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畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
時々、経済や政治などもつぶやきます。

三県制覇!其の2~続・群馬県~

2012-07-27 04:44:00 | 旅行・観光
 前回からの続きで、群馬県太田市にある金山城跡のレポートです。


 西矢倉台通路を進んでいくと、とうとう実城域が見えてきました。…とここで早くも大興奮!

 なんだこりゃ!かなりの石垣に圧倒される。まるで近世城郭のような光景。しかし、ここは金山城という山城。戦国~安土桃山時代の典型に位置する。だからここは戦国時代と江戸時代をつなぐ融合された城郭とも言えるかも。
 当然ここは実城の虎口となり、正面をみせないように石垣を築いたのでしょう。そして石垣が両側にあるということは、門が構えられていたと考えられます。


 西城の西矢倉台と実城の物見台にはこのような堀切があります。しかし、この堀。石でゴツゴツしており、土塁ではなく、岩を削ったのでしょうかね?そうだとしたらかなりの技術で作られていますね。


 ではさっそく実城域に入っていきます。

 石垣虎口門から入ったところは「馬場下通路」と呼ばれ、石敷き通路でした。おや?通路を守る右側の石垣…崩壊してます…。せっかくここまで作ったのに…と思ったらこれにも意図があったみたいです。

 金山城が破却された時にあわせ、わざと中央部分を崩れた状態で復元したらしい。復元に関して色々考えていますね。この馬場下通路は真ん中に竪堀があり、西部分と東部分に分かれます。写真や図でわかるとおり、左奥の木橋を渡れば東側へ。馬場下通路が2つに分けられているのは、通路を狭めることで敵の侵入を防ぐ目的とか。スゴイしかけばかりです。


 右奥の階段を通れば(現在は柵で通れませんが…柵を越えていくことはできます。竪堀を落下覚悟で行けば…)

 竪堀の様子です。ここも岩でゴツゴツしており、転倒したら大けが必須…(泣)そして、馬場下通路東側の見事な石垣。竪堀に合わせて段々になっています。本当にすごい技術!もうテンションあがりまくりです。



 木橋を渡っても通路は狭いです。しかも柵列に挟まれているし、崖の上の物見台からも攻撃可能。本当に防御に適している城です。



 さてこの木橋渡ってすぐ左側(山側)に、礎石建物址がありました。スペースはそんなに広くありません。しかし礎石建物であることを考えると、門を見張る兵士の詰所的なばしょだったのかもしれませんね。復元している建物はすべて最終時期のものであると説明板にもあり親切!


 礎石建物の奥には物見台に上がる石段が見えます。

 その奥は当時は行き止まりになっていたようで(現代では坂もゆるやかで通れちゃいますが)、そのスペースに掘立柱建物址がありました。礎石がない簡易な建物であり、奥まった行き止まりという地勢を考えると、倉庫だったのかもしれませんね。


 では石段を上がって物見台へ。

ん?何か石列のようなものがある。

今までの例からこれも発掘調査に基づいたものに違いない!って思っていたらビンゴ!北側に石塁があり、さらに土塁、築地塀があったとみられるそうです。

さらに、大きな礎石を発見!

 ここにはどんな建物がたっていたんでしょうかね?物見台があった曲輪だけに、番をする兵士がいた詰所(番小屋)のようなものでしょうか。


さていよいよ物見台。

 この物見台にも石垣が組まれていたようです。発掘調査の写真をみると石段まで組まれていたことがわかり、ちょっとしたものにも石垣技術を使うこの完成度の高さにまたビックリ!

 この物見台は復元ではありませんが、物見台からの景色はかなりの絶景です。一体が見渡せる絶好な立地です。


さて物見台を引き返しもどると、次は馬場曲輪です。

 木柵と復元建物がありました。復元されているものは1棟ですが平面展示されているものが2棟。

 馬場という名前から、馬の手入れや武具の手入れをするところだったのでしょう。そのために建物も結構あったと思われます。

 おお!これは石組排水溝。一乗谷史跡の町や、高梨氏館にもありましたが、金山城のもかなり本格的です。一部暗渠になっているところもあり、技術的にもさすがです。


 さて階段を降りて次に進みますか。

ここまで来ると大手虎口が見え始めさらに興奮状態に…(笑)

