訪問日:平成22年3月28日(日)
出発:阪急バス「山辺口」
到着:阪急バス「本滝口」
摂津國御荘園から能勢の領主「能勢家包」のもと能勢大里に嫁いできたが、その美貌から平清盛に見そめられ苦悩の末、家包に操を立てて自害したと伝えられる「名月姫」。
和泉國「信太の森」と同様の「葛葉伝説」が伝わる能勢田尻。ほかにも壇ノ浦で討たれたという幼帝「安徳天皇」が潜幸されたと伝わる能勢野間など伝説の地を歩く。
軽い起伏のある舗装道を歩く。出発点の山辺口停留所前には大型スーパーが。途中立ち寄る「けやき資料館」には自販機とトイレがあるが、それ以外は、いくつかの自販機と寺社の参拝者用簡易トイレがあるくらいだ。(歩行距離19キロ)
能勢電車「山下駅」は兵庫県川西市であるが能勢方面へのバスの出発地点となっている。
ここから阪急バスで約20分(400円)で「山辺口」停留所に着く。目の前には能勢で最も大きいスーパーがある。トイレ、銀行ATMも備えており、食料・飲料水もすべて揃う。
ここは「大阪府豊能郡能勢町来栖」。能勢町は「山辺川流域」「大路次川流域」「田尻川流域」に開けた盆地と旧能勢街道沿いに栄え、能勢一族が居城を構えた「地黄・野間」の大きく4つの地区に分けられる。来栖から2つの山塊を越え能勢野間まで歩く。ただし高低差は大きくない。まずは来栖の町を過ぎる。
山手に入ると「曹洞宗洞雲寺」に到る。
ここから坂を下っていけば大路次川に潤される水田地帯に出る。川を越え山手を見上げると細い峠道が見える。府道の迂回路があるが「歩紀」なので府道は通らずこの小さな峠道を登る。
息が切れるまもなく迂回路の府道と交差する。ここが「名月峠」だ。
摂津國御荘園(現在の尼崎市)の領主の娘として仲秋の名月の夜に生まれたことから「名月姫」と名付けられたこの姫は、能勢の領主「能勢家包」の妻として能勢大里で幸せに暮らしていたが、美貌を聞きつけた「平清盛」に見そめられ能勢の地を去ることに。そして道中この峠で家包に操を立て自害したという。峠のすぐ上の森の中に墓所はある。
峠を下れば田尻の集落に出る。
「日蓮宗長久寺」
集落から府道に下る。大阪では珍しい駐在所。
府道沿いにも立派な旧家が見られる。湿気の多い能勢地方。腐食から守るため板塀が漆で朱色に塗られている。
府道から山手に入る。炭焼き窯があった。きれいに草が刈られているので現役だろうか。
山の中腹から「田尻川」と流域の水田地帯を望む。田尻川は「釈迦ケ嶽」の清水を集め、倉垣とここ田尻の田を潤して「一庫ダム湖」に注ぐ。
「日蓮宗薬善寺」という小さなお堂の横に佇む「胎蔵界大日一尊種板碑」。能勢には石の文化財が多数見られる。
山から府道沿いに向かって下りる。途中、土塀に藁葺き屋根の建物があった。農具庫として使っているのだろうか。
府道に出て田尻川沿いに進む。野間方面への峠道に入るための三叉路に出るが、ちょうどこの突き当たりの田尻川敷に小さな温泉がある。
「山空海温泉」というが、ちょっと有名な秘湯でインターネットにも多くの投稿があるので興味のある方はアクセスを。私も10回くらい来たことがあるが、確かに良いお湯だ。大阪では珍しく「硫黄臭」のする湯だ。
三叉路を野間方面に入る。上りであるがそう高低差はない。すぐに「信田の森」という案内板がある。
すぐ後ろに山への入り口のように赤い鳥居が立つ。
