「野里町歩紀 ~摂河泉をゆく~」

写真と簡単な文章で綴る大阪府内を歩いた足跡です。

西国街道を山崎から高槻へ

2011-06-05 11:39:45 | 日記
訪問日:平成23年1月8日(土)
出 発:JR「山崎駅」
到 着:阪急電車「総持寺駅」


 大阪府三島郡。かつて古代に三島郡という郡が存在し、その後701年の大宝律令により三島上郡、三島下郡の上下に分かれる。ほどなく、それぞれ「三」の文字が落ち、島上郡、島下郡となるが、明治39年の合併により再度「三島郡」が誕生する。島下郡に属する茨木市、吹田市、豊中市・箕面市の一部はそれぞれ市制に移行した。島上郡に属する高槻市も市制に移行したが、唯一「島本町」が町制のままであり一町で三島郡を構成する。
 今回は、三島郡のうち「旧島上郡」にあたる島本町、高槻市を「西国街道」に沿って歩く。平坦な舗装道の新旧市街地を歩くので給水・トイレには困らない。(歩行距離20キロ)


 今回の出発地であるJR「山崎駅」。この駅は、大阪府・京都府の境に所在し大阪行きホーム上に「府境」の看板が立つ。


 駅の敷地は広いが、駅自体は駅前にバス停と郵便局や小さなホテル・料理旅館などがあるローカルな雰囲気の小さな駅である。駅舎は京都府乙訓郡大山崎町になる。


 駅舎と神社の間の狭い道を西方向に進んで行くと数分で大阪府との府境に出る。府境標識脇の「従是東山城国」の石碑が示すとおり、ここは山城国と摂津国の境界であり、関(所)が設けられていたのだろうか石碑横には「関大明神」というお社が立つ。

 
 「西国街道」とは京と下関を結ぶ山陽道の総称・別称らしいが、その内、京から西宮を結ぶ間を「山崎道」といい大阪府下を横断する。これより山崎道にあたる西国街道を西に向けて歩く。


 道は大部分がセンターラインのない狭い車道であるが、さほど交通量は多くなく遊歩道として案内標識なども整備されている。


 しばらく歩くと正面にどこかで見たような建物が見えてくる。一旦、西国街道から分かれJR東海道線の踏切を渡ると「サントリー株式会社山崎蒸溜所」に突き当たる。ここ名水の湧く天王山の麓にサントリーの前身である「壽屋」が日本初のモルトウイスキーの蒸溜所を建設した。現在では世界でも有数のウイスキー生産地である。工場見学(試飲付き)ができる。


 大きな貯蔵庫前を通過し、左手にあるJRのアンダーパスをくぐり西国街道に戻る。


 アンダーパス入口は何でもないコンクリート造りだったが、くぐり抜けて振り返ると何とレンガ造りだった。戦前からあったのだろう。


 さらに西国街道の街並みを歩く。


 右手に歯医者さんが見えてくると左折しスーパーの前を通り過ぎれば「水無瀬神宮」だ。後鳥羽天皇の離宮跡に建立され後鳥羽天皇らを祀る。
 

 境内にある手水舎の湧き水は「名水百選」に選ばれ「離宮の水」と呼ばれている。水を汲みに来る人が絶えない。


 西国街道まで戻り、さらに西へ進む。


 古い道標、新しい案内板が導いてくれる。


 冬ではあるがこんもりとした緑の森が見えてくる。「櫻井駅址」だ。たまたまJR「島本駅」前にあるが、この「駅」というのは、大化の改新以降、主要街道の要所に置かれた役所のことである。今は公園になっている。


 公園内には、かつて足利尊氏を討つため湊川に向かっていた楠木正成が嫡男の正行を河内国に送り返した所として「史跡楠公父子決別之所」と刻まれた石碑が立つ。


 JR「島本駅」からの道を隔てて立つのは「町立歴史文化資料館」。


 3~4分ほど歩くと左手にコンビニが見えてくるが、その前に右に入る路地があるので広い道には進まず、その路地に入る。この道は、島本町と高槻市の市町境であり、そのまま進むとJR東海道線のアンダーパスをくぐる。このアンダーパスもレンガ造りになっている。他にも数カ所レンガ造りのアンダーパスを見た。「東海道本線」の歴史の古さを感じる。


 この道も市町境だ。


 いつの間にか市町境は山手に移り高槻市へと入る。すぐに右山手に「日蓮宗妙浄寺」というお寺があるが、お寺に続く道を上がり下を眺める。ここは天王山の山塊がせり出し淀川まで幅1㎞足らずしかない。この狭い所で背後の山に「梶原トンネル」で名神高速道路が走り、JR東海道線、阪急京都線、東海道新幹線、国道171号線が併走する。時間が合えば、JR、阪急、新幹線の3つの列車を望むことができる。


