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畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
時々、経済や政治などもつぶやきます。

東京都心観光

2011-09-07 04:44:00 | 旅行・観光
 お墓参りで東京都心に行く用事があったので、ついでに観光でも…。



東京駅の丸屋根が復元されつつあります。ということで千代田区に来ました。今回の目的は…江戸城リベンジ!デジカメ用意!時間もたっぷりある!


 行ったのは、2011年9月4日(日)。千代田区内は本当に空いています。道路もガラガラ。都心は平日が人が多く、休日はガラガラなんだなあ。



 和田倉噴水公園の入口です。ここも江戸城の範囲です。和田倉門があった場所です。



 しっかり虎口もありました。公園内では結婚式が行われるほど都心の喧騒と離れてのどかです。



 皇居内堀の道路は日曜日は自転車専用道路として解放されているそうです。無料レンタルの自転車もあるみたいです。家族連れなどがサイクリングを楽しんでいました。



 大手町駅方面から最初に見える櫓は桜田櫓(巽櫓)です。江戸城で現存する櫓は3つしかなく、前述した「伏見櫓」と「富士見櫓」と、上記写真の「桜田二重櫓」です。江戸城に残る唯一の隅櫓でなかなかの大きさを誇ります。



 桜田櫓の横の石垣が修復作業の最中なのか取り壊されていました。なにかあるのかな??



 桜田櫓から徒歩で7分ほどで、大手門に到着。結構来城している人が多くいました。大手門の建物の塗装がはがれていました。震災のせい?



 江戸城は現在、皇居になっていますが、東側は皇居東御苑といって公園になって一般に公開されています。



 大手門を入るとすぐにあるのが、「三の丸尚蔵館」。これは皇室に代々受け継がれた絵画・書・工芸品を展示する施設です。歴史的には…興味がなさそうな施設なのでパス。



 大手門休憩所には売店があります。色々なお土産物が売られており、書籍も売っていますが、美術関係のものが多く、江戸城関連のものは市販されている書籍の1冊だけでした。



 売店の近くの石垣です。手前は大きい石が使われていますが、奥は小さい石で組まれています。このように石垣の違いをみるのも面白いなって思いました。



 この建物は「同心番所」です。江戸城には3つの番所(警護詰所)が現存します。城の奥になるほど位が上の役人が務めていました。この「同心番所」は、大手門からほど近く一番低い身分の番所です。



 江戸城二の丸の「百人番所」近くの「中之門石垣」は本当に圧巻です。巨石がキレイにかたどられた石垣は、これを見るだけでも価値があるほど。外国人の観光客も結構来ていました。日本の中心となる城ですから、なかなか見応えがあることでしょう。



 「中之門石垣」は修復されているらしく、その発掘状況や過程などを詳しく紹介している説明版があります。


 これは先ほどの「中之門石垣」の近くにある「百人板書」です。鉄砲を所有する同心百人を昼夜交代で配置した番所だったそうです。二の丸から本丸へ向かう重要な番所だったからこそ、こんなに同心がいたんですね。



 「中之門石垣」を北西に向かうと、白鳥壕という二の丸と本丸を分ける堀があります。そしてその本丸側にはとても大きな石垣が組まれています。そして、二の丸から本丸へ入るためには…
 
かなりの高低差がある「汐見坂」を通ります。坂の上のには門跡があったので、今はありませんが門があったのでしょう。

立派な虎口もあります。そしていよいよ本丸です。



 本丸に北側には「天守台」があります。そう、昔天守閣が建っていたところです。江戸城の最初の天守閣は江戸幕府・2代将軍秀忠の頃の1607(慶長12)年に建てられましたが、その後、江戸幕府の全国支配が盤石になったこともあり、大改築されて1638(寛永15)年に3代将軍・家光の頃に完成しました。4代将軍家綱治世である1657(明暦3)年の明暦の大火(振袖火事)で焼失し、以降再建されることはありませんでした。

天守台にある説明版にあった絵図による天守閣です。えっこれでもイメージできない?ではこちらではどうでしょうか?

