主人公・純一は観劇後、「日記」が続けられないという話を友人にする。何も自分で自分を縛らなくてもいいじゃないか、と友人は言う。純一も「なる程」と相槌うちながら「日記に縛られずに何をするのかが問題である」と自問する。「…どうしたら好いか」「生きる。生活する」「答えは簡単である」と自答する。そのくだりを読んで愚老は、ちょっと待てよ、と言いたくなった。
ノーやん日記を綴っているわが輩の場合は、2003年末から始めた毎日俳句の延長線で2014年から俳句日記が続いている。これは、何よりかにより、愚老が生きている証なのだ。自分の感じたこと思ったことを吐露するだけの話。カッコよく言えば自由に生きる渇望の発露と言ってもいい。そういう気持ちはだれにもあるはず。自分に縛られて書く日記なんかありえないよ。純一君。人間は考えるヒトなのだ。お昼は、薄揚げの刻み蕎麦。午後、老人会のパワーアップ体操。ビタミン不足は依然として課題。写真上下とも千里南公園のセージ―とキバナコスモス。
生きている証ぞ日記秋野踏む 昇龍子
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ノーやん
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