 西国街道に戻り少し進むと地蔵堂の横に「梶原一里塚跡」が残る。


 古い街並みの中を進む。


 街道沿いに立つ「畑山神社」。


 さらに西国街道を西に歩く。


 消防団の火の見櫓なども見られるが、だんだんと新しい街並みへと変わっていく。


 高槻北郵便局を過ぎれば、西国街道と分かれて左に曲がり陸橋で一気にJRを越える。陸橋を降りた所のから左手に松並木が現れる。昔、高槻城の京口から西国街道までの8丁(約900メートル)に植えられたことから「八丁松原」と呼ばれている。


 国道171号線の八丁畷交差点を渡ってしばらく進み「沢良木本町南交差」から「高槻城」の城下町へと入る。石の道標が迎えてくれる。


 南北500メートル四方の狭い範囲であるが「高槻城跡公園」を中心に所々古い町並みや寺社が残る。


 城下町らしい地名が残る。


 ここら辺りは寺町だ。


 日蓮宗本行寺。高槻藩士であり儒学者・漢詩人として名を残した藤井竹外の墓などがある。


 街並みも城下町を意識して整備されている。


 高槻城東側、かつて大手門があったといわれる場所に「高槻城大手跡」の碑が立つ。


 その前を南に進んでいくと「八幡大神宮」に出る。「大神宮」というが小さなお社だ。


 地蔵堂の横に「枚方街道」と読める道標が。
 

 案内板に従って進み「高槻城跡公園」の南口から公園内に入る。一角に江戸中期の町家「笠井家」を移築した「市立歴史民俗資料館」が立つ。


 「高槻城」。南北朝時代に築かれ明治7年に取り壊される。一時は、キリシタン大名として有名な「高山右近」が城主を務めた。今は、城のあった場所に石垣や堀を築き、城郭風の公園として市民の憩いの場として開放されている。


 キリシタン大名「高山右近」の像。(高山右近については「隠れキリシタンの里「高山」から川尻石仏群」でも触れる)


 城跡公園の北隅にある「旧陸軍工兵第四聯隊跡」。今は石碑と当時の門跡が隣接する市立第一中学校の裏門として、その前に門衛の立哨所跡が残るのみである。


 市立第一中学校の城門風の正門前を通って北へ。突き当たりの高槻商工会議所会館前に「高山右近天主教会堂跡」の碑が立つ。高槻城主となった高山右近が天正2年(1574)ここに教会を建てキリスト教の布教に努めたという。


 商工会議所会館の西隣に「野見神社」。八幡大神宮とともに歴代城主の信仰が厚かったが、高山右近により八幡大神宮とともに焼き払われ、その後、再興された。境内には「恵比寿神社」も祀られ、えべっさんの準備がされていた。


 野見神社の北側に「高槻カトリック教会」が立つ。高山右近は慶長19年(1614)フィリピンに追放され翌年マニラで没するが、高山右近を記念し、マニラの聖母大聖堂を模して建てられたという。


 門を入った左側に「高山右近」の像が立つ。城跡公園の高山右近は堂々たる「城主」としての姿だが、ここの像はひざまずく敬虔なクリスチャンとしての姿だ。


 城跡公園に戻り「府立槻の木高校」の横を通って城下町から抜け出る。この高校は、以前「島上高校」と呼ばれていたが高槻南高校との統廃合により閉校され単位制の槻の木高校に生まれ変わった。「島上」の名がまたひとつ消えたと言うことだ。
 ここから約2キロは交通量の多い府道脇を歩く。市立五百住小学校を過ぎたスーパーのある交差点を右折すると徐々に古い町へと変わっていく。浄土宗清蓮寺前の階段を抜ける。


 路地を通り公園を抜けたところに「富田御坊」「蓮如上人」などと刻まれた石碑が。


 塀に沿って進んでいくと「浄土真宗本願寺派本照寺」。富田御坊と呼ばれる。御坊の名のとおり高槻市富田は寺内町なのだ。


 御坊前の街並み。


 古い家屋が残る。


 また、「富田の酒造り」といわれ、今も2件の造り酒屋が残る。


 そのひとつ壽酒造の酒蔵。


 南に下っていく。「臨済宗普門寺」。庭園が美しいらしい。


 あちらこちらに旧家が残る。


 そんな一角に「三輪神社」が。ここも恵比寿様が祀られおり、えべっさんの準備がされていた。


 神社の南に続く古い街並みを歩く。


 地図を頼りに富田小学校南側を抜け、小さな池のある公園を通り過ぎると町中に突然「黄檗宗慶瑞禅寺」が現れる。境内は静かだ。


 慶瑞禅寺前の複雑な路地を抜けると茨木市内に入る。茨木市は「島下郡」だ。そして阪急京都線の踏切を渡り「総持寺1丁目」辺りに出ると古い街並みが現れる。


 総持寺は真言寺院なので寺内町は構成しない。門前の古い町なのだろう。


 白壁、板塀の家屋横を抜けていく。


 高野山真言宗総持寺。


 西国二十二番札所として多くの参拝者が訪れる。毎年4月18日、山陰流包丁式と呼ばれる古式豊かな包丁裁きの料理術が披露される。数分でゴールの阪急「総持寺駅」に着く。本日の「歩紀」6時間。
 

 

 


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