上州からの山旅

凡人noyamaの山旅の記録

日光道中21次を歩く

2024年03月03日 | 2024山
日光道中21次を歩く


 慶長5年(1600)関ケ原の合戦に勝利した徳川家康は主要五街道(東海道・中仙道・甲州海道・奥州海道・日光海道)の整備に着手。正徳6年(1761)幕府道中奉行は5街道の名称を統一。中仙道は東山道の中筋の道なので「仙」を「山」に「海道」は海端を通らない甲州・奥州・日光は「道中」に変更した。明治新政府は「道中」を「街道」と改名。
嘗て「カイドウ」は「海道」や「街道」と書かれたが江戸期は「海道」が一般的だった。
 
死の直前、家康は重臣達を枕辺に集め「西国のかたは(西国諸大名)心もとなく思へば、我像をば西向に立置べし」との遺言を残しました。家康の亡骸は遺言の通りその日の夜駿府城から久能山に移され、埋葬されました。死後、家康は朝廷より「東照大権現」の神名を賜り、久能山は東照大権現を祭神とする「久能山東照宮」となりました。一周忌の際亡骸は日光に移されました。 
 「久能山東照宮」が西国へのけん制とすれば「日光東照宮」は伊達家への睨みとも云われています。

 日光道中は36里3町2間 147.7km


 1:日本橋 ~ 第3宿  越谷宿 (歩行距離30.0km 宿場間距離25.5km) 2024.02.02
 2:越谷宿 ~ 第6宿  幸手宿 (歩行距離26.8km 宿場間距離23.7km) 2024.02.03
 3:幸手宿 ~ 第12宿 間々田宿(歩行距離29.4km 宿場間距離25.7km) 2024.02.08
 4:間々田宿~第16宿 石橋宿 (歩行距離24.9km 宿場間距離22.8km) 2024.02.09
 5:石橋宿 ~ 第19宿 徳次郎宿(歩行距離28.9km 宿場間距離24.7km) 2024.02.15
 6:徳次郎宿~第21宿 鉢石宿 (歩行距離26.8km 宿場間距離25.3km) 2024.02.16
(累計 歩行距離166.8km 宿場間距離147.7km)
*参考
参考1:「ちゃんと歩ける日光街道」 八木牧夫著 山と渓谷社
参考2:五街道ウオーク:上記本の著者八木牧夫さんのホームページ
参考3:電子足跡:GPSログがとても参考になります
参考4:「日本史 小辞典」(改訂版) 山川出版社
参考5:ウイキペディア
参考6:(一社)宇都宮コンベンション協会 
参考7:地図で歩く日光街道:詳細な沿線地図と解説が参考になる 


*用 語
【距 離】1間≒1.818m 1町=60間≒109m 1里=36町≒3.927km
【立場(たてば)】
 江戸時代の五街道やその脇街道に設けられた施設。次の宿場町が遠い場合はその途中に、また、峠のような難所がある場合はその難所に、休憩施設として設けられたもの。茶屋や売店が設けられていた。立場が発展し、大きな集落を形成し、宿屋なども設けられたのは間の宿(あいのしゅく)。杖を立ててひと休みしたのでその名が生じたといわれている。
【高札場(こうさつば)】
 幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板札に書き、人目のひくように高く掲げておく場所

【「問屋場」(といやば)】
 人馬の継立業務(幕府の公用旅行者や大名などがその宿場を利用する際 に、必要な馬や人足を用意しておき、彼らの荷物を次の宿場まで運ぶ)、飛脚業務(幕府公用の書状や品物を次の宿場に届ける)
【桝形(ますがた)】
 宿場町の枡形とは、街道を二度直角に曲げ、外敵が進入しにくいようにしたもの
【名号(みょうごう)】
 名をもって号(さけ)ぶという意味。「六字名号」・「九字名号」・「十字名号」などがある。六字名号は南無阿弥陀仏の六字
【回国六部】
日本廻国大乗妙典六十六部経聖(ひじり)。略称は六部・廻国。「法華経」66部を書写し,全国66州(壱岐国・対馬国を除く)の霊場に1部ずつ奉納する廻国の修行者,またその書写した経典。江戸時代には経典でなく納経札が奉納された。各国の一宮や国分寺に納めることが多いが,必ずしも一定せず巡路も決まっていない。六十六部に身をやつした物乞いも多く,行き倒れのあった場所には六部塚が作られた。(山川 日本史小辞典 改訂新版 )

【寒念仏】
 寒い季節に30日にわたって行われた修行で、明け方の一番寒い時間に山野に出て、ただひたすらに念仏を唱えるというものです。 もともとは僧侶の修行としては主なもののひとつでしたが、やがて仏教を信仰する在家信者の間でも広く行われるようになりました。(コトバンク)
【庚申塔】
庚申塔(こうしんとう)は、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔の。庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多い。
庚申講は、人間の体内にいるという三尸虫(さんしちゅう)という虫が、庚申の日の夜,、寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くとされていることから、それを避けるためとして庚申の日の夜は夜通し眠らないで天帝や猿田彦や馬頭観音や青面金剛を祀り、勤行をしたり宴会をしたりする風習。
庚申塔には申は干支で猿に例えられるから、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を彫ったものが多い。仏教では青面金剛、神道では猿田彦神とされる。

庚申塔・文字塔 青面金剛像 青面金剛(左にショケラ)

猿田彦・文字塔 猿田彦神(青面金剛と同じ像)
【馬頭観音・馬頭神】
 馬頭観音(ばとうかんのん)は、頭に「馬の顔」をのせた観音。観音菩薩の変化身(へんげしん)の1つで、「六観音」の一尊。畜生類を救う観音。馬が草をむしゃむしゃと食べるように、煩悩や災いを食べつくすといわれている。
神道では馬頭神

馬頭観音文字塔・阿亀馬頭観音(おかめ)・馬の線刻・頭に馬の像・馬力神文字塔


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