信田(信太)の森といえば和泉國に伝わる伝説だ。「安倍保名という人物が和泉國信太の森で白狐を助け、その白狐が葛葉という美女に姿を変え保名に嫁ぐ。その間に生まれた童子が後の陰陽師、安倍晴明」というお話だ。その「信田(信太)の森」がこの地にも伝わる。この森の前には冷泉があり、かつて保名が葛葉とともに湯治に訪れ、ここで最後を迎えたという。鳥居をくぐって境内へと進んだ。鬱蒼とした森の中に小さな社があり、境内の片隅に「安倍保名」の供養塔といわれる宝篋印塔がひっそりと佇んでいた。
信田伝説については、大阪市内編「陰陽師ゆかりの地~阿倍野~」、和泉編「浜寺から織物の町、小栗街道を経て信太の森へ」でも触れる。
しばらく歩くと小さな峠を越え野間の集落に入る。「能勢氏ゆかりの里をゆく」では野間西山の今養寺を訪ねたが今回は野間を横断する。ここには安徳天皇伝説が伝わる。「安徳天皇」とは壇ノ浦の戦いで源氏に討たれ母とともに入水、8歳で崩御したという悲劇の幼帝である。その安徳帝が戦場を脱し、侍従4人とともに「野間の郷」に潜幸され、この地で崩御されたというのである。野間出野に「岩崎神社」という神社がある。この神社に鳥居はない。ちょうど山塊から岬のように飛び出した古墳のような丘を境内とし、安徳天皇を御祭神として奉っている。
そしてこの古墳のような山の麓をぐるりと周り案内板に従い、山へ入ると「安徳天皇御陵墓」と書かれた石塔の前に到る。比較的新しい石塔であるが、ここが安徳天皇陵と伝えられているところだ。この山は「来見山」という。この山全体が墳墓なのだろうか。
山を下りさらに野間の集落を進む。
「能勢氏ゆかりの里をゆく」でも立ち寄った「野間の大けやき」で休憩。いつ見ても大きな木だ。かつてあった「蟻の宮」という神社のご神木であったらしが、樹齢1000年を超える。能勢一族の興亡や保名と葛葉、安徳帝らの生涯を見守ってきたのだろうか。
さらに東へ進む。消防団庫は日本の原風景において大きなポイントだ。
野間中の交差点を妙見山方向に向け東進する。駐在所の手前に大きな石碑がある。「野間中地蔵一尊種子板碑」1431年の造らしい。
裏手には菜の花が美しい野間の田園風景が広がる。田んぼには小さな古墳もある。
野間中の集落を進む。
妙見山への参道であり途中「阿弥陀六地蔵磨崖仏(1564年造)」などの石仏も多い。
立派な石灯籠も見られる。
石灯籠の左脇に小さな石が二つ。一つは妙見奥の院まで8丁を示す「丁石」。もうひとつは「野間の力石」といわれるものだ。能勢の地は村相撲が盛んであったらしく、村力士や若衆らが力自慢で使ったものだという。
府道から左にそれ野間大原の集落に入る。ゆっくりと坂道を登っていく。途中「日蓮宗興徳寺」に立ち寄る。ここはかつて天台宗寺院であったようだが領主、能勢頼光が日蓮宗に帰依したことから、領内の寺院の多くは日蓮宗に改宗されたそうだ。境内には、天台宗時代の名残だろうか、梵字が刻まれた石碑や府内最古(1296年造)といわれる「宝篋印塔」などが並ぶ。
村の最上部には「来見社」という神社がある。野間大原の鎮守社であるらしいが安徳天皇をお奉りする。
もとの道を戻り今度は野間川の南側、野間中の集落に入る。
民家の石垣にも何やら文字が。
野間中共同墓地の中に「舟形厚材状十三仏板碑」がある。
まさに鎮守の森という体の「天王山神社」。ここら辺りから小雨が降ってきた。急いで本日のゴールに向かう。
「能勢氏ゆかりの里をゆく」の出発点であった阪急バス「本滝口」停留所が今日のゴールだ。バス停脇には「野間中地蔵石仏(1341年造)」が。ここから能勢電車「妙見口駅」まで約10分(350円)。およそ5時間40分の「歩紀」だった。
出発:阪急バス「山辺口」