これは、現在「神田明神」(千代田区)にある「江戸城天守閣模型」です。これは趣味で段ボールで製作した方が、無料で神田明神に奉納したと言われています。段ボールにしては質感もばっちり。江戸城の特徴的な天守閣の色も見事に再現されています。



 さて、天守台に登ります。天守台の一番高い石垣に登る途中にも門があります。かなりの大きさの門が天守台の中にあるというのがスゴイ。



 天守台に登っても、整備された道が登城ルートではないようです。もちろん門の次には虎口があって天守閣に続いているんですね。天守閣へ続く階段が見えます。その階段を登れないのが残念。安土城みたいに発掘・整備して登城できるようにしてほしいです。



 天守台から眺める東京の街もなかなか粋です。さて、折り返して帰りましょう。



 天守台から本丸を眺めます。さすが江戸城。本丸の郭だけでもかなりの広さです。



 これは江戸城本丸南西にある「富士見櫓」です。江戸城の現存する3つの櫓のうち、唯一の3層(3階建)で、天守閣が焼失したあと、天守の代用として使われていたようです。残念ながら中に入ることはできません…。



 富士見櫓を出て、二の丸へ向かいます。本丸と二の丸をつなぐもう一つの門が、中雀門です。ここもかなり大きな虎口があります。

 中雀門の門柱の跡です。かなりの大きさの門です。さて、門はこれだけではなく、もう1つあります。「中之門」です。つまり、本丸側の「中雀門」と二の丸側の「中之門」があり二重の門で守られています。江戸城の構造的堅固さがよくわかります。さらに警備のためにあるのがこちら。

 「大番所」です。ここが江戸城の一番奥にある番所なので、位の高い与力や同心が警護していたと言われます。

 そして、二の丸側の門である「中之門」に出てきました。これも大きな門です。さらに門跡もありました。


 これだけの大きい城が、もし姫路城のように現存していたら…と思います。外国人の観光客が多い割に、日本人客が少なかったように思います。日本人向けの広報が足らないようにも思います。やはり日本人は城と言えば天守閣が好き。だからこそ、江戸城の天守閣復元なんて考え方も出ています。意外に僕はいい案じゃないかと思います。スカイツリーを作らなくても江戸城の天守閣を復元した方が観光にはプラスになったんじゃないかな?

 それと、もうひとつ江戸城観光に不満な点が。それは、江戸城を知るための博物館なり資料館がないことです。太田道灌が作った中世江戸城の模型。江戸城天守閣があった頃の江戸城全景。そして、江戸時代後期の発達した江戸の街。それらの資料館があればいいなあと思うんですが…。

過去の歴史の旅~其の12

2011-09-02 04:44:00 | 旅行・観光
2003年8月7日に、家族で福島に旅行をしてきました。そこでは、猪苗代湖や二本松城にも行ってきました。車のマシントラブルで、せっかく行った会津若松城の写真がないのが残念です(ディーラーとの折衝で心に余裕がありませんでした)。2011年に歴史友達の武藤舜秀様福島に旅行するので、会津若松城の写真はメッチャ撮ってきます。松平容保LOVEな私にとって、会津若松城の写真がないのはちょっとつらい…。あら…今回は会津若松城の話ではありません。福島県二本松市にある「二本松城」です。



 二本松城は、奥州畠山氏(二本松畠山氏)7代当主・畠山満泰が築城しました。満泰は前当主・国詮が拠点とした田地ヶ岡が防衛に適さないという理由で、嘉吉年間(1441~1444)に要害の地である白旗ヶ峯に居館を移し、二本松城としました。
 二本松畠山氏はが1589(天正16)年に滅亡すると、短期間に蒲生、上杉など次々と領主が交代しました。1643(寛永20)年には江戸幕府によって旧織田家臣であった丹羽氏が大名として入城します。この丹羽氏によって二本松城が近世城郭として整えられます。



 現在の二本松城は、国指定史跡であり「霞ケ城公園」として箕輪門の復元や本丸の石垣が整備復元されています(霞ケ城は二本松城の別名)。最初の写真にあるガトリング砲を打つ銅像は、戊辰戦争時に旧幕府派である「奥羽越列藩同盟」に参加し、敗戦した時の「二本松少年隊」の銅像です。



 「二本松少年隊」銅像の後ろに、櫓があります。この櫓なんと復元ではなく模擬櫓。まったくの想像。この景観への溶け込み具合は見事ですね。と言っても歴史学的にはどうなのかって議論もあります。戦国時代の砦に天守閣を築くような時代考証不足の模擬櫓ではないのが救いです。