 大手から南城へ続く通路の西はかなりの崖です。

 なぜかブルーシートがかけられています。後で知ったことですが、ここは大田口と呼ばれる地域で平成20年度から発掘調査が行われているところでした。ここが当時の大手道になっているようで、現在でも発掘調査が続いています(平成24年現在)。結構急な斜面でも曲輪が3つもみつかるなど、金山城のその規模にもビックリです。


 今度はその反対側。馬場と大手の間にはまたしても大きな堀切があります。

 ここの大手口の尾根を形成する岩盤を削り堀にしているようです。本当にすっごい記述が何個も何個も使われているなあと感動していると…堀の下にありました、

 月ノ池です。金山城は山城なので水資源確保が課題ですが、堀切の下で水が集まるところに池を配置し貯水タンクとしたのでしょう。月ノ池は2段の石垣で囲まれた石敷きの池だそうです。池の下の土は粘土層の土でもともと水がたまるような地形になっていたようです。そのため、当初一段の石垣で組んでいた池が大雨などで溢れることがあったため、改修によって2段の深い池になったようです。

 発掘調査時の月ノ池の状況です。これほどすごい遺構がでてくるとビックリしますね。なんか儀式的な場所のような雰囲気です。確か奈良の方の飛鳥池遺跡の南隣、伝飛鳥板蓋宮跡の東方の丘陵を酒船石遺跡のような神秘性があります!


 さて、まだまだ金山城続きますが、ページが長くなっていますので、金山城大手口以降は其の3に続きます。


三県制覇!其の1~群馬県~

2012-07-26 04:44:00 | 旅行・観光
毎年夏恒例の代休使って平日一人旅。


 今回は群馬県太田市金山城跡に行くことに。…しかし、計画の段階であまり気が進まない。金山城の存在は知っていたけど、鉢形城や飛山城などを見ていると、金山城のすごく整った石垣は豪華すぎ「こんなもの安土桃山時代とはいえあったの?」って疑問に思っていたから。
 さらに、金山城のついでにサブとなる史跡攻略もなかなか候補地が見つからず、「飛山城→宇都宮城→下野国庁跡」と2009年に回る計画を立てた時のドキドキとはちょっとちがった。


 …しかし、そのドキドキの無さはいい意味で裏切られることになった…!



 東京から高速で約2時間。北関東自動車道の太田桐生ICで下車し、下道で10分ほど。すぐに金山城跡にたどり着く。



 金山城遠景です。かなりのおっきな城です。家を出た時間が5時半ごろ。金山城についたのが7:10頃。「太田市立史跡金山城跡ガイダンス施設」に行くのを楽しみいるんですが、開館時間は9時から。金山城跡で2時間も入れるんだろうか…と不安を残しつつ城跡へ。



 金山公園の入口です。「金山観光道路入口」とあります。ここから本丸近く駐車場まで車で約10分ほど。

 車道の横に登山道も整備されて、高齢者の方が結構ハイキングしていました。なれど車で10分の距離なら徒歩で30分以上はかかります。さらに最寄駅から麓までの距離を計算するとゆうに1時間以上…金山城訪問は自家用車がお勧めです。



 駐車場までの道のりもかなり整備されていて苦なく登れます。また駐車場も広いのでたとえ土日でも満車ということはないと思います。なれど、駐車場の路面にはタイヤのスリップ跡だらけ…。さらに食い散らかし飲み散らかしの跡が…夜の金山城はちょっと治安が悪そう…お気を付けを。



 駐車場には展望台も設置されているのですが、木が邪魔でそれほど見晴らしはよくありません。この展望台の西には、金山城の西城地域が見えれるのですが…。さ…次々…。



 奥の説明板には「見附塹址」とあり、手前の説明板には「西城筋違城門」と書いてあります

 駐車場の部分は金山城でも西城とよばれ、中心をなしていた実城の西側を守備する曲輪です。

 駐車場から西にこのような通路が広がり、西城と見附出丸をつないでいたみたいです。かなり金山城は大きな規模の城だったんですね。



 西城の曲輪を歩いて実城方面へ向かいます。結構アップダウンがあります。そして西城域も結構広いです。

 「史跡金山城」の石碑の裏をみて、金山城が国指定史跡に昭和9年に指定されたってことがわかりました。七尾城も同じ昭和9年。同じ年ってのは偶然じゃなくて、昭和9年に国指定史跡の制度が始まった…とかなにかありそう。
 この石碑の左側が園路(公園を訪問する人のために作られた道路)で、右側から行くと戦国時代当時の通路だそうです。私は迷わず右側へ!