到着:阪急バス「本滝口」
摂津國御荘園から能勢の領主「能勢家包」のもと能勢大里に嫁いできたが、その美貌から平清盛に見そめられ苦悩の末、家包に操を立てて自害したと伝えられる「名月姫」。
和泉國「信太の森」と同様の「葛葉伝説」が伝わる能勢田尻。ほかにも壇ノ浦で討たれたという幼帝「安徳天皇」が潜幸されたと伝わる能勢野間など伝説の地を歩く。
軽い起伏のある舗装道を歩く。出発点の山辺口停留所前には大型スーパーが。途中立ち寄る「けやき資料館」には自販機とトイレがあるが、それ以外は、いくつかの自販機と寺社の参拝者用簡易トイレがあるくらいだ。(歩行距離19キロ)
能勢電車「山下駅」は兵庫県川西市であるが能勢方面へのバスの出発地点となっている。
ここから阪急バスで約20分(400円)で「山辺口」停留所に着く。目の前には能勢で最も大きいスーパーがある。トイレ、銀行ATMも備えており、食料・飲料水もすべて揃う。
ここは「大阪府豊能郡能勢町来栖」。能勢町は「山辺川流域」「大路次川流域」「田尻川流域」に開けた盆地と旧能勢街道沿いに栄え、能勢一族が居城を構えた「地黄・野間」の大きく4つの地区に分けられる。来栖から2つの山塊を越え能勢野間まで歩く。ただし高低差は大きくない。まずは来栖の町を過ぎる。
山手に入ると「曹洞宗洞雲寺」に到る。
ここから坂を下っていけば大路次川に潤される水田地帯に出る。川を越え山手を見上げると細い峠道が見える。府道の迂回路があるが「歩紀」なので府道は通らずこの小さな峠道を登る。
息が切れるまもなく迂回路の府道と交差する。ここが「名月峠」だ。
摂津國御荘園(現在の尼崎市)の領主の娘として仲秋の名月の夜に生まれたことから「名月姫」と名付けられたこの姫は、能勢の領主「能勢家包」の妻として能勢大里で幸せに暮らしていたが、美貌を聞きつけた「平清盛」に見そめられ能勢の地を去ることに。そして道中この峠で家包に操を立て自害したという。峠のすぐ上の森の中に墓所はある。
峠を下れば田尻の集落に出る。
「日蓮宗長久寺」
集落から府道に下る。大阪では珍しい駐在所。
府道沿いにも立派な旧家が見られる。湿気の多い能勢地方。腐食から守るため板塀が漆で朱色に塗られている。
府道から山手に入る。炭焼き窯があった。きれいに草が刈られているので現役だろうか。
山の中腹から「田尻川」と流域の水田地帯を望む。田尻川は「釈迦ケ嶽」の清水を集め、倉垣とここ田尻の田を潤して「一庫ダム湖」に注ぐ。
「日蓮宗薬善寺」という小さなお堂の横に佇む「胎蔵界大日一尊種板碑」。能勢には石の文化財が多数見られる。
山から府道沿いに向かって下りる。途中、土塀に藁葺き屋根の建物があった。農具庫として使っているのだろうか。
府道に出て田尻川沿いに進む。野間方面への峠道に入るための三叉路に出るが、ちょうどこの突き当たりの田尻川敷に小さな温泉がある。
「山空海温泉」というが、ちょっと有名な秘湯でインターネットにも多くの投稿があるので興味のある方はアクセスを。私も10回くらい来たことがあるが、確かに良いお湯だ。大阪では珍しく「硫黄臭」のする湯だ。
三叉路を野間方面に入る。上りであるがそう高低差はない。すぐに「信田の森」という案内板がある。
すぐ後ろに山への入り口のように赤い鳥居が立つ。
