3月31日

2008-03-31 15:32:07 | Weblog
バスを待ち大路の春をうたがはず      石田波郷

『鶴の眼』(昭和十四年)所収。バスが通る大通り。バスを待ちながら降り注ぐ春の日や、春の装いの人たち、並木や家々の輝きを見ると、ここにまさに春があることを確信する。「大路」という言葉の重さに、大路以外の印象はむしろ沈み、麗らかにふりそそぐ春の日の印象が強まる。「春をうたがはず」は、麗らかに照る日に実感を得たものであろう。

3月29日

2008-03-29 15:28:26 | Weblog
雲雀落つ谷底の草平らかな        臼田亜浪

空の高みで鳴いていた雲雀は、急に鳴き止んで畑などに降りる、降りるいうより、落ちる感じだ。この句では、谷底の平らな草の上に落ちたという。谷底のそれでも平らは草地は、雲雀が降りるのに相応しく明るく萌えている。山国の雲雀の雲雀らしさが詠まれた句。

3月28日

2008-03-28 15:27:07 | Weblog
外にも出よ触るるばかりに春の月     中村汀女

「はやく外に出ていらっしゃいよ。」と内にいるものに呼びかけた。それほどに美しい春の月である。しかも、「触るるばかりに」と。手にも触れそうに、大きく、明るく、滴るような月である。みずみずしい春の月を「触れうるもの」としたい願望に、女性らしい美への要求がある。

3月27日

2008-03-27 15:26:16 | Weblog
梨咲くと葛飾の野はとの曇り      水原秋櫻子

「葛飾」という地名は、柴又の寅さんや矢切の渡、菖蒲園などを思いおこさせるが、庶民的でのどかなところである。その葛飾に白い梨の花が咲くころには、うす曇の日が多くなる。白い梨の花は、との曇る空に溶入るようになる。梨の花ととの曇る空を配した景色が美しい。

3月26日

2008-03-26 15:25:08 | Weblog
たんぽぽや日はいつまでも大空に     中村汀女

「大空に」が気が利いている。地上に丈低く咲くたんぽぽに対し、空は大きく広がっている。春の日永、いつまでも日が空にあると、たんぽぽは、いつまでも花を開いている。春の日永の日に疲れたような気分が「いつまでも」に感じられる。 

3月25日

2008-03-25 15:24:22 | Weblog
わが背丈以上は空や初雲雀       中村草田男

「わが背丈以上の空」は、文字通りは、作者の立っている地面から上の、作者を入れての空の意味。人家を離れ来ると、ひろびろと春の野の広がりに出会う。その野に触れて空があり、一点となった雲雀が声を空に弾かせている。のけぞって見る初雲雀に、生命賛歌の高らかな気持ちが胸に広がる。

3月22日

2008-03-22 15:20:29 | Weblog
町空のつばくらめのみ新しや      中村草田男

草田男の第一句集『長子』の巻頭に置かれた「帰郷」二十八句の中の一句。前書に「松山城北高石崖にて」とある。九年ぶりの帰郷に、城下町松山のたたずまいは懐かしく懐旧の思いが様々湧いてきたであろう。そこにつややかな色で自在に飛ぶ燕を見て、「つばくらめのみ新や」の感嘆となった。南の国の香りを運んできて生き生きと飛ぶ燕に、青春の憧憬が託されているようである。

3月21日

2008-03-21 15:18:15 | Weblog
チューリップ喜びだけを持ってゐる     細見綾子

チューリップは、明るく、かわいく、天真爛漫な花で、「喜び」を象徴したような花だ。それを「喜びだけを持ってゐる」とした。この発見に綾子の才がある。

3月20日

2008-03-20 15:17:29 | Weblog
辛夷胸にあふるる高さ崖に佇つ       西垣 脩

昭和三十年の作。この句をあまいというであろうか。「俳句は聴くもの」という氏の信条に照らせば、何か空気のような、クリスタルなひびきが心に聞こえはすまいか。胸にあふれる白は、思いあふれる白である。

3月19日

2008-03-19 15:16:30 | Weblog
大仏を写真にとるや春の山       河東碧梧桐

大仏も大きいなら、句材の把握の仕方も大きい。記念写真に大仏を撮ろうとすると、春の山もどっしりと入った。鎌倉の大仏と春の山を捉えた庶民感覚の句と言えよう。

3月18日

2008-03-18 15:15:32 | Weblog
島々に灯をともしけり春の海      正岡子規

松山の沖には、比較的近くに島々が見える。その島の人たちの生活は、松山との繋がりの深い。その島々も夕方になると灯がともり始める。沖に暗く浮かぶ島の裾に、点々と朧な灯が連なる景色は美しく、人懐かしさを覚えさせるものである。

3月17日

2008-03-17 16:13:27 | Weblog
鉢に土筆数本にして野のさまを     川本臥風

野の草や苔など一緒に鉢植えにして持ってこられた土筆だろうが、数本の土筆に野の風景が彷彿されるというのだ。「数本にして」に強い驚きがある。季節の植物がほんのわずかであっても、大自然の景色をなすという凄さは、季節季節のどんなものも、ディテイルでありながら、自然を象徴することを意味している。臥風山房を出ればすぐ小川や野道があったが、土筆をわざわざ摘みに出かれられることもなかったから、こうした鉢植えを楽しんでおられた。