 「旧通路」=当時の通路ってところですが、実際に発掘調査が行われていたんですね。通路の谷側には縁石も見られ、しっかりとした土木工事が行われていたことがわかります。



 すごい堀切です。「西矢倉台西堀切」と言われているそうです。この堀切は通路としても使われていたようです。

 そしてこの通路を行くと…

 そう…「通り抜けられません」に出ます…ではなくて、「桟道」(かけばしみち)にでます。

 西城と実城をつなぐ通路で、万が一西城が敵方に落ちた時には、桟道を壊して敵の侵入を防いだらしいです。当時の桟道はそのために非常に簡易に作られていたようです。現代の桟道も簡単に作りすぎて落ちる危険性があるので、通行禁止…(笑)渡ってみたかったけど、本当に橋は結構ぼろいし、下に落ちたら一貫の終わりそうだからやめておきます(笑)


 では当時の通路の桟道が通れないので、園路に戻って先に進みます。

やはり公園の道。歩きやすいです。



 さて、また堀切が出てきました。これは西矢倉台下堀切と言います。

 西城から実城へ向かう2番目の堀だそうです。この堀が前回の堀と違う点はなんでしょう?ではシンキングタイム…。





…考え中…考え中…




 では答えいいですかね?前回の堀は逆ハの字でした。それが今回の堀は底の部分が凹になっています。これは実城に近い堀だけに登りにくくしているそうです。スゴイ工夫ですね。そしてそういう細かいところまで復元する役所も偉い!!この堀は通路として使われなかったようで、実城に近いという点で堀にも違った役割があるんですね。


 さて…この堀…した行けそうです。ひょっとしたら通行禁止になっていた桟道が見れるかも…と思い降りてみました!するとやはりありました!

 ありました!しかもここでちょうど桟道が終わっています。桟道はやはり強度が危険そうなのでわたるのは断念し、桟道の終わったところから当時の通路に合流して進むことにします。


 桟道が終わったところから、斜面を登り始めます。通行禁止になっていたせいで植物が藪のようになっていますが、なんとか切り抜けました。

 すると出てきたのが西矢倉台通路です。

 西城と実城をつなぐ西矢倉台には新旧2つの通路が発掘調査で見つかっています。谷側には崩落防止のために石を積んで斜面を平らにしていたようです。


 おっとここで園路と合流しました。ん!?

 振り返ってみると気づくこと。この道路の違いわかります?石積みの道路は「当時の通路」を表しています。いっぽうアスファルトの舗装の方は、現代の園路です。こうやって平面展示でも遺構かそうでないかをわかりやすくしているとは…さすがだなぁ。


 さぁ、いよいよ次から実城です…が、朝早く出立したゆえ、もう眠いので今日はここまで。次回をお楽しみに!

旅行に行きたい~5~

2012-07-19 04:44:00 | 旅行・観光
 2010年2月に挙げた旅行に行きたい場所。2011年3月には震災もあり、もう一回自分の行きたいところを整理するため、「旅行に行きたい~5~」と題して、自分の行きたいところをただ羅列します。

★前回からの行きたいところ達成箇所
・根城<青森県>(2011年達成)

☆前回は挙げなかったが行った箇所
・志波城<岩手県>(2011年達成)
・梁川城<福島県>(2011年達成)
・会津若松城<福島県>(2003年・2011年達成)
・大森城<福島県>(2011年達成)
・二本松城<福島県>(2003年・2011年達成)
・小田山城<福島県>(2011年達成)

★2012年の旅行予定
・家族旅行で福島県いわき市のスパリゾートハワイアンズ
・群馬県太田市の金山城

…ほかに関東で行ける史跡あるかな…

 今回は前回挙げた箇所での達成がわずか一箇所…これは震災により急遽山陰家族旅行を取りやめて月山富田城などが断念されたことが原因です。その代り、復興支援にでもなればと東北に2011年に2度旅行に行きました。では今回行きたい場所をピックアップ。

●旅行行きたいところトップ10●

第1位・能登(七尾・輪島)+野々市冨樫関連史跡
 そろそろ能登にまた遠征行きたくなります。まずは輪島市の岩倉寺。あともう一度温井氏の天堂城、長氏穴水城へ。穴水町の洒落たレストラン風傍へも。七尾には行き尽くしたけど宿泊で能登の拠点にしたい。


