日

2006-03-22 00:14:25 | Weblog
バスを待ち大路の春をうたがはず      石田波郷

『鶴の眼』(昭和十四年)所収。バスが通る大通り。バスを待ちながら降り注ぐ春の日や、春の装いの人たち、並木や家々の輝きを見ると、ここにまさに春があることを確信する。「大路」という言葉の重さに、大路以外の印象はむしろ沈み、麗らかにふりそそぐ春の日の印象が強まる。「春をうたがはず」は、麗らかに照る日に実感を得たものであろう。

3月21日

2006-03-21 16:01:09 | Weblog
チューリップ喜びだけを持ってゐる     細見綾子

チューリップは、明るく、かわいく、天真爛漫な花で、「喜び」を象徴したような花だ。それを「喜びだけを持ってゐる」とした。この発見に綾子の才がある。         

3月20日

2006-03-20 16:00:51 | Weblog
町空のつばくらめのみ新しや      中村草田男

草田男の第一句集『長子』の巻頭に置かれた「帰郷」二十八句の中の一句。前書に「松山城北高石崖にて」とある。九年ぶりの帰郷に、城下町松山のたたずまいは懐かしく懐旧の思いが様々湧いてきたであろう。そこにつややかな色で自在に飛ぶ燕を見て、「つばくらめのみ新や」の感嘆となった。南の国の香りを運んできて生き生きと飛ぶ燕に、青春の憧憬が託されているようである。
                      

3月19日

2006-03-19 16:00:19 | Weblog
大仏を写真にとるや春の山       河東碧梧桐

大仏も大きいなら、句材の把握の仕方も大きい。記念写真に大仏を撮ろうとすると、春の山もどっしりと入った。鎌倉の大仏と春の山を捉えた庶民感覚の句と言えよう。        

3月18日

2006-03-18 15:59:48 | Weblog
生ひじき買うや春潮もろともに     守山満樹

ひじきは、乾燥したものも売られているが、海から採れたばかりのひじきにはかなわない。春の潮が滴り、黒くつやつやと、そしてふっくらと育ったひじきを買うときのよろこびに、故郷の海の懐かしさがある。
                     

3月17日

2006-03-17 15:58:48 | Weblog
鉢に土筆数本にして野のさまを     川本臥風

野の草や苔など一緒に鉢植えにして持ってこられた土筆だろうが、数本の土筆に野の風景が彷彿されるというのだ。「数本にして」に強い驚きがある。季節の植物がほんのわずかであっても、大自然の景色をなすという凄さは、季節季節のどんなものも、ディテイルでありながら、自然を象徴することを意味している。臥風山房を出ればすぐ小川や野道があったが、土筆をわざわざ摘みに出かれられることもなかったから、こうした鉢植えを楽しんでおられた。