 この本丸石垣は1995(平成7)年に復元されたものです。かなり立派ですが、まだまだ新しいもので若干の違和感があります。時間が立てばなじんでくるでしょう。と言ってももう15年くらい建ってますね。



 本丸は結構な広さをもっています。

 フラッシュでちょっとみずらいですが、二本松城の本丸の図面です。この本丸の石垣がまるごと復元されています。



 このように天守台の石垣も見事に復元され、二本松城の往年の姿が想像できます。虎口なども見事に再現されています。天守閣の復元の話もあるようですが、東日本大震災の対応もあり難しくなってきているかもしれませんね。



 この特徴的な松は「霞ケ城公園」にある樹齢300年といわれる「傘松」です。昔、ここに霊松二本があって、この山を二本松と呼んでいたことが二本松の地名の由来とも言われています。わざわざ人の手で押えないと枝がおれてしまうほど重いんですね。歴史スポットではないですが、思わずシャッターを切りました。



 二本松歴史資料館に来ました。入館料は100円という破格の安さです。二本松城についての資料や市内の遺跡について知るにはちょうどいいところです。

市内の遺跡より出土した土器や石器の展示、畠山時代からの美術工芸品や古文書・民俗資料などが展示されています。写真は出土した相馬焼が展示されていました。

中世に二本松を支配した二本松畠山氏は資料が乏しいことから、あまり資料はありません。

唯一の文書は、畠山義継の古文書です。こちらに来ても二本松畠山氏の学習は難しいかもしれません。残念だな~と思いながら隣の二本松市立図書館に入ると、郷土本コーナーの中に二本松畠山氏関連の本が結構ありました。
 私の本サイトの「二本松畠山」のコンテンツは、ほとんどこちらの図書館を参考に書いたものです。二本松畠山を調べる場合には、ぜひこちらの図書館へ!

過去の歴史の旅~其の11

2011-09-01 04:44:00 | 旅行・観光
2005(平成17)年11月に能登に旅行に行き、その一環で富山城にも行きました。



 2005(平成17)年11月3日に富山城内にあった富山市郷土博物館が、中世以来の富山城の歴史を常設展示する館としてリニューアルオープンしたばかりで、展示もすべて新しいものでした。運がよかったです。
 現在の富山城天守閣は、1954(昭和29)年に富山産業大博覧会が開催されました際に復興されたものです。博覧会閉会後、富山市の郷土博物館としてオープンしたので、「富山城資料館」ではなく「富山市郷土博物館」の名前になったのです。博物館としての最初の展示は美術展だったらしく、せっかく観光名所としての富山城があるのだから、富山城にちなんだ展示物にしようと2005(平成17)年にリニューアルしたという経緯があります。



 富山城と言えば真っ先に私が思い浮かべるのが、「神保長職」でした。越中は、神保氏、遊佐氏(後に加賀一向一揆の支配下へ入る)、椎名氏の3勢力が拮抗しており、越中守護の河内畠山氏が不在守護且つ遠国にいるということでアンコントローラブル(制御不能)に陥っていました。そこで、一族である能登畠山氏の介入や、越後長尾勢力の助けを得て越中の制御に乗り出します。
 そんな中で神保長職は従来の勢力を飛び越え、椎名氏の勢力範囲を侵食しようと建てたのがこの富山城です。そのあたりの説明は「富山市郷土博物館」の入口のビジュアル映像で詳しく知ることができます。が

 しかし、やはり展示内容も富山城の城址公園も江戸時代の前田氏の遺構が多くあり、中世の面影はありません。ただ、富山城の発掘調査では、16世紀中頃の堀跡が発見され、今まで後世に成立した「富山之記」でしかうかがえなかった(しかも信ぴょう性が疑われる記述がある)中世富山城の存在が確認されたのです。さらに室町前期のかわらけも出土したことから、富山城築城以前にもここに館があったことを示しています。

 そう考えると、中世の富山城の遺構は確認できないとはいえ、中世の富山城を知るためには訪れておきたい博物館という事が言えます。神保ファンならぜひにでも行きたい場所です。

過去の歴史の旅~其の10

2011-08-31 04:44:00 | 旅行・観光
 浜松市天竜区(旧天竜市)にある二俣城に2000(平成12)年12月29日訪れました(訪れた当時は天竜市)。