第2位・大内氏館(山口県)
 瑠璃光寺は行ったけど、復元された枯山水庭園などがある大内氏館ははずせない。山口県の県立歴史博物館は長州藩ばかりだろうな。


第3位・首里城(沖縄県)
 首里城公園にゆいレールで行きたい。けど愛車で行くには時間も値段も高いのがネック。


第4位・山陰
 出雲大社や鳥取砂丘。月山富田城など。2011年に計画したけど震災で断念。


第5位・青森・秋田・山形
 三内丸山遺跡(青森)や、平安の城柵の秋田城。もういちど行きたい米沢城と米沢市立上杉歴史博物館。


第6位・USJ(大阪府)
 行きたいけど子どもが中学生くらいにならないと楽しみ方もわからないかも。

第7位・堀越御所(静岡県)
 何も無い空き地なんだけど、足利マニアとしては行ってみたい。せめて資料館でもあれば…。

第8位・中尊寺金色堂&岩泉線(岩手県)
 金をみたい&超ローカル線を見てみたい…ただ岩泉線って現在不通なんだって?

第9位・函館五稜郭・上之国勝山館跡ガイダンス施設他(北海道)
 北海道を能登号で走りたい。他にも北海道でウニ丼とか食べたいな。

第10位・彦根城(滋賀県)+観音寺城+安土城(滋賀県)
 ひこにゃんに会いたいのと、やはり佐幕派らしく一度井伊直弼の城には行っておきたい。
鳥人間コンテストの会場もみてみたいな(笑)

☆行きたいけど…☆
・大友氏遺跡(大分県)史跡の発掘調査整備がある程度完了したら…
・勝瑞館(徳島県)史跡の発掘調査整備完了。現在は資料館構想準備中…
・小田城(茨城県)再来年ぐらいに復元完成!そしたら行きたい。


海外はとりあえずいいや…震災復興から立ち直っていない日本。今は外国にお金を落としている状況じゃない。できれば国内の観光産業に貢献したいなって思う。

福島旅行~其の6(Final)~

2011-09-20 04:44:00 | 旅行・観光
 2011年9月10日(土)~9月11日(日)に歴史友達の武藤舜秀様と、福島に旅行に行ってきました。東日本大震災からの復興途上にあり、原発問題を抱える福島県。その復興支援の一助になればとも思いました。「其の6」にして最終回。今回は、いよいよ1泊2日旅行の最後、二本松市の訪問と、ついでに行った「群馬県立歴史博物館」の様子です。



 まずは「二本松市歴史資料館」です。入館料100円とめっちゃ安いですが、二本松畠山氏の古文書は1通しかありません(二本松藩や二本松の民俗など他の展示は充実しています)。やはり二本松畠山氏は古文書が残っていないんですね。



 今回も隣の二本松市立図書館へ。こちらは郷土の本が充実しています。図書館の職員の方がわざわざ「何をお調べですか?」って聞いてくれて「二本松畠山です」と答えると色々と資料を持ってきてくれました。前回以上の収穫がありました。この図書館、コピーは司書がやってくれておまけに1枚10円というとんでもない恵まれたシステムです。コピーしている間に、二本松畠山氏の菩提寺である「称念寺に行ってみては?」と言われたので、さっそく訪問です。



 図書館から300mくらいしか離れていません。車でも駐車場があるのでいけます。このお寺開祖は1280(弘安3)年と鎌倉時代です。応永年間ころ(1413年ころ)奥州探題畠山満泰が霧ヶ城(二本松城)を築城した際、称念寺も城の中腹に移転され、以後二本松畠山氏の菩提寺になったといいます。



「畠山公墓所参道」です。かなりよく整備されています。

 これが、「畠山公墓所」です。かなり立派なものです。説明板を読むと二本松畠山氏は畠山義継の次女から二本松氏を名乗ったそうです。1933(昭和8)年に墓所を改装し、累代の祖霊と「粟の須の戦い」で義継と運命を共にした23名の家臣の霊もまつられているそうです。


 こちらが義継公と運命を共にした家臣の供養塔の一部です。名前に「遊佐」なんてのも見えます。

 そしてこの大きな五輪塔が二本松畠山氏累代の墓です。墓のいたるところに畠山氏の家紋である二引両が刻まれています。

 五輪塔には二本松畠山氏の累代の名前と没年が刻まれていました。反対側の面には江戸時代以降現代まで続く当主の名前と没年が刻まれていました。こんな風に二本松畠山氏の墓が大切にされているというのはうれしいです。さらに二本松畠山氏の研究が進んでくれれば言うことがないんですが…。