信田(信太)の森といえば和泉國に伝わる伝説だ。「安倍保名という人物が和泉國信太の森で白狐を助け、その白狐が葛葉という美女に姿を変え保名に嫁ぐ。その間に生まれた童子が後の陰陽師、安倍晴明」というお話だ。その「信田(信太)の森」がこの地にも伝わる。この森の前には冷泉があり、かつて保名が葛葉とともに湯治に訪れ、ここで最後を迎えたという。鳥居をくぐって境内へと進んだ。鬱蒼とした森の中に小さな社があり、境内の片隅に「安倍保名」の供養塔といわれる宝篋印塔がひっそりと佇んでいた。
信田伝説については、大阪市内編「陰陽師ゆかりの地~阿倍野~」、和泉編「浜寺から織物の町、小栗街道を経て信太の森へ」でも触れる。
しばらく歩くと小さな峠を越え野間の集落に入る。「能勢氏ゆかりの里をゆく」では野間西山の今養寺を訪ねたが今回は野間を横断する。ここには安徳天皇伝説が伝わる。「安徳天皇」とは壇ノ浦の戦いで源氏に討たれ母とともに入水、8歳で崩御したという悲劇の幼帝である。その安徳帝が戦場を脱し、侍従4人とともに「野間の郷」に潜幸され、この地で崩御されたというのである。野間出野に「岩崎神社」という神社がある。この神社に鳥居はない。ちょうど山塊から岬のように飛び出した古墳のような丘を境内とし、安徳天皇を御祭神として奉っている。
そしてこの古墳のような山の麓をぐるりと周り案内板に従い、山へ入ると「安徳天皇御陵墓」と書かれた石塔の前に到る。比較的新しい石塔であるが、ここが安徳天皇陵と伝えられているところだ。この山は「来見山」という。この山全体が墳墓なのだろうか。
山を下りさらに野間の集落を進む。
「能勢氏ゆかりの里をゆく」でも立ち寄った「野間の大けやき」で休憩。いつ見ても大きな木だ。かつてあった「蟻の宮」という神社のご神木であったらしが、樹齢1000年を超える。能勢一族の興亡や保名と葛葉、安徳帝らの生涯を見守ってきたのだろうか。
さらに東へ進む。消防団庫は日本の原風景において大きなポイントだ。
野間中の交差点を妙見山方向に向け東進する。駐在所の手前に大きな石碑がある。「野間中地蔵一尊種子板碑」1431年の造らしい。
裏手には菜の花が美しい野間の田園風景が広がる。田んぼには小さな古墳もある。
野間中の集落を進む。
妙見山への参道であり途中「阿弥陀六地蔵磨崖仏(1564年造)」などの石仏も多い。
立派な石灯籠も見られる。
石灯籠の左脇に小さな石が二つ。一つは妙見奥の院まで8丁を示す「丁石」。もうひとつは「野間の力石」といわれるものだ。能勢の地は村相撲が盛んであったらしく、村力士や若衆らが力自慢で使ったものだという。
府道から左にそれ野間大原の集落に入る。ゆっくりと坂道を登っていく。途中「日蓮宗興徳寺」に立ち寄る。ここはかつて天台宗寺院であったようだが領主、能勢頼光が日蓮宗に帰依したことから、領内の寺院の多くは日蓮宗に改宗されたそうだ。境内には、天台宗時代の名残だろうか、梵字が刻まれた石碑や府内最古(1296年造)といわれる「宝篋印塔」などが並ぶ。
村の最上部には「来見社」という神社がある。野間大原の鎮守社であるらしいが安徳天皇をお奉りする。
もとの道を戻り今度は野間川の南側、野間中の集落に入る。
民家の石垣にも何やら文字が。
野間中共同墓地の中に「舟形厚材状十三仏板碑」がある。
まさに鎮守の森という体の「天王山神社」。ここら辺りから小雨が降ってきた。急いで本日のゴールに向かう。
「能勢氏ゆかりの里をゆく」の出発点であった阪急バス「本滝口」停留所が今日のゴールだ。バス停脇には「野間中地蔵石仏(1341年造)」が。ここから能勢電車「妙見口駅」まで約10分(350円)。およそ5時間40分の「歩紀」だった。
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