【岡潔の思想】1(横山賢二氏との出会い)
ホームページに『数学者 岡潔思想研究会』(2012年)という名称で、横山賢二氏が立ち上げたそれに出会ったのは、もう9年前の事。
この会の設立趣旨がトップページにこのように書かれておられます。
「会の設立はソ連が崩壊し、日本ではバブルが崩壊した1992年。それより25年程前の1968年に、私、横山は、高知で岡潔の講演を聞いたのがきっかけで岡の著書を読みはじめる。1974年には、岡潔に奈良の自宅で対面し、生涯の指針となる「実践」という言葉ひとつを岡よりもらう。
その後、だいぶ経って1988年、夜眠りから突然醒め『よし、岡家へ行こう!』と思い立ち、直ぐに岡亡きあとの岡家を訪ねる。
すると、「岡潔は今では全く忘れ去られた存在だ」と長男の煕哉さんにいわれると共に、多くの晩年未発表の資料が残されていることがわかる。その後、何度も岡家に通い、その資料群のコピーを土佐に持ち帰る。
1992年、それまで勤めていた農協を意を決して辞め、「岡潔 思想研究会」を設立する。その後、岡潔の晩年の思想の全体像の解明に心血を注ぎ、人類の先覚者(せんかくしゃ)たる岡潔の思想を全国に訴え、敢えて手紙や葉書による発信を続け、今日に到る。」と。
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※典比古
今回、わたくしがその横山賢二氏にお手紙を差し上げよう思い立ったのは、次の経緯からでした。
以下は、令和3年3月3日に差し上げた、わたくしから横山氏への手紙の内容です。
「わたくしは神奈川県藤沢市に住んでおります、佐野利典と申します。ずっと以前から横山様のブログ『数学者 岡潔思想研究会』を拝読させていただき、勉強させていただいております。
わたくしは昭和25年生まれで、横山様とは同世代ですが、高校一年のとき『人間の建設』を読むに至って、岡さんと小林さんの著書を読み漁ってきました。そして岡さんの随筆、また著書『日本民族』の、とくに「芭蕉の章」を読み俳句に興味を抱き、高校を卒業後、横浜の俳句結社に入会(三年間)しましたが、47歳のとき転職したことで、あらたな結社にも入会し、また今では秦野にあります『詩あきんど』(二上貴夫主宰)の結社にて研鑽をつんでおります。
また、昨年2月より遅まきながらブログ(goo blog)も立ち上げ、岡さん、小林さんのことを、微力ながら記事にさせていただいております。
最近では3月1、3日と「情緒の哲学」というタイトルで記事にいたしました。本日3日の記事では勝手ながら、横山様のブログ紹介記事も書かせていただきました。こちらのブログは『典比古 詩あきんど』と、入力していただければと思います。
本日は岡さんの「テープ」を贈呈くださるということで、お手紙差し上げました。尚、厚かましくも勝手ながら同封させていただきました『樹木葬』は、一昨年の10月に出版しました、わたくしの処女句集です。お時間ございますときにお読みいただければ仕合せです。
それではさらなる会の発展を祈念いたしております!
令和3年3月3日
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次回21日(水)は、そのわたくしの手紙に対しての、横山賢二氏からの返信を紹介させていただきます。

※1960年(昭和35年) 文化勲章授与式に向かう岡潔先生と
妻 みちさん
このお写真は横山賢二氏の「TAO LAB MAGAZINE」からお借りしま した。http://www.taolab.com/magazine/cat77/
尚、当ブログ3月1,3日の記事です。