 次は資料館からほど近い二本松城です。こちらは近世城郭です。私は2003年にもここを訪れています。震災の後の影響もあり、二本松城天守台の石が膨らんでしまうなど、かなり被害があったようです。城の周りには「がんばっぺ二本松」ののぼりが掲げられていました。震災以降福島県内にはどこもこのようなのぼりが見られました。



 震災の影響か、あまり人がいなかったのが残念です。2003年に訪れたときは結構人がいて、天守台の写真を撮るのに「邪魔くさいな」なんて思ったほどでした。上の写真は二本松城の復元された「箕輪門」です。かなりの迫力があります。



 二本松城はかなり広くしかも山城なので、結構な斜面を登ります。鶴ヶ城(会津若松城)と同じかそれ以上の面積があると思います。

本当は天守台まで行きたかったのですが、この後に本宮市歴史民俗資料館と、群馬県高崎市にある群馬県立歴史博物館にも行きたいので、今回は断念しました。この時点で10:45。本宮に行って、高崎に行って、武藤様を東京駅まで送って自宅まで夕方に戻るにはギリギリラインでした。



 二本松市から下道を急いで本宮市歴史民俗資料館へ…と思ったら今日は定休日…がっかり。おかげで時間が節約できた…わーい(泣)時間的節約には勝ちましたが、歴史見学的には負けでした…。


 カーナビで「群馬県立歴史博物館」まで検索したところ距離340km。到着予想時刻15:50!えー!昨日武藤様に調べてもらった時は、220kmだったのに…と思ったら、北関東自動車道が全線開通したのが2011(平成23)3月とちょっと前でカーナビの地図には反映されていませんでした。それでも、本宮市から一気に南下し福島県を抜け、栃木県宇都宮市を越えた岩舟JCTから北関東自動車道へ入り、およそ54km。遠いです。高速を最寄りの南前橋ICで降りたころにはもう12:30過ぎ。さすがに武藤様が「コンビニでもいいから何か食べましょ。」ということでコンビニでご飯を済ませてすぐに博物館へGO。



 さすがに県立だけあって立派な建物です。やっている企画展は「関東戦国の大乱」というもので、享徳の錯乱を取り上げています。古河公方と関東管領の対立。応仁の乱より10年ほどまえに戦国時代は関東で始まった…とテーマに古河公方足利成氏や上杉顕定などを取り上げていました。

まず先に常設展からみました。常設展ではフラッシュでなければ撮影OKみたいです。

 私が気になる遺跡「黒井峯遺跡」の模型がありました。日本のポンペイと言われ、1450年前ほどの榛名山の噴火で消えた村です。噴火の軽石でパックされたことで、普通の発掘調査では得られない家の屋根や塀や柴垣が立ったまま発掘されたそうです。1993(平成5)年に国指定史跡となり、現在整備がおこなれているそうです。私はこの遺跡のことを千葉県佐倉市にある「国立歴史博物館」で知りました。整備が終わったころにぜひ行ってみたいなと思っています。



 群馬県太田市にある金山城の模型です。特に石垣が多いこの地区は実城地区と言われています。関東戦国時代に石垣の城はなかったと言う定説を覆した城です。ガイダンス施設も充実しているようなので、今度ぜひ金山城にも訪れたいなと思っています。



 上杉憲政の安堵城です。群馬県は上野ですから当然山内上杉系の資料もあるんですね。上杉輝虎の文書もありました。企画展だけでなく常設展も見ごたえ十分。



 近代の展示には群馬県らしく富岡製糸場もありました。2009(平成21)年に行ったばかりです。

 企画展のほうは写真撮影不可でした。そのかわり、企画展の図録がものすごく分厚くて、すべて資料が網羅してありました。その方がありがたいです。戦国前期なんてほとんど取り上げられることがないので、企画展も図録も貴重です。


 武藤様を東京駅に送ったのが16:30頃。

そういえば先週も墓参りのついでに江戸城が見たくて東京駅に来たっけ。せっかく来たので、東京駅の復元工事の写真も撮っていきます。私が家に着いたのが17:30ごろ。なかなかいい時間に帰ってきました。使ったお金が現金で2万6000円。高速代で1万円ほど使ったので、今月はかなりの金欠月間になりそうです(苦笑)


 以上、福島旅行のブログでした!

