シャンパンブレイク

30年以上JAL国際線客室乗務員としてフライトし現在癌の治療中。お酒大好き旅が大好き趣味はランニング~

あれから38年か~

2023年08月12日 | 客室乗務員を目指すあなたへ

日航機墜落事故から38年、昨日のニュースはそれ一色でした。

あの飛行機の中に、Windowsのライバルというよりもうんと進んだOSだった、松下TRON(トロン)の開発技術者17名が乗っていて全員が亡くなったのです。アメリカの邪魔になる人は大統領でも学者でも芸能人でも、都合良くコロコロ死にますね、あくまで推察ですが。

日航123便(JA8119)御巣鷹山墜落事故

このJA8119号機(すべての飛行機には機番がつけられています。)

1985 年 8 月 12 日 午後 6 時 12 分 大阪空港を目指して羽田空港を飛び立った日本航空 123 便(ボーイング 747 SRー100 型 JA 8119 号機)
離陸 12 分後の 6 時 24 分 35 秒、機体後方で(R5&L5ドア付近)
パーンという異常な音が発生して 垂直尾翼が破壊しました。
この破壊により 垂直尾翼の大半と方向舵、APU(補助動力装置)を失い
同時に垂直尾翼に取付けられていた油圧配管も破壊されたため、全ての油圧力を失い操縦不能になりました。
事故が発生した位置は 相模湾上空、大島の北端と伊豆半島熱川温泉を結ぶ 2/3 程 熱川寄りの洋上、
その時の JA 8119 号機の飛行状況は

高度 23900 フイート(巡航高度の24000 フイート= 7315 メートル に達する直前 )
速度 310 ノット(時速 574 Km)
飛行方向は257 度(西南西)でした。
その頃、既にJA 8119 号機は 全ての油圧力を失い操縦不能の状態になっていました。

しかし JA 8119 号機は機長の決断の通り、右に旋回し、高度を下げ、羽田空港を目指して飛行を続けました。 
操縦は困難を極めたはずです。

操縦桿使えない状態で1時間近く飛べてたんだからなんか打開策あったんじゃない?
なんて声もありましたが、現場ではこの事故についてわれわれ客室乗務員とコックピットクルーとで何度も話し合いました。
いつも行き着くのは機体のあの状態で御巣鷹山まで飛び続けたのは奇跡に近いということです。

1985年8月12日に起きた単独機としては世界最悪 の犠牲者数を出した航空機墜落事故


詳しいことは話せませんが・・・・・・・(退職しても守秘義務があります。)
コックピットクルーもキャビンクルーも最善を尽くしたことに間違いはありません。
早朝ランニング、走りながらふと切なくてつらい気持ちがよみがえりました。

38年前のこの日わたしも日航機墜落の渦中にいました。
スタンバイでで呼び出され同時刻に成田発伊丹行きに乗客として乗り(乗務しない客室乗務員のことをD/H CREWデッドヘッドクルーといいます。)
伊丹で制服に着替えグアム行きの便に乗務しました。
乗務する予定の飛行機はボーイング747SR- 46(ジャンボジェット、機体記号JA8119)
国内線の123便が伊丹に着いて乗客を降ろし
機内点検を行い
内航機から外航機へと変わります。(国内線の飛行機から国際線の飛行機にするための点検作業)

そして
羽田発の123便が
便名が変わり伊丹発グアム行きとなるはずでした。
その飛行機でグアムへフライトする予定だったのです。

123便の代わりに来た飛行機は
JA8117号機(1973年-1988年)
日本国内線用747SRの1号機でもありました。
後に
この飛行機は1985年のJAL123便事故の影響で退役を強いられました。

グアム到着後乗客がすべて降機を確認し、客室乗務員全員が飛行機の2階席に集合し、機長から御巣鷹山に墜落したらしいという報告を受け、身体の震えをとめることができませんでした。

わたしたちのフライトスケジュールはその時に限ってグアムに3泊もし
そして伊丹へ向かい伊丹から成田へというフライトパターンでした。
長いステイタイム、その時の気持ち、何とも言えない切ない思い

グアムのホテルに息をひそめ情報収集にあたったり
何も手に付かず、食事をする気にもならず

日本アジア航空に出向した際にお世話になった先輩が乗務していたこともわかり今までの経験にはない深い悲しみに押しつぶされそうでした。


後日
原因は1978年(昭和53年)6月2日に伊丹空港で起こしたしりもち着陸事故後
ボーイング社の修理が不適切だったことによる圧力隔壁の破損が事故原因とされています。
このしりもち事故には親友の同期が乗務していました。
圧力隔壁の破損が事故原因だとしたら

わたしはその中の中心
グラフで黒く点で表すと
中心の中の本当に中心の1点だったと思われます。
わたし達の乗るグアム便のフライトだったとしても不思議ではなかった紙一重だったのです。


フライトを終え成田のオペレーションセンターに帰ると、123便の乗務員全員の一階級昇格した役職で写真と殉職者の祭壇が設けられていました。
この時の思いを忘れずに、その後乗務を続けてきました。

ガンを患って退職して年月が経ち、あの時の仲間たちの分も生きなくては
やりたくてもやれなかったことをやらなければギブアンドギブの精神を忘れずに

少しでも人の役に立てたらと何とも言えない思いが胸によみがえります。
報道されていない様々なことが思い出される1日となりました。

仲間の分まで大切に生きなきゃいけないと思います。




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