 二俣城は遠江支配をめぐって斯波氏と今川氏が争った時に斯波氏が文亀年間(1501~1503)に築城したと言われています(『北遠の城』(編集:浜松市生活文化部生涯学習課.2009年)。その後、二俣城は今川領となり、その被官が支配します。瀬名氏→朝比奈氏→二俣氏と短期間に支配者が変わり、桶狭間の戦い(1560年)で今川義元が破れると、二俣の領主であった松井宗信が、徳川氏や武田氏の侵攻を防ぐ軍事拠点としての強化を図るため、要塞化を図ったと言います。二俣川はその三方を天竜川と二俣川で挟まれる天然の要塞、且つ交通の要所で、戦国時代には重要拠点だったと考えられます。その証拠に、二俣城の近くに、鳥羽城・笹岡城(天竜区役所近く)が築かれています。



 標高90mの高台にある二俣城は、現在は城山公園となっていて気軽に散策できます。管理が行き届いているので、夏でも冬でも探索するには向いています。無料の駐車場もあります。



 二俣城の遺構で一番注目されるのは、やはり天守台の石垣です。約5mも高さがあるので、一瞬「江戸時代の城なの?」って思いました。1590(天正18)年に徳川家康が豊臣秀吉の命によって関東に移封されると、浜松の領主となった堀尾吉晴でした。その堀尾氏が1600年に出雲に移封されると廃城になったと言われるので、江戸時代の遺構としては全くないのです。ということはこの天守台も1600年以前に築かれたものだと思われます。
 よくよく写真を見てみると、天守台の石垣は5mの高さはあると言っても、使われている石はゴツゴツしています。江戸時代の遺構ならばもっと強度を高めるためにしっかりと石垣に合わせて石を切ると思うので、この二俣城の石垣は中世から近世に移り変わる途中で形成されたものだと考えられます。といっても、戦国時代は石垣技術が未熟だったので、5mもの石垣を組むことは難しいので、堀尾氏時代の遺構だと考えられます。

 本丸天守台に通じる石段は2009(平成21)年の発掘調査で、さらに一段階段が地中に埋もれていることがわかりました。さらに、本丸と二の丸をつなぐ位置に門跡の礎石が発掘されるなど、徐々に二俣城の全容がわかりつつあります。


 二俣城には天守閣はありませんと書きましたが、実は一時期復活したことがありました。2009年に浜松市で「国民文化祭」が行われ、そのイベントの一環として浜松市が「二俣城」を一夜城として期間限定復活させました。2009年10月31日~11月8日までの限定で作られた一夜城は意外と本格的なものだったらしく、2008(平成20)年に作られた本当の意味でのハリボテ城とは違いなかなか好評だったらしいです。好評だった2009年の二俣一夜城でしたが、残念ながら2010(平成22)年・2011(平成23)年と復活することはなかったようで、できれば恒久的な復元もしてもらいたいな~なんて思ったりもします。

過去の歴史の旅~其の9

2011-08-30 04:44:00 | 旅行・観光
 私が犬山城を訪れたのは、2000年8月21日のことでした。ついでに名鉄に乗って日本モンキーパークも見てこようと訪れました。



 犬山城は写真のように山城です。写真ではわからないですが、山の右側は大きな川である木曽川になっています。このような立地条件からも犬山城が戦国時代の山城だということがわかります。犬山城は1527(天文6)年織田信長の叔父である織田信康によって築城されたと言います。もちろん、築城時はこのような天守閣が建っているはずはありません。



 現在の天守ができたのは、江戸時代に入ってから。1617(元和3)年成瀬正成が今る輸したと言われます。その往年当時の天守閣が現存するので、国宝に指定されています。
 松本城や姫路城とは違って小さい天守閣しか持たない犬山城が脚光を浴びるのは、やはりこの天守閣が現存しているという点でしょう。しかし、残念ながら明治期には天守閣以外の建物は破却されてしまったと言われます。
 明治に入って、旧藩主である成瀬氏に犬山城は譲渡され、以後何十年にもわたって国宝であるけれども個人所有の城という珍しい状況が続きました。ただ、補修費などが大変だったと見え、2004(平成16)年には「財団法人犬山城白帝文庫」の所有となりました。