福島旅行~其の5~

2011-09-19 04:44:00 | 旅行・観光
 2011年9月10日(土)~9月11日(日)に歴史友達の武藤舜秀様と、福島に旅行に行ってきました。東日本大震災からの復興途上にあり、原発問題を抱える福島県。その復興支援の一助になればとも思いました。「其の5」の今回は、いよいよ1泊2日旅行も後半。伊達市にある梁川城などを紹介します。


 福島県歴史資料館の職員の方に「梁川城を見るなら、ぜひ見てほしいのが枡形です。桜岳団地にかなりの高さの土塁もあるので見ものですよ。」と教えてもらいました。地図までいただき感謝もひとしお。
 福島市から伊達市に入り職員の方に教えられたとおり「ヨークベニマル」を見印に曲がり桜岳団地に進みます。

武藤様「これって土塁ですかね?畠山さん。」
と2人で半ば興奮状態。でも、こんなのは序章に過ぎませんでした。

 この辺は急傾斜地崩壊危険地域らしいです。というとかなり大きな土塁があるんだろうか。もともと地形がそうなっているんだろうか。と思ってさらに進むとありました。

 団地の横に結構な土塁です。でもこれだけ見ると「山がちなところに団地削って作ったんじゃないの?」と思ってしまいますが、これならど~だ!

 見事なまでに直角に土塁が曲がっています。これは人工物としか思えない。そしてさらにさらに…

 これは完全に枡形です。しかも高さが建物の1.5階分くらいあります。しかも枡形自体もかなりの大きさです。梁川城はどれだけ大きい城だったのでしょう。この遺構に思わず武藤様も「これはすご~い!」とびっくりしていました。当初は、梁川小学校敷地内にある梁川城庭園跡だけを見るつもりでしたが、この枡形を見ないと損するね…というほどすごいものでした。福島県歴史資料館の職員の方に感謝感謝です!

 この枡形は伊達氏時代の梁川城大手門と説明版には書いてありますが、戦国時代にこれほど大きな枡形が築けるでしょうか。ちょっと疑問なところはあります。安土桃山期の城郭かもしれません。
 この場所は福島県指定史跡になっているそうです。この枡形を生かさない手はないんですが、このあたり元城跡だけあって公有地ならではの建物が多く建っています。団地に小学校・中学校・高校まであります。それだけに梁川城をPRするように整備するのは難しそうです。

 では、梁川城の庭園に行きましょう。庭園は梁川小学校の敷地にあります。敷地は部外者を阻むような門はありませんが、それでも小学校の活動中に入ると、それこそ福島県歴史資料館の職員ですら「誰この人?」のような目で小学生に見られたようです。

 ですので、入るならこちらの浅間神社側から入るといいと言われました。梁川保育園の前に駐車スペースがあるので、そこから降りて歩くとほんの1・2分です。


 これがその庭園です。こんなものが小学校にあるなんて羨ましい。庭園にあった説明版によると、本丸跡では発掘調査が行われており、主殿跡など建物の遺構を25棟の他に井戸、石敷き中国銭や陶器なども出土しており、伊達氏時代の居館が確認されました。「庭園も伊達氏居城の時代にまでさかのぼることが推定され」とあるので、庭園時代の発掘調査は行われていないようです。先ほどの大きな枡形といい、この大きな庭園といい本当に伊達氏時代なんでしょうか?16世紀終わりごろの上杉時代のものではないか?とも思います。

 庭園はかなり大きいものです、中ノ島が2つ配置されています。そういえば、会津若松市の福島県立博物館で、梁川城の模型がありましたね。

庭園の全体模型です。

この庭園近くにある建物は、たぶんこれは「会所」でしょう。客人をもてなすために庭園があったと思われるので。本丸の発掘調査が行われているのならば、この模型の建物も発掘調査を生かしてつくられているんでしょうか?

 梁川城庭園は京極氏の館や江馬氏館と比較しても遜色ない大きさです。1532(天文元)年に伊達稙宗が居城を桑折西山城に替えるまで本城だったそうです。水がある庭園は15世紀初頭くらいまでで、15世紀中庸ならばそろそろ枯山水が庭園のブームになってきます。まあ朝倉氏の居館では水がある庭園がありますから、枯山水以外考えられないというわけではないですが。どうなんでしょ武藤様?



 梁川城の本丸は梁川小学校のグランドになっています。おかげで本丸の発掘調査があったわけですが…。